2005年9月歌舞伎座

     吉右衛門 渾身の初日

 

 私は今夜、豪快な男の魂を見た。

 吉右衛門七年ぶりの「勧進帳」の弁慶である。吉右衛門の弁慶は前回まで私は

あまり感心しなかったし、「またかの関」というしゃれも擦り切れるほど出る、

「勧進帳」に多少うんざりして見ていた。

 ところが、弁慶が本舞台へ来る辺りからどんどん舞台に引き込まれて前半はほ

とんど夢中で見た。近頃珍しい。そして弁慶が花道を引込んでいくまで。この渾

身の男の豪快さ、ありったけの力をふりしぼって示した男の至誠に感動した。そ

の豪快さ、そのスケールの大きさ、その熱情は、弁慶という男はかくの如き人間

かと思わせて私の胸を熱くさせた。力いっぱい。しかしむろん欠点もある。それ

も含めて書こう。

 まず吉右衛門の弁慶は芝居がうまい。花道から本舞台へ来る足取り、歩くだけ

でその一歩一歩にこれから危地へ入る不安とサスペンスを見せる。

 つづいて下手よりに義経をかばって立つ居どころが正しい。性根が居どころに

なっている。「サテ、その切ったる首は」は、むろん「サテ」が本文だが「シテ」

の方が語勢が鋭くなる。

 「言語道断」は富樫を一杯はめるハラがあってよく、「イデイデ最後のつとめ

をなさん」は弁慶必死の覚悟がみえてここらで観客は弁慶の芝居に引きずり込ま

れていく。祝詞は「疑いあるべからず」でサッと立つ気合い十分。数珠をもんで

富樫に呪いをかける気配も十分。私はどうしてここで立つことに九代目団十郎が

固執したかが今度よくわかった。吉右衛門の芝居で型と文句が一致したからであ

る。

 勧進帳を読めといわれての「ウム、心得て候」にも男の覚悟が見え、さらに後

見座から勧進帳を高くかかげて腰を落とし、富樫をキッと見てのりこんでくる気

迫が舞台を圧するばかりである。

 ここから山伏問答にかけては、のちにふれる富十郎の富樫と相まって今度のこ

の幕一番の白眉。相手が相手ならばこそである。ことに感心したのは居どころか

ら一歩出れば一歩下がる、あまり動かずにいてその時々でサマがかわる変化の妙。

問答がハラに入っていて芝居がうまいからであり、羽左衛門の弁慶に富樫で出て

いてよく見ていたのだろう。たとえば「たとはば人間なればとて」がそれとなき

富樫脅迫であることが手に取るようにわかる。

 感心しないのは、祝詞からしばしば爪先立ちになること。今日は初日でもあり、

いささか調子をやっているようでもあり、苦しいためのはずみだろうが、苦しい

のは弁慶本人、吉右衛門ではない。

 山伏問答が終ったところでは、二人の芝居の気迫に思わず客席もホッとする。

「感心してぞ見えにける」は富樫同様観客も同じだからである。

 つづいて「布施物持て」から「卯月弥生に上るべし」といったのは今日だけの

ことだろう。

 この一幕二つ目の白眉は呼び止めから打擲である。「一期の浮沈」もすごいが、

「人が人に似たり」で余裕を見せ、判官殿に似たと聞いて「ナニ」と思わず右足

が下がっての絶望、天をチラッと見てパッと気を変えての決断。こう書くとクサ

イように思えるが、瞬時にしての弁慶の気転、力わざを客席のスミズミまで見せ

る迫力、芝居のうまさが、冒頭私のいった弁慶という男の力いっぱいの経議を見

せて感動させる。この仕込みがあってこそ打擲が生きる。「憎し憎し」と体をゆ

する豪快さも、言葉のオモテを借りての内心の苦しさが身にしみる。

 さて、これからが問題である。

 もとより「勧進帳」は踊りではない。弁慶もまた「三塔の遊僧」とはいっても

舞踊の専門家ではない。踊りがうまい必要はないが、それにしても前半のこのよ

さに比して、戦物語、延年の舞があまりに味がない。もう一ト湯がきも二湯がき

もしてほしい。うまくなくともいいから、芝居としての規格を整えてほしいと思

うのは望蜀か。

 対する富十郎の富樫が、露もしたたる名品である。今までこの人の富樫を何度

も見たがその度に期待はずれ。それが今回は見違えるよさで驚いた。十五代目羽

左衛門の面影さえあって、私が見た富樫の中でも一といって二とは下らぬ逸品で

ある。

 その理由はたった一つ。吉右衛門の弁慶に対してワキに徹して抑えに抑えてい

るからである。それはもう出て来ての名乗りでわかる。今までの声の浪費と怒鳴

り声と違って抑えて低いところは低く、高音部は張って、緊縮自在の円熟振り、

これでこそ名調子といえる。名乗りが終って上手へシトシトと歩き出すところも

いい。

 勧進帳をのぞき込むところも一寸右手を上げるのは体のバランスをとるためで

上半身が前へ出るとすぐ手が下がる。ここでパッと二人のきまりでの左へ傾けた

顔の美しさ、その芸の色気、露のたれるとは、このことである。

 それからジッと耳を傾けて聞いている具合、これで弁慶の芝居も生きるのだ。

 問答の気迫いうまでもないが、吉右衛門とこの人だと富樫がなにを聞き、弁慶

がなにを答えるのかが鮮明なために芝居が盛り上がる。二人ともに芝居がうまい

から虚々実々になる。ただし、弁慶がいつもと違って居どころを守っているのに、

この人は少し出すぎている。つい芝居に身が入るからだろうが、出るのは最後だ

け。「そもそも九字の真言とは」で何歩も下がって出直す最近のやり方は見苦し

い。むろんそこも名調子ではあるが。

 呼びとめの迫力、姿、傾けた顔も絶品だが、一番いいのは引込みである。

 一切客に涙を見せない。弁慶の方へジッと思い入れがあってパッと裏向きにな

る。クッと顔を上げるだけで涙は見せない。その思い入れといい、そのイキのあ

ざやかさといい、無類である。幕切れの袖をまいてきまらずにきまらぬワキに徹

した行儀のよさ、その顔の美しさとともに忘れがたい。

 義経は福助。鬘の刳りのせいか禿げ上がって見えて色消し。引っ込みに笠に手

をかけるのは成駒屋式だが、芝翫のように本舞台をふりかえったりはしなかった。

 夜の部はこの「勧進帳」の前に芝翫の「平家蟹」、後に梅玉、時蔵の「植木屋」。

 「平家蟹」は怪談劇である。私がこと新しくそう思ったのは、今度の芝翫三度

目の「平家蟹」が、幕開き、いきなり白石加代子の語りで、壇の浦の平家滅亡、

屋島の扇の的の絵巻がスライドで映される新演出だからである。こうなるとこの

芝居が単なる復讐劇ではなくよく出来た怪談劇であることがはじめて鮮明になっ

た。

 芝翫の玉虫も大詰の海中へ入るまでその怪談劇の主役らしい。神酒に細かく気

を配って毒酒になるかどうかと思っている具合などまことにそれらしい。唯一の

欠点は、近頃の流行でせりふを歌わぬこと。綺堂のせりふは歌ってこそ劇的な空

間にひらける。

 魁春の玉琴が、芝翫の向うへ廻って可愛い妹になっているのはさすが。橋之助

の与五郎、左団次の宗清。

 「植木屋」は珍しい。ただ台本も演出もよくないのが残念。折角の復活なのに。

梅玉の弥七は、和事の柔らか味、色気ともに十分だが、真面目な人だからバカバ

カしい滑稽さが不足して、しばしば手持ち無沙汰に見える。時蔵のお蘭の方もし

っかりした芝居はいいのだが、艶っぽさ、遊びの空気が足りない。生真面目すぎ

るのである。

 歌六の杢右衛門は白塗りすぎて二人弥七になる。これは「河庄」でいえば孫右

衛門の役であり、砥の粉の実事だろう。序幕の浅草観音で下手に植木店を出して

おきながら、そこへ行かずふりかえりもしないのはどうしてか。玉太郎の兵内は

役違いで気の毒。

 梅玉の名跡をついで上方狂言を志す梅玉の折角の企画。再演に期待したい。以

上夜の部に対して、昼の部は橋之助、魁春の「草摺」、段四郎、時蔵の「賀の祝」、

雀右衛門の「豊後道成寺」、富十郎、吉右衛門の「弥次喜多」の四本立て。中で

見るべきものは「豊後道成寺」ただ一本である。

 雀右衛門はもともと形のきれいな人だが、多少足もとが不自由になって、形へ

持って行くまでに不安があるが、一たび形がきまるとその形がさん然と輝いてア

ッと驚く美しさ。露のたれるようで、とても八十五歳とは思えず。この形の秘密

は表面的な形ばかりでなく、ハラから小娘になっているからである。たとえば、

「諸行無常」で体を下手向きにして袂で顔をおおう振り、「晨鐘」で小さく鐘を

つく具合、「寂滅為楽」で胸を抱いた袂の美しさ、「開いて驚く」と下を向く具

合など、いずれも小娘そのまま色っぽさ、初々しさである。

 鐘の段からまり唄で「思い染めたか」で下手向き、上半身を上手へ向けて袂を

前で交互にしたあたりもそのまま「絵」である。

 今度の「道成寺」は、今までと違ってくどき以下が「京鹿子」とは全く別もの

になっているのも、その娘のハラのせいである。

 「草摺」は、白地に蝶の橋之助の五郎がさわやかでよく、魁春の舞踊もキッチ

リしていい。

 「賀の祝」は茶筅酒を復活したのがいい。段四郎の白太夫、権一の十作でここ

は無事にすむ。段四郎は後の「唾をのみ込んで」で、八重のくれた三方に羽織を

かけて持ち、これに桜丸の腹切り力をのせるのかという思い入れで、思わず梅王

と顔を合わせて入るところがうまい。

 時蔵の桜丸はくすんでいて面白くない。はなやかさが足りない。「親人のなに

御苦労」は「親人に」だろう。「の」という台本もあるがそれは間違い。本文は

「に」である。「に」でなければ日本語としておかしい。

 福助の八重は手に入っていいが、木戸の柱に寄りかかって桜丸を待つ姿だけは、

きれいはきれいでも少し自堕落に見える。

 この幕第一の出来は歌昇の梅王丸。形もよく、芝居もキッパリして気持がいい。

橋之助の松王、芝雀の千代、扇雀の春。

総体に水っぽく、小粒な「賀の祝」で失望した。

 「豊後道成寺」をはさんで後が富十郎、吉右衛門の「弥次喜多」。暑気払いの

お笑い。ことに初日とあって批評の筆にはかからぬが、なかで秀逸なもの二つ。

 一つは箱根山中での猪。だんまりで蛇籠になった最後に富十郎の弥次郎兵衛に

からみつく。逃げようとする富十郎のおかしさ。思わず大笑いした。ここといい、

大井川のかっぽれといい、富十郎が喜劇のうまさを見せる。

 もう一つは例の梓巫女のところで歌江が細木数子になって絶妙。十三代目仁左

衛門、歌右衛門、勘三郎の声色を聞かせて大受けである。京蔵の弟子とともに秀

逸。

 この二つが見ものである。

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