「シリーズ交代寄合」第10回は本堂家です。
●源頼朝―――●忠頼―――――――+―某
征夷大将軍 千鶴丸 式部大輔 | 和賀の家督を継ぐ
母伊東祐親女 +―●忠朝――――――――○―○―○――+
陸奥国和賀に住し、 伊勢守 式部大輔 |
和賀の御所と号す 出羽国仙北中郡本堂城を |
陥れ、これに住するが故 |
に、家号を本堂と称す |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―●忠義―――●義次―――●義胤―――●義章―――●義通―――●久通――+
式部丞 少輔次郎 伊勢守 源太郎 源大夫 |
少輔太郎 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―●義安―――●義房―――●義親―――●頼親―+―女
伊勢守 伊勢守 伊勢守 伊勢守| 成岡弾正某妻
+―●朝親――――――――+
伊勢守 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―●忠親―――――――●茂親――――――+―●栄親―――――――――――+
伊勢守 伊勢守 | 源七郎 |
或は和賀を称す 常陸国志筑に於て| 弟に分知し八千石を知行す |
豊太閤より出羽国 八千五百余を賜う| 妻内藤忠興女 |
仙北中郡本堂にて | 後妻伊東長昌女 |
八千九百八十石余 +―親澄―――――――――――+|
を知行すべき旨朱 | 伊織 ||
印を賜う | 父が采地の内五百石を分ち||
| 賜う 書院番 ||
+―保親 +――――――――+|
| 権平 | |
+―某 +―某 |
| 源三郎 左内 遺跡を継ぐ|
+―某 が、のち無嗣絶家|
| 安之助 |
+―某 |
源太郎 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―某 +―●伊親=======●苗親―――――――――――+
| 庄二郎 | 八太郎 源七郎 小太郎 主計 |
+―●玄親――――――+―女 実戸川達富四男 |
| 五郎八 源七郎 | 石川政常妻 母は玄親女 |
| 妻秋月種信女 +―女 |
+―女 戸川達富妻 |
堀利直妻 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―●豊親========●親房――――――――+―親常
| 菊千代 靱負 源之助 大蔵 伊豆守 大和守| 新三郎
| 妻戸川達索女 実板倉勝清四男 | 妻堀直著女
+―女 大番頭 西城御側役 +―忠清
渡辺昌妻 妻松平忠名養女 | 初忠吉 熊次郎 八兵衛
(菅沼定用女) | 榊原忠長養子
後妻朽木紀綱女 +―元風
| 豊三郎 右近
| 水野元丈養子
+―女
|
+―房鵠
| 初昌与 勇次郎 頼母
| 長井昌豊養子
| のち故ありて帰家し、
| 家臣となる
+―女
| 小堀政徳妻
+―女
| 小堀政徳後妻
+―女
| 朽木綱泰妻
+―女
| 榊原忠長養女
+―女
| 堀直雄妻
+―●親庸――――――――+
| 亀次郎 内蔵助 |
| 妻石川総博女 |
+―親亨 |
| 九十郎 |
+―女 |
| |
+―某 |
| 大三郎 |
+―親成 |
茂十郎 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―●親道―――――+―●親久――――――――――+―●親雄―――――――+
| 内蔵助 親通 | 内膳 式部少輔 | 季雄 男爵 |
| 妻松平頼説女 | 明治元年一万五千石(一万| 夫人竹内治則三女 |
+―女 | 百十石)にて諸侯に列す +―錦丸 |
| 清 堀金直平妻| 華族 男爵 | |
+―女 | 夫人伊東祐相女 +―東男 |
| 久 戸田直増妻+―千賀子 | |
+―義近 | 菅谷政悳妻 +―龍雄 |
| 金沢義保養子 +―佳致 横手信太郎養子(離)|
+―女 | 親彬 佐橋佳為養子 +―――――――――――+
| 豊 永井武虎妻+―重清 |
+―親明 | 高橋重薩養子 +―●親威―――――――+
+―瓢造 男爵 |
| 孝則 森村兵蔵養子 +―――――――――――+
+―朝子 |
| 坪内定保養女 +―●親利
| 松平鎌蔵夫人 親美
+―松子
| 堀直倫夫人
+―和喜子
| 遠山景彰夫人
+―祐護
| 益夫 伊東祐養子
+―都子
吉野義巻夫人
今回の本堂家は、今までの諸家に比べると歴史上著名な先祖を持つわけでもなくあまり知られていない家系だと思いますが、あの源頼朝の子孫だという家伝があります。
家伝によると、源頼朝が伊豆に流刑中、伊東祐親の娘との間に千鶴丸が生まれたが祐親はそれを聞き怒り、千鶴丸を白滝の淵に沈めたが、乳母が密かに助け、陸奥に逃れて南部の和賀に住し和賀の御所と称したとのことですが、『大日本史』でも既にこのことを疑っています。奥州和賀氏の一族であるのは明白のようで、この和賀氏の出自は、小野氏あるいは清和源氏多田氏流といわれています。
戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏に挟まれて微妙な立場でしたが、天正18年(1590)忠親は小田原に参陣し豊臣秀吉に本領の内八千九百八十石余を安堵され、関ヶ原の戦いに際しては徳川方につき、慶長七年(1602)常陸国志筑八千五百石に移され、子孫は交代寄合となりました。
明治元年には諸侯に列し、華族・男爵となりました。