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『やす かく 闘えり 第一部 〜日々の恐怖〜』

たま日和を読んでくださっている方はご存じだと思うが,僕は病だった。
(病気と呼べるものかどうかはわからないが・・・)
しかしながら,医者からの「全快宣言」を受け,今は喜びにひたっている。
ようやく全てのことを語ろうという気になった。
語りは,きっと長くなるはずだ。覚悟してくだされ。

−二十歳 序章−
大学1,2年の頃の僕は「テニス大学」に通っていたといっても過言ではない。
そのため,生活はすべてテニス中心に回っていた。
夜は夜勤で,一晩中お菓子工場。(「小枝」の作り方,チョコレートの秘密等教えまっせ!)
昼間は講義でちょっと(ほとんど?)睡眠。
講義が終わったらtennis,テニス,てにす。
春夏秋冬関係なしに,だいたいこんな生活をしていた。

こんな生活をしているヤツが健康だと言い切れるわけはない。

−二十歳 誕生−
ある冬の朝,「朝のお勤め」(お通じ)後の紙に血らしきものが付着した。
不安で顔からは血の気が引いた。
でも僕は切り替えが早い。「気にしてもしょうがない。」医者に行くのもめんどくさいので放置した。
それ以来,生活が乱れた,体調が悪い,といった場合には下血するようになった。

−入社 成長−
放置した状態のまま,僕はいつもお尻を気にしながらの生活を続けた。
血のような液が外にしみ出ていないか?お勤めしたくなったらどうしよう?といった心配だ。
(僕はお腹が弱い。過敏性腸症候群というらしい。
参考URL:http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/4817/)

お尻の因子は確実に成長を遂げているようであった。この頃では,お尻の外に出てくることもある。
時間が建てば引っ込むのであるが,こいつが外に出ている間は血とも液とも区別がつかない汁を出す。
落ちつかない。お勤めの回数も増えるようだ。

テニスのショートパンツからパンツが見えるのがいやだったため,
ずっとブリーフをはき続けていたが,一念発起してトランクスに替えた。
テニスのファッションも白いピチピチパンツスタイルは古くなり,だらだらした恰好が主流になったためだ。
テニスファッションの転換も一つの原因ではあるが,
いちばんの原因は「汚れたパンツ」を親に悟られたくない」という気持ちからだ。

入社3年目,親との同居をやめ,僕は独り暮らしすることになった。(パンツ見せたくないからじゃないよ)
とある晩から,まりちんが住み着くようになった。(唐突でしょ)
汚れ物を出すのが恥ずかしかった。でも彼女はあまり気にしていない様子だった。
それはとても嬉しかった。(それが原因で「さようなら」なんて悲しすぎるぢゃない?)
とにかく,下血しても彼女ができたことはよかったとすべきだ。

−結婚 変化−
危険因子がお尻の外に出る→自然に引っ込むのを待つ という状態を繰り返し,かなりの歳月が経った。

僕とまりちんは一年の同居期間を経て,結婚することになった。
結婚式では白いタキシードを着なくてはいけない。「不安だ。。。」
服を汚すことなく,終了した。「よかった。。。」

新婚旅行に行った先で,変化があった。
行く先々ではスケジュールが詰まっている。お勤めの時間に「巻き(急げ〜ってこと)」が入る場合もある。
「あー下血だ。どうしよう。。。このまま外出するか?それとも勝負するか!」
お尻の穴から外に出ている危険因子を紙で強く押してみると・・・きれいに中に収まった。
「お!なぁんだ,こうやって付き合えばいいんだ。」
それからの僕はパンツや服を汚す不安から開放された。
今までは着たくても着れなかったグレンチェックのスーツも買った。

−多忙 発病−
ときどきの下血はあったものの,僕は危険因子とうまく付き合うことができていた。
とにかく押し込めてしまえば,普通通りの生活が送れるわけだから。

入社7年目,3年目の初冬。
当時の僕は通勤時間1時間40分の幕張に通っていた。
仕事が忙しかった。23時に会社を出ると,帰宅は翌日の1時となってしまう。
翌朝も7時前には家を出なくてはいけない。
そんな不健康な生活をしているある日,事件は起こった。
「か,彼が引っ込まない・・・」努力をしようとすればするほど,抵抗をする彼。
痛さに歩けなくなり,3日間会社を休んだ。
僕も観念して,とうとう肛門科へと脚を運んだ。

「彼は一生このまま穴に帰ってくれないのではないか」という不安が僕を襲った。
痛さと不安で,もう恥ずかしいとは言っていられない状況だった。

若い看護婦さんがタオルケットを両手いっぱいに広げている。
「あ,ズボンを下ろせということか。。。」
脚を折り曲げ,横向きになる。
初めて意識を持って,他人にお尻の穴をさらす瞬間。
初めて指が入ってきた瞬間。
頭の中は真っ白になる。
症状の説明を受ける。
「中度の嵌頓(かんとん)痔核です。」俗称「イボ痔」だ。
僕は「痔である」ということを明言されたわけだ。
これまで,僕はこの言葉から遠ざかろうとしていた。
自分はそうだとわかっていても,認めたくはなかった。
でも,これではっきりした。「俺は痔だ〜っ!」
それからの僕はズボンを下ろすことに全然抵抗がなくなった。
これを「慣れ」というのだろう。「ほら,見るなら見ろ〜っ!」といった具合だ。

治療は座薬と,お勤め後の入浴(温めるのが大事)を繰り返すということで様子を見ることになった。
次第に発病前の状態に戻り,三週間ほどで通院を止めてしまった。
また,出ては押し,出ては押しの生活が始まった。
このときの僕は後に訪れる恐怖に気付くわけもなかった。

第二部に続く。


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『やす かく 闘えり 第二部 〜いざ戦場へ〜』

−激務 再発−
1999年10月。僕は人生で一番働いた。 残業時間が210時間となったのだ。
11月に入ると,突然仕事が落ち着いた。
切迫感も緊張感も解けてしまった。そんなある日,彼はやって来た。
ユーザー先にて,お昼のお勤めを終えた後,か,彼が引っ込まない。
僕は慌てた。彼は以前にも増して凶暴になっていた。
引っ込めようと15分ほど努力しただろうか。あせりと痛みで汗だくになった。
汗をふいた。ハンカチを便器に落とした。「な,なんてこった〜!」
そこで,引っ込めることをあきらめた。ハンカチもあきらめた。
(流したわけではないのでご心配なく。。。)
席に戻りそろそろと腰を下ろす。きっとパンツは汚れただろうなと思い,嫌悪感に苛まれる。
一時間後,再度トライして,ようやっと彼は穴の中に帰っていった。

翌日,土曜日は野球の試合だった。
何もなかったかのように彼はおとなしかった。

日曜日の晩,もう寝ようかという頃,突然お勤めしたくなった。
これが不運の始まりだった。
格闘すること30分×3回。とうとう僕は眠るのをあきらめた。
翌日から5日間(一週間ということ)会社を休んだ。

−通院 肥大−
当然,翌日からほぼ2年ぶりの通院を再開した。
痔核はかなりの大きさに成長していた。
前回の時点が中度なら今回は重度一歩手前といったところらしい。
また,核は一つでないことも告げられた。
もう自分では押し込められない。しかし,先生は要領よく押し込んでくださる。
毎日こんなことを繰り返し,一週間が経った。
またまた,座薬と入浴で様子を見ることになった。
だが,以前とは違う決意を僕は持っていた。「完治させる!」

再度,通院するようになって気付いたことがあった。
患者は女性が多いではないか。割合としては男女比4:6といったところか。
しかもヤングな人が多い。制服を来た女子高生までいる。

また,先生はとてもフレンドリーな人であることもわかった。
 先生:「発達したお尻ですね〜。スポーツしてますよね?こういう人はなりやすいんですよ!」
 やす:「は,はい。野球とテニスを・・・」
 先生:「こういうのを”ピッチャーけつ”って言うんですよね。
    「野球選手も結構多いです。競輪選手はかなり多いですね!」
 やす:(わかるけど・・・競輪選手が多いのはちょっと違う理由なんじゃねぇか?)

リビングのような待合室には「おしりノート」という名前の落書き帳が置いてあることも知った。
このノートには,ここを訪れた人たちのさまざまな思いが綴られていた。

ようやく,自分で押し込めるようになった頃,
「手術をしましょう!」という言葉。
「レーザーメスで切って,手術自体は15分程度で終わります。入院の必要はありません。」
「でも大物だからねぇ。。。はっはっは」簡単に言ってくれるじゃねぇか。
術式の説明をしてくれたが,よくわからん。とにかく3か所切るということだ。
とうとう来たか・・・。さまざまな思いが交錯した。

−手術 抹殺−
師走に入り,1999年もあとひと月となった。
「なんとか完治して,みれにあむを迎えたいっ!」そう思った僕はなるべく早い日程を選択した。
1999年12月7日(火)その日となった。
睡眠も浅く,十分とはいえない。前の晩から緊張して,お腹の調子がよくない。
「手術直後に歩けなくなったら大変!」と,心配症の妻は病院に付き添うため休暇を取っていた。

手術は午後からなので,とりあえずゆっくりと用意ができる。
「腸のモノを全部出しておけ!」という意味の,下剤用座薬が出されていた。
これは2個まとめて突っ込んでおくと,30分後には腹が痛くなる仕組みの強烈な薬らしい。
紅茶を飲み終え,気分を落ち着ける。
12時をまわり,座薬を投入。「き,来た〜っ!」30分立たないうちに,猛烈な下腹部の痛み。
こりゃ今までに経験したことのない下剤だ。

手術開始の時間は14時30分からの予定だった。約束10分前に病院に着いた。
僕はいつも手汗をかいているが,よりいっそう手汗が滲み出る。
おしりノートを眺めて,気を紛らわそうとした。
「だいじょぶ,だいじょぶ,切れば治る。」と自分に言い聞かせた。
「○○○○さ〜ん。手術室にお入りください。」
ほんとのほんとにとうとう来るべき時が来た。

「これに着替えてください。」
20代も前半かという若い看護婦さんから,手術着を渡される。
昔,大腸検査をしたときのことを思い出した。あの時はお尻の穴が大きく丸く開いた手術着だったことを。
今回のやつは・・・普通だ。丈が短いだけで水色の薄いローブといったところか。

手術台にうつ伏せになるよう促された。
「点滴をします。」ものごころついて,初めての点滴だ。(幼少のころは病弱だったので・・・)
左手首付近にブスッと針が入る。「あれ?」若い看護婦は針を抜く。
もう一度。またまた「あれ〜?」
「ごめんなさい。手をかえます。」右手でも二度失敗した。
「血管が逃げるんですね〜。」んなこと知るかいっ!もういい加減痛いぞ!
ここでベテラン看護婦の登場。遠慮はない。ブスッ。 「イッ!・・・」すげぇ痛かった。
生まれて初めて献血をしたときもそうだった。もう血管に針を指すのはやめよう。そう思っていたのに。
都合5回めでようやっと点滴準備完了。

うつ伏せの状態から下腹部に枕が入れられた。
手術着を大きくまくられた。
ここからがポイントだ。(なんの?)
お尻のほっぺたを左右にめくられ,その広がった状態を維持するために
ほっぺたとベッドをガムテープで貼りつけ固定する。
穴がよ〜〜く見えるようにほっぺたは引っ張られたままというわけ。
(想像できるかな?)
ここでようやっと先生登場。
次は麻酔だ。
浮いた腰の頂点付近,お尻の割れ目と腰の境目に麻酔を打つ。
あれれれ。あまり痛くない。よかった。
麻酔が効くまでしばらく先生とご歓談。
職業のこと,座り仕事でたいへんなこと,残業が多いこと,趣味のこと,などを話した。

手術はものの15分程で痛みも全くなく終了した。
 看護婦さん:「大物見てみますか?」
 僕:「見ます!」(即答)
 先生:「手術はばっちり成功!いや〜,ほんとに大物だったよ!はっはっは」
銀の皿に乗った彼ら。敵は2匹だった。結構大きい。人指し指の第一間接大くらいか。
血管も浮いていた。それはあたかもボクノフグリのようであった。(わからなくても聞かないでください)
「こいつらが俺様の身体についていたのか・・・血が流れていたときはもっと大きかったに違いない。」
気分はエイリアンのシガニー・ウィーバーだ。
 先生:「持って帰られます?」
 僕 :「い,いいえ。。。」
先生は洒落がきつい。

手術台から剥がされ,点滴の針が付いたまま,リクライニングシートがある小部屋へ連れていかれた。
一人では脚がしびれて歩けなかった。
「お疲れさまでした。ここに座ってゆっくりしてください。」
点滴が落ちきるまで,ここにいなければならない。
僕はしばしまどろんだ。

どれだけの時間がたったのだろう?目が覚めると点滴は全て無くなっていた。
目の前にぶら下がっていたボタンを押し看護婦さんを呼ぶ。点滴の針を外してもらう。
まだふらつくが,立てないことはないということを確認して,着替えた。
腕時計の針は16時15分をさしていた。

先生から今後のことについて話を聞く。
「明日来てください。」
とにかく明日来ればわかります。そんな口ぶりだった。

ふらつきながら手術室を出る。
待合室では妻が本を読んで待っていた。
なんだか久しぶりに会ったような感覚だ。隣にそろそろと座る。
ほどなく僕の前に,品のいいティーカップに入った紅茶と
レースペーパーの敷かれた皿の上に盛られたマドレーヌが運ばれてきた。
僕は前から不思議に思っていた。それはこの待合室でゆったりと紅茶を飲んでいる人がいたことだった。
「俺様だって患者なのに,何で俺には出て来ないんぢゃっ?」そう思っていた。
自分の目の前に出てきた今,わかった。そうか手術後の慰労の意味だったのか,と。
これは手術した者だけが得られる特権だったのだ。
それじゃ,あのきれいなお姉さんも,あの会社員も,あの茶髪の主婦も・・・。
妻に手術の報告をしながら,紅茶を飲む。この待合室で会った人達の顔が思い出された。

会計を済ませ,帰路につく。
「な〜んだ全然痛くないじゃん。こんな簡単なことか!」
そう言いながら,電車の中での僕は解放感で背中から羽が生えているかのようだった。
記念すべき日の切符を取っておこう。僕は定期入れに切符をしまった。(え?きせる?はて・・・?)
解放感ついでに,夕食の買い物をした。あれもこれも・・・と全ての食材がうまそうに見えた。
幸せはここまでだった。

第三部に続く。


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『やす かく 闘えり 第三部 〜再生の日〜』

−術後 激闘−
家に帰りつき,麻酔から3時間が過ぎた頃,ズキズキと痛む。
(ほんとはズキズキなんていう生易しい言葉じゃない。思いつく言葉がない。)
生れてこのかた味わったことのない強烈な痛みだ。骨が折れたときもこんなに痛くなかったはずだ。
夕飯も何を食べたのか覚えていない。
その日の晩は痛みとの格闘で熟睡することができなかった。

翌朝,僕はもっと地獄をみることになる。
僕は毎朝きっちりとお勤めする。
患部を気遣いそろそろと便座に座る。うん○が顔を出そうとした瞬間,とてつもない激痛が僕を襲った。
「こりゃ便秘になる人がいてもおかしくないな。」妙な納得をした。
しかし,腹は痛い,尻も痛い。もうどうすりゃええんじゃ〜っ!
なかばヤケクソ(って変な言葉だと思わない?)になり,脂汗をたらしながらなんとか初うん○を済ませた。
切る前だってこんなに痛くなかった。そう思ったとき後悔の念が頭をよぎった。

毎日毎日,「お勤めをやめてしまいたい。」と引っ込めてしまいながらも,
また「やっぱり頑張ろう。」と繰り返す僕がいた。

お勤めの後は,紙で拭くわけにはいかない。 でも築20年のぼろアパートに洗浄器付きトイレがあるわけがない。
(ウ○シュレットはT○T○さんの商標ね。INA○だとシャワート○レっていう名前なわけさ。これが。)
急いで風呂場へ駆け込む。和式座り(うん○座り)をして患部を洗い流す。
小原庄助さんのように朝から風呂にゆっくりとつかる。(これが痩せた原因。)
清潔一番。温浴二番。

風呂の次は軟膏だ。
一回分の容量のチューブになっている。キャップを外し,先端の管を穴に指す。
指で強くチューブの腹を押す。冷たい感覚が体内に広がる。
ガーゼを当てるのは妻の仕事だ。8センチ四方のガーゼを二重にして紙テープで固定する。
テープがはがれたり,ガーゼがよじれたりするとパンツを汚すので,女性用の座布団をブリーフに張る。
かなり恥ずかしい。よかった妻帯者で。。。独り者だったら買えないよ。
脂汗→風呂→軟膏を10日間繰り返した。

手術の翌日は当然会社に行けなかった。
「日帰りレーザー治療」という売り文句は確かに合っている。
でもそれは翌日会社に行けるということを意味しているわけではない。
手術から3日目,リハビリ出勤をしてみた。痛みでまったく仕事に身が入らない。
午後,会社に僕の姿はなかった。

手術後2週間は,酒も刺激物も絶対ダメと言われていた。
季節は師走。忘年会シーズンだ。
飲みたい〜っ!でもここはぐっと我慢我慢。

手術後12日目。微妙な日数だ。野球部の納会があった。
ボーリング&表彰式という名の飲み会だ。
まだ解禁になっていないが,勝手に良しとする。
久々の運動はこたえた。一年間のMVPに選ばれ,調子よくなって酒も飲んだ。
妻には言えない。(ばればれだっつーの)

最近の手術の技術はすごい。傷口は糸で縫われていたようだが(妻に見させた)
いつの間にか糸は溶けて脱落した。
体液で溶ける糸は内蔵内でしか使わないと思っていたのにお尻にも使うんだ。

手術後2週間が過ぎ,ようやく朝の激痛はなくなってきた。
しかし,血とも体液とも区別がつかない汁がまだガーゼに付着している。
また,会社に通うようになり,僕には大問題があった。
洗浄器付きトイレはフロアに一つしかない。
それが空いていないと下の階へ行ったり,上の階へ行ったり,また戻ってきたり・・・。
緊張やストレスですぐお勤めしたくなる体質の僕はこれを日に2〜3回行う。
一人でガーゼを取り替える術も身につけた。携帯している小袋には替えの座布団も常備だ。

手術後3週間目にして,ようやく酒と刺激物の禁が解けた。
治りが遅かったわけではなく,僕が聞くのを忘れていたからだ。
その日の晩は祝杯がわりに,味噌汁に一味唐がらしをふりかけて飲んだ。

もう,みれにあむを向かえてしまった。
1000年代のうちに完治することはできなかった。
あいかわらず例の汁は出ている。ガーゼについた色を見ると気が滅入る。

術後1カ月が経ち,僕は治りが遅いのではないか?と先生に訴えた。
「順調。順調。」いつもこれだ。。。
気長に待つしかないようだ。とにかく清潔!温浴!
テニスも再開した。4時間連続で頑張ったら腰が痛くなった。

−完治 待望−
2000年1月21日,会社を早退し,腰が曲がったまま病院へ行く。
最近一週間はガーゼがめんどくさいので,座布団だけで生活していた。
ここ2,3日はほんとうに良くなってきたという感じだ。
「今日で終わりにしましょう。」その言葉を聞き,先生の手を取り握手した。
「ありがとうございます。」先生にも看護婦さんにもお礼を言った。
会計の女の子にも「今日で終わりなんです。ありがとうございました。」とお礼を言った。
彼女は「おめでとうございます。お大事に!」と言ってくれた。
「今日から俺様は自由だ!」なぜかそう思った。
20歳以降初めて感じる安堵感だった。

−三十三歳 終章−
僕はまだ33年しか生きていない。
でも,人生の三分の一以上もの歳月を彼と暮らしてしまった。
どうしてもっと早く決断できなかったのだろうと思う。
新しい身体で新居への引越しを迎えられたことは幸せだけど。

今思えば,原因は・・・
 大学の木でできた教室の冷たい固い椅子。
 テニスコートに「べたケツ」で座ること。
 不節制。。。 だったのだと思う。きっとそれ以外にもいろいろな原因はあるだろうけど。
お尻を冷やすのはよくないらしい。
運動直後に座るのはやめよう。(だから野球選手は多いのか?)
最近の「ジベタリアン」(地べたにどこでも座っちゃう連中) と呼ばれる若者の行く末を案じて病まない。。。

−あとがき−
健康管理室(は,お友達。俺,身体弱くて・・・)の先生曰く「痔はある意味で健康な病気だ」と。
そうだと思います。こんなことより大変な病気は世の中にたくさんあります。
「痔は治る!」
だから,今,もし気になっている人がいたら,一刻も早く病院で診てもらってください。
行く前はとてもじゃないけど恥ずかしいです。パンツ下ろしてしまえばなんてことはないです。
「恥ずかしい」この気持ちだけが,痔の治癒を遅らせる原因になっていると思います。
近所に住んでいる方には,名医を紹介します。
ここはすごい病院です。場所は恵比寿です。

辛かったこともたくさん書きましたが,今の僕はほんとうに何の苦もなくお勤めしています。
手術前は最低15分はかかっていましたが,今は3分〜5分くらいで出て来られます。
一時は手術したばっかりに・・・とも思いましたが,最高でも2ヶ月も我慢すれば,完治するのです。
この話を読んで,「よぉ〜し,俺も,私も!」と思ってくれる人がいたら,
告白した甲斐があるというものです。

最後に,
汚れたパンツを見ても驚かなかったり,
食事制限メニューを考えてくれたり,
ガーゼの交換や,
彼の観察や(おいおい・・・),
心の支え役や,
いろいろとありがとう。ほんとうに感謝しています。妻まりちん36歳!

※この話しは全て実話です。

おしゅまい。

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