「引窓」「河庄」、そして尾上
堂々たる体躯の関取濡髪長五郎が私には五歳の子供に見えた。別に左団次の濡
髪が子供のマネをするわけではない。田之助の母親の視点が「引窓」一幕全編に
生きたからである。田之助にとってはいくつになっても濡髪が五歳の時別れたわ
が子にしか見えないのだ。
濡髪の父と死別した彼女は、五歳の子を養子にやって、やはり妻を失って一子
与兵衛を抱えた与兵衛の父と再婚した。バツイチ同士の結婚。しかし彼女には五
歳のときに分かれた自分の腹を痛めたひとり息子濡髪が忘れられなかった。だか
ら濡髪が彼女には今でも五歳の子供にしか見えない。五歳の子を捨てたという罪
の意識のためである。そりために「猫が子をくわえ歩くように」濡髪を盲目的に
可愛がる。その愛情のために彼女の一家の家庭の幸福は危機に瀕する。
その危機を自分の人生を犠牲にしてのりこえたのは菊五郎の与兵衛であった。
それを感じた濡髪もまた母親を正道に立ち返らせる。この二人の息子の決断が一
家崩壊の危機を救い、真の家族を成立させる。これは決して古いドラマではない。
今日も変わらぬ家族の問題である。
この悲劇が鮮明になったのは、まず第一に田之助の母と菊五郎の与兵衛によっ
て「引窓」のドラマの本質が鮮明になったからであり、第二に出演者全員のアン
サンブルのためである。
田之助の母はすでに体験済み。しかし今度がとりわけていいのは、芝居がうま
く、幕開きの嫁お早とのやりとり、濡髪との出会い、その関係をしとしとと語る
ところが実にリアルで、しかもキッチリしていいためである。魁春の残んの色気
をみせるお早、左団次のキチンとした長五郎とともに、これで与兵衛の出が引き
立つ。彼女が夫の死後、家の没落、どれほどの貧困のなかで屈辱を味わって来た
ことか。それがあるからこそ与兵衛の出世を人一倍待ちわびる母の真情が生きた。
与兵衛とお早のいさかいのなかへ出て、お早に「なんにもいわぬ」と片手拝み
をするところ、絵姿を買いたいというところ、「七十近い親もって」のくどき、
ともに彼女の人生がうかんで、思わず涙をさそわれる出来栄えである。
濡髪を引窓の縄で縛るところの竹本につく動き、前帯をグッとしめてのきまり、
つづいてノリになって、縄を持ってのきまりと、不自由な足で十分に動いて傑作。
この一段は母が主役だという説がよくわかった。
対する菊五郎の与兵衛は、初役の時、警官が初仕事を投げ打つドラマが新鮮で
驚いたが今度はさらにすでにふれた濡髪が母の実子と知って自分の将来を棒に振
ってまでも母を助けたいと思うドラマが深くなった。七ヶ村の支配は並大抵の出
世ではない。それを棒に振るのみか下手をすると自分自身も罪に問われかねない
男の決断を見せる。
芝居も当然ながら深くなった。お早との争いのリアルさから、水鏡で羽織を脱
ぎかけて右足を伸ばしたきまりが大きく、お早とからんで三味線につく三度のき
まり、すなわち右手に捕縄、左手に十手で中央に立つきまり、つづいてウラ見得、
口に十手をくわえて捕縄をさばいてのツケ入りの見得が味が深く、「狐川を左に
とり」を二階の濡髪に聞かせるハラもキッパリして、音羽屋の家にはたえてなか
ったこの役を立派に当り芸にしている。
魁春のお早も色気匂うばかり。細かい気配りがあってよく、この人の良さで与
兵衛との夫婦の対話が生きた。左団次の濡髪、団蔵の平岡丹平、権十郎の三原伝
蔵まで。そのアンサンブルによって今月歌舞伎座一番のみものである。
夜の部は、この「引窓」につづいて、玉三郎東京初役、全編人形振りの「日高
川」。
玉三郎には「櫓のお七」の人形振りという傑作があるので大いに期待したが、
人形振りの振りが地味でつまらず、お七のようにはいかなかった。川の中へ入っ
て蛇体になるところも演出が一工夫足りない。
次に鴈治郎という名前ではこれが最後になる「河庄」。
鴈治郎の治兵衛は、花道の出で脱げた草履を見廻してフーッと揚幕の方へ向き
直った顔、芸が自由で充実して「日本一の顔」である。思えば私たちは初代鴈治
郎の面長な「日本一の顔」の亡霊に、長い間悩まされて来た。「十六ミリ」とい
われた二代目鴈治郎にもそれはつきまとった。しかしいまや三代目最後の治兵衛
は、その亡霊から解放されてこの人のものになった。誰もが紙屋治兵衛はああい
う丸顔だと思うだろうという出来である。
草履をはいてグーツと前へ力が掛かってチリガンの竹本の三味線につくあたり、
自在の面白味。それから門口へ来ての「吹き込んで」の芝居。この人独自の面白
さで堪能させる。
後半の即興に近い孫右衛門との芝居はまだ二日目で、我当初役の孫右衛門との
イキが練れていないが、これは日ならず直るだろう。
その我当初役の孫右衛門は、下手から出たところはじめから町人と見せず、そ
れとなく町人と動きの端端に見せていく行き方。父十三代目仁左衛門の面影があ
ってよく、小春の言葉に薄気味悪がる具合、ことに刀を忘れてのお庄との気味合
いの空笑い、刀の扱い、治兵衛の脇差しをこわがる滑稽さ。堂々たる出来栄え。
この人一世の当り芸である。後半のアドリブではすでに触れたとおりまだ日が浅
いためやむを得ないが、それでもネイティブであるところが六分の強み。
雀右衛門の東京初役の小春は、その若さ、艶やかさ、いうまでもなく、くどき
の「馴染みもよしみも」で右手を懐手にした肩から袖口への姿の線の美しさがま
ず印象的。つづいてのくどきは煙管と灰神楽と懐紙で持ち切って、最後に孫右衛
門にしなだれかかる艶っぽさはさすがである。しかしただ艶っぽいはかりではな
い。口先とは裏腹に治兵衛を助けたいという二重のハラがよくわかる。
つづいてお庄につれられて上手一ト間へ入るところは、歌右衛門だと向こうを
見て(おさんへの思いである)自分一人死ぬ気の女だったが、雀右衛門だと向こ
うを見ても、格子先の治兵衛一人が気になる女、義理より死より恋の女。ここら
が雀右衛門の歌右衛門とは違うよさである。
歌右衛門といえば、幕切れは泣いているだけの女だったが、雀右衛門だと胸ぐ
らをとられてもジッとうつむいているつらさ、「声を上げ嘆く小春も」で泣いて、
紅の帯揚げを両手に持って大きくきまって泣く具合、まさに牡丹の崩れるような
立派さ。鴈治郎の治兵衛を孫右衛門が抱きとめるあたりといい、歌舞伎座の大舞
台が一挙に絵になる大舞台である。
田之助のお庄が情があってそれらしく今月のこの人大当たり。東蔵と竹三郎の
善六太兵衛、壱太郎の丁稚が芝居がうまく出世芸。これ一幕も「引窓」に劣らぬ
粒揃いである。
以上夜の部の好成績にくらべて、昼の部は見るべきもの、玉三郎の尾上ただ一
つ。
まず序幕竹刀打ちは、お初の芝居を受けている具合、お初を叱るところはいい
が、他はサラサラとして拍子抜け。もっともこれは菊五郎の岩藤に怒りの芝居が
足りないためもある。お初をとめるところでは扇子で下を叩きすぎる。
しかし草履打ちからはグッと持ち直して、蘭奢待の銘木が草履に変わっている
のを見てビックリして箱の上に両手をついて大太鼓になるきまりの形のよさ。ド
ラマがそのまま絵になって、自分の居所へ下がるまでこの前後は五分のスキもな
い。
岩藤の「なんと骨身にこたえたか」で一度ウラになって下手へ下がってしまう
のはどうだろうか。居所で突伏して岩藤と上下になるべきではないか。それから
「おろそかなりし蘭奢待」は今日だけの間違いだろう。
この尾上でいいのは、さらにこのあとの一人舞台から引込み、長局へかけてで
ある。玉三郎一代の傑作。
まず一人舞台になって草履をとり右手にもってジッと見て左足をのばして中腰
になった形のよさ、美しさ、つづいて左肩からうちかけをはずして左手の草履を
右袖で隠して右膝をたててうちかけの裾を流した形。この二度の決まりが絶品で
ある。
引込みも上手の女中たちを見て草履をかくしシャンとなっての引込みがハラが
あっていい。
長局になって花道をスーッと出る具合、草履を見ての思い入れ、全てハラにお
さえながら体全体から香気がたちのぼる。お初と入れかわって「羊の歩み」で振
り返る顔がもう死ぬ女になっているのは前回通りの秀逸さ。
本舞台長局へ入っての立姿まで十二分に堪能させる。お初の意見を聞く間もよ
く、幕切れまで十二分の出来である。
菊五郎初役の岩藤はせりふ廻しに工夫があるが、竹刀打ちでは怒りの表現が足
りず、草履打ちは憎らしさが足りない。いやらしさ、凄味が意外に足りないのは、
この役がニンにないのかも知れない。「同類じゃがや」のウラ見得がないのも物
足りない。
菊之助のお初は、可愛らしさ、愛嬌が薄く、竹刀打ちでは剣豪のごとくに見え、
引込みも地味な行き方でさえない。
長局から烏鳴きになって玉三郎との芝居でようやく亡き祖父梅幸の面影が見え
ていいが、尾上が死んでからの芝居はさすがに持ち切れなかった。奥庭はまた竹
刀打ち同様男っぽくなる。
左団次の剣沢弾正、権十郎の伊達平、新しい薪車の牛島主税。これも新しい新
蔵の中間。「市川新蔵」の名跡は十代目団十郎はこの人と思われたほどの天才役
者のもの、頑張ってほしい。
開幕に、芝雀の傾城、亀治郎の新造、翫雀の太鼓持ちで舞踊「廓三番叟」。三
人とも立派な売りものになっている。
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