「シリーズ交代寄合」第16回は木下家です。
●桓武天皇―――●葛原親王―+―高棟王 +―●国香――――+
一品式部卿| 大納言 | 常陸大掾 |
| 堂上平氏祖 | 鎮守府将軍 |
+―●高見王―――●高望王―+―良兼 |
無位 賜平朝臣| 下総介 |
上総介 +―良将 |
| 鎮守府将軍 |
+―良孫 |
| 上総介 |
| 鎮守府将軍 |
+―良広 |
| |
+―良文 |
| 村岡五郎 |
+―良持 |
| 下総介 |
+―良茂 |
常陸少掾 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―●貞盛―――+―維叙
| 鎮守府将軍| 上野常陸陸奥守
| 陸奥守 | 右衛門尉
+―繁盛 +―維将
| 陸奥守 | 大夫尉 常陸介
+―兼任 | 筑前肥後守 +―●正度――――――――+
下野守 +―維敏 | 斎宮助 諸陵助 |
| 上野常陸介 | 常陸介 出羽守 |
| 陸奥守 | 越前守 帯刀長 |
+―●維衡―――――――――――+―正済 |
帯刀 上野常陸介 出羽守 |
伊勢陸奥出羽伊豆下野佐渡守 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―維盛
| 駿河守
+―貞季
| 駿河守
+―季衡
| 木工助 大夫尉 +―家衡
| 下総守 | 鷲尾太郎
+―●貞衡――――――+―●貞清―――+―●清綱―――●維綱―――――――+
| 安濃津三郎 | 安濃津三郎 桑名二郎 右衛門尉 |
| 帯刀長 左衛門尉| 中宮長 鷲尾二郎 桑名三郎 |
+―正衡 +―貞国 |
出羽守 陽明門院長 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―顕綱 +―良基 +―宗平 +―邦平 +―光綱
| | | | 右衛門尉 | 民部丞
+―●良平――+―●桓平―+―●光平―+―●員平――――+―忠綱
| 丹後九郎 摂津守 伯耆守| 民部丞 | 四郎
| 桑名九郎 +―宗光 +―●恒清――――+
+―女子 四郎左衛門尉| 玄審允 |
柘植宗清妾 +―真観 |
按察公 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―清平 +―●満盛―――――●賢盛――――+
| 四郎左衛門尉 | 兵庫允 伊賀守 |
+―●心光―――――●明平―――●政綱―+―政光 |
杉原 兵庫允 兵庫允| 五郎右兵衛尉 |
三位房 +―行光 |
玄審允 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―長恒――――――孝盛―――――晴盛
| 安芸守 伊賀守 兵庫助
| 時盛
+―●隆盛―――+―家利―――+―家次――――――+―長房
実時盛子か| 七郎兵衛| 伯耆守 | 伯耆守
隆泰 | | 丹波福知山城主|
| +―女子 +―女子
| | 浅野長勝妻 ‖
| +―女子 ‖
| 朝日 ‖
| ‖――――――+―●家定―――――――+
+―●隆利――――●定利 | 孫兵衛 肥後守 |
孫七郎 助左衛門 | 二位法印 |
入道道松 | 賜木下氏豊臣姓 |
| 大坂城留守居 |
| 播磨姫路二万五千石|
| 備中国内二万五千石|
+―女子 |
| お禰 寧々 寧子 |
| 豊臣吉子 高台院 |
| 浅野長勝養女 |
| 豊臣秀吉北政所 |
+―女子 |
おらく 末津子 |
浅野長政室 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―勝俊 +―某
| 大蔵 侍従 少将 | 早世 長左衛門
| 若狭小浜六万二千石 +―某
| 関ヶ原合戦の時、任 | 早世 小左衛門
| 務放棄により城地没収 +―俊治
| 号長嘯子 | 文蔵 左兵衛 伊賀守
| 室森可成女 | 二万五千石
+―利房 | 子孫豊後日出藩二万五千石
| 初勝義 宮内少輔 +―女子
| 若狭高浜二万石 | 松平忠重室
| 関ヶ原合戦後、領地没収 +―女子
| 父没後、遺領を兄勝俊と争| 京北野松梅院某妻
| い、遺領の地を没収せらる+―女子
| 大坂の陣の功により、備中| 木下利当室
| 足守二万五千石を賜う +―女子
| 子孫備中足守藩二万五千石|
+―●延俊――――――――――+―●延次―――――――+―●延知―――――+
| 長助 右衛門大夫 | 八蔵 縫殿助 延由| 新太郎 内匠 |
| 五百石 関ヶ原の功により| 豊後国内で五千石を| 居所喜多之原 |
| 豊後日出三万石を賜う | 分知さる | 妻坂部広利女 |
| 室細川藤孝女 | 居所鳥越 +―延明 |
+―俊定 | 妻大久保忠常養女 | 宗四郎 紀四郎|
| 信濃守 | 後妻小浜嘉隆女 | 内藤紀伊守家臣|
+―秀秋 +―女子 | 江坂正由養子 |
| 辰之助 左衛門督 中納言| +―女子 |
| 秀俊 豊臣秀吉養子 +―女子 | |
| 小早川隆景養子 | 吉田元智妻 +―女子 |
+―某 +―女子 |
出雲守 外記 号宗連 | 堀立庵某妻 |
豊臣秀吉秀頼臣 +―俊之 |
子孫豊後日出藩士 | 孫市 三郎左衛門 |
| 細川越中守家臣 |
+―俊重 |
| 藤兵衛 長兵衛 |
| 子孫幕臣三百俵 |
| 長保の時に宗家の |
| 名跡となる |
+―某 |
| 千松 |
+―女子 |
| |
+―女子 |
中川山城守家臣 |
古沢九郎右衛門某妻 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―女子 +―某 +―女子
| | 早世 八蔵 |
+―女子 +―女子 +―俊恒
| | | 彦治郎 亀之助
+―女子 +―女子 | 父に先立ちて死す
| | +―某
+―某 +―女子 | 早世 多門
| 早世 松千代 | +―●俊徳――――――――――+
+―●重俊―――――――+―某 | 長内 辰五郎 大蔵 |
| 鶴千代 縫殿助 | 早世 永治郎 | 内匠助 縫殿助 |
| 妻本多忠将女 +―女子 | 妻伊東長丘女 |
+―女子 | | |
| 小浜良隆妻 後離婚+―●栄俊―――――+―俊胤 |
| 坪内定治妻 | 初延武 亀千代| 富五郎 安之助 |
+―延房 | 亀之助 縫殿助| 左守 |
| 幸松 多喜之助 | 妻木下俊量女 | 花房職虎養子 |
| 数馬 新三郎 +―勝成 +―女子 |
+―女子 | 初延成 万治郎| |
| | 幸之助 靱負 +―俊耀 |
+―女子 | 半三郎 市之進 主水 隼人 |
前田勝誠妻 | 牧野嘉成養子 |
+―女子 |
| 筒井忠雄妻 |
+―女子 |
| 家臣太田氏養女 |
| (のりかた) |
+―[宝]雋 |
| [缶] |
| 熊五郎 斎宮 |
+―女子 |
| 家臣山田氏妻 |
+―俊允 |
千吉 主税 伊織 |
細川越中守家臣 |
木下俊親養子 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―某
| 早世 円治郎
+―某
| 早世 豊治郎
+―某
| 早世 亀太郎
+―●俊昌―――――+=●俊直――――――+=●俊隆―――――●俊芳―――+
| 初俊爽 熊五郎| 初義直 喜之助 | 辰五郎 次之助 |
| 辰五郎 大内蔵| 縫殿助 | 内匠助 泰俊 |
| 妻伊東長詮女 | 実土方雄端三男 | 実俊昌二男 |
+―某 +―俊隆 | 妻水野忠実女 |
| 虎三郎 辰五郎 +―義苗 |
+―某 俊昌が遺腹の子 | 彦吉 大和守 |
| 幸之丞 兄俊直養子 | 土方雄貞養子 |
+―某 +―某 |
| 長之助 | 吉太郎 |
+―女子 +―某 |
| | 常之助 |
+―某 +―某 |
直次郎 杉原を称す 乙治郎 亀之丞 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+=●俊国―――●俊清===●俊明――――女子
| 図書助 内匠助 羽柴喜久丸 ちか姫
| 妻俊芳女 亀千代 俊
+―女子 羽柴 実桑原為政男
俊国妻 妻お峯
今回の木下家は、その姓でお察しの通り豊臣秀吉ゆかりの家系です。秀吉の正室北政所お禰(寧々)の兄家定は、秀吉との縁で木下家定と名乗りましたが、もともとは桓武平氏桑名氏族の杉原氏でした。
しかし従来は家定・お禰の母方の祖父杉原家利の出自や、家定の実父定利と家利の関係ははっきりわかりませんでした。これについては『古代氏族系譜集成』では上記のように隆盛と隆利を挿入することによって伊勢平氏の杉原氏の流れであることを解明しています。(但し、これが真実であるかどうかについてはまだ研究の余地があるようですが)
家定は妹との縁で秀吉によって取り立てられ、羽柴氏の称と豊臣姓を賜り、播磨姫路二万五千石を領しましたが、関ヶ原合戦後、備中足守に移封されました。嫡男勝俊は、若狭高浜六万二千石を領しましたが、関ヶ原合戦の際に任務を放棄した罪により所領没収となり、二男利定が父家定の所領を継ぎました。また三男延俊は、関ヶ原の功により豊後日出三万石を領し、利定・延俊の子孫が近世大名として明治に至りました。
今回の立石木下家は、上記延俊の四男延次を祖とします。延次は父の没後遺領の内五千石を分知され、立石を居所とする交代寄合となりました。
普段であればこれで終わるのですが、実はこの立石木下家の祖・延次にはちょっと面白い伝承があります。実は延次は、大坂の陣後捕らえられて処刑されたとされている豊臣秀頼の息子国松の後身だというのです。
私がこの伝承を初めて知ったのは、『豊臣家存続の秘密』(日本文芸社、前川和彦著)という本によってです。この本によると、立石木下家の宗家・豊後日出藩木下家には一子相伝の秘事があって、それは秀頼・国松父子は大坂で死んではおらず、鹿児島に逃れ、国松はその後縁者である木下延俊を頼って日出に来て、延俊の子・縫殿助延次(延由)となったというのです。
どこまで本当の話なのかはわかりませんが、非常に興味深い話です。
立石木下家は11代俊清の時に明治を迎えますが、12代俊明(俊)が大正五年に没し、彼の代で同家は断絶したと同書には書いてあります。
しかし、『旅とルーツ』第78号によると御子孫がいるという話で、現在は豊臣姓を名乗っておられると書いてありましたが...