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 祖父達7人の学生は、明治29年7月12日から15日にかけて、「門司往還」に続いて小倉から中津を目指した。途中、行橋に寄り道はしたものの、一行が歩いた道はまさしく「中津街道」であった。
 「中津街道」は、古くは勅使が、江戸時代には参勤交代の大名や寺社詣りの人々が通る街道として発達し、整備されてきたという。この街道にも前年の明治28年4月に小倉〜行橋間の鉄道が開通し、ようやく新しい時代が到来しようとしていた。
 一行は暑さに苦しめられながら脇目も振らず歩いたせいか、江戸時代の名残が色濃く残っていた筈の街道の光景は残念ながらほとんど記録されていない。それでも、祖父の日記の記述からできるだけ当時の様子に思いを馳せながら、孫の私が一行の追っかけをやってみたいと思う。
 なお、当時の「中津街道」の道筋策定にあたり、『中津街道−小倉と中津を結ぶ豊前の道−』(豊前の街道をゆく会 編)を参考にさせていただいた。その他、多くの方々から「中津街道」に関する情報や写真をいただいた。ここに厚く御礼申し上げる次第である。

 歩を進め行く事二里余にして小倉に入り、直ちに中津街道を取って進む。

   足立村を経て大字足原村に至り休憩す。時方に正午、炎威漸く加わり、且つ睡魔連りに襲い来たりたれば、イザ休まんと路傍の茶店に入る。菓子一つ二つ摘みてゴロリとなれば、七北生、瓢六の寝坊連早鼾声轟々、夢魂何れの処に漂うやらん。あな羨ましと方外子も傍らの蓆上に身を横たえ早寝に着けり。残りの者も途中の愉快なと語り続くる内巳に二時を過ぎたり。之より猶六里の長程を歩まざるべからず、愚図愚図して居るべき時ならずと怒鳴りつくれば、寝坊の面々快夢を破られたるにや何かブチブチ言い乍ら睡眼をこすりて出ずるもおかし。左は重畳たる連山緑濃くして宛ら屏風を懸けたるに似たり。右に則ち水国十里。須臾にして山開くれば四望沓々として田子の草取る歌の節面白し。湯川柳川曽根の諸村を経て朽網村に入り休憩す。時に衆漸く疲労の色なり。気息喘々として渇甚だしく飢え亦之に加わる。即茶店に入り、有合う物は索麺と云わず菓子と云わず無暗矢鱈に詰め込みて腹を拵えぬ。是なら大丈夫と奮躍一番復た程に上り、軍歌放吟、里人の余等を怪しむも可笑しく足覚えず進む。漸くにして行事に入り橋を渡りて大橋に至り、左折して今井村に向かう。


(1)中津口〜足原

 一行の中津へ向けての出発点は「中津口」だったと思われる。
 慶長7年、細川忠興は神嶽川から分水(P1-2)して響灘に流れ込む砂津川を開削、小倉城東側の外堀とした。そして、小倉城から地方への出入り口に10ヶ所の口門を設けた。このうち、中津城下に至る口門が「中津口門」であり、「中津街道」の実質的な起点となっていた。
 「中津口門」(P1-1)は砂津川に架かる「中津口橋」の北詰にあったとされており、中津街道とは直交する形で設けられた門の両側に石垣が巡らされていた。門自体はおそらく幕末に取り壊されたのであろうが、石垣の一部に使われていた二つの大石は、明治34年に高倉稲荷神社に移されるまで中津口に置かれていた筈なので、一行も目にしたに違いない。

 一行は、中津口橋を渡ると当時広大な村域を有していた「足立村」(現・小倉北区)に入り、「大字砂津」を経て「大字足原」に至った。「大字砂津」も「大字足原」も元は独立した村であったが、明治22年の大合併で「足立村」の大字として組み入れられた。

 一行の行程の近くに「足立小学校」(P1-3)(現・小倉北区宇佐町)がある。平成14年に創立130周年を迎えた、大変歴史のある小学校であるが、一行が通過した明治29年にはこの場所に存在しなかった。
 同校は明治5年企救郡足立村広寿山に寿山小学校として誕生した。そして、明治9年熊本村、明治13年大畠村に移転した。また、行政区の合併などにより名称も度々変わり、明治29年のこの頃は「足立尋常小学校」となっていた。

画像リンク:「九州旅行日記」写真帳>小倉 中津口

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(2)足原〜黒原

 一行が立ち寄って昼寝をした「路傍の茶店」は、現在の小倉北区足原1丁目辺り(P2-1)にあったのではないだろうか。

 この辺り、東側(一行にとっては左側)には妙見山、足立山、高蔵山が連なっており、まさに「重畳たる連山」の風景が一行の目を楽しませてくれたに違いない。一方、西側には神嶽川の上流、永添川が流れてはいるが、「水国十里」は「連山」の対句的表現ではないだろうか。
 なお、足立山の名前は、弓削道鏡に足の筋を切られた和気清麻呂が山麓の湯川の霊泉で治療したところ足が立ったという話に由来するという。

 やがて一行は現在の「黒原」の交差点(P2-2)に達する。当時、「黒原」は「大字足原」の小字だったと思われる。明治20年、当時の黒原村は足立村その他と合併して足原村となった。そして、明治22年、足原村など5村が大型合併をして足立村となり、旧足原村は大字足原となった。[門司往還→編集経緯→地点探索 参照]
 黒原の交差点の400mほど東に妙見宮(P2-3)がある。一行がお詣りした形跡はないが、当時は「御祖(みおや)神社」として賑わっていた。戦後、妙見宮を再称した同社の現在の様子は下記サイトに詳しい。
  『ようこそ!足立山妙見宮へ

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(3)黒原〜湯川

 足立山麓の西側をほぼ真っ直ぐ南に下ると、現在の「湯川」の交差点(P3-1)で国道10号線と合流する。ここは、現在で言えば小倉北区から小倉南区に入ったことになる。
 中津街道はこの湯川の交差点を東に曲がり、国道10号線の北側をほぼ平行に通っている。

 すぐ北側には和気清麻呂が足を治療したと伝えられる「湯川水神社」(P3-2)がある。こちらの境内にも「清麻呂公」の銅像があるという。
 「湯川水神社」の横を登って行くと、「安部山」(P3-3)がある。これは、小倉長浜出身の安部熊之輔が明治38年に開墾して開いた農園とのことである[永楽庵さんのサイト「北九州市まちかど探検」による]。明治29年に近くを通った一行は、当然のことながら、「安部山」を知らなかった。それにしても、当時、この辺りは相当な山道であったろうことが想像できる。

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(4)湯川〜葛原

 湯川の交差点で進路を大きく転じた一行は、前年に開通した日豊線に沿ってほぼ直線的に東に向かう。「安部山公園」駅(P4-1)は昭和62年開業であるから、当時は影も形も無かった。開業当時は無人駅だったが、マンションが立ち並んで利用客が増えたため、橋上駅舎が設置されたという。その下を国道10号線が通っている。安部山公園(P4-2)は桜の名所というから、シーズンには人と車でごった返していることだろう。

 和気清麻呂が祀られている葛原八幡神社(P4-3)の隣は、明治7年開校、130年の歴史を誇る「北九州市立葛原小学校」(P4-4)である。同校のホームページの「学校の歴史」に依ると、一行が通過した頃は「大字葛原字足立235番地」にあり、同地に移転されたのは明治35年とのこと。
 「学校の歴史」にはこの地域の地名の変遷が記述されていて非常に興味深い。

 一行が「田子の草取る歌」を耳にしたのはどの辺りだったのだろう。現在の葛原公園(P4-5)の辺りだったのだろうか。この「田子の草取る歌」について、柏木實先生(北九州市文化財保護審議会会長)に解説していただいた。
『労作歌(仕事歌)の一つ「田の草とり歌」 「田植え歌」など、企救郡独特の歌はなかった。江戸時代から全国的に歌われていた歌が各地に入 り、多少歌詞の一部が変化した程度。メロディーは分からないが、御詠歌風であったと考えられる。歌調の詞形は、中世から流行した「小歌」 (小唄ではない)から展開した「7775調」が多い。
この地方でも歌われた
@腰の痛さや この日の長さ 四月五月の 日の長さ
Aさつき雨ほど 恋したわれて 今は秋田の落とし水
B何の困果で 百姓なろうた 夏は田の草 秋ゃ夜日

@Aは歌詞の内容から本来は田植え歌であるが、田植え、田の草取りのどちらの作業の時にも歌われている。』

 さて、最大の謎が「柳川」という地名である。「湯川」と「曽根」に挟まれているので「葛原」に相当すると思うのだが、どうしても見当たらない。

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(5)葛原〜曽根

 一行はやがて竹馬川にさしかかった。ここに架かる「唐戸橋」(P5-1)は海水の逆流を防ぐために19世紀初めに架橋されたという。それ以来中津街道は海岸の堤防を通ることになったというから、当時の海岸線はこの辺りだったのだろう。しかし、その後干拓が進み、明治31年発行の地図では現在とそれほど変わらない海岸線となっている。

 「下曽根」駅(P5-2)は、一行が歩いた前年の明治28(1895)年豊州鉄道(現JR日豊線)開通と同時に開業している。当初「曽根」駅と称していたが、山陽線「曽根」駅との混同を避けるために昭和20年に現駅名に改称されたとのこと。

 中津街道の最初の宿場町だった曽根宿は下曽根交差点(P5-3)辺りが中心だったのだろうか。

 一行の行程の北側に「北九州空港」(P5-4)の滑走路が横たわっている。この空港は、昭和19(1944)年塩浜跡に開設された「曽根飛行場」(陸軍戦闘機基地)が前身である。戦後米軍に接収された後、昭和48(1973)年「北九州空港」と改称され、昭和63(1988)年、一時中断されていた定期便が復活された。この「北九州空港」は、平成17年末に「新北九州空港」にあとを譲って60年余の歴史を閉じることになっている。一行が通った頃塩田が広がっていたであろうこの辺りの景色はどのように変貌して行くのであろうか。

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(6)曽根

 一行は尚も曽根地内を歩き続けた。旧道沿いにある「曽根東小学校」及び「曽根公園」(P6-1)は、昭和52〜53年に開設されたものであり、一行が通行した頃は存在していなかった。それに対して、「曽根小学校」(P6-2)は明治元年に開設された私塾「尚友堂」が起源という伝統を持っている。一行が通行した頃には4カ年4階級の「曽根高等小学校」として存在していた(創立は明治25年5月)。[以上ホームページ「北九州市立曽根小学校」による]

 中津街道の海側には「曽根新田」(P6-3)が広がっていた。この新田は、大里村(当時)の庄屋・石原宗祐が私財を投じて完成させた猿喰新田の後に小倉藩命によって取り組んだ干拓事業によるもので、事業が完成したとき石原宗祐は96歳になっていたという。

 この辺り旧・国道10号線に重なる中津街道は「神田橋」(P6-4)で貫川を渡る。その東側には「曽根の神事」で有名な「綿都美神社」(P6-5)がある。「曽根の神事」は、曽根新田開作の後[天保12(1841)年]綿都美神社の龍神祭に桃燈山(現在の提灯山)を出したのが起源だそうである。残念ながら一行が綿都美神社にお詣りした記録はない。

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[続く]