2004年10月国立劇場

           上方版「沼津」

 

 「伊賀越道中双六」の半通しである。すなわち序幕が、和田屋敷、饅頭娘、奉

書試合の三場。二幕目が沼津棒鼻から千本松原まで。大詰が敵討である。

 なかでは断然二幕目の「沼津」が面白い。鴈冶郎の十兵衛に、我当の平作、秀

太郎のお米と上方役者三人を揃えた上方版の「沼津」で、いつもの東京風の「沼

津」とは一味も二味も違うからである。

 まず鴈冶郎の十兵衛が、愛嬌たっぷりで、その色気、その柔らかさの上に、侍

はだしの男の性根を見せていい。ことに今まで東京風の役者に付き合ってきた十

兵衛と違って目一杯上方風の型なのが面白い。

 たとえば平作の内になって、お米の出す茶を一杯飲んでのまずいという思い入

れ、そこへ荷持ちの安兵衛が来るので、このうちのお茶はうまいから飲めといっ

てすすめ、安兵衛が一口飲んで閉口するのにかぶせて、平作にこの男は茶好きだ

からと、そそのかす具合。また我当の平作がそれを本当だと思って、立ち身で土

瓶をもってすすめる具合。ともに東京風にはない遊びの滑稽さである。こういう

細部を丁寧にやる愛嬌が鴈冶郎のよさであり、今度の上方版「沼津」の面白さで

ある。

 これで安兵衛の寿治郎がもっと突込んだ芝居をしてくれれば芝居が盛り上がっ

たに残念である。

 鴈冶郎のうまいところを二つ。

 一つは、平作親娘が蒲団を敷く間、二重の一段下がった縁側の上手へ、煙草盆

と合羽をもって所在なげに立ったところ。暮れ方の気配に旅愁を感じさせると同

時に、一度はお米に断られてもあきらめかねる色気。これが上方の十兵衛の面白

さでうまい。一度断られたらさっさと立てばいいのに思われかねないところを、

微塵もそう思わせない色気である。

 もう一つは、さては平作は親、あの仏壇の位牌こそ母と思って、思わず仏壇の

方へ寄ろうとしてハッと気を変えるところ。東京風の、たとえばその代表である

当代吉右衛門の十兵衛がすべて肚と思い入れだけでうまく芝居をするところを、

あざとさにならぬきわどい一線まで形で見せるところが面白い。

 かわっているのは、有名な「人間万事芭蕉葉の」を東京風の木戸の外で立身で

いうのではなく、木戸の内で座ってお米にいうことである。東京風が派手で様式

的なのに対して、こちらはリアルで情に富む。

 我当の平作は、東京には猿翁、勘三郎、富十郎と、どちらかというと肥満体の

平作が多く、その出からして地を這う感じなのとは違って、痩せぎすの老人を写

して父十三代目そっくり。「しんどがりになるこんにゃくの」の竹本の三味線に

つかぬようでつく足取りのうまさは十三代目に及ばぬものの、義太夫狂言らしい

コクのあるせりふ廻しがよく、千本松原まで意外の上出来で、鴈冶郎に十分拮抗

している。

 上方といっても、延若型の木枕につまずいて傷の痛みを思い出し、さてはお米

は志津馬のために印籠を盗んだのかという型とは違って、十兵衛の印籠がないと

いうのを聞いて、ハッと気づくのも、本文の足取りを大事にした十三代目の工夫

でいい。千本松原になっても、この足取りがいい。芝居はこのたたみ込む運びの

緊迫感が大事である。

 秀太郎のお米は、印籠を盗もうとする件りで一度木戸の外へ出て、立ち身で懐

ろ手をして下手向きになるところがすぐれている。こうすると芝居が立体的にな

るばかりでなく、お米の心情がよく出る。しかも印籠を盗むために内へ戻って二

重下の縁側に手をついてかるくきまった姿が印象的だった。

 くどきも「わが身の瀬川に」と下手向きになって懐ろ手をするところに独特の

上方風のこってりとして、しかもいわば泥水に染まった女の卑近な色気が出て面

白い。竹本の「心ぞ」で両手で体を抱くポーズも独特であった。

 この三人が揃って上方色を十分に出したところが今度の「沼津」の面白さであ

る。

 それにくらべると序幕は、文楽で見るほど面白くない。

 第一場の和田屋敷は、竹三郎の和田行家が本来ニンにない役をよくこなしてい

るほかは、信二郎の股五郎も悪がきかず、吉弥の柴垣はいくら行家の後妻で、幼

いおのちの母としても若作りすぎて、行家と釣り合いがとれず、筋を通したとい

うだけ。

 第二場「饅頭娘」は、鴈冶郎の唐木政右衛門が、花道へ生酔いで出たところは

立派な政右衛門だが、真相がわかってガラリとかわるあたりがもう一つ物足りな

い。

 それに周囲の役がよくない。まず魁春のお谷は、動きに工夫が足りない。たと

えば夫と五右衛門の対話を下手障子屋体のなかで座って聞くところなど、魁春は

顔を上げているが、性根からいってうつむいて必死で聞くべきだろう。お谷はそ

ういう辛抱役であり、さればこそ次の「岡崎」へとつながるのだ。

 彦三郎の五右衛門もよくない。政右衛門との芝居の間座ったきりで動きが全く

ないのは、これも工夫が足りない。先人の型は知らず、本文を読めば、この老人

の立居がうかぶはずだし、そこを立体化してこそ芝居が盛り上がる。吉弥の柴垣、

鴈之助の乳母お蔵と全て人形の如く心持ちが足らず、芝居が足りない。

 この周囲で、さすが半二苦心の一段もあえなく討死である。

 「奉書試合」は、翫雀の大内記が体当たりであるが、親子の顔立ち、芸風がど

こか似ているために、ここも盛り上がらない。

 こうなれば、珍しい序幕が「沼津」の面白さに及ばず。何十年ぶりという機会

が生きなかったのは残念である。これでまた「饅頭娘」「奉書試合」が当分オク

ラになるのだろうか。

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