「絵本太功記」の通し
十一月の国立劇場は、故山口広一の台本による「太功記」の通しである。
二条配膳、本能寺、妙心寺、瓜献上、尼崎閑居の五幕。恰好の企画と思ったが、
実は朔日の段の二条配膳のあとの光秀屋敷のカット、妙心寺前段のカットで、光
秀謀反の首尾照応を欠いている。瓜献上をやめても主役光秀が謀反を決意する光
秀屋敷がないのは残念だし、妙心寺前段のカットは光秀に一度は自害を決意させ
る母皐月の心情を見せられないために、光秀の心情を曖昧にしている。この二箇
所は本能寺のチャンバラや三十五分という長すぎる幕間、瓜献上をカットしても
上演しなければ折角の通しの意義がうすれるだろう。
その上、ミス・キャストやあまり適当でない役だらけで、芳しからぬ舞台にな
った。なかでの収穫は三つのみ。すなわち橋之助の十段目の光秀、吉之丞の皐月、
そして十段目の端場「夕顔棚」の上演である。
順に行こう。
序幕は原本の発端をカットしていきなり二条配膳から。「忠臣蔵」大序の人形
身よろしく幕が開く。橋之助の光秀は、この場はいささか白粉が濃く見えて若輩
じみる。知謀すぐれた光秀が堪忍に堪忍を重ねての争いが、こう若くては出にく
いのが残念。幕外の引込みにニッタリ笑うのはなんのためかわからず。これで謀
反を決意したというならばお手軽すぎる。対する我当の春永は、荒気の大将の激
しさがきかず、これはニンにない故仕方がないか。十次郎の魁春はまだしも、孝
太郎の森蘭丸は女形に荒若衆、気の毒さいわんかたなし。
二幕目本能寺は、我当、孝太郎の上に、右之助の阿野の局。本役は市蔵の安田
作兵衛のみ。春永と蘭丸が見合って柝が入ったからヤレ助かったと思ったらば、
舞台が二度も廻っての大乱戦。本能寺の夜討ち(妙心寺の腰元の一人がヤウチと
いったが)だからチャンバラを見せなければというほど観客は甘くないだろう。
三幕目妙心寺。橋之助の光秀は「馬盥」の光秀の如き紫紺の裃、燕手の鬘で花
道を出たところは立派なニンで、さあここからが期待した橋之助の光秀と思いの
ほか、七三から本舞台へ来ると、もうスタスタとただの人になってしまう。ドッ
シリとした義太夫狂言の主役の歩き方ではない。体がすぐ素に戻るのはハラのこ
しらえ方が浅いからで、母の家出にも何を考えているかわからぬ上に、肝腎の衝
立への辞世も味がなく、観客はただ呆然と橋之助が書き終わるのを待っている。
ここは光秀のこの幕の第一の仕どころ、客が思わずホロリとするくらいの運びが
いる。さらにいけないのは、十次郎と田島頭の諫言を聞いて死を思い止まるドラ
マが出来ていないことである。主殺しではなく正義の戦いと気がつく発想の転換
が芝居になっていない。それがなければこの幕はないも同じ。幕切れ素襖大紋に
かわったところで意気も上らず、残念である。
東蔵の操は、前回立派な皐月を見せた人が操にまわる気の毒さ。しかしそれに
しても出て来たところなんのハラもないのは、似たもの夫婦か。もっともこれは
前段のカットにもよるだろう。
前段のカットで割りを喰ったのは吉之丞の皐月も同じこと。いきなり立派な座
敷へ貧しい身なりでどこのお婆さんの迷子かと思われる出方は気の毒というほか
ない。しかし丸本味こそ薄いものの、この一幕では一番手堅い芝居をしている。
魁春の十次郎、歌六の田島頭は、二人とも誄言にもう一押しほしいが、まずは
普通の出来。孝太郎の初菊は、前幕の大乱戦の疲れが、観る方にもする方にもド
ッと出て、気なしなことおびただしい。折角の女形が台無しである。
三幕目爪献上。この幕は光秀一家の悲劇と対照的な息抜きだが、芝翫の久吉が
ミス・キャスト。歌六の田島頭も芝居がもう一つ盛り上がらず、ただ筋を通して、
久吉がどうして僧侶姿になったかを説明するだけの場になってしまった。男女蔵
の正清は実録風。丸本の中の人ではない。家橘の南山和尚。
大詰、尼ケ崎閑居。橋之助の光秀は、さすがにこの場がいい。最初にいった通
り、今度の「太功記」の収穫は、この光秀である。
まず、その出は、多少薄味ながら、大きさ、立派さで及第。「ひっそぎ竹」も
拍子にのって踊ったりせずによく、「小田の蛙」から槍を突っ込むまで。舞台を
半廻しにしないのにこれだけの手強さ、スケールを見せたのは大出来である。こ
の人の「鎌三」の佐々木、芝翫型の熊谷につづくヒット。しかしむろん問題もあ
る。誤って母を刺しての「只茫然たる」は前へ出す手が踊って滑稽。三味線への
り方がわるいのと、この手は後ろへつくのが大事だということがわかっていない
ため。光秀にとって事態がどれほど深刻かという、その心持ちが出来ていないか
らである。
大落しも上ッ面。そこまで他の人の芝居をウケているウケ方、ハラが持ちきれ
ないからである。しかし後半、物見から幕切れまでは持ち直した。動きがあるか
らで、いま橋之助にもっとも望みたいのはハラの修行である。
吉之丞の皐月は、義太夫味が薄いのはこの人の芸風故是非なしとして、仕事は
キチンとしてまことにいい出来。ことに印象的だったのは十次郎の引込みに微動
だにせず、顔一つあげず、むろん思い入れらしいこともせずに気持ち一つで持ち
切ったこと。ジッと悲しみにたえるその姿で。もうこの皐月は自分も死ぬ気でい
る。これだけの芝居、「百万言に優るぞや」。
東蔵の操はすることには間違いないが、やはり女形育ちだけでなければこの役
はムリだろう。
孝太郎の初菊は、前幕につづいて上の空。
魁春の十次郎は、この場でようやく多少見直すが、それでも真女形のこの人に
はムリ。女形のなかにも若衆形がいける人といけない人とあるのだろう。この人
の十次郎がよくないのは、この人のむしろ名誉である。
夕顔棚で二重の上に上手から吉之丞、東蔵、孝太郎、芝翫とならんで、吉之丞
一人が本役なのを見て「只茫然たるばかり」だった。
歌舞伎はその役柄以外の役で当てるのを下手という。本役で当ててこそ名人上
手。本役でない役は避けるのが本筋。三代目歌右衛門や六代目菊五郎は何世紀に
一人の人であって役柄と自分のニンを重んじない限り、歌舞伎はその豊かな可能
性を失うだろう。
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