《エペイロス専制公国》
コンスタンティノス +―ヨアンネス・
・アンゲロス | アンゲロス・ドゥーカス―――――+
‖――――――――+ ‖―――――――――――――+|
テオドラ・コムネナ | ゾエ・ドゥーカイナ ||
(皇帝アレクシオス | ||
1世の娘) +―アレクシオス ||
| ||
+―マリア ||
| ||
+―エウドキア ||
| ||
+―ゾエ ||
| ||
+―アンドロニコス―→アンゲロス朝||
| ||
+―イサキオス ||
+――――――――――――――――――――――――――+|
|+――――――――――――――――――――――――――+
||
|+―●ミカエル1世――――+―◆ミカエル2世・アンゲロス・コムネノス――+
| コムネノス・ドゥーカス| エペイロス専制公(1237−1271)庶子 |
| エペイロス専制公 | 配:テオドラ |
| (1204-1215) | (ヨアンネス・ペトラリファスの娘) |
| 庶子 +―マリア・コムネナ・アンゲラ |
| ‖――――――――――――――――――+|
| コンスタンティノス・メリセノス ||
| +――――――――――――――――――――――+|
| | |
| +―ニコラス・コムネノス・メリセノス |
| 配:アンナ・コムネナ・パレオロガ |
+―●テオドロス1世 (皇帝ミカエル8世の姪) |
| コムネノス・ドゥーカス+―●ヨアンネス |
| エペイロス専制公 | ○テッサロニキ皇帝(1237-1242) |
| (1215-1224) | テサリア専制公(1242-1244) |
| テッサロニキ皇帝 +―○ディミトリオス |
| (1224-1230) | テッサロニキ専制公(1244-1246) |
| ‖―――――――――+―アンナ |
| マリア | セルビア王ステファン・ロドスラフ妃 |
| (ヨアンネス・ペトラリ +―エイレーネ |
| ファスの妹) ブルガリア帝王イヴァン・アッセン2世妃 |
+―●マヌエル |
| テッサロニキ皇帝(1230-1237) |
| 配:マリア(ブルガリア帝王イヴァン・アッセン2世の娘) |
+―コンスタンティノス |
| テサリア・セヴァストクラトル |
| (1295/6-1303) |
+―アンナ |
ケファリニアのマッテーオ・オルシーニ夫人 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―ミカエル(ディミトリオス)
|
+―ヨアンネス
|
| アンナ
| (ビザンツ皇帝ミカエル8世の姪)
| (2)‖―――――――――+―タマール
+―◆ニケフォロス1世 | タレント公フィリップ妃
| [1267頃-1295頃] +―◆トーマース
| エペイロス専制公 エペイロス専制公
| (1271-1296) (1296-1318)
| ‖ 配:アンナ(ビザンツ皇帝ミカエル9世の娘)
| (1)‖―――――――――――マリア
| マリア ‖――――――――――+
| (ニケア皇帝 ヨハネス1世オルシニ |
| テオドロス2世の娘) |
|+―――――――――――――――――――――――――+
||
|+―マルゲリート
|| グリエルモ・トッコ夫人
|+―ギイ
||
|+―◆ニコラス・オルシニ
|| エペイロス専制公
|| (1318-1323)
|| 配:アンナ(ビザンツ皇帝ミカエル9世の娘
|| エペイロス専制公トーマースの未亡人)
|+―◆ヨハネス2世オルシニ
| エペイロス専制公
| (1323-1335)
| ‖――――――――――◆ニケフォロス2世
| アンナ エペイロス専制公
| (アンドロニコス (1335-1336,1356-1359)
| ・パレオロゴスの娘) ‖
| マリア・カンタクゼナ
+―ヘレナ (皇帝ヨアンネス6世の娘)
| [?-1271]
| ‖
| マンフレッド
| [1232-1266] ドイツ皇帝フリードリヒ2世の庶子
| シチリア王(1258-1266)
+―アンナ
| アカイア公ギヨーム・ド・
| ヴィラルドゥアン妃
+―◇ヨアンネス1世―――+―ミカエル
| ・ドゥーカス |
| [1267頃-1296頃]庶子 +―ヘレナ
| テサリア専制公 | アカイア公
| (1271-1295) | ギイ1世・ド・ラ=ロシュ妃
| +―テオドロス
+―テオドロス | テサリア・セヴァストクラトル
庶子 +―◇コンスタンティノス―――◇ヨアンネス2世
テサリア専制公 テサリア専制公
(1295-1303) (1303-1318)
‖
エイレーネ
(ビザンツ皇帝アンドロ
ニコス2世の庶子)
1204年のコンスタンティノープル陥落の際に、征服者のもと何らかの地位を得たものも多かったが、ラテン人に征服された土地を離れ、非征服地にて地方人民の支持を得て新しい政治組織を作り上げたものたちもいました。それがのちにコンスタンティノープル奪還を果たすニケア帝国、トレビゾンド帝国、そしてこのエペイロス専制公国です。
エペイロス専制公国は、アンゲロス朝のイサキオス2世・アレクシオス3世の従兄弟でセヴァストクラトルのヨアンネス・ドゥーカスの庶子ミカエル・アンゲロスがアルタを首都として建設しました。ヨアンネス・ドゥーカスは父方のアンゲロスの家名ではなく母方のドゥーカスを名乗っていましたので、その子のミカエルもコムネノスとかドゥーカスと名乗り、彼の時代はまだ専制公とは称していませんでした。
ミカエル1世はコンスタンティノープル陥落後、一時テッサロニキ王国のボニファチオに仕えましたが、のちにはギリシャ人のラテン人への抵抗を指導し独立の支配者として行動しました。彼は周囲のラテン人との戦いを優勢のうちに進め、1215年にはコリントス湾からアルバニアに至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島におけるギリシア人の政治的結集の中心となりました。しかし彼はこの年に暗殺され、兄弟であるテオドロス1世が後を継ぎました。
テオドロスは勇敢さと活力においてミカエルを凌ぎ、彼のもとエペイロスは急速に勢力を増大させていきました。彼は皇帝アンリ死後のラテン帝国の衰退に乗じてテッサロニキ王国を攻撃し1224年には滅亡させました。その結果テオドロスの支配はエペイロスからテサリア・マケドニアの大部分に及び、バルカン側のギリシャ人の覇者となった彼は公然と皇帝と称しました。こうして弱体化したラテン帝国をはさんでニケア・テッサロニキという二つのギリシア人帝国、そしてブルガリアという一つのスラヴ人帝国が共にコンスタンティノープルをうかがうという形勢になりました。テオドロスは1225年にはアドリアノープルを占領しコンスタンティノープルを攻撃可能な距離にまで迫っていました。しかしブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世もコンスタンティノープル占領を目指しており、1230年両者は戦争に突入しました。しかし、テオドロスはクロコトニツァの戦いで決定的に敗北して捕虜となり、テサロニキではテオドロスの弟マヌエルが帝位を継いだものの、テッサロニキ・テサリア・エペイロスの支配権を維持するのがやっとでした。
ブルガリアで囚われの身となっていたテオドロス1世は、イヴァン・アセン2世の后が死ぬと、彼の娘エイレーネをアセン2世と結婚させ、自由の身になるとテッサロニキに戻って弟マヌエルと追い払い、気の進まぬ息子ヨアンネスを帝位に就けました。しかしテオドロスは態度を変え、マヌエルを説得して同盟を結び、もう一人の弟コンスタンティノス、ラテン帝国、アカイア公国等とも対ニケア帝国の同盟を結びました。一方、エペイロスはミカエル1世の庶子ミカエル2世が叔父のテッサロニキ皇帝マヌエルの同意を得てその支配者となっており、テッサロニキから分離することとなりました。
1241年ニケアのヨアンネス3世はまずはテッサロニキのテオドロスを倒さなくてはコンスタンティノープルの回復はならないと考え、テッサロニキへと進みました。戦いを優勢に進めていたところ、テッサロニキの皇帝ヨアンネスはニケアの宗主権を認めあらためてヨアンネス3世から専制公の称号を受けることに同意しました。
専制公ヨアンネスは1244年に死去し、弟ディミトリオスが後を継ぎましたが、彼は無気力な若者で、1246年にはニケアのヨアンネス3世により捕虜となり、テッサロニキ専制公の領土はニケア帝国に併合されました。
一方エペイロスのミカエル2世は、1251年かつてのテサロニキ皇帝テオドロスに勇気づけられマケドニアに侵入しましたが、劣勢に陥り、1253年和平を結びました。そして、1257年には再びニケア帝国との争いが始まり、同年末にはマケドニアを支配しテッサロニキに迫りました。ミカエル2世はシチリア王マンフレッド・アカイア公ギヨーム2世と同盟を結び、ニケア帝国と対立しました。1259年ミカエル・パレオロゴス(のちのミカエル8世)率いるニケア帝国軍と同盟軍はペラゴニアにて激突しましたが、統一に欠けた同盟軍は大敗を喫し、エペイロスの首都アルタはミカエル・パレオロゴスにより占領されました。そして1261年にニケア帝国がコンスタンティノープルを回復しビザンツ帝国を復興し、1264ミカエル2世は帝国の主権を認めました。
1271年ミカエル2世が死去すると彼の子のニケフォロス1世が後を継ぎましたが、ミカエル2世の庶子ヨアンネス1世はテサリアで独立し、帝国に執拗に抵抗しました。ヨアンネスは1275年・1277年のビザンツ帝国の攻撃を巧みな戦術によって退けました。しかしその後エペイロスとテサリアの関係は悪化していきました。
1296年エペイロスのニケフォロス1世が没するとトーマースが後を継ぎましたが、1318年彼は甥のケファリア伯ニコラス・オルシニに暗殺され、エペイロスのコムネノス・ドゥーカス家は断絶しました。ニコラスはトーマースの未亡人アンナと結婚し専制公位を継ぎました。ニコラスの後を継いだのは弟ヨハネス2世でしたが、内部の不和及び外部よりの攻撃でエペイロスは弱体化し、1335年ヨハネスは妃によって毒殺され、公妃アンナと息子のニケフォロス2世が政権を握りましたが、ビザンツのヨアンネス・カンタクゼノス(ヨアンネス6世)によって占領されました。1356年にニケフォロス2世が挙兵したものの、1358年にはアルバニア人に敗れ死亡しました。
またテサリアはヨアンネス1世の死後、コンスタンティノス、ヨアンネス2世と専制公位を継ぎましたが、ヨアンネス2世の死後テサリアは独立の国家であることをやめ、ビザンツ帝国に従属することとなりました。