人間薩摩源五兵衛
吉右衛門初役の薩摩源五兵衛(「盟三五大切」)が、これまでのこの役とはガ
ラリと変わって、今月第一の見ものである。
どう変わっているのか。一口でいうとこれまでの源五兵衛は大抵発端からして
殺人鬼のような顔をしている。これは初演の敵役の名人五代目幸四郎の芸風から
考えても、南北の戯曲を読んでも、ごく一般的なとらえ方だろう。
ところが吉右衛門はそうではない。いつかやった「亀山の仇討」の藤田水右衛
門のように、さぞゾッとする凄さだろうと思いの外に、発端も白の井桁のカスリ
に絽の羽織、凄味が全くない只の浪人である。そうなると次の大和町が忠義と女
と二道に迷うのが半分滑稽でもあり、面白くもなる。原作の敵役の横恋慕風とは
違うが、人間のリアルさが出る。
その普通の人が次の二軒茶屋の小万と三五郎の裏切りにあって、はじめて恐ろ
しい殺人鬼になる。つまりこの源五兵衛の性根は、小万を殺していう「身共を鬼
には、おのれら二人が致したぞよ」という一句にある。吉右衛門の出発点はここ
である。この世には生れついての殺人鬼などはいない。なにかのキッカケで鬼に
なる。その鬼になる瞬間をとらえたところが今度の吉右衛門の面白さであり、そ
の結果、源五兵衛が敵役から一人の人間として舞台の上に生きた。
だれでも人間ならば殺人鬼になる可能性がある。その怖さ、その複雑さ、その
不可解さを見せたところが現代的でもあり、これまでの源五兵衛とは違うリアル
さでもある。私が「人間薩摩源五兵衛」という理由である。
もっともこの解釈に立っていえば、鬼になる、その変り目の二軒茶屋は、もっ
と怒りが爆発してもよかった。爆発する怒りと口惜しさ、それを抑えるところが
もつと鮮明でもいい。ことに小万と伊右衛門とのやりとりを木戸の外で三五郎と
二人で聞くところは、吉右衛門と仁左衛門二人の芝居上手が、ほとんどウラ向き
なのは物足りないし、わずかにオモテ向きになった吉右衛門の芝居も小ぶりであ
る。虹のような怒りがあって、それをジッ見てつけ込んでいく三五郎、この二人
の芸のせり合いが見たいところであった。
吉右衛門は引込みにようやくチラリと本心を見せるが、これだけでは芝居がリ
アルなだけに人を五人も殺すには至らないし、五人切りの幕切れもきかない。
吉右衛門がいいのは、鬼横町のお化け長屋になってからである。
ことに時蔵の小万との殺しがいい。いつもは残虐一辺倒のところを、まことに
美しく見せて歌舞伎の殺し場を堪能させる。この止めにさっきの一句をいうのだ
が、そのあと小万の生首を格子越しに軒の行燈にすかして見て「げに定めなき浮
世じゃのう」というところが、この芝居の主題をうかび上がらせた。他の源五兵
衛にはないよさ。傑作である。
花道の唐傘を肩に小万の首を懐中にしての引込みも歌舞伎味たっぷり。しかし
この引込みから次の法蔵院の出は、これも初日の故かアタフタして面白くない。
悠然としてこそ小万の本首と茶漬けを食う趣向が生きる。もっともこれは日なら
ずしてなおるだろう。原作の謡を歌うのをカットしたのも惜しい。鬼になった人
間の法悦がなければドラマの深刻さがいま一歩になる。
この源五兵衛に対して仁左衛門の三五郎は三回目とあって手に入ったいい出来
である。二軒茶屋には前述の通り不満もあるが、鬼横町はうまい。女房に対する
時、弥助に対する時、弥助が兄とわかってズバリと妹を女房にくれという具合、
父了心に対して勘当を許して貰う時、源五兵衛に対する時、それぞれの相手によ
って態度をかえて細かい芸の面白さを見せる。
時蔵二度目の小万も前回の不出来とは大違いの上出来である。発端は三五郎の
女房という所を見せようとするあまりいささか世帯じみているし、大和町、二軒
茶屋も「姐妃の小万」と呼ばれた女の仇っぽさがうすいが、鬼横町はいい。こと
に三五郎の女房としての情愛、殺しの美しさで格段のよさである。この人、昼の
お勝とともに今月は立派な歌舞伎座の立女形である。
他には歌六の家主弥助が手強く、リアルで、滑稽さもあって、いい出来。染五
郎の八右衛門はようやく持ち役になって、鬼横町の源五兵衛との件りはしっとり
といい出来である。東蔵の富森助右衛門は武張った重々しさが足りない。この人
だけが他の世界から来て、その世界を背負う重さがいる。
他に芦燕の了心、吉之丞の雇い婆おくろ、時蝶の長屋の女房、松三郎の夜番が
よく、歌昇の伊之助、孝太郎の菊野、錦吾の伊右衛門、秀調の虎蔵と揃っている。
夜の部は、このあとに舞踊二題。
「良寛と子守」は、富十郎の良寛かさすがに兎の捨身の件りでうまいところを
見せる。すなわち火に飛び込む前の兎の思い入れ、変わって正面向いて乞食が仏
にかわるところ、月へ飛ぶ遠く上手を見る思い入れと、踊りの真髄を見せる、名
人芸である。子守は右近、大吉の大がしっかりしている。
「吉原雀」は、今回はいつもの清元と違って長唄。梅玉と魁春の鳥売りに、歌
昇の鳥刺しがからんで、最後はぶっかえりになる。三人のなかでは魁春がまこと
にあでやかで大きい。
昼の部は、最初に珍しく東京では三十三年ぶりの「輝虎配膳」が出た。
四月の「勘当場」の延寿の不出来でどうかと思った秀太郎の越路が意外にも手
強く、キッパリして義太夫狂言らしい味も出て意外の上出来。これでこの一幕が
面白くなった。
花道へお勝と二人出たところは、真女形のことだからいささか線が細かったが、
七三でお勝から刀をうけとってトンと下について立身でイトについてお勝と二人
立ちできまる辺りで俄然面白くなる。
本舞台へ来て「さては婿殿の館かと思えば、御主人の本丸か」の思い入れ、直
江が持ってくる小袖を「古着」という手強いせりふ廻し。この手強さ、近松の本
文をいかしたせりふがいい。ついで「足引き伸ばし」で脇息に肱を突いての頬杖。
輝虎のせりふをハラでうけていてムッとし「鎌倉の海には」の長ぜりふはいささ
か小音でたるみが出たが、明日はなおるだろう。平舞台へ下り輝虎、お勝、唐衣
とのつけ廻しの大芝居は、かまわずに下手へ行くのが当然ではあるがハラの芝居
がないので少し物足りない。そのあと花道七三の幕外で本舞台へ思わず手を合わ
せてお勝を見返ってシャンとなるのは、次の「直江屋敷」への伏線である。以上、
この越路がいいのは、第一に手強くキッパリしていること、第二に義太夫につい
ての動きがそれらしいことである。
梅玉の輝虎は、ニンは立派、品位もあるが、越路を斬ろうとしてお勝にへだて
られる段取りと心持ちが今日はまだ未消化だった。
時蔵のお勝は、輝虎ときいて驚くところがいい。ただ驚くのではなく、状況が
彼女に一度にわかって必死になるからである。琴を弾いての動きは、手は動いて
も目が輝虎へ行かなければならないが、これも今日は初日、目がつい手もとへ行
くのは仕方がない。しかし必死の心持ちはよく出ていい出来である。
歌六の直江は、最初のせりふに義太夫らしさがほしいところ。東蔵の唐衣は母
への実の娘の情、輝虎と越路の対決への気遣い、しかも他人の芸の邪魔にならな
いようにハラでうける具合が足りない。この役は越路やお勝ほどの仕どころがな
くとかく軽く見られがちであるが、実はこの一幕中一番の辛抱役、難役なのかも
知れない。
次が吉右衛門の「素襖落」。
前半サラサラと運んでオヤオヤと思ったが、那須与市扇の的がドラマティック
で盛り返し、後半は、富十郎の大名とのコンビで面白い。当てッ気、嫌味がなく
て真剣で、しかもおかしいのが、この二人のうまさ、面白さである。狂言舞踊は
この大きさ、品格がなければならない。
最後が「封印切」と「新口村」。
染五郎大抜擢の忠兵衛は、仁左衛門写しで十二月の「乳貰い」より余ッ程いい。
まだ芝居が浮いて違和感もあるが、この若さ、東京生れの役者としては精一杯の
力演である。照れずに突っ込んでいるところがまずは及第である。わけたも八右
衛門に五十両は「返してあるぞよ」といって右手を後ろへ廻して下手向き、鉦が
入る片膝を立ててのきまりがいい。
孝太郎の梅川は、忠兵衛が来たと聞いて「忠さん、忠さん、忠さん」といいな
がら門口へ行くところが上すべりしてしるのと、封印切で二階からの出が変に深
刻なのがよくないほかは、手馴れて十分の出来。
仁左衛門が八右衛門をつき合って、忠兵衛に金を貸す仕方噺のあたりはいつも
よりコッテリとしかも軽く丁寧で面白い。ことに秀太郎のおえんとの芝居がさす
がに大舞台である。
二役孫右衛門は当り芸。今さらいうまでもない。
秀太郎のおえんが傑作。第一場の幕切れに門口をしめてチョン、下手で両手を
後の帯へ廻す具合、そのさり気なさ、身についた持ち味が絶品である。塀外の治
右衛門に「はじめて逢ったその時は」といいかけて、世話にくだけて「オオ、て
れくさ」とつぶやく辺りも、自然に無心に出来てうならせる。越路とおえん。今
月この人も大当り。
東蔵の槌屋治右衛門が貫目と情を見せる。歌江の忠三郎女房。女形らしい柔ら
かさを見せていい。
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