2005年12月歌舞伎座

     橋之助の「弁慶上使」

 

 昼の部第一は、橋之助初役の「弁慶上使」。

 欠点はあるものの十一月の「太功記十段目」の光秀につづく出来である。

 まず花道へ出たところ、上背があって舞台ぶりが大きい。時代物三段目の主役

はこうでなければならない。

 つづいて卿の君に聞かせる「三忘」のせりふもすこし客席にハラの通りにくい

ところはあるがまずまずの成績。ただし「生死の境」は「ショウシ」ではなく、

「ショウジ」だろう。引っ込みにしのぶの顔を見る型ではないのが物足りないと

同時にさびしく、手持ち無沙汰に見えるのは仕方がないか。

 この弁慶のいいのは二度目の出から。ことに「むせぶ涙を押しかくし」からの

長い述懐である。「ほててんごうなことをして」の悲しみのなかのユーモラスな

後悔、有名な「泣く蝉よりも」の大きさ、「亡き母に添う心して」の母親への思

いから、「広大無辺の親の慈悲」から、親としてのわが身を振り返る大芝居がう

まい。カドカドの大見得、せりふの徹り具合、芝居運びがいい。

 欠点はおわさの歎きをジッと聞いているハラがうすいこと。心のなかでおわさ

の悲しみはすなわち自分の歎きであることを思う芝居があれば、この長い述懐が

なお生きただろうに惜しいことである。

 しかしとかく形容本位でナカミが薄くなるこの役に、これだけの人間味が生き

たのはみとめなければならない。

 それに反して福助初役のおわさは、とかく心持本位で形がきまらないのがよく

ない。世話の女房といったところで、周りは金襖の大芝居。きまるところではき

まって、三味線にのるところではのらなければ、感情が上滑りして空転する。

 弥十郎の侍従太郎は、これもおわさの話も弁慶の話もよく聞いていないように

見えるのは初日のせいか。花の井は竹三郎。しのぶは新悟だが、まだひ弱く、線

が細い。

 中幕は、勘太郎の猩猩が実にいい出来である。その出からして、体つき、歩き

つきが、もう客の視線を集める。曲をよく飲み込んでいて自然に体が形にはまっ

ていく具合、タップリと踊っている余裕、振りがなにをあらわしているかがよく

わかる点、まことにいい。三月の「猿若」から「猩猩」まで、今年一年は勘太郎

成長の年であった。

 次が勘三郎の「盲目物語」。

 弥市と秀吉の二役はむろん弥市の方がよく書けてもいるし、勘三郎の今度は谷

崎潤一郎が書いた異常なマゾヒスティックな性愛をよく描いている。

 谷崎にとって弥市と秀吉は実は一人の男なのだろうが、片やしがない座頭、片

や天下の大政治家。そこにおのずから人間の器量の違いがあって、お市の方を間

にしての二人の勝負は見えたようなものだが、意外にもお市が姿をあらわすのは

弥市の心のなかである。すなわち勝負の結果は、弥市が恋の勝利者、秀吉は敗北

者。お茶で間に合わせてもそこに不満が残る。だからこそ大詰の秀吉は不機嫌

で、喜劇的になる。その人間的な差、運命の明暗が、今の勘三郎の実力ならば、

観客がアッと思うほど対照的に出てもいいはずである。早替わりの手順は鮮やか

だが、勘三郎という個性が観客と向き合ってしまって、役の人間の個性の掘り下

げが足りないのが残念。

 玉三郎のお市の方は、序幕で秀吉を責めるところの激しさ、憎悪が今回はこと

に冴え渡っている。見ていてこの人の「孤城の落月」の淀君が見たいと思った。

むろん新作の淀君ならなおいい。

 橋之助の勝家は序幕がよく、二幕目はどういうわけか貧相にみえる。

 七之助のお茶々は若々しく、この人はやはり女形の人だろうと思う。薪車の浅

井長政の亡霊が玉三郎を相手にして立派な出来。

 

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