2005年2月歌舞伎座

      大顔合せの「野崎村」

 

 富十郎の久作、芝翫のお光、雀右衛門のお染、鴈冶郎の久松、田之助の後家お

常という「野崎村」(夜の部)がさすがに近来の大顔合せだけあって、コクもあ

り、充実している。今日の歌舞伎のグレードを示す大舞台である。

 まず富十郎の久作が円熟した持ち味でいい久作である。初日のために大分せり

ふが怪しいが、これは日を追って直るだろう。この一点を除けば当代一の久作で

ある。

 ことに私が感心したのはお染に気づくところ。お光の「あの病づらめが」で、

お光の視線を辿って行って、木戸の外のお染に気がつく。アッという思い入れが

あって、なにがなんでもお光を納戸へ引っ張って行こうとする。普通はこの引込

みで立ってから気づく人あり、のれん口に入りかけて気づく人あり、人によって

いろいろだが、富十郎だとお染がいるのに気がついたからこそ無理にお光を引き

立てることになる。この場でトラブルをおこしたくない。それで引き立てる。つ

まりドラマの骨格がハッキリしている。富十郎がお染に気がついた瞬間、思い入

れ一つで舞台の空気がガラッと一変するから、芸は恐ろしい。

 しかもこの引込みが、義太夫狂言らしい面白さである。すなわち久作が下手の

お光の手を取る。お光が嫌がって上手へ逃げる。上手へ廻った久作がまたお光の

手を取る。お光は今度は下手へ逃げる。その手を久作がつかまえる。そして無理

にのれん口へ連れて入る。ここの富十郎芝翫、二人の大きさ、芸の引張り合いの

力で、舞台が一度に分厚く、スケールが大きくなって、コクが出る。ここらから

この「野崎村」は俄然面白くなる。

 むろんその前も面白い。芝翫のお光と雀右衛門のお染の二人が木戸を境にして

のやりとりも、芸風の全く違う女形の競演で、かつての梅幸のお光と歌右衛門の

お染の舞台を思い出させるし、久作と久松が出ての、四人の芝居も四枚看板のス

ケールの大きさを感じさせるが、本当に芝居の厚味で大舞台になるのはここから

である。いつもの「野崎村」だと只の段取りになるところが、濃密で引き締って

いる。

 次にいいのはお染久松への異見である。ここの富十郎は、せりふのうまさ、

イキのよさもさることながら、とりわけていいところが二点ある。

 一つは、いつもは久作が二重の真中、上手のお染、下手の久松の間に座って

芝居になるが、富十郎は真中やや下手で、ほとんど上手向きで芝居をする。む

ろん久松への芝居の時はそっちを向くが、おもに上手のお染の方を向き、しか

もお染との間をあけている。すなわちお染とは今の主従。それに対して久松は

わが養子ながら、妹の御主人の忘れ形見、昔の主筋という振分けがはっきりし

ている。今度の久作は、この階級差別、油屋とわが家の関係が鮮明である。た

とえば二人に「コレ」と迫るところも、最初の「コレ」は久松に強く、次の、

「コレ」はお染に丁寧に軽く、最後の「コレ」は久松への泣きになる具合のう

まさ。こういう芝居のうまさ、行儀正しさの上に、いつもはカットされる本文

を大分復活して丁寧にしている。これで身分関係はむろん金の行方もハッキリ

する。かつて勘三郎の久作に小助をやった経験のあるこの人の強味である。芝

居のドラマ全体に目配りがきいているのだ。

 もう一つは、お光が二人に「死ぬる心でござんしょうがな」といった時に、

ハッとするところである。この驚きで一瞬のうちに、自分の異見が無駄であっ

たこと、お光の決断、所詮は逃れられぬ運命に思い至って愕然とする老人の悲

劇が鮮明になる。いや、そればかりではない。この富十郎の芝居一つで、「野

崎村」一編の主題――恋の想いが多くの人間関係を破壊していく悲劇があきら

かになった。

 芝翫のお光は、のれん口から出た大きさ、髪をつくる具合、なますを作る芝

居と、黄八丈の前掛けにふさわしい人形芝居の娘役の芝居を見せるが、その古

風さと六代目流のリアルな芝居にいささか違和感がのこる。「ビビビィビイ」

だの、「阿呆らしい」で縁に腰掛けて足をブラブラさせたりするところがこの

人だといかにも面白いのに残念である。たとえば「嬉しかったはたった半時」

も、「嬉しかったは」と向うを見て本当に嬉しそうな顔をする具合があまりに

リアルすぎて、この芝居と合わないのだ。

 雀右衛門のお染は、立居が不自由なのは是非もないが、花道へ出たところ、

古風な友禅にピラピラの花簪がライトに光って、その美しさ、その色気、先月

の「女暫」とは大違いである。

 くどきになって久松にもたれかかった姿、パラパラと手紙をおとす具合、上

手から立身で久松の肩に袖をかけてのきまり、最後に上手から久松にもたれか

かった具合、なんということもないのに一つ一つが絵になっている。まるで美

術品である。

 鴈治郎の久松は控え目にしていて、柔らかく、しかもシンはキッとしている

ところがさすがである。和事の手本。ことに感心したのは、お染に対する時に

一人の男であるよりもお店の丁稚になっていること。亡き梅幸の舞踊「お染」

の久松が、終始お染につかえる下僕であったことを思い出した。この久松でこ

そ久作の悲劇がはっきりする。珍しいのはお染が剃刀で自害しようとする時、

この人は下手に釣ってある藁づとにさした鎌を取った。

 田之助のお常がいいのは当然だが、久作が異見をしている間に土手から降り

て来るところ、しっとりと味かあって、目を奪う立派な風格である。丁寧で行

き届いているのはむろん、舞台が廻る時に、この人が二重真中で立身できまる

と、スーッと盆が廻っていく。ここは柝は入らないがチョンという柝の音が聞

えたような気がしたのは豪いものである。立派な大坂大商家の女主人。

 老母は出ないが、幕開きの四郎五郎以下の仕出しから、終始、上手障子屋体

の老母の存在を強調しているのがきいている。吉之丞の下女およし。

 夜の部は、この「野崎村」を真中に、前に仁左衛門菊五郎の「ぢいさんばあ

さん」、後に仁左衛門孝太郎の「二人椀久」。

 昼の部一番の見ものは、吉右衛門初役の「五斗三番」である。

 六代目新演出の二重下手まいら戸からの出、酒をのみはじめるまでは、世話

場にならぬ要心からだろうが、サラサラと淡泊でいささか物足りなかったが、

さすがに酒を飲んで酔っていくところはうまく、ことに錦戸兄弟にキッとなっ

て五斗をさみするのかというところに、五斗の性根、英雄役者の吉右衛門の本

領が出ていい。本領といえば、得意技を聞かれて「弓」「槍」と答える辺りに

も武将豪傑の五斗の性根が豪快に出て、是非この人の鉄砲場が見たいと思った。

 鉄砲場はとかく退屈だの、徳女の自害が小まっちゃくれていてわざとらしい

だのといわれて敬遠されるが、原作の「南蛮鉄後藤目貫」の本文の二段目切五

斗内の場、三段目口のこの三番、そして切の鉄砲場を読むと、この悲劇も実は

東西両陣営にはさまれた武将五斗の悲劇、彼の家庭内部のドラマがすぐれて現

代性をもつ傑作であることが分かる。

 この大一座、上演時間で、今回は仕方がないが、次回は五斗内から通して吉

右衛門の五斗を見たいと思った。演出も六代目流よりも九代目団十郎の型の、

たとえば、この場も本花道から出るのが、本当は、この人の芸風にあっている。

 吉右衛門で滅法うまいのは、意外にも竹田奴相手の目貫づくし。ことに「月

に兎は」で、口で扇子を開いて、上手から下手へ手を出しながら動いていくと

ころ。そのうまさ、その心持ちの豊かさ、思わずうっとりするような、充実し

たよさである。この味わいは筆舌につくしがたい。

 それにくらべれば三番はさしたることもない。しかしこの「月に兎は」の一

箇所だけでも、この人の当り芸たるを失わない。

 左団次の泉三郎は役違い。歌六と歌昇の錦戸兄弟が手強く、舞台をしめて良

く、三津五郎の義経は平凡。松緑の亀井は体も動きもせりふもともにキリッと

引き締ったところがなく不出来。

 総体に五斗が出るまでが退屈なのは、役者の不出来もさることながら、台本

と演出に再考の必要がある。

 この「五斗」の前に、梅玉時蔵の「番町皿屋敷」。後に鴈冶郎梅玉の「隅田

川」。九代目三津五郎追善とあって、菊五郎三津五郎ほかの「どんつく」。

 なかでは意外にも、またかと思った「番町皿屋敷」が面白かった。

 主役二人がいいからである。

 梅玉の播磨は、お菊一人を愛して他の女を省みない男くささはないが、真面

目なところがあって、なによりも岡本綺堂のせりふを歌い上げる技術に大きな

進歩があっていい。せりふが歌われることでこの男の性格がうきぼりになる。

 時蔵のお菊が、男を疑う恋のいきさつ、男の心を理解して死ぬプロセスをし

っとりとみせてよく、近来のお菊。先月の雲の絶間姫とは一つにならぬ大当り。

 東蔵の叔母、弥十郎の十太夫、扇雀のお仙、亀蔵の権次と揃って、この「皿

屋敷」は、意外な拾いものである。

 

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