2005年10月国立劇場

      南北の面影

 

 十月の国立劇場は二十五年ぶりの南北の「鳥羽の恋塚」。演技、演出に問題が

あって、とても手放しで面白いとまではいかないが、さぞ大変だろうと思いのほ

か多少とも南北の面影があって私は面白かった。少なくとも見飽き、見慣れた狂

言よりは新鮮でいい。演目の固定化しつつある今日の歌舞伎にとっては一服の清

涼剤。

 さて南北の味が多少ともするのは、国立劇場文芸課補綴という台本のお手柄で

ある。原作は六幕十六場という大長編、複雑怪奇な上に顔見世の習慣を知ってい

てさえうんざりするほどの作品。それを現代人向きに四幕九場にうまくまとめて

ある。

 ことによくまとまっているのは、前回はカットされた頼政館の復活である。原

作でいくととりとめのない部分を大きくカットして頼政と頼豪阿奢梨の二人の関

係に焦点を絞り込んで、次々にあらわれる意外な状況の展開に翻弄される二人を

うまく描き出した。この展開にその場その場で変化していく人物像こそ南北の味

である。

 もう一つは、大詰に持ってきた高尾神護寺の場である。石段の立ち廻りのあと、

遠藤武者盛遠と渡辺左衛門亘の二人が初めて本心を明かすところは、有名な盛遠

と亘と袈裟の三人の関係を表にしてそのウラを書いて二人の男の出家を見せ場に

したところが、いかにも好んで名場面のウラを書いて奇想天外な作家としての、

南北の面影がよく出ている。

 頼政館は今回の文芸課本の功績。神護寺は前回の郡司本通りだが、どちらも南

北の作劇法がよくわかって面白い。私が南北の面影がするというのは、ここのと

ころ。収穫である。

 さて、舞台の出来も含めて序幕からいこう。

 序幕は原作の厳島神社を京都祇園社に移しての顔見世吉例の「暫」。玉太郎の

滝口に裃姿で「暫」をさせようというのは、趣向からいっても役者の腕からいっ

ても荷が勝ちすぎて無理である。これでは「暫」のパロディかどうかさえもわか

らず、これ一場で四十分は時間のムダ。信二郎のウケ、彦三郎の敵役、男女蔵の

腹出しがわりの奴、松緑、孝太郎、亀寿の太刀下もさしたることなし。唯一この

場のトリエは多少とも人間関係がわかるということだけである。

 廻って「油坊主のだんまり」。

 ここで富十郎、時蔵、梅玉の三人が顔を合わせるが、だんまりの夜の闇がほと

んど感じられないのは、暗闇なのか昼間なのかわからぬほど三人の動きが悪いか

らである。ついでにいえば、大詰で、このだんまりほどきがあるのに、プログラ

ムの役名が盛遠、亘、袈裟になっていないのは、昔の史料はともかくも現代の観

客にはわかりにくい。

 二幕目第一場は三井寺の頼豪の庵室。

 梅玉の頼政、花道へ出たところはまことにニンがよく、品あり威ある武将にな

っているが、さて芝居にかかると、この男が何を考えているのかさっぱりわから

ず、次の場へ行けばわかるだろうと思ううちに頼豪と見合って舞台が廻るのは残

念。ここは原作もあいまいだが、あれほど怒って膳まで蹴返した頼豪を頼政が説

得する暗示位はやっておかないと観客にはわかりにくい。折角のいい復活唯一の

キズ。そのため歌六の頼豪も恨みは十分だが凄味がない。

 廻って頼政館は、すでに触れたとおり今度の復活唯一の見ものだが、惜しいか

な役者の芝居がよくない。まず梅玉の頼政は、芝居の突っ込み、ここ一番のしど

ころというところで思い入れが足りない。ハラがうすいためである。この作品に

限らず南北はハラの探り合いが大事、ハラが十分観客に通らないとつまらなくな

る。

 頼豪が毒酒を呑んで恨み死して鼠になるところは、上手障子屋体の影絵で見せ

るが、絵の線が細く大劇場ではなにがどうしたのかもわからず、そのため歌六が

損をしている。

 時蔵の海女小磯は、袈裟と仕わけるためだろうが、それにしても御殿へ一人下

々の女が出るという世話と時代の仕分けに面白味がなく、色気もない。

 松緑の蔵人も色気がうすく、彦三郎の武蔵有国、梅枝の千束姫実は高倉宮、歌

江の腰元巻絹も一通り。亀寿の猪早太は、この場の主役につぐ大役。さすがに持

ちきれなかった。

 三幕目第一場は四国讃岐の屏風ヶ浦。玉太郎の滝口が待宵の侍従の供にはぐれ

たという設定がこれだけではわからぬ。

 廻って崇徳院の庵室。崇徳院が暗闇のなかのたった一夜とはいえ、子まで出来

た女が顔を合わせてもわからぬというのは現代では理解不可能。原作もそうはな

っているが、ハラの薄い現代の若手にはムリ。ここらが現代の補綴者が筆を入れ

るべきところである。

 孝太郎の侍従はここ一番の好演でいいが、松の根元の子供をとかく忘れがちに

なるのはこの人の罪というよりも演出(織田紘二)がもっと気を配ってやるべき

である。たとえば侍従が庵室へ上がってしまわずに平舞台で芝居をすれば、崇徳

院と子供と両方に気をかけられるのに。

 松緑の崇徳院は、怒りと憎悪と世界を呪う激情が足りない。舞台の宙乗りのあ

と一度道具幕をしめて明るくなると、いきなり客席の頭上すれすれに崇徳院が宙

乗りになっているのはギョッとする。ここは原作どおり客席を縦横にとぶ仕掛け

で大当たり。

 大詰、高尾神護寺。

 第一場は時蔵の袈裟、孝太郎の薫と渡辺亘をめぐる二人の女が二重へならんで、

平舞台に信二郎の袈裟の兄の奴長谷平と三人顔をそろえたところへ、本花道から

梅玉の亘、仮花道から富十郎の盛遠が出る。この五人の人間関係はさすがに大人

の芝居。今までの三幕目までとは違ってスケールが大きい。ここらの役者の盛り

合わせのうまさ、絵心が南北である。

 時蔵の袈裟は二幕目の小磯とは大いに違ってしっとりと美しく、孝太郎の薫も

三幕目の待宵の侍従の母親ぶりとは大いに変わって若々しい。

 富十郎の盛遠は立派ではあるがニンにないため犠牲打。この一座ではやむを得

ざる配役だろうが、実力のあるこの人をニンにない実悪に使ったのはなんともも

ったいない無駄使い。それに南北の書いたその場その場で、立敵、世話のいなせ、

色恋、実事と変わっていく性根が、現代の役者ことに富十郎のようなリアルな芸

風の人にはつかみにくいのだろう。わずかに世話の、袈裟との夫婦喧嘩のイキが

面白いが、それから上使への変わり目もハッキリしないのは、演技と演出にもう

一工夫ほしいところである。

 それに引きかえ梅玉の亘は本役。頼政とは違って十分の出来。

 信二郎の長谷部信連がとても袈裟の兄とは見えぬが、その一点を除けば先輩た

ちの間にはさまって健闘している。

 石段の幕切れに、石段をセリ下げて、向こういっぱいのホリゾントに大きな月

を見せて、上手と下手に二人の三味線弾きをだしての三重のかけ合い、富十郎、

梅玉、両花道の引込みは大仕掛け大趣向ではあるが、セリの機械的な感触といい、

月の姿といい、いささか新作めく。

 南北らしいこの一幕。ここだけを吉右衛門の盛遠、富十郎の亘で見たいところ

である。

 

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