2005年1月歌舞伎座夜の部

       三津五郎の「鳴神」

 

 正月の歌舞伎座、都合で夜の部から見た。「鳴神」、「土蜘」、「魚屋宗五郎」

の三本立て。

 三津五郎の鳴神上人が前回浅草公会堂の時とは大いに違って(前回は十五年前

だから当然といえば当然だが)、小柄なガラにもかかわらず歌舞伎座の大舞台に

あふれる大きさ、目の覚める出来栄えである。

 この大きさはどこから来るのか。

 第一に、体のキビキビした運び、一つ一つのキマリがきっぱりしていること。

すなわちその動き、体のキレがいいからである。

 第二に、その口跡のよさ、せりふ廻しのうまさ。言語明晰、せりふが打てば響

くように空間に伝わる。

 第三に、顔が実に立派になった。面長の歌舞伎顔の立派さは、芸の内実が充実

した証拠である。

 以上三点をもって、歌舞伎座の空間いっぱいに味がひろがることになった。

 後半、大荒れになってからも、荒事の骨法、魅力がよくわかる。

 花道の飛び六法も太鼓に合わせて手を振ったりせずに、空中にパッパッと手が

散って空間に力が放射される。見事な飛び六法のお手本。油ののり盛り、働き盛

り、今が満開の芸である。この気力体力ともに充実している今こそ「車引」の梅

王丸が見たいと思った。

 時蔵の絶間姫は、夫との別れの物語に色気がうすく、「アイタ・・」と癪をおこ

す時にあきらかにウソと分かるやり方。これで客席がどよめくのはいかにも現代風

だが、本当は客席ぐるみだます色気がほしいことも事実である。盃ごとはカカア天

下。世帯じみる。男を無理から尻に敷くのではなく、自然に男の方が焦れ込んで女

のいいなりになるという可愛さでありたい。

 秀調、桂三の白雲黒雲。

 次が「土蜘」。

 吉右衛門の僧智籌は、花道へ出たところの凄味、頼光にむかって「さらに効能あ

らざれば」の「あらざれば」で薄く嘲笑うところがうまい。「樹下石上」の踊りの

凄味、芝居味はいいが、踊りそのものは今一つ奥行きがほしい。それに壇上へ上が

って数珠を口にするところが凄味がない。

 後ジテは大立派。カーッと目を向く顔がまことに錦絵でタップリ堪能させる。

 頼光は芝翫、胡蝶は福助。福助は舞の足の運びに妙な癖があるのが気になる。士

卆は歌六、歌昇、高麗蔵、榊が吉之丞、段四郎の保昌。段四郎のせりふが実に堂々

と他を圧している。

 さて、問題は、幸四郎初挑戦の「魚屋宗五郎」。

 御承知の通り、黙阿弥の台本は、全て七五調で書かれていて、ここはこう、あそ

こはこうという細かいツボがあり、自明の法則がある。たとえば、かりに「実に涙

が零れるわえ」というせりふがあったとする。これを目一杯に唄って、肚に持った

悲哀の感情を滲ませて、言外に感情を伝えるのが黙阿弥のやり方である。それをナ

マの感情を出して声を震わせたりするのは黙阿弥ではない。それが黙阿弥の戯曲の

前提であって、それを無視すればただの時代劇になり、愚にもつかぬものになりか

ねない。

 私は新演出あながち悪いとはいわない。現に六代目菊五郎は、五代目の演出とも

台本とも違う舞台をつくった。しかしその時、大事なことは、六代目といえども、

父五代目や黙阿弥の前提としていた歌舞伎の芸と前提にしていたことである。それ

を受けついだ松緑、富十郎、菊五郎、勘九郎、三津五郎然り。そこが黙阿弥の戯曲

とシェイクスピアの戯曲との違いである。むろん黙阿弥の戯曲を現代劇風に上演す

ることもできるだろう。南北だって現代劇俳優がやっているのだから。しかしそう

なれば歌舞伎ではなくなる。ことに南北と違って黙阿弥はそういう場合成功率が低

いだろう。

 ところが幸四郎は、意識してか(しないということはないだろう)、この法則、

このツボをはずして済し崩しにしている。よくいえば自分の工夫、悪くいえば仕勝

手。ほとんどなんの方針もなく、場当たりで役を作っている。その結果、山本周五

郎の芝居でも見ているような、座りの悪さを私は感じる。しかも皮肉なことに周り

はみんな歌舞伎である。これならばいっそ、新作に書き直すべきではないか。私は

目の前で、黙阿弥がつくり、二代の菊五郎とその系譜のつくった神話が崩れていく

のを見て、なんともいえない気持ちになった。なんでもありの世の中、これでもい

いというならば何をかいわんやである。

 時蔵のおはま、芦燕の太兵衛、高麗蔵のおなぎ、段四郎の浦戸十左衛門、鉄之助

の菊茶屋女房、周囲はみんないい。ただ染五郎の三吉だけは感情過多。声を震わせ

る方である。それに宗之助の菊茶屋の娘も別な意味でせりふが破調で芝居のトーン

をこわしている。友右衛門の磯辺主計介、錦吾の典蔵

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