2005年7月国立劇場

     「四の切」への疑問

 

 七月は、歌舞伎座が蜷川幸雄演出の「十二夜」、純粋な古典はここ一軒という

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室の「千本桜」。

 まずいつもと違って、笑三郎と春猿二人のコンビによる「歌舞伎のみかた」が

面白い。高校生のみならず大人にもわかりやすく現代調で、二人が掛け合いの呼

吸が合ったところを見せる。ことに笑三郎がうまい。お笑いの「ヒロシ」の物真

似を使って、歌舞伎の下座音楽とせりふ廻しの特徴を説明した上に、最後は、道

行のホンの一部ではあるが二人で素のまま踊って四の切につなげたのにはビック

リした。これまでの、このシリーズ中の傑作。

 四の切の幕開きの幕外にも出て、申次の腰元が舞台の用意がととのったといい

にくるのをうけて、七三で口上になる当り。虚構と現実をとりまぜて、おのずか

ら観客を芝居の世界にさそい込むうまさである。

 さて、そこまでして幕が開く四の切だが、疑問を感じざるを得ない。

 右近の忠信と狐の二役、段治郎の義経、笑也の静御前。それぞれ手心のある役、

今さら悪かろうはずがないのに、いずれも共通して目に立つのは、型をなぞるだ

けで、そこに心持ちというか気分というかがなく、要するに冷たく、よそよそし

いことだ。

 幕が開くと、寿猿延夫の河連法眼夫婦が板つきで、そこへ義経が出るが、これ

が棒立ちの上に、せりふが硬く、芝居も直線で、柔らか味がない。背の高いガラ

は天性のもの故仕方がないが、それを柔らかく、なんどりと余裕をもって、かつ

心持ちを見せる工夫が足りない。

 笑也の静も同じ。この二人はとても夫婦とは見えない。

 ほんのちょっと工夫しただけで、パッと気持ちが出て、型が生きるのに、その

工夫がない。型に対する心持ちの研究が足りないのである。

 右近の忠信にしても同じである。向うを見込んで刀の下緒をさばく「黙して」

の仕どころ、贋者への不審、怒りのハラがはっきりしていないから動きがバラバ

ラになるし、思わず下緒をさばいてキッとなって、義経に気づいて下緒を袂へか

くし、それでも向うへ気が行くという手順が死んでいる。

 今さらながら型はどうしてこうなったのかを考え、ポイントはどこにあるかを

考えることが大事だろう。三人ともそこがいい加減なのが私は大いに疑問であっ

た。

 右近の二役狐忠信は、これまた大いに疑問である。

 「見返り見返り」の下手へ一足歩いては両手で泣くところから、義経に鼓を貰

うまでのあたり、口跡もしぐさも子供っぽく、甘ったるく、男装した女のようで

気持ちが悪い。普通にやればいいのに、ここらは感情が過剰である。それもごく

卑近な心理描写が多い。子狐というところから子供っぽさを強調するのだろうが、

源九郎狐は「藻を被く程年たけ」というのだからいい年なのである。いくらいい

年になっても親が恋しいというところがこの作のミソであり、その悲しみを表現

するには、グッとハラで抑えて、自分が全身でその気にならなければならない。

 大体狐の子別れという、とても普通の現実からは想像も出来ない感情表現を、

ヒヨィとナマのまま日常からもってきて、観客に押し付けるから気持ちが悪くな

る。芝居は芝居、現実を写すのではなく、虚構の心の動きを創造すべきである。

そのためにこそ「型」があるのではないか。

 猿之助は。基本は菊五郎型だが、それに猿之助一流の工夫をして猿之助型を作

った。一座の人にもその精神にかえって貰いたいと思うがどうだろうか。

 

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