第16章 ウェヌスとパラス

 その日の午後自分の講義室に向って道を渡っていたところを、ヒュパティアは途中で行列に遮られた。二十人ほどのゴート族と令嬢方からなる行列で、先導は雪のように真っ白な騾馬に乗って肩かけや宝石をすっかり身につけたペラギアその人である。ペラギアの横ではアマールが騎乗していたが、北方人ロロの一党らしい彼の長い足はほとんど地面に着きそうだった。華奢で小柄なバルバリ馬は、彼の故郷の巨大な黒馬の代りにアレクサンドリアで見つかったうちでは最良だったが、彼の体重に押しつぶされていたのである。

 驚き感嘆するやじ馬を引き連れて彼らはまっすぐムーセイオンの扉に向い、そこで止まって馬を降ると彼らの奴隷が馬や騾馬の世話をし始めた。

 ヒュパティアには逃げ場がなかった。背後の人だかりへ跳び退きたいという乙女らしい本能に従うのは、誇りが許さなかったのである。そしてアマールはただちにペラギアを騾馬から抱え上げ、アレクサンドリアの両美女は生涯で初めて顔をつきあわせて立つことになった。
「今日アテナの御加護があるといいわね、ヒュパティア」とペラギアはとびきり甘やかに微笑んで言った。「お昼からお知恵をいくらかでも伺わせようと思って、用心棒たちを連れて来たの。あたし知りたくて堪んないのよね、アプロディテがご自身とおんなじように、あたしを海の泡から育て上げてペラギアって名付けて下さったときに、ちょっとした馬鹿みたいな歌を教えて下さったんだけど、それより聞く値打ちのあることを何かあんたが連中に教えられるのかどうか」

 ヒュパティアはじつに堂々と背筋をのばし、何も答えを返さなかった。
「あたしの用心棒はあんたとこのといい勝負だと思うわ。少なくとも王子だし、つまりは神さまの末裔なわけよ。だから、あんたとこの田舎者より先に入るのがまっとうなの。連中を案内して下さる?」

 答えはなかった。
「じゃあ自分でやるしかないわね。来て、アマール」そして彼女は階段をひょいと上り、ゴート族たちは、アレクサンドリア人たちを子供同然に右に左に押しのけながらついて行った。
「ああ不実な浮かれ女だよおまえは」と、ざわめく群衆の間から若い男の声が叫んだ。「騙し取れるだけの金をすっかり僕らから巻き上げておいて、ここで僕らの身代を蛮族のために散財するんだな」
「俺たちがやった贈物を返せよ、ペラギア」と別の声が叫んだ。「おまえの野牛の群れに歓迎してもらえるぞ」
「そうしてやるわよ」と叫んで彼女はぱっと立ち止まり、自分の金鎖と腕輪を掴むと魂消た群衆に向って今にもそれを投げようとした――
「さあ、あんたたちの贈物を取んなさいよ。ペラギアも女の子たちも、小僧っ子どもに借りをつくるなんてまっぴらよ。こんな男たちに崇められてるってのにさ」

 だが、学生たちにとっては幸運なことに、アマールはこのやりとりの言葉が分からず、彼女の腕を掴んで気でも狂ったかと尋ねたのだった。
「ちがう、ちがうってば」と癇癪のあまり口もきけずに彼女は息を詰まらせた。「金貨ちょうだい――あんたが持ってるだけ全部。この恥知らずどもがあたしのこと馬鹿にすんのよ、こいつらが前にあたしに寄越した――前に――おおアマール、言ってること分かる?」そして彼女は、嘆願するように彼の腕にしがみついた。
「ねえ勇者のみんな。この連中にあんたたちの財布を投げてやって。こいつら、あたしたちやお嬢さんたちが、こいつらから分捕った物で暮らしてるなんて言うのよ」そこでアマールは自分の財布を群衆に投げた。

 ただちにゴート族はそれぞれ彼の例に倣い、一人ならず腕輪や首飾りまで、不運な哲学者気取りたちの顔に投げつけた。
「わしには君様はおらん、お若いの」とヴルフ爺はかなりきれいなギリシャ語で言った。「おまえたちに借りは無いし、自分の金を持っとくぞ。おまえたちもそうしただろうにな。それにスミッド爺、おまえもわしくらい利口ならそうしただろうに」
「けちけちすんなや、王子。ゴート族の面子のためだぜ」と言ってスミッドは笑った。
「金で受け取ったら、わしは鉄で払う」と言いながらヴルフが幅広の大太刀を半分ほど鞘から抜き出すと、不吉な茶色いしみに学生たちは怯んだ。そして一党はみな空の講義室に急ぎ入り、最前列に腰を降ろしてくつろいだ。

 気の毒なヒュパティア。彼女はまず休講することに決め――次にオレステスに使いを遣り――それから神聖なムーセイオンを守るために学生たちを呼び集めた。だが誇りは用心深さに劣らず彼女によい忠告をした。逃げては自分が負けたと宣言することになる――哲学の恥になる――浮足立った者たちすべての心を掌握し損なうことになる。いいや、続けよう。侮辱も、暴力すらも、何も恐れるまい。そして手足を振るわせ青ざめた頬をしながらも、彼女は教壇に上がって話を始めた。

 ところが彼女が驚き、また喜んだことに、蛮族の聴衆は申しぶんなく行儀が良かった。ペラギアは自分が勝ったと子供っぽく気を良くしていたし、おそらくは機会をすっかり与えることによって敵手に対する侮りを見せつけてやろうと決心してもおり、たっぷり半時間も娘たちの私語を止めさせ、黙って注意を向けるよう強要したのだった。だがその時間の終りには、うとうとして二度もペラギアに起こされたアマールの重い寝息が憚りもなく講義室に響いていびきへと深まってゆき、ペラギア本人も彼と同様今にも眠り込みそうになっていた。だが今度は別の監査官が風紀取締の任に着いた。ヒュパティアが話を始めたときから、ヴルフ爺は彼女の顔から決して目を離さなかった。傷のある髭面に不屈の知性と偽りのない満足が瞬くのを目にするたびに、乙女らしい気弱な心は何度も何度も勇気づけられた。ときおり灰色のあご髭が賛同するように揺れるうちに、弁論が終るよりずっと前に、気づくと彼女は、まっすぐ自分の新たな讃美者に向って語りかけるようになっていた。

 ついに話が終ると後ろの学生たちは、かくも危険な御近所から無事に離れられるのを大いに喜んで、慌ただしく立ち上がった。彼らは話の間中ずっと神妙に座ったきりで、闖入者たちを「動顛」させる気はさらさら無かったのだが、闖入者たちのほうはすっかり学生たちを動顛させていたのである。だが学生たちに劣らずヒュパティアも驚いたことに、ヴルフ爺は立ち上がると蹌踉と教壇のもとへ寄り、財布を引き出してヒュパティアの足元に置いたのだった。
「何ですのこれは」と、かつて見たこともない無骨で野蛮な姿が近づいて来るのに半ば脅えながら彼女は尋ねた。
「今日聞かしてもろうた分の講義料。あんたは気高い、心正しい乙女ですな。フレイヤが似合いの夫を遣わして、王たちの母となさろう」
そしてヴルフは一党ととにもに退出した。

 自分の真ん前であからさまに敵手を讃美するなんて。ペラギアはすっかりヴルフ爺を嫌う気になった。

 だがともかく裏切り者は彼だけだった。その他のゴート族は、驢馬乗りどもに話をして若さと美貌を無駄にするとはヒュパティアはじつに馬鹿げた人物だと、全員一致して同意した。そこで家に向かって凱旋行列をすべく、ペラギアはまた騾馬に、ゴート族たちは馬に乗った。

 だが勝ち誇りながらもペラギアは心悲しかった。その時代の何十万もの人々と同様、正邪は彼女の知らぬ概念だった。意識に関する限りペラギアは自分が乗っている騾馬並みに魂というものを欠いていた。際限のない浮かれ騒ぎと上機嫌、機知と狡猾、長い訓練によって鍛え上げられた優雅な美しい肉体に対するギリシャ人らしい好みを生まれつき授けられ、アレクサンドリアの劇場の贅沢好みに応える並ぶ者無く完璧な身振り役者、踊り子、伶人となったのだが、彼女は子供時分から娯楽と虚栄だけに生き、それ以上は何も望んだことがなかった。だがゴートの恋人の隆々たる男らしさに対する新たな愛着、というより崇敬が、彼女のうちに新たな望みを呼び覚ましていた――彼を離したくない――彼のために生きたい――地の果てまで彼に着いて行きたい、たとえ彼に飽きられ、嫌われて辛くあたられるとしても。そして徐々にヴルフの冷笑が、ことによるとアマールに嫌われるかも知れないという恐怖を日ごとに掻き立てたのである。……理由は彼女には分からなかった。だがヴルフの歌ったアルルーナとはどういう女たちだろう。アマールや彼の手下ですら、ペラギアばかりか己にすら優る高貴なものとして、畏まって彼女のことを語る。ヴルフが、あの頑固な荒っぽい老戦士がヒュパティアに頭を下げて公然と賞讃していたが、彼がヒュパティアに認めたものとは何なのか。……それを言うのは難しくない。……だがどうしてそれが、ヒュパティアなり誰なりに魅力を与えるのだろう。……哀れな小さな自然児は、蝶が自分のとまった本の頁に戸惑うように、一群の新たな疑問に深く困惑し、悲しみ、不満を覚えたのだが――自分にではなかった。だって自分は、完全無欠のペラギアではないか。――そうではなくて、他の人々の頭に生じたあの奇妙な夢想が不満だったのである。――できるだけ幸福でいるのでは何故だめなのか。幸福でいる方法を、また他人を幸福にできる方法を、誰が自分よりもよく知っているのか。……
「見てアマラリック! 舗道に立ってるあの年寄りの坊さん。なんであんなにじろじろあたしを見んのかしら。あっちに行けって言って」

 彼女に指さされた人物は、上品な顔立ちをした古雅な白鬚の老人で、彼女の言葉を聞いたようだった。というのも彼は急に向きを変え、ペラギアが驚いたことには、手で顔を覆って急に涙にくれだしたのである。
「あんなまねしてどういう気。すぐにあの人をここに、私のとこに連れてきて。知りたいわ」と彼女は声を上げ、短兵急に新たな目標を捕らえて物思いから逃れようとした。

 すぐにゴート族の一人が泣く人を連れて来て、彼は抗いもせずにペラギアの騾馬の横に来た。
「何だってそんな失礼なことすんのよ、あたしの顔見て泣き出すなんて」と彼女はいらいらと尋ねた。

 老人は悲しげに、また穏やかに見上げ、彼女の耳にしか聞こえないように声を落として答えた――
「なんで泣かずにおられよう、君のように美しいものが地獄の炎に永遠に焼かれる運命だと思えば」
「地獄の炎?」とペラギアは身震いして答えた。「何でよ?」
「知らんのかね」と、驚いて悲しそうに老人は答えた。「君は自分が何者なのか忘れたのか」
「あたし? あたしは蝿一匹傷つけたことは無いわよ」
「何そんなびびってんだ、かわいこちゃん。何言いやがったこの老いぼれ悪党め」とアマールは鞭を振り上げた。
「ああこの人をぶっちゃだめ。いらっしゃいな。明日来て、何言うつもりだったか話してちょうだい」
「ならねえ。俺たちの門口に坊主なんぞ入れるか。女ってのはおっそろしく阿呆だな。しっ、あっち行け。皮を剥がれずに逃げられたのを、このご婦人に感謝すんだな」そしてアマールはペラギアの騾馬のくつわを掴んで前に押し出し、悲しげに見送る老人から離れた。

 だがこの美しい罪人をめあてに老人が砂漠から、彼の身なりがそうも場違いで不快に思われる界隈に来たのではないのは明らかだった。というのも、しばらくして我を取り戻すと彼はムーセイオンの扉へと急ぎ、そこにじっと立って出てくる人々の顔を熱心に検分したからである。そして当然、正当な割り前として学生たちの野卑な言葉を受けることになった。
「おやおや、老いぼれ猫めはこの穴の入口でどんな鼠を見張っているのやら」
「ちょっと中に入って見てみろよ、鼠どもがおまえの髭を焼いてくれないかどうか」……
「これが私の鼠だよ、紳士諸君」と笑って会釈しながら老僧は答え、ピラモンの腕に手を置いた。そして驚いたピラモンの目に、姿の優しい、額の広く後退したアルセニウスが映った。
「神父さま」と、気づいてまずは情愛の衝動に駆られて少年は声を上げた。それから――こうした面会をもとからいくぶん予測してはいたのだが、いざついに実現したとなると、彼は死人のように青ざめた。学生たちは彼の情動を見て取った。
「手を離せ、因業爺め。彼は今は僕らの仲間なんだ。坊主には女房も息子も用は無い。こいつを追い払ってやろうか、ピラモン」
「腕自慢もほどほどに、みなさん。ゴート族がまだ聞いていますよ」とピラモンは答えた。気の利いた答えを返すすべをとうに学んでいたのだ。それから、若い洒落者たちの癇癪を恐れ、またアルセニウスのように尊く愛すべき人物を何か侮辱してはと考えて竦みながら、彼は老人をそっと引っ張り出し、どうなることかと案じながら黙って一緒に通りを上って行った。
「で、あの人たちはおまえの友だちなのかね」
「とんでもない。あんな動物と同じくするものは、血と肉と、講義室の席だけです」
「異教徒の女人のかね」

 不安になった若い男の伝で、ピラモンは自暴自棄になって性急にその話題に向かった。それをアルセニウスに遠回しに切り出されるのがただ怖かったのだ。
「そう、異教徒の女性です。こちらにいらっしゃる前にもちろん、キュリロスさまに会われましたよね」
「お目にかかったよ、それで――」
「では」とピラモンは遮って続けた。「すっかりお聞きになったのですね、色欲や愚昧、報復心しかでっちあげられないようなあらゆる嘘を。僕が十字架を踏みにじって――万神殿の神々すべての犠牲に捧げたとか――きっと」――(そして彼は真っ赤になった)――「このうえなく純粋で神聖なあの存在を――いわゆる多神教徒でなかったとしたら彼女はそういう存在だったでしょうし、それに値する方なのですが、彼女を聖人たちの女王として崇めているとか――彼女は――それに僕は――」そして彼は話をやめた。
「耳にしたかも知れないが、それを信じたと言ったかね」
「いいえ――ですから、そういうのはみんなただのまったくの間違いなんですから、この話についてはもう申し上げることは無いんです。質問にお答えするのが嫌だというのではないですよ、大好きな神父さま――」
「私は何か訊いたか、我が子よ」
「いいえ。じゃあ、とりあえず話を変えましょう」――そしてピラモンは、老人自身のことやパンボのこと、ラウラの馴染みの皆について、老人を質問攻めにし始めた。それに対してアルセニウスは、少年のきりもない気晴らしに誠意をもつて引きも切らずに答え、ニトリアとスケティスの修道士を比較したピラモンの冗談には笑顔すら賜ったのだった。

 こうした軽口すべてが意味するところを知らずにいるには、アルセニウスは聡すぎた。また、真実にずっと近いのはペテロやキュリロスよりおそらくピラモンの説明のほうだと、知らずにいるにも聡すぎた。だが彼なりのわけがあって、優しいまなざしで応えてピラモンの成長を賞めるだけにした。
「しかし痩せてるし、顔色が悪いようだよ、我が子よ」
「勉強が」とピラモンは言った。「勉強ですよ。灯し油を夜中まで焚いて罰金無し、とはいきません。……でももう十分にもとは取りましたし、これからもそうでしょう」
「そうだといいな。だがあのゴート族はどういう人だね。つい今しがた道で通りすがったのだが」
「ああ神父さま」と言ってピラモンは、話を変える口実ができたのを内心喜んだが、反面、訪問の当の目的をアルセニウスが明らかに避けようと決心していることに不安を感じ、またいぶかしんでもいた。「じゃあきっと、僕が見たのは神父さまだったに違いないな。道のずっと向こうの端で立ち止まって、ペラギアとお話しになっていましたね。どのようなお言葉で、あんな者に栄誉をお授けになることができたのでしょう」
「神のみぞ知る、だよ。何か神秘的な共感が私の心に触れたのだ。……ああ哀れな子だ。だが、おまえはどうして彼女と知り合うことになったのだね」
「アレクサンドリア人みんなが知ってらな、あの忌まわしい恥知らず」と、彼らの肘のあたりで遮る声がした――ほかならぬあの小柄な仲仕で、彼はうまく身をかわして道々すっかり二人を見ていたのだが、お節介をしたいという熱望をもはや抑えられなかったのである。「大勢の若旦那衆には結構なことだったろうにな、あの悪しき日に、ミリアム婆がペラギアをアテナイから買って来なんだら」
「ミリアム?」
「そうだ、坊さん。宮廷に劣らず奴隷市場でも知られていない名じゃないって聞いてるぞ」
「ユダヤの邪眼の老婆かね」
「ユダヤ人だよ、名前からお分かりのように。おれが思うに目は、というか思ってたんだよもちろん――なにしろあの傷つけられた民は、あんたら狂信の一族がアレクサンドリアからとうに追い出しちまったからな――まぁ目は概して神的にして悪魔的だが、修道士の悪しき想像力には好きなように呼ばせておこう」
「だが、あのペラギアをどうして知ることができたんだ、息子よ。彼女はおまえのような者にふさわしいお仲間ではない」

 ピラモンはまったく正直に、ナイル川の旅のことや、ペラギアの招待のことを話した。
「招待を受けたりしていないだろうね、もちろん」
「もってのほかですよ。ヒュパティアの学生がそんなふうに身を貶めるなんて」

 アルセニウスは悲しそうにピラモンの顔を見た。
「出かけたとお思いなのですか」
「いいや、息子よ。だがいつから自分をヒュパティアの学生などと呼ぶようになったのだ。それにこのうえなく罪深い者を訪ねることを堕落と言ったり。訪問によって迷える仔羊を善き牧人のもとに連れ戻せるとしたらどうだね。とはいえ汝はそのような仕事をするには若すぎる――あれは汝を誘惑する気だ、間違いなく」
「僕はそう思わないな。彼女は僕の、アテナイ風のギリシャ語に感心したみたいでしたよ。アテナイから来たそうですし」
「アテナイから来てどれくらいだろう」と、しばらく黙っていてからアルセニウスは言った。「誰か分かるだろうか」
「蛮人どもがアテナイを劫掠した直後だった」と小柄な仲仕が言った。彼は秘密に感づき始め、興奮した鸚鵡のように身をそびやかして凝視していた。「あの婆さまがここに買ってきたのさ。捕虜になった男の子や女の子を積み荷にしたなかに混じってな」
「時期は合うな。……そのミリアムという人は見つかりますかな」
「賢くもご丁寧な質問だよ、修道士が訊くなんて。知らんのかい、キュリロスが四か月前にユダヤ人をみんな追い出しただろ」
「そうだ、そうだ。……ああ」と老人は心中言った。「この世の支配者たちは己の力をなんと小さく見積もっていることか。彼らは不用意にも指を動かすのだ、その指が名を聞いたことも無い何百もの人を潰して死なせるのを忘れて――彼らの魂はすべて神の目にはキュリロスの魂に劣らず愛しいというのに」
「どうなさったんですか、神父さま」とピラモンは尋ねた。「あの女人のことでずいぶん動揺されているような」……
「では彼女はミリアムの奴隷なのか」
「ここ四年は解放奴隷だがね」と仲仕は言った。「あの結構なご婦人は――哲学的精神には判然喨喨ではないにしろ、それ自体は疑いなく素晴らしい理由から――アレクサンドリア社会にペラギアを解き放って、餌食を漁らせるのが良いと考えたのさ」
「神よ、彼女を救いたまえ。では、ミリアムがアレクサンドリアにいないというのは確かなのですね」

 小柄な仲仕は真っ赤になり、ピラモンも同様だった。だが自分のした約束を思い出し、それを守った。
「彼女のことを何かご存じだ、分かりますぞ。老練な政治家は騙せませんよ、あなた」――威厳のある様子で小柄な仲仕のほうに向き直り――「とはいえ今は哀れな老僧ですがな。ご存じのことを話しても良いとお考えでしたら、約束します。私を信じたからと言って、あなたも彼女も損をすることはありますまい。そうお考えにならないのでしたら、知る手立てを探すまでです」

 両人は黙って立ちつくした。
「我が息子ピラモンよ。汝まで結託して抗うか――いいや、私にではない。汝自身に抗うのだ。道を誤らされた哀れな子よ」
「僕自身に抗う?」
「そう――そう言ったのだ。だがおまえが私を信じようとせんのなら、私もおまえを信じられん」
「僕、約束したんです」
「おれもだよ政治家先生、いや修道士か、あるいは両方か、どちらでもないのか。不死なる神々に誓約したんだ」と仲仕は言って、偉そうな様子をした。

 アルセニウスは黙った。
「偶像という空しいものかけた誓約はそれ自体虚ろだと言う者もいる。私は彼らに同意しない。誓約を破るのは罪だと考えるのであれば、汝にとっては罪だ。汝にとっては、あわれ我が子よ、たとえイスカリオテが相手であろうと約束は神聖なのだ。だが聞きなさい。どちらかこの女人に尋ねて、私に彼女と話させずに済ませられるかな。彼女に話しなさい――つまり、神の恵みで彼女がアレクサンドリアにいるとしてだが――ここで、我々の間にあったことをすべて。キリスト教徒の厳粛な誓約にのっとってアルセニウスは――彼女のよく知っている名だ――彼女を害することも裏切ることもないと、そう話したまえ。話してくれるだろうね」
「アルセニウス?」と畏れと憐憫の入り交じった様子で、小柄な仲仕は言った。

 老人は微笑んだ。「アルセニウス。かつて皇帝たちの神父と呼ばれた者です。彼女でさえこの名は信じましょう」
「ただちに参ります、閣下。飛んで参ります」と小柄な仲仕は駆け出した。
「あのちびさんは気づいていないな」とアルセニウスは笑って言った。「もうどれほど自分が自白してしまったのか、それに今も老魔女のねぐらにつけて行くのがどれほど容易いか。……我が子ピラモン。……汝のために私は多くの涙を流した――だが涙はしばらくおあずけだ。今や汝を無事に得たのだ」そして老人は彼の腕を握った。「汝は老父を離れるまいね。異教徒の女人のために私を見捨てはすまい?」
「一緒にいます。約束します本当に、もし――もし彼女に不当なことを仰らないのでしたら」
「誰も悪く言ったり呪ったりする気はない、自分のほかはな。汝に厳しいことを言う気もないのだ、あわれな息子よ。だが今は聞きなさい。知ってのとおり汝はアテナイの出だ。汝をここにつれて来たのは私だというのは知っているかね」
「神父さまが?」
「私なのだよ、息子よ。だが汝をラウラに連れて来たときには、立派な身分のある人の子息なのだから、そのことは何も聞かせないのがいいように思ったのだ。だが言っておくれ。父母なり兄弟姉妹なり、アテナイの家のことを何か覚えているかね」
「いいえ」
「神よ感謝します。だがピラモン。もし汝に姉がいたとしたら――落ち着きなさい。もし――もしもと言っているだけだ――」
「姉ですって」とピラモンは遮った。「ペラギアが?」
「滅相もない、我が息子よ。だがかつては汝には姉がいたのだ――あの子は汝より三つくらい年上に見えた」
「何ですって。ご存じなのですか」
「見たのだよ、一度だけ――あの悲しい日に。――どちらもかわいそうな子だ。どこでどんなふうだったなどと話しておまえを悲しませたくない」
「どうしてその子を僕と一緒にここにお連れにならなかったんですか。僕らを別れ別れにしようというお心は無かったのでしょう?」
「ああ我が子よ。幼い美少女について老僧に何のすじあいがあっただろう。実際たとえ私に勇気があったとしても、無理だったよ。私より裕福な人々がほかにいて、彼らの欲望からすればその子の若さと美貌は高額に値するらしかった。最後に見たときには、その子はユダヤの老婆と一緒だった。天の恵みで、例のミリアムがその人だったと証明されるかも知れん」
「僕に姉さんが」とピラモンは息を飲んで目を潤ませた。「見つけなくちゃ。手助けして下さいますよね――いま――すぐに。これからは何も考えることも、語ることも、することも無い。姉が見つかるまでは」
「ああ息子よ、我が息子よ。良いのだ、良いのだよ、たぶんあの子を神の御手に任せておくほうが。彼女が死んでいたらどうだね。そうと分かれば、要らぬ悲しみを見出すだろう。それにもし――かりにそうではなかったとしてもだ、生きているとは名ばかりで死んだようなもの、死よりも悪い罪深い快楽のうちにあるとしたらどうだね――」
「救いますよ。死んでも救おうとするでしょう。僕の姉だというだけで十分じゃないですか」

 アルセニウスは頭を振った。自分の言葉が傍の若者の心に注ぎ込んだ不思議な新しい光と温もりのことなど少しも知らなかった。……「姉」。このたった一言にどのような神秘的な力があったのか、その言葉にピラモンの頭脳はふらつき、心臓は狂おしく脈動した。姉さん! ただの友や朋輩や仲間ではなく、神自身の与えた者を愛するからといって、修道士でさえ誰もピラモンを難じることはできなかった。――細やかで、弱く、美しいものというだけでなく――もちろん彼女は美しいに違いないわけだが――彼女を励まし、導き、支え、救い、彼女のために死ぬならその死が甘美に思える人。そうだ――そうしたすべてが、またそれ以上のことが、かの神聖な言葉にはあったのだ。こうしたばらばらの不完全な考えはあまりにも素速く心中を飛び交ったので、今彼を動揺させているような情熱を掻き立てなかった。彼女の罪や危難への仄めかしですら、聞いていたにしても注意を逸れていた。血族というものの変わることの無い深く神的な実在性に初めて直面したときに、父も母もない拾い子の心に言づてを、呪文をもたらしたのは、その言葉そのものだった。……姉さん!――同じ父、同じ母から生まれた――自分と同じ血肉――自分のだ、自分のなのだ、永遠に! 「霊的な息子」だの「霊的な娘」だの、人間の勝手な意志や気紛れな想像力の捏造はみな、なんと虚ろで儚く見えることか。アルセニウス――パンボ――ああ、ヒュパティアその人も――今や自分にとって何だというのだ。本当の縁はここにある……。姉さん! 気遣うに価するものが何かこの世にあるだろうか。
「彼女はアテナイにいたんだ、ペラギアがそこにいたときに」――ついに彼は叫んだ――「ことによると彼女を知っていたんだ――ペラギア本人のところに行きましょう!」
「とんでもない」とアルセニウスは言った。「少なくともミリアムの答えが来るまで待たねばならん」
「その間に少なくとも彼女の家はお見せできます。おつもりがあれば、ご自分で出かけられますよ。入って下さいとは申しません。いらして下さい。姉を見つけるのはどういう仕方でかペラギアと結びついている、確かにそんな気がするんです。僕がナイルで彼女に会わなくて、神父さまは通りでお会いにならなかったとしたら、姉がいるなんて聞くことはなかったでしょうし。それにもし姉がミリアムと一緒に行ったのなら、ペラギアは姉を知ってるはずです――この瞬間にも、当のあの家にいるのかも!」

 アルセニウスには、ピラモンはまったく正しいと感じる理由があった。だが彼は少年の興奮に甘んじて譲り、一緒に踊り子の家のほうに向かい始めた。

 その門口まで数間のところに来たとき、背後に急ぐ足音と彼らの名を呼ぶ声がして、彼らは振り向いた。すると目に入ったのは、ピラモンその人に劣らずアルセニウスも明らかに嫌な気がしたのだが、ペテロ読師と修道士の大徒党だった。

 ピラモンはまず逃げたい衝動に駆られた。アルセニウスはピラモンの腕を掴み、先を急ごうとしたようだった。
「いや」と若者は考えた。「僕は自由な身分じゃないか、哲学者じゃないか」そして振り向いて敵を待ち受けた。
「ああ背教者の若造だ。では彼を発見されたのですね、お気の毒な尊師。こうも早々と成功するとは、天を賞め讃えよ、ですよ」
「善き友よ」とアルセニウスは声を震わせて尋ねた。「なぜここへ」
「滅相もないですからね、この卑劣な若造やその放蕩仲間の暴力や侮辱に対する何の護りも無しに、かようなお歳の聖い方にお進みいただくなんて。我々は朝からずっと遠くから着き従っておりましたが、孝心からの心配で心中いっぱいでした」
「おおきにありがとう。だがじつのところ余計なご親切だよ。この我が息子、この子からは愛情以外には何もあたりはしないし、実際、この子について断言された報告よりもずっと無垢だと信じている。私と一緒に大人しく戻るよ。そうだろう、ピラモン」
「ああ神父さま」とやっとのことでピラモンは言った。「どうしてこんなことを申し上げる勇気が出るんだろう――でも僕は、ご一緒に戻ることはできません」
「戻れないって」
「決して敷居を跨ぐまいと誓ったんです、まずは――」
「キュリロスさまもだよ。仰ったのだよ、現に私に保証すると仰ったのだ。おまえを息子として再び受け入れ、過ぎたことはすべて許し、忘れると」
「許して忘れる? それは僕のすることです――キュリロスさまではなくて。その暴君とその仲間に抗して、僕正当に扱って下さるのでしょうか。公に宣言されるのでしょうか、僕は咎もなく迫害された者であり、ご自身の命令に従ったために不当に打たれ、追い立てられたのだと。そうして下さるまでは、僕は自分が自由の身であることを忘れる気はありません」
「自由の身だって」とペテロは嫌な笑みを浮かべて言った。「そいつはまだ分からんぞ、愉快な若造君。もっとたくさん証拠が要るだろうな。おまえを最後に見た後で借用したそのお洒落な哲学者風の外套だの、こういう綺麗に巻いた房毛だのよりもっと」
「まだ分からない、って?」

 アルセニウスはペテロに、黙るようにと手ぶりで懇願した。
「いいえ尊師。先に申しましたように、この方法一つしかありません。咎められるべきは、もし咎められるとしたら、この不運な若造です。彼が強情だからそうせざるを得なくなるのですし」
「後生だから勘弁してくれ」とペテロを脇へ引っ張りながら老人は声を上げ、ピラモンのほうは憤りと曖昧な恐れの間で引き裂かれ、仰天して立ちつくした。
「何度も何度も君に言わなかったか。私は決してキリスト教徒を自分の奴隷と呼んだことは無いのだ。ことにそれが私の霊的な息子であればどうだね」
「このうえなく敬すべき尊師、ご熱意を凌ぐものはお優しさと慈悲だけですね。そんな呵責は根拠の無いものだと、聖なる大司教さまが保証されたではありませんか。私にしろ大司教さまにしろ尊師ほどには、奴隷制そのものを憎悪してはいないとお考えなのですか。滅相な。ですが不死なる魂の危機とあれば――迷える仔羊を群れに連れ戻すべきなら――例の高額な代価で法に認められた権限を、きっと救済のためにお使いになるでしょうね。今朝の聖下のお話以上に何が決定的であり得ましょう。『キリスト教徒は良心のためにこの世の諸法に従う義務がある』。理論上、たとえ諸法を不服としてその権威を否定するとしてもです。ですから類推すれば、あの同じ法の与える利益を受け取るのも、キリスト教徒にとって合法であるはずです。そうすることによって神の栄光を促進するのなら」

 アルセニウスは目に涙を溜めてまだためらっていたが、当のピラモンがやりとりを終らせた。
「これはいったいどういうことなんですか。神父さままでぐるになって僕に? 仰って下さい、アルセニウス!」
「こういうことだ、盲目な罪人め」とペテロは声を上げた。「おまえは法的にはアルセニウスさまの奴隷なのさ。ラヴェンナの町で合法的にアルセニウスさまのお金で買い取られたんだ。だから権能や、私はそう信じているが、おまえを救済するためにご自身に従うよう強制なさるご意思もお持ちなんだ」

 ピラモンは舗道を横切って跳び退り、果敢な抵抗を目に閃かせた。奴隷! 天の光は彼には暗くなっていった。……おお、あのヒュパティアが決して彼の恥を知りませんように。いやこんなことは有り得ない。本当だなんてひどすぎる。
「嘘だ!」彼はほとんど悲鳴をあげた。「僕はアテナイの、地位の高い市民の息子なんだ。アルセニウスさまがそう仰ったんだ、まさにたった今、ご自身の口から!」
「おや、だがおまえをお買い上げになったのさ――公設市場でおまえをね。証明することがおできになるよ」
「お聞き――聞きなさい、我が子よ」と老人は叫んでピラモンのほうに跳び寄った。ピラモンは激昂のあまり身ぶりを読み誤り、手荒に老人を後ろに押し退けた。
「息子?――奴隷ですよ! 僕を息子だなんて言って、息子という名を貶めないで下さい。そうです神父さま。身はあなたの奴隷、だけど魂はそうじゃない。ああ、捕らえるがいい――逃亡奴隷を家に引き戻せ――鞭打てよ――烙印を押して――粉挽場に鎖で繋ぐがいい、やれるもんなら。でも、たとえそうでも自由な心には救いがあるんだ。哲学者として生きることをお許し下さらないなら、哲学者らしく死んだ僕を見ることになりますよ」
「こいつを捕まえろ、兄弟たちよ」とペテロは叫び、アルセニウスはどちらの側もまったく抑えられず、顔を覆ってすすり泣いた。
「人でなし!」と少年は叫んだ。「絶対に生け捕りになんてなるもんか、歯と爪があるかぎり。野獣だと思って扱えよ、そういうふうに身を守る!」
「道を開けろ、ごろつきども。都督さまのお通りだ。何をここでくだらん喧嘩をしておる、無作法な修道士め」と背後から横柄な大声がした。人だかりがばらけてオレステスの属官が現われ、後ろには職服のオレステスが続いた。

 突然ピラモンの前に希望が閃き、ただちに彼は野次馬を跳び抜けると、都督の二輪馬車にはりついた。
「僕は自由な身分に生まれたアテナイ人です。それをあの修道士たちは誘拐して奴隷に戻そうとしております。どうかお守りを」
「正しかろうと誤りだろうと君を守ろう、美形君。天にかけて、修道士なんぞにするには君は器量が良すぎるよ。悪党どもめ、自由な身分の者を誘拐しようとはどういう了簡だ。自分に誑かせるいかれた娘をみんな閉じ込めるだけでは飽き足らんのか。おまえたちはしかるべく――」
「ここにそれの主人がおります、閣下。購入したものだと誓いますでしょう」
「あるいは、神の栄光のためには何でもな。道を開けろ。やくざなのっぽ、おまえを攻撃する口実を私に与えないように気をつけるんだな。おまえにはもう何か月も目をつけていたんだ。行け」
「それの主人がローマ市民としての権利を要求しているのです」とペテロはアルセニウスを前に押し出しながら言った。
「彼がローマ市民だというなら、明日執政官席に出向かせ、正式書類で請求させよ。だが思い出していただきたい、古翁どの。買い入れたかどうかという問題に進む前に、ご自身の市民権を証明せよと私は要求することになりましょう」
「法はさようなことは要求しておりません」とペテロは言った。
「こやつを打て、属官」そこでペテロは姿を消し、不穏な騒めきが修道士の群れから上がった。
「僕はどうすれば良いのでしょう、いと貴き閣下」とピラモンは言った。
「何でも好きにしたまえ、明日の三時まではね――執政官席に現われるほど君が馬鹿だとしてだが。私の助言をきくつもりなら、この連中を右に左に打ち倒して、命からがら逃げるといい」そしてオレステスは車を出した。

 ピラモンにはこれが唯一の機会だと思えたし、実際のところそうだった。次の瞬間、気づくと彼はペラギアの家の拱道に向って一目散に走っており、十人余りの修道士たちが後を追っていた。

 幸いなことにゴート族たちが入ったばかりで、外門は開いたままだった。だが中庭の向こうへ続く内扉はぴったり閉まっていた。ピラモンは開けようとしたが無駄だった。壁の右手に開いた扉があった。彼は急いでその扉を通り抜けて延々と続く厩舎に駆け込み、ヴルフとスミッドの腕に跳び込んだ。彼らは真の戦士らしく、自分の馬の鞍を降ろして餌をやっていたのである。
「父祖の魂よ!」とスミッドは叫んだ。「俺たちの若い坊主が戻って来おったぞ。何だってこんな動顛してやって来た、巻毛頭の若造よ」
「助けて下さい、あの悪漢どもから!」と戸口から覗いていた修道士たちを指さした。

 ヴルフはただちにすべてを察した。というのも、重い鞭をさっと手にして敵に突進し、恐ろしい勢いで数回戸口を打ち払って、扉を閉ざしたのである。

 ピラモンは事情を説明して礼を言ったが、スミッドが彼を黙らせた。
「気にすんな、若いの。もうおまえはうちの客だ。来な。おまえならいつでも歓迎だぜ。最初俺たちから逃げたが、どうなったか見てみるんだな」
「坊主どものためにわしから離れたのが、おまえの得になったとは思えんな」とヴルフは言った。「内扉のところから入れ。スミッド、ちょっと行って、玄関からあの坊主どもを追い払ってくれ」

 だが暴徒は、ひとしきり扉を連打した後、ペテロの苦悶に満ちた懇願に応じた。ペテロが暴徒に請け合うには、一たびあの悪魔の化身どもが降りかかれば、アレクサンドリアのキリスト教徒を一人も生かしておくまいというのである。そこで同意が得られて、数人は残ってピラモンが出てくるのを見張り、餌食を捕らえ損ねたその他の者たちは心頭に達した憤怒を都督に振り向け、その馬車のまわりに取りついて悪さをしてやろうと待ち構える徒党の大半と合流した。

 不運な人民の牧人は車を出そうとしたが無駄だった。属官たちは脅えてしりごみしていたし、属官の助けがなければ、腕や髭を突き出してくる大群を通り抜けて馬を進めることはできなかった。事態は明らかに深刻になっていった。
「ニトリア中でも一番厄介なごろつきどもです、閣下」と衛卒の一人が青い顔をして囁いた。「それに少なくと二百人はおります。誓って申しますが、殺害されたディオスクーロスさまとまさに同じ状況です」
「私を進ませない気なら、我が聖なる兄弟たちよ」と平静に見せかけようとしながらオレステスは言った。「私は戻ったところで、おそらく教会法に反しはすまい。馬の頭だけは放したまえ。いったい、神の御名にかけて、何が望みなんだ」
「俺たちがヒエラクスのことを忘れたと思っているのか」と背後から声が上がった。そしてその名に対して次々と喚き声が上がり、その叫喚そのものに励まされて暴徒はあからさまに威嚇し始めた。「祝福された殉教者ヒエラクスの仇討ちだ!」「教会の敵に報復しろ!」「異教徒、ユダヤ人、蛮人なんて悪魔は引きずり降ろせ!」「ヒュパティアのお気に入りを引きずり降ろせ!」「暴君め!」「虐殺者め!」

 最後の罵倒は群衆の微妙な夢想を強く刺激し、「虐殺者を殺せ!」と一斉に声が上がり、一人の怒り狂った修道士は馬車に乗り込もうとした。属官がその男を引き下ろしたが、今度は属官のほうが地面に引き倒される番だった。修道士たちが迫ってきた。敵は一対十だと気づくと衛兵たちは狼狽して武器を投げ捨て、姿を消していた。次の瞬間、ヒュパティアと神々の希望は永遠に失われ、またアレクサンドリアは地中海の南で最も洗練された紳士に統治されるという祝福を奪われるところだったのだ、予期せぬ助太刀がなければ。これについては、誰が、また何が危難にあるのかを考えれば、先の章で語るときがあるだろう。

最終更新日: 2005年8月28日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com