門司往還

■ はじめに

7/12日記本文

明治時代の地図で辿る
「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 かつて小倉から門司に向けて一本の街道が延びていた。小倉の常盤橋を起点とする五街道のひとつ、「門司往還(別称:大里往還)」である。九州の「玄関口」門司に通じる「廊下」として、この街道は明治末頃までは北九州の主要道の位置づけにあった。
 「門司往還」は当時の海岸線に忠実に沿っており、万葉の歌にも詠まれた美しい松原を擁していた。

福岡県管内正確図』(積善館 M31/12/10発行)より
「門司〜小倉」部分を切り取り、
「門司往還」(
)及び「中津街道」()を着色。
(図上をクリックすると拡大表示)

 しかし、昭和17年開通の関門鉄道トンネルに象徴される交通機関の変革は、この街道の位置づけを大きく変えることになった。このトンネルの開通により、現「門司駅」(旧「大里駅」)が九州における最初の停車駅となり、ついには昭和39年の国鉄関門連絡船廃止に伴って、旧「門司駅」(現「門司港駅」)は九州の「玄関口」機能を他に譲ることになったのである。これに伴って「門司往還」の重要性も少し後退することとなった。
 「門司往還」の位置づけの変化に追い打ちをかけたのは、新しい交通機関である自動車であったろうと思われる。自動車の発達は昔の街道に替わる新しい道路を必要とし、国道3号線の整備、国道199号線の開通(門司〜小倉間は昭和45年)によって古道「門司往還」は急速に主役の座を失って行った。
 こうした交通機関の発達によって人が集まり、海岸線の埋め立てが進み、工場が建てられ、それによってまた鉄道・道路が拡幅され、美しい海岸線と共に「門司往還」は「時代の波」に削られて行ったのである。

 この「門司往還」がもっとも元気だった頃の明治29年7月、7人の若者が門司から小倉を目指して道を急いでいた。祖父・多田省吾らの旧制山口高校生一行である。
 以下、一行の道中記を基に、かつての「門司往還」を辿ってみることにする。

INDEX

■ はじめに
■ 門司も亦…
■ 柳ヶ浦より… 
■ 鉄路を横切り…
■ 茲を出て…
■ 又歩を進め…
■ 補足
■ おわりに
別ページ
・『編集の経緯
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       「門司往還」

現在地図上の「門司往還」
(注)左図(祖父の日記を祖母が筆写したもの)をクリックしても該当箇所にジャンプします。

 

 門司も亦馬関に劣らざる繁華の地にして、年々人家増殖するは其の人家の悉く新たなるを以ても知らるべし。

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 一行は、明治29年7月12日朝9時半、門司「石田桟橋」に憧れの九州の第一歩をしるした。この「石田桟橋」は明治22年9月から門司渡船の定期営業を始めていた石田平吉にちなんで命名されたものである。

 ここで、自治体名としての「門司」の歴史について述べてみたい。
 先ず、明治22年3月、「小森江村」「門司村」「田ノ浦村」が合併して「文字ヶ関村」となった。この「文字ヶ関村」時代はごく短期間で、明治27年8月には「門司町」となっている。そして、明治32年4月「門司市」、昭和38年2月「北九州市門司区」という変遷をたどるのであるが、一行が訪れたのは「門司町」時代だったことになる。

門司港全景(明治20年代後半) 『門司港駅ものがたり』より
中央の建物は九州鉄道会社本社(*現九州鉄道記念館)
右上に塩田の跡も見える
編集者注*「日本鉄道建設公団九州支所」を経て'03/08/09
「九州鉄道記念館」として開館

 「石田桟橋」から真っ直ぐ「桟橋通り」を「門司往還」に向かう。この「桟橋通り」は、街道から、浅瀬を埋め立てて造成された港(明治22年開港)に向かう道だったのである。「桟橋通り」近くで現在の門司港レトロを形成している「旧三井物産門司支店」(昭和12年)、「旧門司三井倶楽部」(大正10年)、「旧大阪商船」(大正6年)、「旧門司税関」(明治45年)などは当然のことながら未だ存在しない。桟橋近くにある現「門司港駅」が建ったのも18年後(大正3年2月)のことである。一行が見た「桟橋通り」は、石炭商や船会社の出張所が建ち始め、それに伴って旅館が次々と開業を始めた時期だったのではないだろうか。そして、その景観が「人家の悉く新たなる」という表現になったものと思われる。

旅館が並んでいた昔の桟橋通り 門司港駅ものがたり』より

 そんな旅館の一軒に、現在も当時と同じ場所に建っている「群芳閣」がある。「群芳閣」の玄関横に『バナナの叩き売り発祥の地』の記念碑が建っているが、バナナが台湾から門司港に大量に輸入されるようになったのは明治41年以降であるため、一行は「バナナの叩き売り」は目撃していない筈である。

上=旅館「群芳閣」 撮影:石蔵康宏氏
下=バナナの叩き売り発祥の地」記念碑 撮影:許斐宗孝氏

 「桟橋通り」を300mほど歩くと、いよいよ「門司往還」(現「国道3号線」)にぶつかる。
 この辻の北西角には明治24年4月に開業した「門司駅」(現「門司港駅」)があった。現在の「山口銀行門司支店」(元「横浜正金銀行門司支店」、昭和9年)の裏辺りだった。前述のとおり、駅舎が手狭になったことと、より港に近い方が便利ということで、大正3年150mほど桟橋に近づけた現在の地に新駅舎を建設している。
 なお、旧駅舎跡には「九州鉄道0哩標跡」と書かれた標識が埋め込まれ、現在の「門司港駅」には「0哩の碑」が建てられている。ここが九州における鉄道の起点であることを示していると共に、駅舎の移動を物語るものとして興味深い。

上=旧「門司駅」 石蔵家蔵
中=明治24年、開業当時の駅 『門司港駅ものがたり』より
下=「0哩の碑」(現「門司港駅」) 撮影:許斐宗孝氏

 当日は日曜日の朝ということもあって、それほど人の出入りは多くなかったと想像されるが、それでも開業後5年を経過して貫禄を増した九州の「表玄関」を一行は目にしたに違いない。この駅舎の第2待合所に開業当初から「石蔵屋」が茶店を出していた。もしかすると一行もここでお菓子などを調達したかもしれない。

 「門司往還」に入ってすぐの左手(現在「ポートモジ」南西の交差点付近)には、前述の「石蔵屋」の本社・工場があった。創業者の石藏芳平は盟友の石田平吉(前述)と共に資材斡旋その他で九州鉄道に協力した功績で、待合所への茶店出店を認可されたそうである。そして、このドキュメントをまとめるにあたり多大なご協力をいただいた石藏啓司氏は石藏芳平から数えて5代目の子孫にあたられる。

上=駅へ弁当を運ぼうとする石蔵屋の人たち

門司港駅ものがたり』より

下=石蔵屋前 石蔵家蔵


 「石藏屋」の先の右手に「九州鉄道本社」がある。明治21年6月に設立された「九州鉄道会社」は当初博多に仮本社を置いていたが、明治24年4月、旧「門司駅」が開業した直後にこの地に本社を移し、以来、明治40年7月に国鉄に移管されるまで九州の鉄道建設を推進したわけである。「日本国有鉄道精算事業団九州支社」として使われた後、'03/08/09「九州鉄道記念館」として生まれ変わった。この九州最古の赤煉瓦ビルは、110年以上に亘って門司の鉄道の歴史を見続けていることになる。

旧「九州鉄道会社」本社 撮影:石蔵康宏氏

 一行は、右に大瀬戸を、左に風師山、矢筈山を眺めながら歩を進めて行く。
 ここまでの「門司往還」はほとんど現在の国道3号線に重なっている。この道を「九州電気軌道」(後の西鉄北九州線、平成12年11月廃止)が走り始めたのは明治44年6月のことであり、当然彼らの目には触れていない。
 明治時代の地図と現在の地図とを見比べてみると、「日本セメント」(現「太平洋セメント」に差し掛かる辺りで「門司往還」は国道3号線を外れ、海側を通っていたように思われる。「太平洋セメント」の敷地内は消滅しているが、すぐ旧道と思われる道がしばらく続き、「小森江東小」のところで再び国道3号線に合している。おそらく、国道3号線のバイパスができた後、「日本セメント」の工場が建てられたのであろう。

 林芙美子がこの地に生まれた(「神鋼メタルプロダクツ」の工場敷地内とされる)のは、一行が通過してから7年後(明治36年)のことである。
 「門司往還」は、この工場敷地を過ぎた辺りから国道3号線を外れ、現在の「小森江駅」(昭和63年3月開業)を突っ切る形で海岸に向かい、やがて「柳ヶ浦村」(当時)への境に達する。

 柳ヶ浦より沿岸の松林を過ぎ、右に点々たる島嶼を見、

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現在地図上の「門司往還」

 一行は、「門司町」(当時)から「柳ヶ浦村」(当時)に入る。「柳ヶ浦村」とは、明治22年、柳村、大里村など6村が合併してできた自治体であり、明治41年町制を施行して「大里町」と改称された。その後、大正12年には「大里町」そのものも「門司市」(明治32年市制)に併合された。
 「大里(だいり)」の地名は、寿永2(1183)年、源氏に追われた平家がこの地に御所を定めたことから「内裏(だいり)」と名付けられ、享保年間に「大里」に改められたとのこと。

 「門司往還」は、旧「九州鉄道」を横切ってから海岸に接近し、やがて現在の「大里本町1丁目」に至る。この東側には、旧「門司駅」と同じ明治24年4月開業の旧「大里駅」があった。一行は素通りしているのであろうが、この「大里駅」が、46年後の昭和17年4月、位置的に400mほど南に移動して「門司駅」と改称されることなど夢にも思わなかったであろう。昭和17年11月に開通した「関門鉄道トンネル」によって、同時に「門司港駅」と改称された旧「門司駅」に替わって九州の新しい「玄関口」となったわけである。

 さらに小倉に向かって南下すると、現在の「大里本町2丁目」に入る。ここは江戸時代「大里宿」が置かれていたところである。小笠原藩は「大里村」の中心地を宿場町として定め、宿屋や役所を整えていた。寛永12(1635)年、「武家諸法度」によって参勤交代が制度化されると、九州の大名の多くはこの「大里宿」を「玄関口」として使うようになった。文化14(1817)年頃の九州大名の渡海数は、大里が8に対し、小倉が1の割合だったそうである。しかし、大名旅行は地元にはあまり歓迎されず、「いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊まり七つ立ち」という歌が今でも残っているとのこと。

 慶応2(1866)年、「大里宿」は戦火に遭っている。第2次征長戦争(四境戦争)で高杉晋作率いる長州軍と幕府軍との間で激戦が行われ、宿場町は火の海となったようだ。結局幕府軍は敗走して小倉城に自ら火を放った。勝ち組の高杉晋作もこの頃持病が重くなり、翌年4月14日29歳で世を去るのであった。

 やがて一行は松林にさしかかった。元「サッポロビール九州工場」辺りから大里新町の東部にかけてあった、通称「大里松原」(単に「松原」とも呼ばれていた)である。

松林が続いていた大里の海岸 門司港駅ものがたり』より

 「サッポロビール九州工場」の前身である「帝国麦酒門司工場」(商品名:桜ビール)がこの地にできたのは大正元年のことである。その後、大里の海岸は埋め立てられ、国道119号線が建設され、多くの工場が建てられて、「大里松原」は急速に姿を消して行った。一行が訪れる30年前に大里の宿場町は戦火に壊滅し、まだ赤煉瓦のビール工場は存在していない。この時期に一行が眺めた「大里松原」は、どのような景色だったのだろうか。

 一行の右手には「彦島」が「点々たる島嶼」の如く見えた筈である。また、後ろを振り返れば「巌流島」も眺められたことであろう。但し、この「巌流島」は大正年間から埋め立てが進み、慶長17(1612)年に「決闘」が行われた頃に比べると、約3倍の大きさになっているそうであるから、彼らが眺めたのも今よりはかなり小さいものだったと思われる。
 なお、明治31年の地図には「門司町」「柳ヶ浦村」との境の沖合に「与治兵衛岩」が示されている。一行がこの岩礁を目にしたかどうかは別にして、大変いわく因縁が秘められているので、以下に紹介したい。
 文禄元(1592)年の文禄の役のとき、母親の急病を見舞うため出陣先の肥前名護屋城から船で大坂に向かった豊臣秀吉の乗船「日本丸」がこの岩礁に乗りあげて遭難したのである。これを救った毛利秀元は以後秀吉の厚い信頼を受けることとなるが、「日本丸」船頭の「明石与次兵衛」は責任をとって切腹(一説には打ち首)して果てた。この岩礁は明治43年になって取り除かれたのであるが、その上に建てられていた「与次兵衛の碑」は関門の間を行ったり来たりして、昭和30年4月から現在地「めかり公園」に建てられている。そして、昭和54年10月には下関に新たな「与次兵衛の碑」が建立されるという後日談がある。

 一行は、現在の「小森江駅」から「大里本町1丁目」までの区間を除いて今でも健在の「門司往還」をひたすら歩き、やがて「足立村」(当時)への境に達する。

 

 鉄路を横切り、行く事里余にして茶店に憩い行廚を開く。

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 「足立村大字赤坂」(当時)に入ると、すぐ「手向山(たむけやま)」に行き当たる。「手向山」は足立山系が海に滑り落ちるところにあるため、海岸の平地が無く、鉄道は山を削って海岸線(当時)ぎりぎりを走り、「門司往還」は鉄道の山側に沿って通っていたようである。

 以下、足立山麓文化調査会編「足立山麓文化資源基礎調査報告書」の記述をお借りして「門司往還」の痕跡を探ってみる。この報告書は、手向山を小倉側から門司側へ抜けた記述となっている。
『旧道が姿を現わすのは、鹿児島本線と国道3号線の間の人家と線路との間の狭い道で、鹿児島本線拡幅の時に削られたものと思われる。その山沿いの一角に、昔の「水かけ地蔵」の跡の台座がわずかに残っている。幕末の長州との戦いの時に激しい攻防戦を繰り広げた所である。ここでまた道がなくなっている。門司方面を見ると、手向山が急に鹿児島本線に落ち込んで、斜面をかなり削り取ったらしくて岩がごつごつとなっていて、今では全く通れない。いかにも難所といった感じである。明治33年の地図には、これまで海岸沿いで平坦な道が、この付近で急に小高くなっている。その先の岩は削り取っているので、ここから先は道の痕跡も残っていない。どの当たりを旧道が通っていたのか分からない。
 この古い地蔵跡から見て、削り取られた岩肌の向こう側の地点、すなわち、現在ある「水かけ地蔵」から国道3号線を越えた所に、もう1カ所窪地があり、民家がへばり付くように数軒建っている。その間を通って鹿児島本線の線路脇まで行くことができる。近所の家の人が畑にしている50坪ばかりの所が昔の電車道の跡らしく、石積みの崖が10mばかり残っている。大正11年の「5万分の1」の地図を見ると、「九州電気軌道」の線路は、大里往還の道路上の8.23mの地点よりも下を通っている。そうすると、この石積みの崖の下を電車が通り、崖の上が少し平らになっている所が旧街道の跡ではないかとも受け取れる。
 ここから門司の松原の方面を見ると、門司側の旧道の入り口にある青い屋根の家をはっきりと望むことができる。
 再び、国道3号線に出て、手向山トンネルをくぐり門司側に出る。山側を見ると、手向山の裏から大分脇道が下ってきている。大里往還の跡は線路の中だから、大分脇道との合流点は、鹿児島本線の線路の中である。そこからは先ほどの青い屋根の家が、正面に一層はっきりと確認できる。』

 上記のように「門司往還」の「手向山」付近の道筋は、主に鉄道の拡幅(門司〜鳥栖間の複線化は大正12年1月)によって削り取られ、ほとんど痕跡をとどめない状態となっているようだ。いずれにしても、旧街道は現在の「西新町2丁目」の西側で一旦線路の山側に出、「手向山」裾を通過した後、再び「鉄路を横切り」海側に抜けている。
 なお、「手向山」は今でこそ公園地となっているが、一行が通過した頃は砲台が備えられた要塞地(明治20年〜明治末)であった。江戸時代は「鳥越峠」を越える「八丁越」というコースもあったようであるが、恐らくこの頃は一般人は立ち入り禁止になっていたものと思われる。

 現在「手向山公園」に建っている「宮本武蔵の碑」は、武蔵没後9年目の承応3(1654)年、養子の宮本伊織が立てたという由緒あるものであり、そのために「武蔵山」という別称があるという。また、この碑は、明治20年「手向山」に砲台が構築される際、後述の「延命寺」跡の公園地に移設され、戦後現在地に戻されている。従って、一行は、武蔵の事蹟1113文字が刻まれた高さ3mを超える顕彰碑(小倉碑文)は目にしなかったと思われる。

 現在「妙法寺」がある辺りに「延命寺」という名刹があった。第2次征長戦争「赤坂口の戦い」で荒れ果て、明治初年には取り壊されて廃寺となってしまった。現在は「延命寺川」西岸に再建され、戦火の中持ち出された仏像も安置されているという。
 この「延命寺」の名前は川や橋に冠せられているが、埋め立て前の「赤坂海岸」も昔は「延命寺の浜」と呼ばれていたようだ。一行が昼食をとった「茶店」もこの海岸にあったと思われる。「延命寺の浜」にも「大里の浜」から続く美しい松林があり、眼前に広がる「彦島」の景観と共に、彼らの目を楽しませてくれたに違いない。

赤坂海岸 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より
赤坂延命寺海岸の光景。線路は九州鉄道である。
この写真はガラス原板を焼付けたもの。
 茲を出て行く事里余にして又松林に入る。青松参差、白波と相映じ、光景実に奇観たり。因って暫く松下に憩う。海水漫々として風起こらず波立たず、遙かに六連諸島を隠約の間に臨み、松韻颯々として漁郎の款乃と交わるも亦佳なり。

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 「延命寺の浜」で美しい景色を眺めながら昼食をとった一行は、元気百倍、再び歩き始めた。「延命寺川」(『福岡県管内正確図』では「大谷川」とされている)を「高浜橋」で渡ると、そこは「足立村大字富野」(当時)である。

 ここから万葉の「企救の浜」のハイライト「高浜」「長浜」が続く。先ずは北九州市文化財保護審議会会長の柏木實先生からお寄せいただいた解説を紹介する。

『この一帯は、「企救の高浜」「企救の長浜」と呼ばれ、白砂に根上り松が群生する海岸線で、遠く万葉の昔から旅人の心を癒した。彼らはこの美しい自然の織りなす叙情に大いなる想念を燃やし、幾種かの歌を残している。

   豊国の 企救の高浜 高々に 君待つ夜らは さ夜ふけにけり

【大意】
豊の国の高浜の高のように、高々と爪先立つ思いで君を待つ夜はもう更けてしまった。』

根上り松 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より

   豊国の企救の浜松こころ哀く
      何しか妹に相言ひ初めし(『萬葉集』)
と詠まれている。高浜海岸の根上り松である。
高浜は延命寺海岸であろう。ここの松原は有名であった。
現在はまったく面影を止めていない。

 「根上り」とは、根本の土が流出して、写真の左上の松のように根が地表に浮き上がった様をいう。また、「参差(しんし)」とは、互いにいりまじる様をいう。まさしく「奇観」だったのであろう。
 この辺りから、「六連諸島」、すなわち現在の馬島、六連(むつれ)島、藍島、白島が見えるそうである。「隠約の間」というから、当日もそれとなく見えたのであろう。

 「高浜」の先の「長浜」は、昔から漁師町として有名だったそうである。
 響灘の沖では盛んに鰊漁が行われていた。漁師の勇ましい掛け声「漁郎の款乃」が彼らの耳にも達したのかもしれない。

 又歩を進め行く事二里余にして小倉に入り、直ちに中津街道を取って進む。

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 「万葉の浜」を堪能した一行は、現在の「高浜2丁目」「高浜1丁目」「長浜町」を経て、「小倉町」(当時)に向かう。

 現在、「門司往還」は、「東小倉駅」の北側で200mほど途切れているが、その後「東京製鋼」の工場敷地に沿って健在で、「砂津川」に向かって一直線に延びている。途中、1本だけ残った「根上り松」や「エンマ堂」「貴船神社」などがわずかに往時を物語っている。
 当時は「門司往還」のすぐ北側が海岸で、「長浜浦」と言う昔からの漁師町だった。明治22年、「長浜浦」「平松浦」は「小倉町」に合併するのだが、「合併を要する理由」を『長浜浦、平松浦は従来漁浦にして、耕地山林なく、各独立自治の資力に乏しく、而して浦民往々商売を営むを以って、小倉市街と人情粗々同じく、地形密接するが為め』(足立山麓文化調査会編『足立山麓文化資源基礎調査報告書』)としていることからも、当時の「長浜浦」の様子を知ることができる。
 「長浜」には、「高浜」と同様、美しい松林が続いていたという。

   豊国の 企救の長浜 行き暮らし 日の暮れ行けば 妹をしぞ思ふ

 現在は、埋め立て地が「砂津川」河口を挟んで両側に張り出し、「万葉の叙情」からはほど遠い景観となっている。

長浜海岸 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より

萬葉の昔から知られた名所。現在は199号の道路になっている。
昭和8年ごろのもの。

 一行は、「門司口橋」で「砂津川」を渡り、ついに「小倉町」(当時)に入る。
 廃藩置県後から「町」でスタートした「小倉町」ではあるが、明治22年3月に「長浜浦」「平松浦」が合併してもまだ町域は極めて狭いものだった。明治33年、市制を施行するが、昭和38年「北九州市小倉区」となる前の市域が成立するには、昭和2年の「足立村」との合併を待たなければならない。

 藩政時代、小倉の街は「紫川」を境にして「西曲輪」「東曲輪」に分けられていた。この「東曲輪」には、北から「門司口」「富野口」「中津口」「香春口」の4つの「口門」が設けられていた。この中で、「門司往還」の出入り口である「門司口」は最も重要な門とされて、20人の門番がつき、常時開門されていたそうである。
 現在は、新幹線の高架下に「門司口門跡」の立て札が立っているだけのようであるが、彼らが見た「門司口」はどのような姿だっただろうか。

 一行は、この「門司口」で進路を南に転じ、「中津口」を目指して歩いたものと思われる。砂津川沿いを500mも歩くと、再び「砂津川」を渡る「中津口橋」に達する。
 ここからが「中津街道」である。

 補足(門司口〜常盤橋)

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 彼らが目にしなかったであろうと思われる、「門司口」から「常盤橋」までの「門司往還」を辿ってみたい。

 すっかり市街化された現在、旧街道はすっかり埋没してしまっているようであるが、とにかく「小倉城」を目指して、整然と碁盤の目のようになっている街路を西に向かう。やがて右手に山陽新幹線九州乗り入れ(昭和50年3月)後の新しい玄関口「小倉駅」が見える。
 実は、一行が小倉を訪れた頃、ここには「小倉駅」は存在しなかった。旧「門司駅」「大里駅」と同じく明治24年4月開業の旧「小倉駅」は、紫川を渡った現在の「室町3丁目」、「西小倉駅」の辺りにあったのである。現在地に移ったのが昭和33年3月というから、一行が小倉を訪れてから60年以上も後のことになる。

 当時、現「小倉駅」の北側はすぐ海岸だった筈である。現在は「浅野町」という広大な埋め立て地が広がっているが、これは浅野総一郎が昭和の初めから昭和11年にかけて行った海岸埋め立て工事によるものだそうである。これによって小倉は紫川と砂津川の河口に近代的な港湾を手に入れることになる。

紫川口 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より

大正中期ごろと思われる。帆船は漁船が主であって、鰯漁船が
多かったといわれる。左側の建物は小倉製鋼所である。

 現「小倉駅」の南東側、「勝山通り」を越えた「鍛冶町1丁目」に森鴎外の旧居がある。森鴎外は明治32年6月から3年9ヶ月間小倉に滞在しており、赴任から1年半をこの住居で過ごしたそうである。一行が訪れた頃、森鴎外はまだ小倉市民になっていなかったことになる。

 さらに西に進むと、「紫川」に行き当たり、現在「木の橋」と名付けられた「常盤橋」が掛かっている。この「木の橋」を渡って真っ直ぐ進むと、「西小倉駅」の駅前通にぶつかる。前述のとおり、ここに元祖「小倉駅」があった。

小倉駅 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より

旧小倉駅である。宝町にあった。明治24年4月1日、
運輸営業を開始した。昭和33年の新小倉駅開業まで
馴染みの駅であった。現在その跡に西小倉駅が
再び営業を開始している。写真は創立ごろのもの。

 当時はすぐ海岸だった筈の「西小倉駅」北側には「東港」及び「許斐町」と呼ばれる広大な埋め立て地が広がっている。現在、「住友金属小倉製鉄所」(前身は大正7年創業の「浅野小倉製鉄所」)の工場群が立ち並んでいる「許斐(このみ)町」は、埋め立てを手がけた筑豊の炭坑主、許斐鷹介にちなんで名付けられたそうである。

 「西小倉駅前通」を真っ直ぐ南に進むと、小倉のシンボル「小倉城」に出る。
 「小倉城」は、細川忠興によって慶長7(1602)年本格的に築城されて以来400年の歴史を誇るのであるが、当時は殺風景なものだったと想像される。先ず、中心にそびえる4層5階の天守閣は、天保8(1837)年に焼失して以来昭和34(1957年)に再建されるまで、存在しなかった。また、明治4年に西海道鎮台が配置されて以来、歩兵第14連隊(明治8年)・第12師団(明治31年)と、軍隊の配置が続き、昭和32年に米国駐留軍の接収が解除されるまで、一般市民には縁の無い場所だった筈である。明治25年刊の『福岡県企救郡小倉町実測全図』を見ても、現「勝山橋」を渡った国道199号より南側の旧武家屋敷及び城址は「陸軍用地」と表示してあるだけの「空白地帯」である。

 「小倉城」を堀に沿って西回りすると、再び「紫川」を「中の橋」で渡り、そこから北へ「鴎外橋」「勝山橋」を経て「常盤橋」に戻る。
 「常盤橋」は、慶長年間に架橋されて以来「紫川」の洪水のために少なくとも2度に亘って破損し、明治22年、ついに鉄橋となったものである。
 ここが、今まで辿って来た「門司往還」を始めとして、中津や宇佐への「中津街道」、香春や秋月への「秋月街道」、博多や唐津への「唐津街道」、そして、佐賀や長崎への「長崎街道」、すなわち「九州五街道」の起点とされていた。

常盤橋 写真集 明治・大正・昭和 小倉』より

大正中期と思われる。宝町の長沢家から写したもの。
■ おわりに

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「門司往還」

現在地図上の「門司往還」

 明治29年7月12日、7人の旧制山口高校生が数時間で踏破した『門司往還』は、以上のような歴史とロマンと見事な松林が群生する海岸を持っていたのである。天国にもインターネットが通じているとしたら、7人はどんな感慨をもって見ているだろうか。
 細々ながら、はっきりと残っている『門司往還』にも、新たな開発の波が押し寄せようとしているやに聞いている。かつて、ここに美しい街道があったということを後世に伝えられるような措置がとられることを願ってやまない。

 このドキュメントをまとめるにあたって、別ページ『編集の経緯』に紹介させていただいたように多くの方々のご協力、ご支援をいただいた。ここに、心から御礼申し上げる次第である。

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