2006年11月国立劇場

元禄忠臣蔵 第二部

   

 先月に続く「元禄忠臣蔵」。今月は「伏見撞木町」「御浜御殿」「南部坂雪

の別れ」の三部である。

 なかでは「御浜御殿」がいい。第一に戯曲として他の幕にくらべて格段にす

ぐれているからであり、第二に梅玉の綱豊、翫雀初役の富森助右衛門が新鮮だ

からである。

 「御浜御殿」は、これまで多くのすぐれた舞台があった。その上梅玉自身す

でに三回目。しかし今度の舞台は今までとは違って見える。どう違うのか。そ

の違いは二点ある。

 一つは綱豊が富森助右衛門という男に共感を持ち、一方助右衛門もまた綱豊

を敬慕していることが鮮明になっていること。口では相手を挑発し、罵倒し、

反発しているが結局お互いに相手を認め合い、相手が好きなのだ。ということ

がよくわかるのは、大石の放蕩を責める綱豊に対して助右衛門が切りかえして

綱豊の放蕩を責めた時である。綱豊は一度刀に手をかける。しかし刀に手をか

けながらジッと助右衛門の言い分を聞いている梅玉の綱豊には人間として相手

を認める感情が流れている。翫雀の助右衛門もまたたとえ斬られようともこの

男にこのことだけははっきり言っておきたいと思っている。この交情は相手を

認めなければ成り立たないだろう。男の友情。私は真山青果の最高傑作は「西

郷と大久保」だと思うが、この作品が傑作である理由も二人の人間としての友

情にある。「御浜御殿」にもその側面のあることを知ったのは今度がはじめて

であった。

 もう一つは、この二人の友情の結果による。助右衛門に責められた時、梅玉

の綱豊ははじめて助右衛門と同じ立場に立った。一人の人間、三十五万石も、

次期将軍職への野望も振り捨てて一人の人間になる。そうなった時に机上の学

問ではなく実地に人間の生き方が問題になる。問題は結果ではない。どう生き

るか。志こそ道を極めるために必要だという大詰の綱豊のせりふはここから来

る。その時、助右衛門の問題は綱豊自身の問題であり、それ以上に現代に生き

る私たち自身の問題でもあった。真山青果のドラマは、皇国史観だの忠義だの

武士だのということをこえて人間そのもののドラマになった。

 この二点が今度の「御浜御殿」がこれまでと違うところであり、その違いは

梅玉と翫雀二人の好演による。二人の新しいコンビが新しい視点を発見したと

いっていい。

 梅玉の綱豊は、品格、余裕がある上に、極力せりふを抑えてリアルである。

一方翫雀の助右衛門は梅玉の芝居を全て受けて立っているところがすぐれてい

るのみか、その屈折とユーモアで、今までにない助右衛門をつくっている。

 ただ幕切れ近く、お喜世との芝居は大芝居すぎる。必死のうちにも人に聞か

れまいとする配慮がいる。もっともこれは奥の廊下を通る吉良一行が異様に薄

暗いせいもある。スポットで抜いた方が実は距離感が出る。

 扇雀のお喜世は前半綱豊と助右衛門のやり取りを聞いている間が手持ち無沙

汰に見える。ハラでウケていないからである。「兄様、覚悟」でうちかけをぬ

がないのもサマがかわらず、今日だけのことかも知れないが、懐剣の紐が解け

ないのも緊迫感に欠ける。

 魁春の江島は若づくりすぎて若輩に見える。故人歌右衛門は紺一色を着たく

らいである。

 我当の新井白石が父十三代目仁左衛門の風貌を髣髴とさせた。

 歌江の浦尾がさすがにただの敵役染みないのがよく、梅蔵の小谷甚内が陰翳

に乏しいが、言語明晰なのがいい。

 松の茶屋でも御座の間でも庭の遠見の松が貧弱。いくら海岸が近いといって

もドッシリとした風景でなければ芝居に合わない。

 さて、この「御浜御殿」をはさんで、前が「伏見撞木町」後が「南部坂雪の

別れ」。

 藤十郎の大石内蔵助は、伏見の笹屋の場前半二階の間の遊蕩気分がいいが、

堀部安兵衛が来ると聞いての、その慌てぶりは少し軽すぎる。

 後半主税を相手に本心をうちあけるところは舞台が締まるが、主税はじめ物

陰にいた安兵衛、不破が納得する「判ってくれたか」はくどく、芝居が上滑り

する。

 秀太郎の浮橋が貫目をみせていい。彦三郎の進藤、我当の小野寺十内。愛之

助の主税が若さをうまく見せ、亀鶴の不破が不敵な浪人の面魂を見せる。

 「南部坂雪の別れ」。

 藤十郎の内蔵助は、本心を見せて蛇の目傘をさしての花道の引込みがさすが

に貫禄十分。

 時蔵の瑤泉院、東蔵の落合与右衛門。

 ここでは愛之助の羽倉斎宮が序幕の主税とはがらりとかわって、藤十郎の内

蔵助を相手に立派な芝居を見せる。

 

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