神社アラカルト

 日本全国には現在でも7万有余社の神社が存在すると云わます。その神社を大別しますと、凡そ3つの流れがあり、
 一は、地縁神的性格を有すると云われている神社で、私たちが生れた地域、若しくは今住居のある地域(市区町村)に関わりのある産土ウブスナ、或る特定の地域を守る鎮守などの神社です。
 二は、規模は小さいのですが、血縁神的性格がはっきりしている神社(同族親族集団の守護神−本来はこの形が氏神神社)です。
 三は、心縁神的性格を有する神社、言葉を代えると崇敬神的性格を有すると云われる神社です。
 7万有余社もある神社の大部分が地縁神的性格を有する神社であると云われており、室町時代以降、血縁神的性格を有する神社の多くが、この地縁神的性格を有する神社に属するようになったようです。
 また、心縁神的性格を有する神社は、一概には云えませんが、歴史的に由緒のある比較的規模の大きな有名神社が多く、地元の人たちだけでなく、全国的な規模で、氏子、崇敬者、信者の多い神社です。出雲大社のような神社がこの分類に入ります。

 私たちは、地元にある神社を産土神社とか産土さんとか呼んでいますが、その神社が自分の先祖と関わりのある氏神であることが分かったら、こんな光栄なことはないでしょう。
 お古いお話で恐縮ですが、江戸城(現在の皇居)を守る鎮守として山王日枝神社があります。今では東京のど真ん中に位置していますが、創建当時、江戸城の南に位置していたこの山王日枝神社に対峙して、北の方角に、現在、神田明神の名で親しまれている神田神社があります。
 その神田神社の「神田」の名称は、その回りが神さまにお供えするための田畑、すなわち神田があったことから、神田と云う地名から付けられたのであろうことは凡そ推測出来ます。
 地名を社名にした神社の数はすこぶる多いため、比較的数の多い神田の姓を持つ人からしますと、神社名と同じ姓でも、それ程、嬉しいことではないかも知れません。


 しかし、ありふれた名字でない自分の姓と同じ名の神社に、旅先ででも偶然出会ったとしたら、どうでしょう。自分の家系との関わりを調べるまではないにしても、その神社に対する興味が少しは沸くかも知れません。その一方で、自分の姓と同じ神社はないだろうかと、そんな好奇心をもって、全国あちこちを旅行するのも面白いかも知れません。探し出すのは大変至難なわざですが、ありふれた名字でない自分の姓と同じ名の神社を捜し当てたら、それだけでも嬉しいと思います。

 ところで、私の知り合いに「山名」と云う姓の男性がいます。彼が呉れた年賀はがきに、「昨年結婚しました」と云う添え書きがあり、神社の前で奥さんと一緒に写した写真が印刷されていました。
 ところが、その写真に写っていた神社は、まぎれもなく、彼の姓と同じ名の山名神社なのです。私は彼に尋ねました。「写っている神社は、あなたの家と関わりがあるのですか?」と、しかし、彼の返事は「関わりありません。」でしたので、大分期待していただけにがっかりしました。でも、良く捜し当てたものだと、若い二人には感心しました。
 偶然とは云え、迎えたばかりの奥さんと一緒に旅行をした時に、自分の姓と同じ名の神社とめぐり合ったのですから、正に幸運です。鳥居に刻まれていたのでしょうか、それとも神社に何がしかの興味を持っていたのでしょうか、彼は山名神社が式内社((延喜式の神名帳に記載されている神社を差して式内社と呼んでいますが、延喜式については、後述します)であることを知らせて呉れました。
 何の手がかりもなければ調べようがありませんが、式内社であることを教えて貰いましたので、延喜式の神名帳〈エンギシキのジンミョウチョウと云っても、原本ではありませんが、当然ですが〉で調べてみました。
 ちなみに、延喜式とは、弘仁式、貞観式と共に三代式と称されている律令制時代の国家法令の施行細則です。延喜5年(西暦905年)に撰上下命〈センジョウゲメイ〉に基づいて着手され、927年(律令制時代崩壊直前の平安時代初期)に20年がかりで完成、撰上下命以来40年もの長い年月を経て施行するに至った神祇一から十までの全50巻から成る日本で実在する神祇(神)に関する最古の国家の法令運用の法規のことを云います。
 その延喜式の神祇九、十の全10巻が神名帳で、これを延喜式の神名帳と呼んでいますが、その延喜式神名帳の神祇 九 神名 上の遠江國山名郡の条に、四座(すべて並小)の一社として、山名神社の名が記載されており、ルビはヤマナノカミノヤシロとありました。
 ところで、前記延喜式神名帳を見て、山名氏の参拝した式内社山名神社は、現在の静岡県森町(袋井市の北)にあることも分かりました。
 山名神社は、別名を「飯田村牛頭天王社」と称し、創建は西暦706年、御祭神は大國主大神の御祖神である須佐之男命スサノオノミコトと牛頭天王ゴズテンノウでした。 そのようなことから、山名神社はスサノオノミコトとゴズテンノウを習合して御祭神としている京都の八坂神社と同じ信仰を持つ神社であることも分かりました。

 山名夫妻のように、旅行先で何気なしに歩いてみると、思いもよらぬ神社と出会ったり、自分の信仰と関わりの深い神社と出会ったりします。
 このホームページをご覧の皆様も可能な限り、遠くまで足を運んで、全国各地の神社に詣でて下さい。そうすれば、きっと素晴らしい発見があるに違いありません。

 ところで、八百萬の神々は様々な信仰のもとに、その大部分が産土さまとして、全国津々浦々の神社にお祀りされていますが、全国には、出雲大社のように、神話や風土記に登場する神社もありますが、例えば前記京都の八坂神社のように、疫病除け等の民俗信仰で、全国に名の知られた神社もあります。
 そこでご参考までに、出雲大社と八坂神社がどのようにして創建されたのかをご紹介してみようかと思います。

 なお、多摩講社のある小金井市のお隣りの武蔵野市の「境」(駅名でいうと武蔵境)というところに、「杵築大社」という名の神社があります。
 松前藩主松平直政が江戸時代初期に建てた神社と言われており、杵築大社と言えば出雲大社と関わりがあるように思うのですが、武蔵野の吉祥七福神の一社として、縁結びの神を祀る神社と言われながら、そこの宮司さんは、出雲大社とは関係がないような口ぶりでした。


出雲大社
 出雲大社は、前記延喜式神名帳の出雲國出雲郡の条に、杵築大社として記されている神社で、今でこそ、大社の名のついた神社は全国各地にありますが、神名帳に
「名神」という名だたる神を祀る「名神大」とある大きな神社の中にあっても、
神社名に「大社」の称号を有している神社は、当時は出雲國の杵築大社だけです。
それ程までに、出雲大社の社格は高いのです。
 古事記や日本書紀によりますと、杵築大社は、「この葦原の中心の国は仰せの通りの天照大神に献上致しましょう。唯、私の住居を天の御子(天皇)が御位にお就きになる時の壮大な御殿のように、大磐石に柱を太く立てて大空に棟木を高く上げてお作り下されば、私は多くあるものの隅に隠れておりましょう。」と云う創建神話をもって紹介されております。それが現在の出雲大社のかつての姿です。
 かつての出雲大社の大きさは、平成13年4月、出雲大社境内で発掘された心の御柱の根柱の太さで、学術的に立証されましたが、神話の上での「杵築大社」があまりにも壮大であり、空前絶後な高層の社として創建を紹介しているが故に、他の神社のような○○神社の名称に留まるのではなく、「雲太」の名に相応しい「大社」の社名を唯一用いたのだと思います。
 なお、古事記や日本書紀の前記「国譲り」の誠を、出雲大社教では大國主大神様の偉業であるとして称え、「和譲」の精神に基づく御仕業として、紹介しております。

八坂神社
 京都祇園にある八坂神社の御祭神は須佐之男命スサノオノミコトですが、その八坂神社には大國主神、少彦名神、事代主神の、人々に福をもたらす三神を御祭神とする大國主社と云う境内摂社が御本殿横にあり、大國主社にほゞ向き合う形で、蛭子社と云う祇園えべっすさんがあります。この御本殿と境内摂社の関係は、大國主神を御本殿にお祀りし、御本殿奥にある素鵞社と云う境内摂社に須佐之男命をお祀りする出雲大社と何故か逆のようです。
 ところで、八坂神社の創建は平城京の時代、平安京への遷都150年前の斎明天皇の2年(西暦656年)と伝えられていて極めて古く、従って、創建の理由は定かではありませんが、八坂神社はスサノオノミコトの御神霊を迎え、創建当時は祇園社とか祇園感神院とか呼ばれ、古くから深い信仰を集めていたようです。
 また、八坂神社は、平安時代以来、神仏習合の形で午頭天王ゴズテンノウをお祀りしており、平安時代の中期、京の都を中心にして疫病が流行り、疫病の流行は御祭神であるスサノオノミコトの祟りであると云うことでその祟りを鎮めるために、スサノオノミコトとゴズテンノウを習合させて、庶民の信仰を深めて行ったとも伝えられております。ゴズテンノウは播磨國風土記逸文に記載された蘇民将来の説話によって、スサノオノミコトのことであるとも云われ、以後、八坂神社は祇園神、無病息災の神として厚い信仰を集め、祇園さんとして親しまれて、現在に至っておりおります。
 そこで、蘇民将来の信仰と午頭天王の信仰について、簡単に触れて置きます。
 昔、蘇民将来ソミンショウライと巨旦将来コタンショウライの兄弟がおり、兄の巨旦将来は富栄えていたにも関わらず南海を旅していたスサノオノミコトの宿を断りました。一方、貧しかった蘇民将来は、貧しいながらもスサノオノミコトに宿を提供して、温かくもてなしたそうです。朝になり、スサノオノミコトは自分の名を明かした上で、「後世に疫病が流行したときは蘇民将来の子孫と云って、茅の輪を腰に付けていれば災いから免れる」と云い残して立ち去ったところ、後に疫病が流行り、巨旦将来の子孫は死に絶えましたが、蘇民将来の子孫は疫病から免れて後々まで繁栄していると云います。この云い伝えが、蘇民将来の信仰として、今日でも残っていて、祇園さんに祈っていればどんな災厄から免れると云います。ですから、祇園祭で授かるちまきにも「蘇民将来子孫也」と記された御守が添えられおり、八坂神社の氏子さんは蘇民将来の子孫として、神の厚いご加護を受けていると云われております。
 一方、午頭天王ゴズテンノウは中国の天刑星の属性を持つすべてを支配する神と云われ、暦の上でも吉方、凶方を司り、疫病が流行るのは疫神のしわざ、この疫神を喰ってしまうのが、午頭天王であると云う根強い信仰が残っていて、陰陽五行思想、陰陽道、それに基づく道教と我が国古来の信仰の神道とが結びついて、午頭天王の信仰が根付いていると説明されています。
 この蘇民将来の信仰と午頭天王の信仰が一体となって、スサノオノミコトのことをゴズテンノウとも云い、御祭神スサノオノミコトの、災いを除き幸福サイワイを得る、ご加護を願う八坂神社の信仰が永く続いているのだと云います。ちなみに八坂神社の八坂は、創建当時の祇園社とか祇園感神院のあった八坂郷の地名から採ったものでしょう。
 
トップページに戻る
@出雲大社多摩講社のご案内
A拝む神々
B出雲大社多摩講社の年中祭事
C出雲大社と大國主大神さま
iD古事記
E大國主大神さまの信仰  出雲大社教のおしえ
F大國主大神さまと産土<うぶすな>さまとのかかわり
G神社にお参りするときの心得 ちょっとしたこと
H平成21年厄年早見表
I絹と神々とのかかわり
J間違っている信仰と日常生活のモラル
L
「神さまを知る本」出版のご案内

 
平成15年3月6日追加公開(平成21年2月7日更新)