仁左衛門の実盛
昼夜を通して、二十一年ぶりの仁左衛門の「実盛物語」が第一の出来である。
さわやかさ、スケールの大きさ、口跡のよさ、立派な実盛である。
基本は菊五郎型だが随所に自分流の工夫を加える。たとえば花道の出は、最初
は東向き、「瀬尾殿まぁづ」で体を開き、本舞台へ来て家のなかへ入っても終始
障子屋体に目を付けている具合、「こりゃこりゃこりゃ九郎助とやら悪い合点」
(この一節をいっぱいに張って一息で聞かせて堪能させる)から瀬尾に気を配り
ながら、九郎助を説得する芝居。御産と聞いて屋体に気をかける具合など、要す
るに寸分の油断のなさ、気配りが実盛の役をうきぼりにする。この地芸のよさが
仁左衛門のこの役第一の特徴であり、この人の愛嬌である。
物語になる。すでにふれた通り基本は菊五郎型ながら、扇をヒラヒラ動かす味
わい、まことに手が込んでいて、ギリギリ踊り一歩手前というところまで派手に
大きく動いて面白い。白扇のあざやかな動きが今でも目先にチラチラする。
それでいて、葵御前と九郎助一家に語って聞かせるという性根が行き届いてい
る。それにはまず物語の前に、九郎助一家が騒ぎたてるのに不審がり、さてはわ
が手に斬った女はこの家の娘だったかという当惑があって、それを言いほどくと
いう仕込みがはっきりしているからである。そのために眼前、前段の御座船の光
景が目の当り。さながら仕方噺の如き迫力をもって輝いている。「流れ寄ったか
不敏やな」の一段足を落して扇をかざした大見得まで。まことに面白かった。
以上二点。気配りと目一杯に派手な臨場感の二点がこの人の実盛の特徴であり、
独自のよさである。むろん「御男子誕生」の九郎助との芝居で、「御男子」と大
きくいって九郎助にたしなめられ、それでも「御男子御男子」といって正面にな
って「ハハァかたじけない」になるあたり、実盛が軽率すぎるという批判がある
かも知れないが、ここがこの人の実盛だと私は思う。愛嬌を売れるだけ売って、
一方ではキッとした性根を見せるところ、この二面性を無理なく溶かし込んだと
ころが独特の面白さだからである。
左団次の瀬尾、田之助の小万、孝太郎の葵御前、芦燕鉄之助の九郎助夫婦、男
寅の太郎吉まで、まわりも揃って今月一番の見ものである。
この「実盛物語」をはさんで、前が幸四郎雀右衛門の「井伊大老」、後が菊五
郎時蔵の「直侍」。見る前はなんとなく食欲をそそられぬ狂言立てに思えたが、
見るとそれぞれ粒揃いである。
幸四郎の井伊直弼は、こういう役になればこの人のもの。旧友水無部六臣の願
い、若者の減刑を長野主勝に迫るが、聞き入れぬ主膳を見て暗然と立ちつくす辺
り、絶望感がひろがってうまい。幕切れに鶴姫を失う悲しみもいい。大詰の仙英
禅師の「一期一会」と書いた笠をもって、禅師はもう帰らぬだろうといってズケ
リと「呑もう」という辺り、さり気なくやってうまいものである。
雀右衛門のお静の方は、直弼に仏門に入るのかと聞かれて「それはやめました」
とケロリという辺り、可愛い女、禅師が「女そのもの」といった姿を活写してい
い。
段四郎の禅師が、これまで得体の知れぬ禅師が多かったなかでは口跡もはっき
りと力強く断然傑作。持ち味だけでなく芝居で、この人の眼力、悟り、運命観を
描いている。
梅玉の長野主膳、東蔵の六臣、芝雀の昌子、錦吾の六之丞、幸右衛門の側役、
歌江の雲の井と揃っている。
「直侍」は、前回はくすんで見えた菊五郎の直次郎が、今回は若々しく、しか
もリアルで(たとえば丑松とすれ違うところの懐中の匕首に手をかける殺気)い
い。
時蔵の三千歳は前半花魁というよりも娘娘しているのが難点。この人の持ち味
で仕方がないか。田之助の丈賀は、前回は違和感があったが今度は、この人独自
のものをつくって今までの丈賀とは違う人物像を描いている。
松助の丑松、権一扇緑のそばや夫婦、菊十郎橘太郎の手先と手揃い。
この夜の部三本に比べると昼の部は面白くない。
梅玉歌昇の「猩々」、幸四郎芝翫の「熊谷陣屋」、仁左衛門菊五郎の「忍ぶの
惣太」。三本中一番の出来は、わずか二十分ばかりの松羽目舞踊「猩々」である。
梅玉の猩々の品格が立派である。亡き歌右衛門の、うまくなるよりも歌舞伎座
の大舞台に立つ役者の品格を持てという遺訓はこれかと思わせる。芸はこの品が
第一である。いくらうまくとも品格がなければ一流とはいえない。技巧の手を尽
くすことも大事だが、品も大事。
もともとこの踊りは八代目三津五郎の初演以来だれでも薄気味の悪い笑いをう
かべる。海中に住む化け物。能の「猩々」の面にうかぶあのなんともいえぬ笑い
を人間の表情に写したところが八代目のミソだったのだろうが、面と人間の顔で
はわけが違う。そこが薄気味悪い。そこで梅玉は一切そういうことをしない。シ
ンから童子風に神妙に踊る。それが上品さのもとである。
対する歌昇の酒売りは、ウデをつくして踊りのうまさを見せる。この対照が面
白い。
「陣屋」は、夜の「井伊大老」とともに白鸚二十三回忌追善狂言、当代幸四郎
にとっても幸四郎襲名披露の記念すべき狂言、歌右衛門の相模、松緑の義経、勘
三郎の弥陀六を向うへ廻しての大舞台、散々しごかれたはずであるが、今度の熊
谷は大分自己流が入ってくずれている。
まず花道の出。例によって数珠を刀にあてるチャリンがよくないが、問題はそ
の先である。数珠を袖に入れてグッと前にかかる。そこで「討って無常を悟」っ
た感情がモロに出る。この感情だけのことをいえば実にうまい。しかしここでこ
う感情を出しては、義太夫狂言の熊谷にはならない。現代の人間である。感情過
多。その上もっとも慎むべきは底割りである。ここらが幸四郎の古典解釈の危う
さであり、表現の方向違いである。
むろん古典といえども人間感情の表出は大事であるが、あくまでそれは様式的
であり、ハラ芸にならなければならない。それをこうするといかにうまくとも表
現として浅薄になる。
本舞台へ来る。前回は木戸の外で草履をぬいだので驚いたが、今回も敷居をこ
えたところでぬぐ。これは当然敷居をこえて後向きに軍次の前でぬぐのが作法だ
ろう。歌舞伎の原則であり、この原則が守られない所に幸四郎の古典の不安があ
る。
それに、この熊谷は泣きすぎる。「妻の相模を尻目にかけ」で袴の上前をポンと
はたく前にもう泣く。なんにも知らぬ女房の顔を見て倅を殺してしまった父親が
思わず涙ぐむということだろうが、これも現代劇であり、感情過多、底割りであ
る。底割りといえば、敦盛の首討って藤の方ではなく相模の顔を見るのもそうで
ある。
ことに相模との芝居は、相模の芝翫のリアルさと相まって、さながらテレビの
ホーム・ドラマを見る如く、「熊谷陣屋」という大古典の芝居ではない。
ここをふくめて前半上半身がゆれることといい、とかく脱線が多い。
やっと本道に出るのは、髪を剃ってからである。そこらの渋味をみとめるべき
か。新工夫もいいが、幸四郎にとって大事な古典、規範をハッキリ守った上での
現代性が望ましい。
芝翫の相模は、襖が開いたところ、まことに堂々たる風格だが、右足で敷居を
またいで向うを見るのは反対ではないだろうか。左足で出て体をねじって向うを
見るから味が出る。右足で出て向うを見れば、それはリアルになるだけ。思い入
れの深さにくらべて、体の動きがバランスを崩す。大事な第一歩のはずである。
いい相模だけに、このリアルさが惜しい。
時蔵の藤の方がよく、段四郎の弥陀六は、その口跡、その強さ、立派に熊谷に
拮抗する「男同士」になっているのはいいが、長ぜりふが味わいに乏しい。「お
前方の邪魔になる石ごっぱ」といったが本文通り「こつぱ」でいい。第一「石ご
っぱ」とはなにか。石屋だけに石屑か。
梅玉の義経は出たところが衣装の具合か、肩が上がって貧相に見えるのは困る
が、することは正に御大将の本役。錦吾の梶原がよく、高麗蔵の軍次は、熊谷に
早く行けといわれて立つ時、熊谷でなく相模の方に一礼しているように見えるの
は、形がわるいからだ。
「忍ぶの惣太」は、仁左衛門の惣太が梅若殺しの間はともかくも、内の場から
切腹に至るまで、辛抱役の味が足りない。初演はいうまでもなく四代目小団次。
「私はこの役を得意にした四代目歌右衛門のように立派でも、いい男でもないか
ら」といって黙阿弥に散々書き直させた役。仁左衛門ではいい男すぎるのだろう。
歯ごたえがない。
菊五郎の花子は一代の当り芸だが、さすがに女の間はともかくも後半若衆の前
髪になると、昔のような不思議な感覚がない。
段四郎の葛飾十右衛門、左団次の丑市、時蔵のお梶ともに発揮せず、団蔵の運
助に至っては表面的な芝居で、現実味に欠ける。
退屈な「桜餅」である。
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