武田邦太郎
平成8年、石原莞爾先生の指導された東亜連盟運動の機関紙「東亜連盟」誌の創刊号から最終刊号まで全68冊が17巻の書物として柏書房から復刻、公刊された。解説者は駒澤大学教授、小林英夫氏である。東亜連盟運動は太平洋戦争期に石原先生がその全身をもって歴史に刻まれた事蹟である。それは単なる過去の歴史的事実でなく、混乱を極める現代および近未来における東亜諸国のあり方、ひいて世界のあり方に高き歴史的指標を提示するものと思われる。
ここに特に乞うて掲載していただく小文は、「東亜連盟」誌が復刻、公刊されたとき、私が刊行会代表として第17巻の末尾に付した文章である。いま石原平和思想運動が主として若い世代に引き継がれて新展開を志向するに当たり、石原先生の思想とその歴史的事蹟に対し、特段の理解の深められるよう熱願してやまないものである。

『東亜連盟』誌の復刻、公刊に寄せて
1、『東亜連盟』誌復刻、
『東亜連盟』誌の創刊号(昭和14年10月刊)から最終刊号(20年10月)まで全68冊が復刻、公刊されることになった。『東亜連盟』誌は石原莞爾先生が指導された東亜連盟運動の機関誌である。創刊された昭和14年10月、石原先生は舞鶴要塞司令官であり、先生は表立って運動を指導される立場になかった。先生が運動に打ち込まれたのは、昭和16年3月、第十六師団長(京都)を最後に現役を去り、6月、東亜連盟協会(木村武雄代表)顧問となり、9月、郷里の山形県鶴岡市に帰られてからである。
初期のころ、東亜連盟運動はこの運動の趣旨に賛成する政治家、社会運動家、学者等を主体とする運動であったが、石原先生が直接、運動を指導されるようになってから、運動は東亜連盟思想による国民運動、国民組織運動になった。即ち、中国に対する侵略戦争、朝鮮に対する植民地政策にピリオドを打ち、満州国の植民地化に反対し、民族協和の東亜連盟の結成をめざす内外一途の革新運動として、やがて政治運動に展開すべき性格を内包することとなった。それが『東亜連盟』誌の内容に際立った変化をもたらしている。
東亜連盟結成に関する諸政策が整備され、これを実現する主体となるべき同志組織が整備されたならば、東亜連盟運動は思想運動、国民運動から政治運動へ飛躍、展開することが期されたのである。太平洋戦争末期には、日本国内でも、朝鮮、満州国、中国でも、同志は東亜連盟運動が1日も早く政権獲得に向って前進すべきとする熱願に燃え立っていた。
東亜連盟運動は、日本史上極めて運命的な太平洋戦争期に、石原先生がその全身をもって歴史に刻まれた事蹟であり、先生の生涯においても満州事変、満州建国と並び、或いはそれ以上に重要な意義をもつ歴史的事蹟である。それは過去の事実であるよりも、より多く、今後の東亜諸国のあり方、ひいて世界のあり方に高き歴史的指標を提示しつつある。いま東亜諸国はもちろん、世界の国際政治は空前の激動期、混乱期にあるが、この時期に『東亜連盟』誌全巻が復刻、公刊されることの意義はまことに深甚である。
゙寧柱先輩の助言
復刻の議が起こるや、東亜連盟運動の後を継ぐ、石原莞爾平和思想研究会(渡辺正会長)の運営委員会におはかりしたところ、1人の反対もなく賛成されたが、石原門下の先輩、゙寧柱氏はとくに私を招いて次のような助言を寄せられた。
「『東亜連盟』誌に寄稿された人々は、石原先生はもちろん、多くの人々があの苛烈な軍閥政府の弾圧下に、筆を曲げることなく所信を吐露された。それだけに論者1人1人、それぞれの段階で非妥協的論説を展開された結果、石原先生の経綸に必ずしも完全には一致しない主張も絶無ではない。しかしそのような主張を表明された方がたも、時たつにつれ、究極において石原先生の説かれるところに推服されている。『東亜連盟』誌の復刻は、東亜連盟運動における同志間、指導者間の思想的統一と高まりが運動の進展とともに前進していることを証明するであろう。復刻に当たりそのことを一言しておいてはどうか」
゙先輩自身、あの東亜連盟運動の受難期に、寸毫も節を曲げることなく、二年余の投獄、拷問を経験されたのであった。いま先輩の右の助言に接し、心からな敬意と感謝をささげずにはいられない。゙先輩は石原莞爾平和思想研究会の顧問であり、私もそうである。
2、石原莞爾、生涯の五期
現代歴史学、或いは一般通念においては、石原先生は満州事変、満州建国の首謀者の一人、昭和における大陸侵略の先駆者とされている。しかし石原先生に対する現代歴史学ないし一般通念の評価は、先生の生涯に対する或る時期の、しかも外面だけをとらえた認識にもとづくものである。石原先生の真実は、先生の全生涯にわたる内的生活と公的な行動を、歴史的現実の展開に関連させて考察するとき、始めてわれわれの眼前に浮上するであろう。わたしは石原先生の生涯を、次のような五期に分けて考えることが適当ではないかと思う。
第一期
青年士官のころ―――その中心的時期は歩兵第六十五連隊(会津)期―――からドイツ留学、陸軍大学校教官を経て、関東軍参謀として赴任するまで。すなわち明治42年(1909)頃から昭和3年(1928)10月まで、およそ20年間。先生の生誕は明治22年(1889)1月であるから、20歳頃から39歳までである。
この間に、石原先生は戦争史の法則的研究を通じ、戦争の絶滅、永久平和近しとする総合史観を確立し、一方、先生が神に最も近い存在と確信した兵に、いかにして安心の境地における戦死を可能にさせ得るかという煩悶から、永い思想・信仰の遍歴の末、日蓮教の信仰に到達する。
先生の戦争史研究は、日蓮教の信仰によって不動の目標を与えられた(『戦争史大観の由来記』および『戦争史大観の説明』参照)。また、日蓮聖人の予言により、永久平和の関門として日本を中心に起こるべき最終戦争、或いは最終戦争への準備として不可避の戦争以外では、兵を感激をもって死地につかせることはできないとの信境に達する。後年、先生は主としてこの見地から日中戦争や太平洋戦争の回避に全力を傾注されるのである。第一期は、思想・信仰の基礎が形成された時期である。
第二期
関東軍参謀になってから、歩兵第四連隊長(仙台)、参謀本部作戦課長、同戦争指導課長、同作戦部長を経て、昭和12年(1937)9月、関東軍参謀副長としてふたたび満州へ赴任するまでの約9年間、軍人として全力をあげて活動した時期である。39歳から48歳まで。満州建国以後、国防に関する先生の努力は、ソ連の南下に対して東亜を防衛し、日本、朝鮮、満州国、中国等を主体として、米欧に対する最終戦争に必勝を期する東亜連盟の結成に注がれた。しかるに現実の日本はソ連に対する防衛を忘れ、石原先生を参謀本部から去らせて、中国侵略にひた走る。軍人としての先生の活動盛期は、事実上、この時期に始まり、そして終る。
第三期
関東軍参謀副長に転出してから、舞鶴要塞司令官を経、昭和16年(1941)3月、第十六師団長(京都)を最後に現役を去るまでの約3年半。石原先生の生涯では、おもに東亜連盟運動ないし日蓮教運動に入るための準備期ということができる。48歳から52歳まで。
関東軍参謀副長期には関東軍司令官の満州国内面指導の撤回、満州国の完全独立に力をつくし、京都師団長期には極東ソ連軍に対処するいわゆる「浸透戦法」を開発し、また師団の北満移駐について軍の物心両面にわたる準備に肝胆を砕いた。しかし、このような先生の努力はすべて実を結ばなかった。この時期、現実に意義をもち得たのは、第四期以後に対する準備である。それだけに、精神的活動は白熱的に高揚し、仏教史上に一時期を画する「五五百才二重の信仰」は、多くの評伝に「石原は配所の月を眺める身となった」と記される舞鶴要塞司令官期に啓示されている。東亜連盟運動の最高指導書となった『昭和維新論』『東亜連盟建設要綱』『最終戦争論』『戦争史大観の由来期』『戦争史大観の説明』等もこの時期に出来した。
第四期
京都師団長を退いて以後、昭和21年(1946)1月、東亜連盟運動が占領軍司令部から解散を命じられるまでの約5年間、52歳から57歳まで。信仰者、平和者、組織運動の指導者としての石原先生の実践的活動が最高潮に達し、かつみごとに結実した時期である。運動の目標は『最終戦争論』にもとづく東亜連盟の結成にあったが、当面は日中戦争、太平洋戦争の早期和平と農村の再建を目指した。太平洋戦争末期、全国の地方組織は74を数え、約20万人の同志は政権獲得の近いことを確信しえたのであり、先生の生涯における最も重要な一時期をなしている。
昭和20年(1945)9月12日、山形県新庄市に開催された東亜連盟同志会の集会は、同志約1万人を中心に参加者3万人余の大集会となり、永久平和実現に先駆する新日本建設を説かれる石原先生の所説に傾聴し、来年は富士の裾野に同志100万人が集まろうといわれる先生の呼びかけに熱狂呼応した。
第五期
昭和21年10月、石原先生は山形県遊佐町(当時は高瀬村)西山開拓地に入る。以後24年(1949)8月の死にいたる、57歳から60歳までの約3年。日蓮教信仰に集う青年男女の団体、精華会(大正9年以後、先生が所属していた国柱会の青年部)を指導し、死後のための著述を残し、後進の教育に精魂を傾けた。
敗戦後からこの時期にかけ、石原先生は『最終戦争論』に重大な修正を加え、最終戦争を回避しつつ永久平和を実現すべき世界の立正安国に向かい、日蓮教の旗じるしを高々とかかげられた。死の前年、昭和23年11月24日、門下有志の求めに応じて撮影された16ミリ『立正安国』は、先生の最後の姿を如実に今日まで伝えている。
石原先生が東亜連盟運動に挺身されたのは、先生の生涯の第四期、現実的活動の最も充実した時期であった。先生は『東亜連盟入門』に「大陸の同志数百万」と述べておられる。『東亜連盟』誌を読まれる方がたは、このような歴史理解においてこれを繙かれるよう希望する。
3、東亜連盟運動総括
石原先生は昭和21年1月4日、東亜連盟同志会が占領軍司令部によって解散を命令されたのに抗議する文章「東亜連盟」を草しておられる。それが期せずして先生の「東亜連盟運動総括」になっているので、とくにその全文を紹介して、読者、研究者の参考に供する。権威を恐れぬ先生の公明正大な心事が明らかである。
東亜連盟(昭和21年)
一、東亞連盟ハ満州建国ニ端ヲ発セリ。若シ建国前後ニ於ケル我等ガ心境ノ開陳ヲ許サルルナラバ次ノ如シ。
@満洲事変前、満洲ニ於ケル日支ノ紛争ハ日ニ切迫シ、日本ガ政治的軍事的ニ全面的退却ヲナス以外解決ノ道ナシト判断セラレタリ。
日本ノ退却後、ソ連ノ南下ニ対シ支那ガ独力防衛ノ力ナキハ明白ニシテ、日本ノ退却ハ更ニ新シキ東亜ノ不安ヲ招来セン。
A満洲事変ヲ契機トシテ実力ヲ以テ満洲ヲ支那ヨリ分離スル行動ハ、重大ナル暴挙ナルハ明ナルモ、反面コレニヨリ前項ノ不安ヲ一掃スルト共に、満洲国ノ建設ニ際シ日本ガ深キ反省ノ下ニ本来ノ態度ヲ一変シ、
(1) 満洲ニ於ケル既得ノアラユル権益ヲ満洲国ニ譲与シ、
(2) 各民族ハ満洲国ニ於テ全ク平等ノ待遇ヲ受ケ、民族協和ノ実ヲ挙ゲルニ於テハ、却テ遠カラズ支那ノ理解ヲ得テ多年ニ亘ルオ互ノ不信ヲ一掃シ得ベキヲ信ゼリ。
B民族協和ノ理想ハ在満支那人中ニモ強キ共鳴ヲ以テ迎ヘタル人多カリシモ、彼等ハ日支両国ノ和解ナクシテハ安ジテ建国ニ協力シ難シトセルハ当然ナリ。
依テ日鮮支各民族ノ同志ガ研究協議ノ結果、民族協和ノ理解ヲ押シ進メテ道義ニヨル東亜連盟ヲ結成スベシトノ結論ニ達セリ。コレガタメ支那ガ満洲建国ヲ認ムルナラバ、日本ハ支那ニ対スル凡テノ権益ヲ返還スベキモノトセリ。即チ日本ハ治外法権ノ撤廃、租界の返還等ハ勿論、支那ヨリ完全ニ撤兵シ支那ノ完全ナル独立ニ協力セントスルモノナリ。
東亜連盟ノ思想ハ満洲国協和会ニ採用セラレ、昭和8年3月正式ニ声明セラレタリ。
二、満州事変勃発後一年ナラズシテ関東軍ノ責任者ハ全部転出セシメラレ、満州国ハ右方針ト全ク反対ノ日本独占ノ方向ニ急変シ、以後建国同志ノ努力ニヨリ時ニ改善ノ希望ヲ与ヘタルコトアリシモ、遂ニ、大勢ヲ挽回スル能ハズシテ今次大戦ノ導火線トナレリ。我等ハ全世界ニ向ヒ自己ノ不明ヲ陳謝シ、謹デ全責任ヲ負ハント欲スルモノナリ。
三、満州国内情勢ノ変化ニヨリ、協和会ハ積極的ニ東亜連盟ノ運動ヲ展開スル能ハザリシモ、協和会東京事務所ハ日本内地ニ東亜連盟ノ宣伝ニ努力シ、特ニ支那事変勃発後ハ全力ヲ之ニ傾注セリ。
此運動ガ漸ク世人ノ注目ヲ引クニ至ルヤ、昭和13年12月憲兵ハ不当ニモ満州国大使館内ニアリシ協和会事務所ヲ臨検シ、所員ノ大部ヲ拘引、半ヶ年ニ亘リ之ヲ留置セリ。
四、カクテ日本内地ニ於ケル協和会ノ東亜連盟運動ガ全ク停屯セル結果、昭和14年秋「東亜連盟協会」誕生シ、東亜連盟ノ方針ニ基キ支那事変ノ全面的解決ヲ計ルベキヲ主張セリ。
「協会」ノ創立者ハ代議士木村武雄ナリ。
五、支那事変解決ノ遅延ニ伴ヒ、国民ノ東亜連盟ニ対スル関心高マリ、昭和15年末ニハ相当多数ノ代議士ガ「連盟」指導ノ下ニ支那現地視察ヲ行ハントスルヤ、東條陸相ハ甚シク狼狽シテ之ヲ妨害シ、遂ニ昭和16年1月14日閣議声明ニヨリ暗々裡ニ「東亜連盟」解散ノ意ヲ示セリ。
六、「東亜連盟」ハ右の圧迫ニ屈セザリシガ、政府ハ進デ解散ヲ命ズル勇気ナク、遂ニ「興亜同盟」ナル官製団体ヲ設立シ、「東亜連盟協会」ヲソノ中ニ吸収セント試ミタリ。
「東亜連盟」ハ其ノ試ミニモ屈セザリシガ、遂ニ名称ヲ「東亜連盟同志会ト改メ、之ニ先ダチテ責任者ハ木村武雄ニ代リテ和田勁就任セリ。
七、昭和16年3月予備役ニ入リシ石原ハ、会員ノ要請ヲ斥クル能ハズ、遂ニ「同志会」顧問ヲ受諾シ、要求ニ応ジテ各地ノ講演会、講習会等ニ出講シ其所信ヲ述ベタリ。
八、「同志会」ハ会外より全ク資金的援助ヲ仰ガザル団体ナルタメ、本部ノ組織ハ貧弱ニシテ指導原理ノ発表以外ニ運動ヲ統制スル能力ナク、運動ハ指導原理ニ基キ各支部ノ自主的活動ニ委セリ。
支部内ノ統制ハ中堅会員ノ会議ニヨリ、未ダ支部長ナキ支部多数ヲ占メタリ。本部ノ運動方針ハ各支部代表者ノ会議ニヨリテ決定シ、会長ヲ得ル至ラザリキ。
顧問ハ会ノ運営ニツイテ進デ干与スル職務ニアラズ。
九、政府特ニ軍ノ圧迫強化スルニ従ヒ、「東亜連盟同志会」ハ益々国民大衆ニ日支和解ノ大道ヲ宣伝スルノ要ヲ痛感シテ、逐次運動ハ農村方面ニ展開シツツアリシガ、昭和17年酵素ニヨル肥料生産及ビ食品加工ノ技術ヲトリ入ルルニ及ビ、会員数増加ノ傾向漸ク目醒シキモノアルニ至レリ。
酵素ノ培養ハ未ダ科学的ニアラズ、直感ニヨラザルヲ得ザル結果、技術ハ慎重ナル訓練ト十分ナル監督ヲ必要トシ、普及ニ相当ノ困難アルモ、優秀ナル技術者ノ養成ト厳格ナル酵素元種ノ管理ニヨリ、昭和19年頃ヨリ顕著ナル効果ヲ収メ、会員数ハ急速ニ増加セリ。
十、敗戦後、失心状態ニ陥レル国民ヲ激励シ増産ニ全力ヲ注ギツツアリシ際、昭和21年1月4日解散命令ヲ発セラル。
会員ハ其理由ヲ理解スル能ハズ、政府ニ質問セルモ要領ヲ得ズ、止ムナク直接占領軍ノ司令部ニ陳情セルモ解散理由ノ指示ヲ受クル能ハズ。
抗議書に、とくに酵素を農業および食品加工に利用したことの意義を格段に強調されたのは、今後の人類の生活革新における酵素の重大意義をこの機会に鮮明にされたものとして注目されよう。
4、中央統帥にそむかず
石原先生の生涯につき、一般史家ないし世人の最大の誤解は、先生が満州事変において独断的軍事行動を起こし、いわゆる「陸軍における下剋上」の種子を播いたという問題である。これは東亜連盟運動における国策決定の基本に関係する問題であったから、一言しておかなければならぬ。
石原先生は極東軍事裁判の酒田臨時特別法廷における「宣誓口述書」に次のように述べられた。同「宣誓口述書」の記録には、その部分にとくに「中央総帥にそむかず」という小ミダシがつけられている。
「関東軍司令官本庄将軍は、温厚な人格にかかわらず、つねに大局を判断されて、少壮幕僚の積極的意見についても十分これを傾聴するとともに、閫外の重責を一身に担い、みずから確固たる決意をもって命令を発し、大綱に関し指示を与えられました。関東軍は軍の意見としてしばしば積極的に具申し、中央部と激しい論争をすることもしばしばあったのでありますが、究極において軍の統帥作戦に関し、奉勅命令にそむき、もしくは奉勅指示に違反したことは一回もなかったことを断言致します。
当時、閫外の重任を有する関東軍司令官の行動で、中央統帥部と軍との間に、なんらの連絡がなくして行なわれたことを挙げれば、次の2つのみであります。
その1つは、奉天事件突発にともなう関東軍主力の出動であります。しかしこれは前に申した通り、当時の軍事的形勢からみて、本庄将軍が関東軍司令部条令第3条ならびに平時の作戦準備に基づいてその有する任務権限を発動されたものであります。
もう1つは、10月8日の錦州方面の爆撃であります。これは当時錦州方面を占拠していた東北軍の状況を偵察するために、八八式偵察機6機、押収ボテーキ5機をもって該地域を偵察させましたところ、応射を受けたので、自衛上その軍政権庁舎である交通大学および二八師の兵営ならびに張作相の私邸等に約75発の爆弾を投下したに過ぎません。ところがこの爆弾は7センチ級山砲くらいの大きさでありましたが、完全な投弾装置がなく、手で投げたようなあんばいで、多少弾丸が他に散ったかもしれません。しかしこれを前欧州大戦において独空軍が行なったロンドン爆撃、あるいは今次戦争における米軍『B29』等の日本都市爆撃とか、広島、長崎における原子爆弾投下の惨害に比べたら、ほとんど問題にならないほどであったと確信いたします」
上の文中、「前に申した通り云々」とあるのに幾らか注釈を加えたい。満州事変の発端となった柳條湖の鉄道爆破は、関東軍作戦主任参謀であった石原先生の謀略ということがほとんど定説となっているが、石原先生は強く謀略に反対しておられたのである。当時の先生の日記を見ると、この謀略について関東軍の関係者の間でたびたび論議されたことが窺われるが、石原先生の見解では、軍の人員において装備において圧倒的優位に立つ張学良軍が、劣勢の関東軍に対し、近く大規模な攻撃を仕掛けて来ることは目に見えていた。そこで先生の作戦計画では、張学良軍の攻撃がいつどこで始まっても関東軍は直ちに全軍を瀋陽(当時の奉天)に集中し、敵軍の心臓部を一挙に撃砕すべき計画を立て、あらゆる訓練と準備を完了していた。上文中にも明らかなように、関東軍指令部条令第3条により、日本居留民の生命財産が敵軍の攻撃によって危険にさらされたならば、関東軍司令官は中央統帥部の命令を待つまでもなく、独自に作戦行動を起こすことを許されていたのである。後日になって国の内外から問題にされるような「謀略」など、石原先生としては何ら必要としていなかった。
それでも先生は「自分は反対であったが、板垣(征四郎)や今田(新太郎)がやってしまった」などと決して口にせぬ人であった。
なお、上記「宣誓口述書」は、満州事変当時、石原先生と同じく関東軍参謀部に勤務した片倉衷氏(当時大尉、のち中将)が起草し、石原先生が修正されたものであるが、注意して読めば、片倉氏の案文と石原先生の修正個所とは、文体、文調によって確実に区別されよう。上記の引用文は、明らかに石原先生の文章である。
5、人類史は国家連合時代から世界一体化時代へ
最後に、石原先生が人類に贈られた最大の贈りものとして、人類史が近く世界の一体化、永久平和時代を迎えようとしているとする歴史観を指摘しておきたい。世界はいま各国の核兵器開発競争、地球環境の悪化、食糧・エネルギー問題の急迫等により、人類の運命がいかなる帰着を迎えようとしているかという歴史的課題に直面しているからである。
石原先生は『戦争史大観』の初めに、その歴史観の核心、或いは結論を次のように明示された。
「戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち一般文化の進歩を研究して戦争発達の状態を推断し得べきと共に、戦争進化の大勢を知る時は、人類文化発達の方向を判定するため有力なる根拠を得べし」
「戦争の絶滅は人類共通の理想なり。然れども道義的立場のみよりこれを実現するの至難なることは数千年歴史の証明するところなり。戦争術の徹底せる進歩は絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期はすでに切迫しつつあるを思わしむ」
また、『戦争史大観の説明』には、同じ歴史法則が次のように語られている。
「戦争は人類文明の総合的運用である。戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。武力の発達、すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐拡大してきた。世界の完全なる統一、すなわち戦争の絶滅は戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ」
「人類歴史は政治的統一範囲を逐次拡大して来たのであるが、それは文明の進歩により、主権の所有する武力が完全にその偉力を発揮し得る範囲をもって政治的統一の限度とする。すなわち将来主権者の所有する武力が必要に際し、全世界到るところにある反抗を迅速に潰滅し得るに到ったとき、世界は始めて政治的に統一するものと信ぜられる」
このような歴史観によって「最終戦争論」が生れ、最終戦争に必勝を期す東亜連盟運動が展開し、前記「生涯の五期」の第五期に述べた通り、最終戦争を回避しつつ世界の政治的統一、永久平和を実現すべきことを熱願されるに到った。『最終戦争論』の本質は戦争絶滅論、永久平和論であったのである。
このような戦争の進歩と併行して、政治史の大勢が明らかにされた。『最終戦争論』に載せられた「戦争進化景況一覧表」は、戦争の進化と政治史の大勢との関連を簡明に浮き彫りしている。ルネッサンスの火器使用以後、近代国家の発展が始まり、フランス革命以後、第一次欧州大戦までが国家主義全盛時代、第一次大戦から現代に到るまでが国家連合時代とされる。当時は核兵器が現れていなかったから、最終戦争によって世界の政治的統一、永久平和の扉が開かれることになっている。
現代は疑いもなく国家連合時代であり、一国家が単独で存立することはできぬ。ほとんど唯一の超大国家ともいい得る米国でさえ、北米自由貿易協定(NAFTA)を形成し、アジア太平洋経済協力会議(APEC)に参加せずしては存立し得ない。欧州連合(EU)がいまのところ国家連合形態の先頭に立っている形であり、中東を除けば、世界のほとんどすべての地域が国家連合形態に前進しつつあるといい得よう。
東亜連盟運動は日本(朝鮮は高度の自治を獲得して民族軍隊をもつ)、満洲国、中国を主体とし、(1)政治の独立、(2)経済の一体化、(3)国防の共同の三原則による国家連合をめざした。第4に、汪兆銘氏が東亜連盟中国総会を開いたころ「思想の一元」、或いは「文化の溝通」が加えられたこともある。現在の国家連合では欧州連合を除き、ほとんど「経済の一体化」が圧倒的ウェイトをもっているが、「国防の共同」が武器によらず「戦争放棄」によって厳守され、完成されることを熱願せざるを得ない。なぜなら、人類が核兵器をもって以後、武力による各国の安全、世界の平和は期待できないからである。
それでは永久平和の実現する時期はいつか。『最終戦争論』では、第一次欧州大戦から50年内外で最終戦争の起こり得る時代に入り、以後約20年で「世界統一」とされていた。第一次欧州大戦(1914〜1918年)から50年内外といえば、ケネディの米国とフルシチョフのソ連がキューバ問題で核兵器を持って睨みあったのが、1962年で、開戦になっていれば間違いなく最終戦争であった。第一次欧州大戦から約50年以後である。
ただし『最終戦争論』の年代計算は文明の進歩の加速とその重大関節を示すものであったから、精確な年数を問うことは適当でない。石原先生は永久平和の扉の開く年代を測るのに、戦争学による科学的推算とともに、仏教の予言を信解され、両者はほぼ一致するとされた。戦争学による科学的推算では、永久平和の到来が余りに早いことになるため、その年代計算までは発表を躊躇しておられたが、仏教の予言に対する信解を得られて始めて、『最終戦争論』における永久平和実現の年代計算を発表された。昭和14年3月のことである(『戦争史大観の由来記』参照)。
ともかく現代は永久平和の実現を眼前にした国家連合時代である。世界の現実をみる限り、永久平和の実現など夢のまた夢のように思われるが、もし各国の歩調が「戦争放棄」において一致すれば、戦争に使われている各国の国家予算、科学・技術、或いは各国国民の能力が経済成長、生活環境の改善、食糧・エネルギー問題の解決等に集中され、戦争も貧困もなく、病気や自然災害からさえ解放された地球世界が人類の眼前に姿を現すのではあるまいか。
仏教の予言によれば、この歴史的趨勢が決定的になる時期は今後約20年、2015〜2020年ころとされている。
(1996・5・12)