信長の野望打ち砕く本能寺の変!明智光秀さえいなければ、織田信長は天皇を殺し国王に成
れたのだ。天下布武の印に込められた謎?
鳴
かぬなら殺してしまえ不如帰(時鳥=天皇)。歴史は勿論、起こった事に意味がある、だが起こらなかった事こそ重大な意味
を持つ。歴史の英雄捏造は信長にあり。2006/06/01
本能寺の変(天
正十年六月二日)
信長は朝廷を利用し天下を取る方法ではいつまでも朝廷の風下で本物の天下 取りにはならんと考えていた、第二第三の勢力が朝廷 を担ぎ出し自分に謀反を起こす。そしてこの時代の 混乱の原因は中央の公家達の漁夫の利政策であると感じていた。
公家朝廷を滅ぼさなければいつかわ朝廷を利用した勢力が其の権威を利用し錦の御旗を掲げ信長幕府を崩壊さ せる時が来ると考えていた。
その頃、四国、九州はまだ、手付かずであった。
だが信長はこれを後回しにし公家朝廷の殲滅を優先した。
理由は最大の敵武田氏を片付けれ ば、四国は信孝と丹羽長秀に任せておけば、すぐに片が付くだろう。もう上杉謙信もいないし。後に敵はいない、2,3年後には天下統一は完成する。
そのために反信長包囲網の一翼である武田勢を家康と共に甲州信濃攻めで壊滅した。
慎重な信長である。公家朝廷を殲滅した後は四国、九州を平らげる事はもはや時の問題である。
また信長は主に中国 等と自由貿易を推し進めようとしていた。 これに対し、公家朝廷はその権威をかさに莫大な「上納金」「上納品」 を要求した、貿易関税である。いまや信長のバックグランド となった堺の商人、摂津衆らはこの法外な貿易関税を 到底容認できなかった。かくして織田信長、豊臣秀吉、 摂津衆の三者による公家朝廷殲滅の共同謀議がなされた。
さらに真実の動機はこうだ。表向きには朝廷からの三職推任を薦められていた が、これを「天下統一の事業がまだ完成していない。いずれ、この事業が完成した暁には再び登用いて頂きたく、それまでは息子の信忠に是非高い官位を頂きた い」と無骨者ゆえと断り武田責めにてこずる徳川家康の応援、甲州信濃攻めに颯爽と馳せ参じる無欲な風雲児信長様。まさに武人の鏡、御待たせ、お決まり の美談である。
織田信長は長男の信忠を征夷大将軍に任ずるよう朝廷に迫っていた。
だがこれが、事実とは全く違うんだ、信長は勝手に蘭奢待まで切り取り長年朝廷を脅迫までして長男の信忠に 望んだ征夷大将軍の地位を上級公家、近衛前久より拒否の知 らせがあったからだ。
理由は信長、信忠が比叡山焼き討ちで子女を含む僧侶三千人を焚殺した。またその中の帝より勅命で国師号を 拝領した大通智勝国師こと快川紹喜和尚 までも焼き殺してしまった。比叡山焼き討ちでさえ天下の大罪であるのに、国師まで殺してはもとより帝よりの三職推任などある筈がない。これは信長も重々承 知であった。
だがこの事が信長を狂わせた。将軍足利義昭を「信長朱印条書」をもって意図的に追いつめ、叩きだしてまで狙った信忠の征夷大将軍の座を拒否されたからだ。将軍足利義昭を叩きだし、暦を勝手に元亀から天正に改暦してしまで狙った天皇の座。また信長は天皇しかさ わる事の出来ない勅封である蘭奢侍を朝廷から許可をうけず切り取り天皇に献上したり馬揃えの示威行動をしている。どれもこれもすべて自分が国王となる為の 示威行動である。そ の信長の野望の実現が朝廷より拒否されたからだ。三職推任状は信長の公的立場を朝廷が傘下にすべき配慮してのことである。
近衛前久を甲斐にまで引き摺り回した挙げ句、中山道に放りだした。
鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(時鳥=帝)。
いよいよ朝廷を殲滅し「天下布武」の完成だ、天下布武とは文字とおり国家の権 力を武士に一本化する事である、一向宗という宗教権力を殲滅し、天皇という偶像を破壊する事である。
だが信長には気がかりな事が一つあった。 三河の短気者、徳川家康には直前に連絡し協力が得られる、ただ 明智光秀の協力が得られるか不安だった。
明智光秀は朝廷の将軍、足利義昭の幕臣であり、土岐源氏の流れを汲む正真正銘の公家そのものである。信長 仕える前には既に馬60騎を有する比較的裕福な武将であり、尊王の志は大変厚かった。上級公家、近衛前久とは十年来の知り合いであり吉田兼見とも親しかっ た。
古来本能寺の変の真因がはっきりしないで諸説粉々あるのは、明智光秀の人物像が確立していないからであ る。明智光秀の人物像=本能寺の変の真因。ここではっきりさせよう、明智光秀は朝廷の幕臣であり、朝廷の守りの要である、また織田信長にあっては、朝廷と の橋渡しをしてくる重要人物であった。
やはり信長は追い払う 事に決意した。但し光秀には一度は協力要請をし彼の意向を確認したかった。何故ならば明智光秀の才覚、また光秀の1万3千の軍勢を無視する事はできなかっ たのだ。
4月3日
信長は六角次郎(佐々木義治)を匿ったとして恵林寺を焼き、正親町(おおぎまち)天皇から大通智勝の国師 号を頂く、快川和尚を焚殺する。修行僧数百名と宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等を山門に追い上げ、残忍にも寺の周囲に薪を積んで火をかけ、生 身を火であぶり、焼き殺す。この時、山門の四方には軍兵が槍や刀を構え囲んでいたとされる。【本朝高僧伝】
子女を含む約150名を焼き殺したとされる。
長禅寺の高山が「この宇宙世界は何処にあっても無常の原理から逃れることが出来ないないのであるが、今こ の場合に臨んで何処に向かって常住の場所を求めたらよいか」と問う。
これに答えた快川紹喜和尚(大通智勝国師)の遺偈。
安禅必ずしも山水を須いず
心頭滅却すれば火自ずから涼しい快川への伝賛「未だ平氏の惨毒の如きを聞かず」 【本 朝高僧伝】
平氏=平家=信長
4月中旬
恵林寺の報が上級公家 近衛前久と吉田兼見の耳に届く。
何かがおかしい、帝よりの国師を焚殺する事は、帝を焚殺するに同じではないか。この事を知らぬほど信長は 大うつけではあるまい。これは朝廷に刃向かう宣戦布告ではないのか。この報を受け、国体維持の仏法の破壊であると観修寺晴豊は驚愕した。これは信長が望ん だ征夷大将軍の地位を拒否した報復なのか。
4月下旬
信長は天皇を安土城の行幸の間に招き軟禁し、独自の歴を制定し帝に取って代わるつもりであった。だがその計画は上手く進んでは いなかった。
中央の公家、朝廷も信長に殺害される不安を感じていた 今川義元に対する桶狭間での伏兵作戦、また比叡山を 焼き討ち何千もの人間を殺害した男だから。信長は公家、寺社等を油断安心させるため、秀吉に中国 征伐を命令、軍勢を移動させた。ただし5日で京へ 戻れる様に命令していた。この時、信長と秀吉の胸 中には今川義元を倒した時の伏兵作戦が去来していた。
(桶狭間では織田信長軍は当初から2面作戦を展開していた。
主攻:桶狭間山 山頂ヲ確保スル今川義元ヲ北西斜面ヨリ中央突破波状攻撃。
助攻:桶狭間山 南東ノ窪地 田楽狭間ニ伏兵。
今川義元は織田信長を甘く見て桶狭間山に遠出でしてなんと小人数で弁当を食っておった。
今川義元は桶狭間山から追い落とされる形で、田楽狭間で織田軍の別働隊の待ち伏せに逢い死亡。桶狭間山=猿投山。春日 井田 楽。狭間とは狭み撃ちと言う意味
今川義元の本陣は後方、猿投山。
今川義元には確かに 猿投(さなげ)山にこだわるだけの理由があった。猿投山神社とは、創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峰に東宮、西峰に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古 くより猿投三社大明神とあつく崇敬されてきている。 神階は文徳天皇仁寿元年(851年)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877年)従四位下に叙位してい る。 社格は延喜の制(967年)では国幣の小社(三河国26座、加茂郡7座)で、一宮制が施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称され た。
神領は、織田、豊臣二氏の先規により徳川家康公が高776石の朱印を付し、明治維新まで続いた。このほかの武将も多 くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によって知ることができる。【猿投神社由緒記】まさに天下取りの東からの登龍門、天皇山である、この事に今川義元はこだわった。そして織田信長もそれ知ってい た。
ここで「信長公記」最大の疑問が生じる。桶狭間山だ、桶狭間と言う地名は確かに存在する、だが桶 狭間山なる山は日本中何処にも存在しない。そして田楽と桶狭間では20Km近く離れている。また猿投山も各々から20Km程である。そして一番重要なのは 本体、今川義元の居た岡崎城から猿投山まで20Km。また岡崎城から桶狭間も20Km。但しこの桶狭間では信長のギロチン台に首を突っ込み食事をするよう な物、信長の城に近過ぎるのだ。
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大久保彦左衛門の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書かれてあるように、同 時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。常識的にいっても、合戦に慣れた当時の武将たちの1人である今 川義元がそのような致命的な油断をするとは考えにくい、という見方もある。
信長に奇襲なし。信長は常に慎重だった、必ず現地の下見をする、そして必ず予行演習をする。この慎重さが 信長の本当の強さだ。
5月中旬
秀吉は中国方面へ転戦した、ただし今度の目的は 戦ではない、いかに早く、京へ戻るか、ただそれだけ であった。復路には食料確保、休憩地確保のため、 人材と金をつぎ込んだ。
秀吉は京決戦のために兵力温存型の戦(高松城 水攻め)をいい加減にやっていた。そして英気を養 いひたすら時を待っていた。また高松城にはその他 の出城が多いものの小規模な野城の集合体、高松城 そのものも秀吉の軍勢4万の敵ではない筈。3日で 落とせる城、所詮水没してしまう様な城に何故1ヶ 月以上の手間をかけているのか?
ここで秀吉は不可解な行動をする、九分九厘勝 ちの決まった楽な戦を、先々に伸ばし「苦戦してい る」と戦の窮状を信長に訴え援軍の要請をしている? 後の世にこの事は最後の勝利の戦を信長様に プレゼントする、秀吉、一流のゴマスリと言われ ている。 本当にそうであったか。
秀吉はここでスンナリ勝ってしまたら、自分が高松 城へ入城、新城主として釘付けになってしまう。 それよりも予ねての手はず通り、光秀をおびき出し、 勝利の手柄の戦をさせ、その功績で高松城の城主 として封じ込める、これが最善の策と判断した。
「秀吉この手紙、怪し過ぎるぞ!」
ここで秀吉の信じられない言い訳を記す。
あの手紙は信長様より下書きが送られて来たものだった、私は指示どうり 自筆でそれを写し、署名、花押を描き印判を押した、只その時、子供でもないのに手本習字をやらさることにムットした、この時いつもの悪戯心がふっと起こっ た。この信長様の手本の方に署名、花押を描き印判を押し送り返したらどうなるか。秀吉には予感があった。頭脳明晰で合理的思考をもつ信長様は以外と粗忽で 些細な事には全く気づかない迂闊なところがある、多分気づかない、気づいたとしても「毛利に急襲されて泡食とった」と言えばよい、事がうまくいけば笑い話 にもならんこった。だがこれをみるであろうもう一人の男は気づく、信長様の筆跡である事を。悪戯心が悪魔の心に変わっていった。
この最初で最後の裏切りが後々まで秀吉の心を責め苛むことになるとは、 この時 秀吉自身も気づくよしもなかった。
5月15日
秀吉からの応援要請の手紙が届く、いよいよ天下布武の始まりだ。天下布武とは文字通り解釈すれ ば、天下、京に武力を布陣すると言う事だ、即ち秀吉、摂津衆4万の軍勢で京に戒厳令を展開すると言う事だ。誰にも気づかれぬ 内に高松城に居る筈の秀吉の軍を京に展開する作戦の始まりだ。
秀吉の軍勢は天下取りのため、京を手中にすれば天下もまたその手の内にということ。京に織田信長軍事独立 政権の樹立、これこそが天下布武の本意、これこそが織田信長本来の面目。
信長様御自慢 自作の天下布武の印の中に血で完成する京と言う字が見える者は見よ。
信長様、血の一画、血の六画、朱京の完成お楽しみ。
いったいその血、誰の血!
王法已行天下遍
御門塞外絶三光
第六天魔王信長
また1574年、天正2年正月、信長は年賀に黄金の箔濃(はくだみ)にした長政と義景の首級を馬廻りだけ になったときに据え置いた。
一、朝倉左京大夫義景 首。
一、浅井下野、首。
一、浅井備前、首。
已上三ツ、薄濃にし て、公卿に居え置き、御肴に出されて候て、御酒宴。各 御謡 御遊興。千々万々。目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。【信長公記】同月19日 越前一揆蜂起。【信長公記】
同月20日 摂津国 地震、四天王の鳥居崩れ余震三日に及ぶ。【信長公記】
同年、伊勢長島の一揆では降伏した男女2万人の不意打ち虐殺。
翌年八月、越前一向一揆では4万の髑髏山野に遍(あま)ねし。
長篠の戦い 1575年(天正3) 馬防柵
1579年 天正 7年 5月、安土城の天主が完成!完成した安土城に織田信長が移り住む
その折、織田信長は羽柴秀吉と明智光秀を前に「この安土城の石段は石仏、仏像 などを埋めて作られている、その意味するところが分るか」
「...」
「石で造った仏は単に石でしかないわ!石や木を彫り石仏木仏となせば権威が宿 り、人はそれを崇め崇拝し有り難がる、だが石仏は石、木像は木」
「...天皇も同じよ、元は只の人じゃ」
羽柴秀吉が「御館様は御天主さまをどうするおつもりなのですか」
「こうよ」と織田信長は刀を抜き、羽柴秀吉の首まで振り下ろす。
「お止め下され、信長様」と明智光秀が制す。
また1581年、天正9年4月、信長は竹生島に行楽に出かけた。翌日迄、戻らないと思った侍女達は桑実 (くわのみ)寺薬師参りなどして休養していた。
だが信長は帰城した。侍女達を縄で縛り、使者を桑実寺に行かせ住職を呼び、わざわざ命乞いまでさせてか ら、侍女、住職と処刑した。
信長は侍女達が骨休めをする事は知っていた。即ち侍女達を殺害するのが目的で竹生島に行き侍女達を誘い出 したのだ。信長得意の作戦である。
丁度この頃から朝廷に対し 征夷大将軍の地位の 脅迫が本格化したのは。信長にとっても天皇を殺し、朝廷公家を殲滅し国王になる構想の実現には勇気と決断のいる事だった。
その意志の強さを公家朝廷に見せつけるため侍女、住職を処刑したのだ。本能寺の変の一年前の事であった。途方もない狂気と盲目、悪魔的な思い上がり【ルイス フロイス】
信長様、人を殺せば殺すほど神に近づきます。
さて本題を秀吉の手紙にもどそう。この天下布武の大それた事の実行には 気も狂わんばかりに悩んでいた信長も、今では今川義元を倒した時の狂喜じみた快感に酔い痴れていた。
「この度、毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の 計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろう」。
信長様待ちに待ったこの手紙、あらぬ芝居に力が入り過ぎました。
信長はこの天下布武の一番の邪魔は、公家朝廷よりの光秀 であると判断していた、事実、光秀を京から中国攻め 援軍と赴任させた。
5月18日
信長は明智光秀と二人だけの密室において。
「お互い、公家朝廷の扱いには苦労したのぅ、中でも一番厄介なのは朝廷を利用すればする程、朝廷の権威が どんどん上がって行く事だ。光秀、余には力があっても権威がないのじゃ。遠い将来いつか朝廷、天皇を殺さなければならぬ。その時余は王になる、光秀、その 時は、王を助けてくれ」
光秀の肯定の言葉を期待した。
たが明智光秀は信長の野望の実行が近いと判断した。 実は彼は例の手紙が信長のものである事を分かっていたのだ。 ただ何のためにこの様な事をするのかが分からなかった。たった今分かった、遠い将来なんかではない、今すぐだ!光秀は悟った。ただの皇位簒奪計画ならばい くらでも協力を惜しまない、むしろ積極的に画策させてもらう。ただ朝廷公家を滅ぼす事には協力は絶対 に出来ない。光秀は信長に背いた。
「上様、御止どまりを!」
「何い!」信長は激怒した。光秀は罵倒され何度も足蹴にされた。 それでも彼は協力を辞退した。
「上様、為りませぬ」
「黙れい!」家康、宣教師ルイス.フロイス等が駆けつけた。
5月22日 雷雨
光秀はどうすればよいか、必死に考えていた。 既に信長の野望を見破った事は彼に読まれている、このままでは自分が口封じのために殺される可能性も出て来た。
光秀は信長を討つ決意をした、其の時の力添えの為に、長曾我部、上杉、武田に 援軍要請の書状を送った。
正親町(おおぎまち)天皇に天下布武の正体を伝えねば。
そしてこの事を記録に残さねば。
そうだ紹巴だ、紹巴がいた。
5月24日
光秀は西坊で里村紹巴(じょうは)・西坊行祐らと連歌を興行した。
連歌に御留(おとめ)語が使われていたら真の意味は今は誰も理解出来ない。御留語とは天皇家だけが理解で きる別の意味を持つ言葉である、門外不出、留めるという意味である。「塩」、「潮」などが全く別の意味をもつ、または持たせる寓意語に近い暗号である。
もし使われているとしたら、清和源氏の御留語です。また光秀、紹巴 以外の歌はこの愛宕百韻をわざと分かり難くするための雑音と判断すので削除します。未熟な所も多々有りますがお許しください。
時は今まさに天皇が下り死する殺気。
光秀の朝廷危うしの警告である、警告以外のなにものでもない。土岐源氏(織田信長)は今川を倒したようにに天皇 、帝を亡き者にしようとしている。
帝、殺害の計画動きを阻止せよ
この返答は既に信長の帝殺害を察知した人間が公家朝廷の中にもいると言う事です。
以下、理解出来るものだけを抜粋。
朝廷の命、消え入らんとす。再警告である。
これが暗号化デシジョンテーブル(決定表)です。
秋=(もなが)信長、 夜=(ハの付く)羽柴秀吉
正親町天皇に伝えますか?
そうだ、絶対に尋ねてくれ。
春日野のを春日井田楽 生まれの十藏とすれば、十藏からも情報が入ります、と解釈出来る。
家康(=竹千代)も僅かながら傾いる
共犯は誰と思う(占う)
信長(永)、秀吉、明石の方々(摂津衆)と思います
そうだったのか光秀、この六日間行方不明だったのは。共犯を探っていたのか、信長の探索方の必死の目をか わし、ついに摂津にまで辿りついたとは。まさに光秀、恐るべし。
信長を上洛させてください
大阪の関(山崎)あたりの決戦になりますか
戦の勝敗は神のみぞ知る
急戦となり、どちらに勝敗が付いても問題が残ります
織田信長のやり過ぎ(天下布武)には誰も援軍しないでしょう
光秀、紹巴二人の剣豪切り結ぶ、愛宕百韻
五月雨だというのに、全身汗びっしょり、光秀最後に放ったこの白刃
仲間の見解も添えます
近衛前久へ急げ!紹巴!
また光秀、行方不明の六日の間に信長の探索方により徹底的に流された噂があった。それは織田信長が明智光 秀をいじめていた事である。信長に足蹴にされた事。信長に家康供応の内容を叱責され、森乱丸ら小姓に打擲された事、家康供応役を罷免された事。御領地切り 取りの事などである。これは今の信長にとってこの噂が絶対に必要であった。
では何故この噂を信長が必要としていたのか。それは明智光秀の口から、天下布武の正体が発覚するのを極度 に恐れていたためである。この噂を先行洗脳して徹底的に刷り込んでおけば、光秀が天下布武の正体を訴え出たとしても、信長にこれだけひどいめに逢わされて いるのだと言う先入観で「この様な、意味のない訴えも無理もない」と情報相殺させてしまうためである。このためには信長自身がこの噂を絶対に必要としてい た。まさに心理戦の信長である。
(情報戦カウンター パーチェイス)
5月27日
光秀は愛宕山神社に於いて謎の人物に接見する。
「光秀、その後の信長の様子はどうじゃ」
「安土城に於いて、己の王室殿で悦に入っております」
「信長は朕を譲位させ、傀儡天皇を即位させて天下を御する腹ではなかったのか?それならばそれでいくらで もうまいやり様がある。公家共もこれでようやく長年の困窮も信長殿に救われ益々暮らしが良くなると喜んだばかりだったのにのぅ、はっはっは」
「そう言う問題では有りません!
大通智勝国師を恵林寺で焚殺したのは天下布武の予行演習に過ぎません」「快川国師が殺害された時から薄々は気づいていた、先の馬揃えの時の信長の尋常でない走りは計るためか、 やはり天下布武とは?」
「天下布武の印には血で完成する京の文字」
「恐ろしい事じゃ」
「洛中洛外は戦略図、京を焼き尽くし、公家寺社を殺し利権を奪い、三后を侍女の如く処刑、誠仁親王は信忠 が殺害する手はずかと思われます」
「朕はどうなる」
「..........。」
「光秀、天下布武の証拠を集めぃ」
「諾」
「光秀、信長は上洛させる、成敗せよ」
「諾」
「光秀、兵を貸せ、安土城は自らの手で焼き払う」
「諾」
6月1日 夜
茶会を終えた信長と信忠は、日海と鹿塩利賢との碁を観戦する。この時、不吉と される三劫(碁の千日手、無限の繰り返し)になったのは有名な話である。
だがこの時、既に朝廷からの密使により「平次は茶器を使い本能寺に おびきよせた、京の門外で待て」と光秀には勅命が下っていた。
6月2日 本能寺の変 当日
朝敵は本能寺に在り。明智光秀は勅命により大道、朝廷を頂とする国体護持のため朝敵成敗の陣容をとった。 朝敵成敗の儀、足利尊氏が六波羅を攻めた時と同じ道を辿り信長へ向かう。 信長を朝敵成敗する事は二人の家臣にしか伝えられていなかった。当然、自分が公家朝廷の命を助けるのだから、公家朝廷は少なく ても味方はしてくれるものと思い、信長に先制攻撃を仕掛けた。常在平常、冷静な光秀であった。信長の天下布武を阻止するのは今しかない。
「敵は、本能寺!」最初は極めて静かな夜盗の様な討ち入りでした。
その後の騒ぎで信長は光秀が謀反であるこを直ちに悟った。
だが近年発見された「本城惣右衛門覚書」によれば
「是非に及ばず」
現 代文訳:守天働児(引用)
明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは嘘です。
まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。
その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。
京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、、
討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。
また、本能寺というところも知りませんでした。
進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので、誰かと思ったところ、
斉藤内蔵助殿の子息で小姓を二人連れていました。
本能寺へ向かう間、我々はその後ろについて行きました。
片原町に入った時、子息殿は北の方へ行き、我々は南の堀に沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。
橋の側に門番がいたので私たちは殺して首を取りました。
そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。
門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、
「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。
本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。
寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。
捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、
その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。
この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。
旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。
一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、
私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。
その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。
この襲撃時には、以上のとおり、敵の首を二つ取りました。
褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。
明智光秀は焼け落ち、炭と化した本能寺の前で呆然としていた。本能寺を灰にしたのは天下布武の証拠がな い。このままでは本物の謀反人にされてしまう。光秀は途方にくれた、なにか物証はないものか。まてよ、天下布武の正体を知 る生き証人が一人いた、徳川家康だ。を生け捕りに出来なかった、天皇暗殺の証拠天下布武の正 体を知 る生き証人が一人いた、徳川家康だ。
「家康、生け捕れ!」
朝
家康一行は信長に合うため堺を出たが、「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋 四郎五郎と十藏に遭う。
明智光秀に捕らえられる、そして天下布武の生き証人とされ、そして縄目の恥辱を受け、そして斬首処刑。家 康は恐怖した。
「遁げる!」
家康様、電光石火の早遁げこそが、長ーい天下の生き残り策。
明智光秀、毛利の支援が気になるものの、全軍1万3千全力尽くし
「遁がすか家康!」
この時家康は、穴山梅雪ともう一人の身代わりを立て脱出する多面作戦を計る。
変、直後
里村紹巴はこの騒ぎを、すわ信長決起かと勘違し、誠仁(さねひと)親王が二条城から御所に移る際に、荷輿 を用意して駆けつける。だが時既に遅く、信忠に捕らえられた誠仁親王一家は処刑寸前であった。
晴豊の説得、京都所司代 村井貞勝の口添えもあり信忠は解放に同意する。
このため里村紹巴は光秀の謀反を事前に知っていたのではないかと間違われ、後に捕らえられるが訳の分から ぬ言い訳をし釈放される。
さすが連歌師?
6月3日夜
光秀から毛利、小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は、本能寺で信長が倒れたことを知る。その時、密書 を見た秀吉は半分も読まぬうち突然泣き出した。嘘か本当か謀略密書かも知れぬのに。この紙切れを見た瞬間泣き出した、その秀吉を見ていた周りの者は奇異に 感じた。だが秀吉はこうなるなる事を予見していたのだ。秀吉の絶叫「俺が殺した、俺が殺した」と聞けるものは聞け。
6月4日
家康の身代わりになった 長谷川竹らが、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し無事岡崎城に入る。
やはり明智光秀の事は騙せなかったのか。その後大久保忠世の機転により家康の替え玉と共に主君の仇討ちのために 岡崎城を出る。
6月5日
秀吉は暴風雨をつき、中国大返しを開始した。走るな秀吉、伏兵に全滅させられるぞ。急ぐな秀吉、天下布武 は漏れ広まりはしない。
情報は弾丸だ、撃たれる前、漏れる前が一番恐ろしい。
6月6日
朝敵成敗の儀(敵の五体を虚空に還す宗教的な儀式)を誠仁親王、観修寺晴豊 等で恙(つつが)無く執り行う。この席で三人は考えた。秀吉も天下布武を継承するのであろか。一番は光秀が摂津、秀吉に勝ち、謀反人の汚名をはらす事で有 る。そうは行かない場合はむしろこの天下布武は我々一部の者の独占情報にすれば、秀吉を牽制し優位に立てる、情報は命だ。そのため光秀には自ら謀反人に なって貰わなければならぬ。吉田兼見は誠仁親王の勅使として光秀に京の治安維持を命じる。そして三人は見て見猿、言って言わ猿、聞いて聞か猿を決めこんだ、情報戦の優位に立つために。
6月7日
朝敵滅亡の祝宴を誠仁親王、近衛前久、観修寺晴豊 等で執り行う。公家も交えて連日連夜の朝敵成敗の酒宴が盛り上がった。御所を開放しての庶民への大判振舞い、飲めや歌えの大騒ぎ。
「信長 死んで日本国中 大安心、嬉しいなー、よかったねー」
摂津衆、秀吉なにするものぞ。
この時吉田兼見は朝廷と光秀との間を往復して連絡をしていた。そして、明智光秀と吉田兼見は、摂津(秀 吉)との戦が敗れた時の事を考え、天下布武の正体は今は秘し、秀吉を牽制する独占情報とする2面作戦を決意をした。噂を利用するのだ、多勢に無勢には神で さえも勝てない。
この時既に茨木城主・中川清秀、高槻城主・高山右近 等の大軍勢が山崎手前で待機している事、いないのは秀吉のみ。この事を味方の筒井順慶が怖がっている事、そして摂津(秀吉)等が中立を筒井にせまっている 事などが報告された。
6月9日
光秀上洛、誠仁親王の勅使は吉田兼 見を通じ光秀に征夷大将軍を命ずる。
その後
飛び出す紹巴、走る秀吉、それを待つ摂津衆、向かえる光秀、荒れ狂う風雨。必死のかかった徳川家康遁げる わ遁げるわ、汚名のかかった明智光秀追うわ追うわ、洞が峠にかかった筒井順慶迷うわ迷うわ。
はー、これが変でなかったら、世の中に変な事など御座いません。洞ヶ峠の筒井順慶様、何にも知らないあなただが、今や天下の鍵を持つ。
三方原の頃の貧乏のどん底と違い今では徳川家康も飾り刀の二本差し。何の考えもなしに大阪、物見胡散に惚 おけておりました。そして突然の変、遁げる家康。その家康に扮装した二人の内の一人、身代わりとなった穴山梅雪の拷問死を初めとし、血で血を洗う壮絶極ま る大遁走。家康は一度は捕らえられたものの突然の手厚い保護のもとに岡崎城まで送り届けられる。この時、光秀は自らが謀反人となる事で家康を助けたのだ。
これは、その後の家康の人生観、性格人相まで変えてしまう程の艱難であったとさ。
十藏はいち早く変を家康に伝えた事、家康公の自決を御止めした功により、徳川家の蔵奉行に任ぜられる。
「自分は石ころの様に落ちぶれていたが家康様に召し出され、そのうえ藏奉行まで任ぜられた、藏は家康家の 費えである、だから上様のご恩に報いるため、粉骨砕身しよう」
「人間五十年 下天のうち(家康)に 藏奉得れば、夢まぼろしの如くなり。
一度 生(十)を得て、滅(滅私奉公)せぬもののあるべきか」
と螺を吹く。また家康公記は神君家康公の人格に対する誹謗中傷多々有り、品格に対する下品な記述、また金品を頂戴して の手柄の記述は明白。よってこの公記は焚殺されました。これをもって十藏は直ちに出奔。
ちなみに十藏は太田神社の見習い宮司でした。当時の寺社の公然の秘密の商売に系図屋というものがありま す。源氏から平次へ、平次から源氏へと家系図を勝手に書き換えて奉納登録してしまう商売です。それなりの専門知識がないと出来ない十藏の仕事でした。織田 信長にも十藏のこの才覚が大変重宝がられ、その他諸々の文書のお役にたったそうです。
また十藏の趣味は狩猟で弓を持ち薄着で腰縄に火打ち石やら瓢箪、革袋を下げ野山を駆けていたそうです。特 技は弓の三連射。
秀吉の中国大返しの早さ(5日)、中継地の姫路城に着いた前後は集中豪雨であったとも史実にはある。実質 的に平均装備15Kg、3万の軍勢を実質3日で180Km、雨中移動させた事になる。疲労困憊、足マメ、またずれ。常識として約50Kmの戦列長蛇化は免 れない。これでは既に用意周到な準備がされていたと判断せざるを得ない。
「秀吉どういう歩兵操で3万の軍勢を移動させたのじゃ、白状せい!」秀吉の言い草
「3万の軍勢が高松城囲んどる訳なかろうがや。3万の軍勢で高松城囲んだら、其の糞で高松城 埋まってまう、わっはっは」
何という言い糞。また山崎手前での摂津衆援軍との出会い。これはすでに公家朝廷殲滅の筋書きに折込み済みのことであり、対 象が公家朝廷から明智光秀に変わっただけでの事であった。
摂津との山崎の合戦に臨む時の光秀の遺偈
逆順無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元
順(信長に仕える)逆(信長を殺害)の事は 全く同じ事なのです。
かつては朝廷に仕えていると考えた信長と共に、天下平定の為に戦を重ねる事と、
今では朝廷を抹殺しようと企てる信長を殺害した事は
いずれも大道、朝廷を頂とする国体護持のためであって、同じ心を源とするものなのです。
五十五年の夢から覚め、ここに死を覚悟する
帰一元=五元[地水火風空]の空に帰る、死ぬ。
この時、既に光秀は燃え尽きていた。
信長様の「是非に及ばず」とは、果たして、許すと言う意味なのだろうか。
「上様、お許しを」
「是非に及ばず」
光秀様「敵は本能寺」朝を忘れたばっかりに 何時までたっても闇の中。
しかし天下布武を独占情報にしたおかげで光秀、兼見、晴豊の三名はしたたかに?天寿を全うする事が出来 た。
これら事は一部の地域、一部社会のでは今でも公然の秘密として語り継がれている。秘密とする理由には話て も馬鹿にされたり、天皇の話題に及んで村八分にされる時もあるからだ。
6月14日
秀吉は自分も信長と同じ様に暗殺される不安を感じていた。朝廷側も秀吉が信長の天下布武を継承するのか不 安だった。秀吉は朝廷に勅使の派遣を要求する。朝廷は観修寺晴豊を派遣した。秀吉は天下布武を継承しない事の代償として、明智光秀には謀反人として死んで もらう事にする要求を伝えた。観修寺晴豊は光秀が死んだとする事で了解を取り付けた。
6月16日
秀吉・織田信孝らが安土に着陣。安土城は何者かの手によって焼け落ちていた。
全ての真実は暗号として愛宕百韻に託したものの、ただこの時の天下布武の数々の書状を光秀必死に集め、正 親町天皇に献上、この功により光秀は征夷大将軍に任ぜられる。またこれらの書状は現在宮内庁に厳重に秘蔵されている。
ちょうど、ドイツでは希代の天才、風雲児アドルフ ヒットラーが台頭して来た頃だった。
過去に、信長を祭り上げた旧帝国陸軍にとっては、この様な書状類はあってはならぬ、とんでもない事だっ た。国威発揚の為に造られた英雄 織田信長が朝廷公家寺社を殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす作戦書である。三光ノート(光秀ノート)と呼ばれている書類である。厳秘にしてしまった。そ の厳秘扱いが今でも生きている。
唯これを最初に発見したのが信長を勤王の英雄に祭り揚げた信長捏造機関の一人、元 関東軍(東洋鬼、トン ヤンキ)参謀副長、大日本帝国陸軍中将、石原莞爾(かんじ)、皇道派のリーダーであった。もしこれを最初に発見したのが統制派であったなら、灰にされてし まったでしょう。
今から思えば石原莞爾に発見されたことがむしろ一番良かったのかもしれない、彼にとって天皇家の貴重な財 産を、燃やす捨てるなどは考えもつかない事だった。彼は軍が暴走し行き着く所の姿をこの三光ノートの中に見た。そして歴史の闇に封印し引退した。
以上が本能寺の変の真相です。
水を泳ぐ魚は水に気づいているだろうか。
空を飛ぶ鳥は大気に気づいているだろうか。
私達は一番大事な空気に気づいているだろうか。
本能寺の変も本質は古今東西、殺られる前に殺る、と言う最も多くの、最も当り前の単純な事でした。
大久保剛史
時代小説フアンの皆様方、チャンバラ無くてゴメン。
作者のサービス。ハードボイルドダゼ。
変、直後
里村紹巴はこの騒ぎを、すわ信長決起かと勘違し、誠仁親王をお救いするため二条城から御所に移る際に、荷 輿を用意して駆けつける。これを、事の真相を知る秀吉に見破られ「光秀の謀反を事前に知っていた」と言う名目で捕らえられる。
「紹巴、誠仁親王を助けに行ったのがおぬしの運の尽き、久しぶりに首一つぶっ飛ばしたるわ」秀吉、大太刀 振り上げニヤリと笑い力を込める。
「いいえ、本当は正親町天皇を信長様からお救いするつもりでした」
凍りつく秀吉。
「誠仁親王を助けに行ったのが私の運の尽きと噂になります」
笑う紹巴。
天下の豊臣秀吉、震え上がる。しまった、こやつを殺せば誠仁親王の所へ行った事が重大な意味を持つ事にな る。斬ればばれる、斬らねば漏れる。チッ厄介な事になっちまったゼ。秀吉、久しぶりの大どじ。
「お互いに、訳の分からぬ事は起こるもの」
紹巴悠然と立ち去る。
「マチー紹巴、知らん事よ」
「アイヨ、笑わせてくれるゼ」
間一髪、秀吉の大太刀、紹巴の三寸刀に敗れたり。
知ってる二人は知らん振り、知らない人達謀反知る。
この二人、怪し過ぎるゼ。
[完]