石原莞爾 恒久平和の使徒
石原莞爾の日譚(中尉時代の日譚)
漢口(ハンカオ)から妻へ(書簡の原本)
ベルリンから妻へ(書簡の原本)
ナポレオン文庫(石原がドイツで収集したもの)

★その他日記の原本は図書館に寄贈してあります。★

石原将軍に仕えていた最後の生き証人によって保管されています。ご関心を持たれた方はご連絡下さい!


 石原莞爾

上の写真は山形県遊佐町にある石原将軍のお墓です。

陸軍中将(1889〜1949)。板垣征四郎とと共に満州事変を計画・実行。中国との戦争に反対して東条英機と対立し役。世界最終戦争論を唱え、東亜連盟同志会(思想団体)を指導した。
    
〜石原莞爾 妻への手紙〜

石原莞爾元中将の約三百五十通近い「私信」が酒田市立図書館に寄贈されている。中国、西ドイツに滞在した大正九年から十三年までの、妻(てい)さんにあてた手紙で異国での生活ぶりが克明に記されている。奥さんにあてた便りだけに、人間・石原莞爾の一面がのぞかれて興味ある。石原研究には、貴重な資料だ。図書館では複写本一部を作成、閲覧に供している。

★寄贈した時に掲載された新聞記事は下記の通りです。★

貴重な資料を寄贈したのは仲條立一さん。仲條さんは、石原が晩年、遊佐町の西山に移り住んだ時に身辺の世話をした人。また、ここに石原の蔵書二千二百冊余りが保存されているが、その中で二十一年に出版された「ナポレオン語録」には所々、文章のわきに赤鉛筆で点線が入れられている。ナポレオンの研究者だった石原がチェックし記憶にとどめた文章の中には次のような部分がある。「第八章戦争 戦争は政務と等しく、主として機知によって定まる」「戦争では精神上の要素と世論とが戦闘の半ばに当たる」「今後三年にして余は世界の主君となる」

石原はその後「国内の不安を除くためには対外進出が必要」と主張。日本の世論の大勢が同調する中で、満州事変では約一万人の兵力で二十倍以上の軍を破ったとされる。石原はのちに、五族協和の理想の国をつくろうとしていた。「簡素生活」「農工一体」「都市解体」をスローガンとし、恒久平和を願った。
いしわらかんじ いしはらかんじ


 石原莞爾を語るならば心しておきたい事         仲條立一

私がもし兄の墓碑銘を作るとすれば、「石原莞爾は大正14年(1925)『最終戦争論』を発表し、昭和24年(1949)に死ぬまでの彼の一切の思想・行動は、この歴史観に基づいていた」と書くだろうとは莞爾の実弟石原六郎(1904-1976)が語り、事実経済往来社刊行の『最終戦争論』(P192)に掲載されてある。

この処、石原莞爾に係わる現代史的視点より見た史実の解明が、多方面の角度からなされているが、この墓碑銘がそれらの疑問のすべてに答えてくれるものと私は思う。1993年1月発行の『日米対決と石原莞爾』の著者マーク・R・ピーティーは、その第11章結びの冒頭にこの言葉を掲げ、「石原の生涯と経歴を一言で最も包括的に説明したものとして、この飾り気のない要約は十分意を尽くしている」と述べている。(P231)。


この著者に対しての評価は、人それぞれであろうが、ピィーティー氏の詳細な研究とその行動力については瞠目すべきものがある。その行動の一端を示すものとして、石原六郎氏の慰霊祭を昭和52年1月16日、協和会・新アジア連盟・地元有志一同が会して行った際、当時仙台市長だった島野武氏の弔辞がある。録音テープより関連ある箇所を読み起こすと、「・・・私が仙台市長に就任した昭和33年当時、仙台のアメリカ文化センターの館長をしていたピィーティーという米人が帰国後、学究に戻って発表した論文が石原莞爾であった。その後彼に会った時、ぜひ莞爾氏の弟六郎氏に会ってみては、とすすめると彼は(もう既に会っていろいろ話しをした)といっておった。・・・」

ピーティーがこの本の中で強調したのは、石原がときに臨んで、如何に大量の味方を作り得たかという事と、反面同調者が去って行ったときに、石原の力は脆くも瓦解し去ったと見ている。満州建国然り以後敗戦に至るまで、そして戦後もその見解は変わってないようだ。この事はいしわらの示した欧米覇道主義的観方そのものであろう。力がすべて、多数が少数に勝る優勝劣敗そのものであると判断する。いずれにしても石原莞爾という巨象は大き過ぎた。軍事学・社会学科学・宗教等いずれの切り口にも鮮血が張っている。世間の学者にとってはまたとない学究の対象であろうが、その本質を見事に描くのは頗る難事だと思う。今後石原莞爾を筆にする方々に、私なりに次のことだけはお伝えしたい。

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(1)石原莞爾は戦争は遠からず無くなるとは言ったが、最終戦争が無くなるという事は亡くなるまで文字にし言葉にしたことすらない。万物は生成発展してやがい死滅する。社会現象である戦争とて例外ではない。発達の極限に達すればやがい死滅するが、人智の及ばない一大決戦の後に戦争は死滅し、争いの無い永久平和が実現する。(最終戦争論に一貫して述べてある。)

(2)石原莞爾は、「私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、この信仰を全国民に伝えたい熱望を持っている。しかし『最終戦争論』が決して宗教的説明を主とするものでないことは、少しく丁寧に読まれた人々には直ちに理解される事と信ずる。この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない。・・・(前記『最終戦争論』P101)と言っている。私が直接伺った言葉としては、「君たちは若いんだから好きなように生きればよい。今ここで宗教の話をしてもわかるまい。君たちが仏様の予言と、予言された人日蓮聖人の霊さえ信ずれば、君たちが地獄の行いがあったとしても皆救い上げられるんだ。仏の慈悲とは広大無辺なのだから・・・難しい経文等必要ありません」

(3)昭和23年11月24日、西山の自宅で16ミリトーキーフィルムに収められた和田、木村武雄両氏との話の中で、「それがためには在来の西洋文明のような構想ではいけない。われわれは、ちょうどその逆に、都市解体・農工一体・簡素生活の方向にいかなければならないと主張しているのであります。言い替えれば、われわれの革命というものは完全なるわれわれの生活態度の革命まで行かなければならない、とこう思う。繰り返して言えば、われわれの革命は、われわれの生活態度の革命であります。そこまで徹底して初めて、われわれは世界の最も優秀な民族たる誇りを完うすることができると思います。(『最終戦争論』P186-187)

(4)昭和26年になって石原の遺品の中から東亜連盟同志会の「宣言」の改定案が、六郎氏によって発見されている。それには「人類歴史の最大関節たる世界最終戦争は十数年後に近迫し来たれり。昭和維新とは東亜諸民族の全能力を総合運用して、(身に寸鉄を帯びず生活そのものの力によって、)この決勝戦に必勝を期することに外ならず・・・」( )部分が加筆されたものである。前後の事情から察して昭和20年10月頃と六郎氏は推定している。(『最終戦争論』P182-183)

(5)「老兵はただひたむきに大聖人のお示しを直接承って今日まで心身を君国に捧げて参りました。老兵の仕事は大体、敗戦の時に終わったので、顧みてまことに感激に耐えない一生でした。全く大聖人の無限のお慈悲によるものです。20年余の難病も老兵の仕事を少しも妨げる事はできませんでした。任務終って今はこの持病で静かに終わる日を待っています。大聖人のお側に馳せ参じる日が楽しみでございます」(『最終戦争論』P234)


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この言葉はこの著書の結びに掲載されてあるのだが、この短い文面から多くの示唆と想像を膨らませる事が出来る。20年余の難病と自認しているところから推し量って、満州事変以前に相当の自覚症状があったであろうと、これを耐えて時局に対処した強靭な意志と常人を超えた発想と決断。それらに共通する自らが研究・考察した『最終戦争論』に導かれた判断に誤りがないか?

大聖人のお示しを直接承って確信を持ち発表されたものと考える。人間誰しも自分の所信を世間に発表する場合、相応の覚悟を持つのは当然であるが、石原の場合は自らの信ずる神との対話で不退転の決心をもたれたのである。私は石原莞爾先生と多感な17才より2年余、西山農場でお教えを受けたが、その素晴らしい包容力は感激の一語に尽きる。最も神に近く最も人間的な温もりに溢れた方だった。

テイ婦人にも実に濃やかに面倒を見て頂いた思いがつきない。実弟六郎さんには、時宜に適したお話と兄莞爾将軍同様人情の何であるかを身に持って知らされた上、莞爾先生の適切な評伝をお聞きする事が出来た。無上の幸せであろう。その六郎さんの言われた言葉の中に「兄は兄を利用して一儲けしようとか、兄の名声を借りて世間にアピールしようとかの魂胆がある者には、木で鼻をくくるような挨拶しかしなかった。が近在のお百姓さんなんかが見えると、南瓜作りの先生とか、お米作りの先生とかと云って一生懸命話を聞いてあげたものだ」

過去現在を見据えて未来に及ぶ時、未来の分野は予言に属する。そして先生ご自身が「近い将来に最終戦争の来る事は私の確信である。最終戦争が主として東亜と米州との間に行われるであろうことは私の想像である。最終戦争が30年内外に起こるであろうという事は占いに過ぎない」(『最終戦争論』P24.25.34.36)と語っておられる。

将軍にお会いして、その人格に触れた方は将軍の信ずる日蓮教を信じ、将軍の思想・行動を宗教活動の一環として促え解釈するのは当然である。が私なりの考えでは、『最終戦争論』に述べられた時代に突入している現在は、最早先生の見通しが確実に進みつつあるかどうかに掛かっており、以後の半世紀を石原先生の言葉通りと信ずるものは、石原教の信者であろう。この論でゆけばかくいう私も石原教の信者と言える。

先生の実弟六郎氏は、常々「兄の事は兄自身が筆にした膨大な著作があるのだからそれを丹念に読めばおのずと真意が理解出来る」と語り巷の本は参考にはしても全幅の信をおいてなかった。


 歴史街道        仲條立一

(上の写真は石原莞爾が愛用していた椅子です。)

「物資が充足し、欲望が満たされれば、人間は利己から利他へに向かう」戦後、山形と秋田の県境にある西山農場で開墾生活を送った石原莞爾は、敗戦で廃墟と化した日本のこれからの進路を、しっかりと見据えていた。ともに開墾生活を送った筆者の目に、晩年の石原はどう映っていたのか。

〜自給自足の西山農業生活〜


秋には石原莞爾将軍をお迎えするから、西山に来て働いてはどうか?母親の勧めで、庄内地区の東亜連盟の幹部である桐谷誠さんにお会いすると、桐谷さんが経営する西山牧場に誘われました。昭和21年(1946)3月のことで、私は旧制酒田中学を卒業したばかりの17歳でした。

桐谷さんは西山(現、山形県遊佐町)あたりの山林を所有していましたが、石原将軍の「村づくり」の考え方に共鳴し、山林の比較的平坦な場所を選んで、昭和19年(1944)頃から開墾を始めていたのです。私も早速、西山農場の開墾に参加する事になりました。当時、西山農場にいたのは、桐谷誠さんと奥様の敏子さん、桐谷さんの弟 武さんほか10名に満たない数です。私は畜舎とも35坪位の二階建ての家に数人で住み込みましたが、麓の村から通ってくる人も2、3いました。

さて、秋には石原将軍とご一緒できるというので、6月頃から将軍のお住居を建て始めました。15坪ほどのごく質素なものです。石原将軍が、「都市解体、農工一体、簡素生活」という三原則に基づく、新時代の「村づくり」を計画して西山に転居して来られたのは、10月に入ってからのことです。私は1年前の9月に新庄で将軍の講演をお聴きしていましたので、お顔は存じておりました。しかし、初めて身近に接した印象は、決して偉ぶることがなく、まるですべてを達観された高僧のような雰囲気のお方であると感じました。

農場での生活は、朝一番の畑の水遣りから始まり、荒地の開墾が主労働でした。掘れどもつきぬ松の根との格闘は、休息にかぶりついた西瓜の美味さと相まって、今では懐かしい昔語りです。栽培作物は薩摩芋、西瓜、馬鈴薯、燕麦、瓜、苺など。薩摩芋や西瓜は、農場の唯一の現金収入源であり、特に薩摩芋は、米や肥料の交換物として、当時貴重品です。その他、牛一頭、山羊一頭、鶏数羽など人畜同居、見よう見まねの自給自足でした。




 歴史街道2       仲條立一

〜私が総理大臣だったら、賠償を請求する〜

昭和22年(1947)5月、酒田で国際軍事裁判の臨時法廷が開設され、石原将軍は参考人として出廷する事になりました。当時、将軍は膀胱の乳嘴腫のため血尿が出て、ひどく痛み、片時も尿瓶を離せない状態です。長時間の歩行は出来ません。

そこで裁判の前日の4月30日、私を含む3人で、将軍をお宅から吹浦駅まで、リヤカーでお送りしました。西山から駅まで、私の足で約20分。揺れてはお体に障るだろうと、林道の木の根を避けながら、慎重にお運びしたことを覚えています。将軍は和服に戦闘帽をかぶり、膝に毛布をかけておられました。駅で将軍は同志の車に乗り換えて酒田に向かわれました。


翌5月1日から裁判です。その日、私は将軍の奥様から膝かけと書類を託され、列車で酒田に向かいました。将軍が宿泊されている酒田ホテルに着いたのは夕方5時頃です。
ちょうどその時、応接室で将軍と数人の外国人も含めた記者団の会見が始まるところでした。

その場に居合わせることになった私は、興味津々で耳を傾けました。以下、その時の、将軍のお話の要点をかいつまんで紹介してみます。

「君たち。私がこれから話すことは、日本で発表してもらっては困る。自国に帰ってからにしてほしい。
当然マッカーサーの検閲を受けて、発表が禁止されるだろうからだ」


 歴史街道3          仲條立一

「私は僭越ながら日本国民を代表して、日本が何十年もの間、アジアの諸国民にご迷惑をおかけしたことを
お詫びする。日本は侵略者だといわれるが、欧米諸国が昔からやってきたことを日本が見習ったのも事実である。
反面、日本人の心の底には、アジアの解放があったことも確かだ」


「(満州事変は日本軍の謀略かという質問に対し)超満員の汽車の中で足を踏まれると、
『お前が踏んだ』『いや、お前が先だ』という争いになって、どちらが先という決め手はない。
満州事変がどちらの謀略かというのも、当時の満州の情勢を知らない者のいうことだ」


「アメリカの無差別爆弾や原子爆弾の使用は、全く非人道的な暴虐行為であり、
国際法を完全に侵犯したものだ。私が総理大臣だったら、アメリカに対して賠償を請求する」
「ソ連が不可侵条約を一方的に破って戦争を仕掛けた上、何十万人もの人々を捕虜として酷使したことは、
非人道の極みである。これを見たらマルクスが地下で泣くだろう」


「今度の戦争裁判なるものは、馬鹿げた猿芝居だ。ルーズベルトは死んだから仕方ないが、
トルーマン、スターリン、チャーチルを一堂に集め、日本からは及ばずながら私が出て、
堂々と論戦したらよかろう。それが本当の戦争裁判である」


「この度の出張裁判の関係者は、特別列車を仕立ててやって来たそうだ。
ご覧の通り日本人は列車に溢れているのに、占領軍の僅かな連中が威張り返っている。
日本が満州や中国で威張っていたといっても、そんなことはやらなかった。
満員列車の中で、赤ん坊を抱いた日本人の母親が、ギュウギュウ押されて苦しんでいるのに、
一方では占領軍が、がら空きの特別列車でキャアキャア騒いでいる。こんなことが続くようでは、
軍勢は完全に失敗するだろう・・・・・・・」


会見は2時間位続きました。将軍は澄んだ瞳と独特の笑顔で、
冗談と皮肉を連発して一同を爆笑させながら、聞くもの一人一人に深い感銘を与えていたように思います。

〜欲望が満たされれば、人間は利他に向かう〜
石原将軍の盛名を慕って、西山にはさまざまな人が訪れましたが、将軍は人目で相手がどんな人間かを見抜いたようです。嘘はまずつけません。また、私たちのような若い者に対しても絶対に偉ぶらず、いつも同じ目線で話して下さいました。権威ぶった人が大嫌いで、そんな人が訪ねて来ると、「私、お百姓仕事で忙しいので」と相手にもされませんでした。

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さて、西山農場で石原将軍が掲げた三原則「都市解体、農工一体、簡素生活」について説明しておきます。この三原則は、これからの文化国家のあり方を示したもので、
都市解体は、都市部への過度の人口の集中が生活環境の悪化、人心の荒廃を招くもとになるので、自然に親しむ田園生活に帰れということ。農工一体は、工業の地方分散を行うとともに、都市生活のよい点を全国に普遍化させ、都市と地方の格差をなくして、バランスよく国を発展させること。そして簡素生活は、貧乏生活を意味するのではなく、自然と調和し、余分なものを排除し、高度の科学文明を駆使する高雅な生活を意味しています。


将軍は、「適度な労働はむしろ健康に良い。心身健康にして物事に向かえば、感性が磨かれて
素晴らしい発明を生み出す。またそうしない限り、本当の王道は理解できない」と語り、実践しました。
王道とは、人間の直観力が復活する新しい文明をいいます。三原則も含めてこれらを、
今ようやく日本人は理解出来るようになり始めているのかもしれません。


また、石原将軍は、敗戦直後から戦争放棄を訴えました。当時、私が「武力がなくて、独立国としてやっていけますか」と、物怖じせず申し上げますと、「空気や水に境目をつけて、『ここからは俺の空気だ。
他人は吸うな』などと言う者はいない。同様に、文明が発達し、物が空気や水のようにできてくれば、『これは俺のものだ』という欲望による戦争はなくなる。これまでのように、作った物を戦争で悉く破壊して一体何が残るのか。戦争は、近い将来絶滅するのだから、軍備に力を入れる必要はない」と仰いました。

そしてさらに、「人間は腹一杯になったら、それ以上は食べられない。同様に物資が充足し、欲望が満たされれば、人間は利己から利他に向かうはずである。自分だけよければいいのではなく、他人のためになることをする。それが人間の本当の生き方ではないのか。」


終戦後の食うや食わずの日本人に対して、しっかりとした「日本の未来像」を掲げたのが石原将軍でした。
文明の衝突の時代を迎えているといわれる今日、将軍の文明観、人間に対する考え方を、私たちは改めて見直すべきではないかという思いを強くしております。


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