「女暫」と「芋洗い」
国立劇場の初芝居は、桜田治助の「御ひいき勧進帳」。序幕が石清水八幡で
「女暫」、二幕目が清元「色手綱恋の関札」、大詰が安宅の関。
しかしこの三幕だけで「御ひいき勧進帳」を桜田治助の名作といわれても困る。
肝腎の二番目藤原秀衡館がカットされている上に、「女暫」も「安宅の関」もと
もに普通の「女暫」や十八番の「勧進帳」にどんどん近づいているからである。
「御ひいき勧進帳」の方が古いという、その原点へ戻る意識が欠けているためで
ある。
幕間が三十分二回もあって三時間四十五分。幕間を縮めて二幕目をカットして
も、秀衡館を復活する位の新しい試みがあってもよかった。秀衡館こそ治助が真
価を発揮したところだからである。
さて、四十五年ぶりという雀右衛門の「女暫」は、揚幕の「しばらく」は男っ
ぽい声、花道の途中で一度きまって、急に女らしくなって七三へ行くという行き
方。つらねから東蔵の鯰坊主、魁春の女鯰と引っ立ての二膳込みを断るあたりの
大きさ、素顔と役とを使い分ける愛嬌、ともに立派な「女暫」だが、最近仕慣れ
ぬ役のためか、段取りのあがきが悪く、照明のせいか、歌舞伎座で見るいつもの
雀右衛門の美しさがない。
本舞台へ来てからも、歌右衛門がうならせたかどかどの見得もアッというほど
のことがない。わずかに奴の首を大太刀で払って下手向きに刀をかまえて左手を
そえた見得が異彩を放つのみ。幕外もキッパリきまるところと恥ずかしいという
ところと、客席への辞儀が段取りがはっきりせずゴタゴタしている。初日が開い
てまだ三日目。日がたてば整理されるだろう。
東蔵の鯰坊主が、声の調子といい、芝居の突ッ込みといい、この幕一番の出来。
彦三郎のウケはせりふが怪しい。魁春の女鯰、信二郎の鷲尾三郎は平凡。友右衛
門、寿猿、亀寿、歌江の太刀下は一通り。こうなるとさすがに万次郎の岩手姫が
スケールが大きく目立つ。次に目立つのは橘太郎の中ウケ。しかし中ウケが一人
一人出るのは間が伸びる。
幕外に富十郎が舞台番で出ると芝居が活気づく。雀右衛門が大太刀を渡そうと
するのを「どうなさろうというんです」。暫を口拍子でやってみせて気をかえて
「御存知じゃあありませんか」というイキ。客席がドッとどよめく。当り前だが、
雀右衛門富十郎両雄顔合せの、ここが一番面白い。
二幕目の「色手綱」は退屈。梅玉の喜三太、魁春の忍の前、芝雀の義経、信二
郎の鷲尾三郎いづれも平凡。梅玉がよく富十郎のイキを写してはいるが、曲も踊
りも大して面白くなく復活のときから退屈だった一幕。これで五十分は観客大難
儀である。ついでにいえば、信二郎の鷲尾が、序幕は前髪、ここは赤ッ面のすり
はがし、大詰は白塗りと、これでは通し役とは見えにくい。
大詰、安宅の関は、さすがに富十郎の弁慶が、とかく間抜けに見えがちな、大
毬栗の坊主頭、計略とはいいながらギャアギャア泣く弁慶のユーモラスな側面を
ムリなく自然に見せる。その鷹揚な味わい、その荒事のイキのよさ、ともすれば
「勧進帳」になり勝ちなところを唯一の欠点として、当代の弁慶である。もっと
も折角のこの役、もう一歩安永の歌舞伎らしい洒落っ気と味わいを強調してもよ
かった。
梅玉の富樫は、このあとの富樫館が出ないために正体がもう一つわかりにくい
が、二幕目の喜三太とは大違いの出来。いい富樫である。
彦三郎の斎藤次はニンがいいのに憎たらしさがたりず、芝雀の義経は前の幕は
ムリだがこの場で持ち直した。亀三郎、亀寿のせりふがいい。
さて、この一幕の大当りは、松太郎の運藤太と橘太郎の鈍藤太。この二人がい
いので、後半に桜田治助らしさが多少漂う。
芋洗いは、居処変わりで松原の真中の天水桶になるが、ショウ・アップしたい
気持ちはわかるが、なんのための天水桶かわからず芝居も間延びする。原作通り、
関所のまま天水桶が中央へ来た方が、簡潔かつ味がある、富十郎の芸をもってす
れば、その方が印象深かったろう。ついでにいえば地方が長唄なのはおかしい。
原作では大薩摩である。
以上ひっくるめて、「めでたさも中ぐらいなりおらが春」。
戻る