ピラモンの話とヒュパティアの伝言を、キュリロスは静かに微笑んで聞いた。それから、何が起きたのか公言はするな、その件は時間を取って考えるから夕方ここに戻って指示を受けよと命じ、若者を町での午後の仕事に向わせた。それでピラモンは仲間と連れ立って、腐敗と貧困、強いられた怠惰と生まれながらの罪に満ちたおぞましい路地を進んだ。何もかもおそろしく現実的で実際的だったが、ピラモンにはぼんやりとした夢のようにしか見えなかった。彼の目には一つの顔が輝いていた。耳には銀の鈴を振るような声が響いていた。……「修道士で、もっと優れたものを何も知らないの」……。そのとおりだ。どうしてより優れたものを知り得よう。この偉大なる新たな世界において、今まで人生を過してきたあんな岩のすき間において、知るべきものがいかに多いかをどうして語れただろうか。一方のことは既に聞いた。ものに両面があるのだとしたら、どうだろう。まっとうなのは――つまり、両方を聞いてそれから判断しようというのは、適正で公正で慎重ではないか。
この若者のためにキュリロスがしたことは、あまり賢明ではなかった。ヒュパティアの招きをどうするべきか決めてやらないうちに、彼を実際的な慈善労役に送り出したのである。若い修道僧を苦しめている新しい思想をキュリロスが勘考しなかったのは、たぶん、キュリロスがその思想を知らず、その思想を認識できなかったせいだろう。彼は、巨大な修道施設の厳しい教条的訓練のもとで育った。ニトリアの硝石採掘場の真ん中に隣接して作られた施設で、そこでは何千もの人々が自ら求めて貧しく飢えながら、巨大な製パン場や染色工房、煉瓦工場、仕立屋、木工所で精を出し、自らは何も必要としないので、労働の収益を自分たちではなく義捐金や教会や病院のために使っていた。宗教的訓練の場であるとともに実際的な工業生産の場でもある世界で教育を受け、また大都市に近いこともあって、修道士たちは彼らの卑しむあの世界に馴染んでいた。キュリロスは叔父のテオフィロスという、気性の激しい野心家の陰謀に少年時代から関わって出世し、何の疑問もなくアレクサンドリアの大司教職に就き、火のような活力と明晰な実践的知性を教会の理想のために躊躇なく、また必要とあれば憐れみもなく、意のままに投入した。このような男がどうして、ラウラの洞窟の静かな影からいきなり輝きと咆哮にみちた世界の真昼へとさらわれた哀れな二十の少年に共感できるだろう。その少年もまた修道院育ちだった。けれども、忙しなく狂信的なニトリアの雰囲気の中で、心身の全神経が、休息も簡素さも人間的情愛も無い人工的な気質を全生涯に渡って保っているのは、辺鄙で貧しい施設とはまったく対蹠的だったのである。だが修道院という同様に勤勉な共同体は辺鄙な山間にも点在していて、ヌビアの砂漠の奥地までずっと続いていた。そうした修道院の一つでピラモンは、立派な人から父のような気遣いだけでなく母のような情愛も受けてきたのであり、今は穏やかな励ましの声や優しい目配せに焦がれ、寂しさに心を痛めていた。……そしてヒュパティアの声が、音楽のように耳について離れなかった。かの高雅な神がかり、かくも優しく穏やかな威厳――憐れみの調子――多衆に対するものだったが――あれは軽蔑と呼ぶには美しすぎた。選ばれたる霊のあの見事な幻影……群衆とは違う……「僕も群衆のようなものか」と、うめきをあげる熱病患者の重みによろめきながら、ピラモンは独りごちた。「これほど向かない仕事があるだろうか。こんな仕事は、埠頭の仲仕の誰だってうまくやるだろうに。こんな労役で何か無駄にしてないか。僕には知性も眼識も理性も無いとでも。僕には彼女の言うことが分かった。――なんで自分の能力を陶冶してはいけない。なんで僕だけ知識から閉め出されなくてはならないんだ。異教だけじゃない、キリスト教的グノーシスもある。クレメンスさまに許されたものは」――彼はあやうくオリゲネスに語りかけたが、異端のきわで急に立ち止まった。「僕にはまったく正当だ。知識を磨こうとするのは、それが可能だというしるしではないか。そう、僕の領域は街路ではなく研究室なのだ」
そうして労役仲間たちは――内心否定できなかったのだが――だんだんと彼の目には立派に見えなくなっていた。老僧の不平や誹謗を、目の前にある事実を、できる限り忘れるよう努めてみよう。粗野で、荒っぽくて、騒々しい連中……なんと彼女と隔たっていることか。連中の話ときたら単なるうわさ話のようだし――厳しく判断すればその大半は醜聞でもあった。あの男の個人的な野心のことだの、あの女の高慢な様子だの。それに、聖餐式のために日曜の前から待っていた人や、説教が終ると出て行った人のこと。大半の人は残らなかったがよくも出て行けたものだとか、そうしなかった人もわずかにいたがよくも残れたものだとか。……きりのない憶測や冷笑や不平……至福の光景や永遠の栄光について、彼らが何を気遣っただろう。彼らがあらゆる人や物、大司教から都督にいたるまでを吟味する一個の試金石はキリスト教の大義を進めるかどうかだなどと思えようか。――肝要なのは彼ら自身の大義や威信なのだと、ピラモンは早くも気づいていた。そして憐れな少年は、彼らに影響されて嘘を嗅ぎつける力を呼び覚まされ、彼らの決まり文句、労役への愛や現世の屈辱に応ずる先の報いを語る謙譲な言葉に、奥深く秘められた高慢を見てとったらしい。つまり、彼らは自分は無謬だと確信して、尊者であろうと派閥が違えば取るに足らぬとして、あらゆる人をいらいらと見下していたのである。彼らはアウグスティヌスのラテン化傾向を軽蔑をもって語り、クリュソストモスを極めて卑しい不敬な宗派分立論者だと呪って憚らなかった。彼らはまったく正しいということだったが、ピラモンにはよく分からなかった。けれども彼らは、過去や近々の戦争と荒廃は異端者と異教徒に対する天の裁きだと、殺戮や破壊を憐れみもせずに語り――彼らの言葉をピラモンが聞き集めたところでは、皇帝とアフリカ総督との恐ろしい権力闘争が懸案なのだが――この件についてはまるで、彼らの唯一の関心事――キュリロスとその護衛たる自分たちがアレクサンドリアで力を得るのか失うのか、それ以外は問題ではないかのように論じていた。そしてついにオレステスやその顧問ヒュパティアが問題になると、彼らは神の呪咀を全開にして、両人が永遠に苛まれるという見通しを自らの慰めとした。この時ピラモンはふと我知らず自問した――どこに聖霊のしもべがいるのかと――これがキリスト教の精神の成果なのかと。――そして彼の魂の奥底の深淵を貫いて囁きが震えた――「聖霊があるか。キリスト教の精神があるか。その成果はこれとは別ではないのか」
その囁きは遠く低く微かで、何里も地下の地震の振動のようなものだった。けれども、地震の振動のようにたちどころにあらゆる信仰や希望を軋ませ、ピラモンの記憶を、毛筋ほどだがもとの場所からずらした。……たった毛筋一本の幅にすぎない。だがそれで十分だった。内も外もすっかり姿を変え、節々がみなはずれた。粉々に崩れるとしたらどうだろう。脳は思考によろめいた。彼は自分は何者なのかと疑った。まさに天の光がその色合いを変えたのだ。拠って立っていた堅固な大地は、結局のところ確かな真実ではなく脆い殻のようなもので、それが覆っていたのは――何だろう。
悪夢は消え、彼はもう一度息をついた。なんて変な夢だ。太陽と重労働で目眩を起こしたに違いない。みんな忘れるさ。
労役で困憊し、さらには思考にいっそう疲れ果てて、乞い求めながら恐れてもいたあの夕刻にピラモンは戻り、ヒュパティアと話す許可を得ようとした。彼女と話すには弱すぎるとキュリロスが思うといいのにと半ば望むときもあったが、次の瞬間には、信仰と希望をとまでは言わぬまでも、誇りと勇気のすべてをかけて自分を励ました。おそろしい女妖術師とまさに顔を合わせて、面と向って罵れたら。でも、彼女はあんなにも美しく、高貴に見えた。穏やかに警告したり憐れんだり、相談や懇願という以外の調子で彼女と話せるだろうか。彼女を改宗させて――彼女を守れるだろうか。素晴らしい考えだ。あのような魂を真の大義のために勝ち得るとは。布教の最初の成果として、異教の擁護者を示せるとは。そのためだけに生き、そのために死ぬ価値がある。
ピラモンが入って行くと、大司教館はいつもにましてたいへんな興奮状態だった。修道士や僧侶や挺身僧団や、裕福な者も貧しい者も市民たちの一群が中庭を行き来して、怒った調子で真剣に話していた。修道士の大集団がいたのだが、彼らはニトリアから来たばかりで、髪もひげもぼうぼう、教義をすべてものにしようとする狂信を示す奇妙な顔つきをし、猛々しいくせに卑屈で、人目を憚りながら抑制が効かず、愚かなくせにずる賢く、絶え間無い断食と自己懲罰のせいで姿は粗雑で品位を失い、頭からつま先まで襤褸を纏って清純ぶっていたのだが、下卑た様子で乱暴に手振りをし、もっと穏和な仲間を不用意な言葉で呼びつけて、教会に加えられた何がしかの侮辱の仕返しをしようとしていた。
「何ごとですか」とピラモンは、恰幅のよい物静かな市民に尋ねた。彼はじつに複雑な表情で、大司教館の窓を見上げて立っていた。
「私に訊きなさんな、私は何もできないんだ。どうして聖下はお出ましになって彼らに話されんのだろう。祝福された乙女よ、神の母よ、私らはうまくやり過したのに」
「臆病者」と一人の修道士が彼の耳もとで怒鳴った。「こいつら小商人は、自分の店の商品台が無事だと分かればいいのさ。日々の顧客を失うくらいなら、異教徒どもに教会でさえ掠奪させるだろうよ」
「あいつらは要らん」と別の声が叫んだ。「ディオスクロースとその兄弟を始末したんだ、オレステスも始末できる。あいつの寄越す答えが何だというのさ。悪魔は我が物を持てばいい」
「二時間前には去っているべきだったな。あいつら、今度は殺されるぞ」
「助祭長に触れる勇気はやつにはなかろう」
「あいつは何かやってのける気だ。キュリロスさまは、決して彼らを外に出すべきではなかった。狼どもの間に仔羊たちを放すようなものさ。ユダヤ人どもは行っちまったって、都督に知らせる必要が何かあったか。あいつはほんとうにすぐに自分で気づいただろうさ、次に借金しようとしたときにな」
「これはいったいどういうことですか、尊師」と、中庭に現われたペテロ読師にピラモンは尋ねたのだが、ペテロはアスポデロスの野をよぎるアガメムノンの魂のように大股で歩き、あきらかに列に並ぼうとしていた。
「おお、ここにいたのか。明日にするんだな、阿呆たれの若造め。大司教さまは君とはお話しになれない。なんでお話しにならなきゃならん。関心を引きすぎている者がいると思う。そうだな、君は行くだろう。今は思い上がっていないとしても、出かけて行って明日には思い上がるというわけだ。得意になっているやつが、万事片付く前に評判を落さんものか見せていただくとしよう」そしてペテロは大股に去ろうとしたが、癇癪の危険をおしてピラモンは彼を止めた。
「聖下が、聖下にお目にかかるようにとお命じになったのです、尊師、まえに――」
ペテロは激昂してピラモンに向き直った。「馬鹿! 君はこんなときに、君の奇想天外な夢想を聖下に押しつけようというのか」
「聖下が、お目にかかるようにとお命じになりました」と、まったく兵士然とした修道士の規律でもってピラモンは言った。「だから僕は、誰でもない、聖下にお目にかかるのです。あなたは、聖下の祝福や助言から僕を遠ざけておきたいんだ。僕は内心そう信じています」
ペテロはじつに邪悪な表情でしばらくピラモンを見ていたが、それから、若者が驚いたことには、彼の顔を力一杯殴って大声で助けを呼んだのだった。
一週間前にラウラでパンボに打たれたのであれば、ピラモンは耐えただろう。だがあの男から、失望と嫌悪の思いがけない上塗りの一撃が来たとあっては我慢ならなかった。たちまちペテロの長い足は歩道に大の字に広がり、彼はニトリアの修道士すべてに向って牡牛のように喚いた。
ペテロが立ち上がる間に、十もの痩せて日焼けした腕がピラモンの喉にかかった。
「捕まえろ、おさえとけ」と彼は半泣きだった。「裏切り者だ、異端者だ。やつは異教徒と付き合っているんだ」
「やってしまえ!」「放り出せ!」「大司教さまに突き出せ!」ピラモンがふりほどいている間に、ペテロはまた告発し始めた。
「よきカトリック全員が証人だ。こやつは神の家の庭で聖職者を殴った。それもど真ん中で。おおエルサレム。それにこやつは、今朝はヒュパティアの講義室にいたのだぞ」
敬虔な戦慄が沸き起こった。ピラモンは壁を背にした。
「聖下が、大司教さまがお送りになったのです」
「白状しおった、白状しおった。敬虔な大司教さまをたぶらかして、自分を行かせるようにしたのさ。あの女を改宗させるような振りをしてな。それに今でさえ、キュリロスさまの聖なる居室に入り込もうとしてるんだ。明日女魔術師と彼女の家で会えるなんて、ただ肉欲に身を焦がしながらだ」
「醜聞だ」「聖所で忌まわしいこと!」憐れな若者に向って、人が押し寄せた。
ピラモンはすっかり血が昇った。こうした場合の例のとおり、群衆の大半は慎重に後退ってピラモンを情け深い修道士たちのもとに残したが、修道士たちが目配りするのは、個人的な身の安全ではなく自らの正統的信仰の声望だった。ピラモンは見回して武器を求めた。が、何も無い。修道士たちの輪が、熊を追う猟犬のように追いつめてくる。彼らのうちの誰であれ一対一ならひけを取らないだろうが、彼らの隆々とした腕や決然とした顔はそんな目算に逆らい、あがいても無駄だと警告していた。
「この中庭から無事に立ち去らせてくれ。僕が異端者かどうかは神がご存じだし、僕は僕の大義を神に委ねる。聖なる大司教さまは、この非道をお知りになるはずだ。邪魔はしない。呼びたければ、異端者とでも異教徒とでも呼べばいい。戻ってこの者らを恥じ入らせてよいと、キュリロスさまご自身がお許しにならないうちに僕がこの敷居を超えたなら」
ピラモンは向きを変え、全身の血が頬に集まるような嘲りの叫びのただ中を、門に向って行くしかなかった。丸天井の通廊を進む間に、背後で二度急襲が起きたが、迫害者たちのうちでもわりと冷静な者がそれを阻止した。しかしピラモンのように若く頭に血が昇っていては、一言の捨て台詞もなく去ることはできず、彼は門口でふりむいた。
「よう! 主の弟子だなんて自分では言っても、それよりも悪魔みたいだな。昼も夜も墓に籠って、石で身を刻んで大叫び――」
たちまち彼らはピラモンに向って突進したが、彼にとって幸運なことには、恐怖で虚ろな顔をして道から駆け入ってきた聖職者の一党の腕にも飛び込んだのである。
「あいつは拒絶した!」と先頭の者が叫んだ。「神の教会に反対すると宣言したぞ」
「おお、友よ」と助祭長は息を詰まらせた。「鳥みたいに鶏小屋の罠を逃れおったのだ。僭主は二時間も我らを官邸の入口に待たせておいたあげく、権標を携えた警士を送りつけたのだが、やつらが我らに言ったのは暴民や盗賊に向けるような伝言だけだ」
「大司教さまのもとへ戻れ」と群衆全体が再び流れ始め、ピラモンは道に――世界に、一人とり残された。
さて、どこへ?
憤怒にかられて一町かそこら大股に進んだ後、ピラモンはそう自問した。そして答えようとして、答える気分ではないと気づいた。彼はさまよい、すっかり暗くなった果てしない海の波止場に吹き寄せられた。天と地もすべて、どうでもよかった。彼はただ怒りに目を塞がれていた。
だんだんと一つの考えが固まり、灯台のように嵐を貫いて瞬き始めた。……ヒュパティアに会おう、そして彼女を改宗させるのだ。これについては大司教さまの許可を得ている。これは正しいはずだ。これで自分は正当化されて――戻るだろう。たぶんどんな皇帝よりも栄光ある勝利の中で、異教の女王という一級の捕虜に聖霊の足かせをして。そうだ、まだこれがある。そのために生きるのだ。
薄れゆく宵の光の中、完全に道に迷うまでこの道を昇りあの道を下ってさまよううちに、ピラモンの激情は徐々に醒めていった。何でもない。少なくとも明日にはあの講義室は見つかるだろう。やっと見知ったような大通りに出た。遠くに見えるのは太陽門だったか。彼は頓着もなくぶらぶら歩き下り、ついには、三日前に小柄な仲仕に連れられて来た広い遊歩道にいるのに気がついた。ということはムーセイオンや、彼女の家の近くにいるのだ。運命は知らず知らず、ピラモンを事業の場へと導いたのである。これは吉兆。彼はただちにそちらへ向うだろう。ほかのどこでも良いが、同様、彼女の戸口の階段で寝ても良かった。こんな遅い時間ではあるけれども、もしかすると彼女が出入りする時に垣間見られるかも知れない。彼女を見馴れておくのはいい。明日、女魔術師の目の前でどぎまぎするのが減るだろう。さらにじつを言うと自立が、我意もだが、ラウラでの修練によって打ち砕かれたというより倒れて眠り込んでいたのが野放しにされ始めており、正しいにしろ間違っているにしろ、ただ自分で選ぶために自ら選んで行動するという、幼い駄々っ子の頃以来感じたことのなかった神秘的な喜びをピラモンに与えていた。そのような瞬間は、自由意志を持つ者すべてに訪れる。あわれなピラモンのようにぬくぬくと育ち、そうしたことに直面するすべを知らない人々は幸いである。けれども彼は、というより彼の指導者はいつかは学ぶはずである。服従を厭わぬ決然とした克己に至る真の道は、隷属ではなく自由のうちにあるということを。
どれがヒュパティアの家なのかピラモンにははっきりしなかったが、けれどもムーセイオンの扉は忘れられなかった。それで彼は庭の壁の元に座り、夜の涼しさと、聖らかな静けさと、こころを鎮める芳香で空気を満たす何千もの異国の花々の豊かな香りに慰められた。彼はそこに座って、一つのものを見ようと眺めに眺めたが、しかし無駄だった。あの家々のうち、彼女の家はどれだろう。どれが彼女の部屋の窓なのだ。通りに面しているのだろうか。女部屋のことなど夢想してどうするのか。……けれども、窓が一つ開いていて、中では灯火が輝いている――見上げずにはいられなかった。夢みて――望まずにはいられなかった。その部屋のきらめくしつらいをもっとよく見ようと、一間ばかり動きさえした。高く見上げると書棚や――壁の絵さえ認められた。あの声は何だろう。そう、女の声が――朗々と韻律を詠じていて――頭上の木の葉擦れさえない夜の深いしじまの中で、はっきりと聞き分けられた。彼は好奇心に呪縛されて立っていた。
とつぜん声が止んで女の姿が窓に近づき、身じろぎもせずに頭上にまたたく星の世界を見つめ、そして栄光と、静けさと、豊かな香りを吸い込んだように見えた。……彼女だろうか。ピラモンの全身の鼓動が狂おしく脈打った……そうかも知れない。彼女は何をしているのだろう。顔立ちは見分けられなかったが、東の月の煌々とした光が、輝く髪の金の流れの間にある柳眉をピラモンに示した。胸のまえに握りしめた白い手のほかは、髪の流れにすっかり覆われている。……何を祈っているのだろう。これは彼女の夜中の魔術なのか。……
そうしてピラモンの心臓はますます脈打ち、この騒々しい鼓動が彼女に聞こえるに違いないと思うほどだったが――彼女はなおも直立不動で空を見つめており、まるで黄金象牙像、すべて金と象牙でできた見事な彫像のようだった。彼女の背後の明るい部屋の周りには、書物や絵画、未知の学問と美の全世界があり……そのすべての女司祭ヒュパティアが、彼女に学んで知者となれと招いていた。誘惑だ。彼はそれから逃げようとした――馬鹿なピラモン――やはり彼女ではなかったのかも知れない。
彼は急にいくらか身動きした。彼女は見下ろしてピラモンを目にとめ、そして鎧戸を閉めて夜へと消えた。空しくも誘惑は今や消えうせ、呪文を破った自分を半ば呪いながら、もう一度現われないかと彼は座って待った。けれどもそれきり部屋は暗く静まり、疲れきったピラモンは間もなく、亜熱帯の香り高い夜のもと、静かな夢の中でラウラへ戻ろうとさまよっている自分に気がついた。