映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』の製作趣意書です。
当時、増永研一プロデューサーが書いたもので、地域で映画を作る意味が的確に表現されており、現在でも十分通用する内容で高く評価できるものと思っています。



映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』製作趣意書
 

 九州で映画を製作します。
 九州に住む者たちの手で、九州の大地を舞台に、一大エンターテイメントを作ります。
 とはいえ、地域主義の偏狭なナショナリズムで九州にこだわるのではなく、膠着し、疲弊しきった「中央の映画」にカツを入れ、映画史に画期をもたらすべく製作を始めるのです。
 映画は総合芸術であり、夢であり、ロマンであり、魂を揺さぶってやまぬ人間の芸術衝動の果実を内包して、出会う人びとの感受性に向き合います。
 一方で映画は、その出自から興行=ビジネスとして成立していくことを運命づけられています。莫大な利益を追求しうるエンタテイメントとしての位置付けが、広範な大衆との出会いをさらに強化していきます。
 では、何故映画なのか?
 何故、九州なのか?
 何故、『スーパー・ハイスクール・ギャング』なのか?

 “斜陽産業”。
 世に喧伝される映画の、特に日本映画の代名詞です。
 確かにその様相は、ささやかな凹凸はあっても、最低ラインの横バイを続ける年間入場者数や、昨年の、老舗にっかつの倒産、角川書店前社長のコカイン密輸事件による逮捕、『大病人』上映中のスクリーン切り裂き事件など、提供される話題の暗さも手伝って、ますます“斜陽”を印象づけています。
 さらに「映画館の相次ぐ廃館」があり、なによりも作品そのものの不振ぶりを喧伝するマスコミジャーナリズムの嘆きがあります。
 「中央の映画」の、これが一般的な印象なのであり、この限りにおいてはその通りなのです。
 しかし映画は、製作され続けています。
 そして、作品個々の、その質からビジネスの成否にまで視線を凝らせば、すぐれて今日的な作品が、バラエティ豊かに産み出され成功した例を容易に見出すことができます。
 さらに、93年の入場者数1億3072万人には、TV放映・ビデオ化等に伴う観賞者は含まれていません。
 映画は、スクリーン(映画館)というメディアの束縛から解き放たれ、TV・ビデオ・ディスク…etc.という広がりの中で、新たなそしてより大多数の大衆との出会いを獲得し始めています。
 「廃館」の印象も、実は、ローカルを中心に旧態依然とした劇場が姿を消していくということであり、現実には、最新設備を擁した新劇場が続々と誕生しており、昨年は新規に66館(全国)も開館しています。
 映画が内臓する豊かさは無尽蔵です。
 ある時は時代を先導し、また時代と切り結び、批判し、応援し、……
 要するに、状況を見据えたプランに裏打ちされた作品であり、作家・製作者の思いであり、関わる者たちの情熱であり、冷厳冷徹な眼で計算された事業としての展開であり、……映画は、これらの要件を満たすことによって、その豊かさを育み、成功を保証するのです。

 映画・演劇・芸能界に数多くの人材を輩出し、素材やロケ地を限りなく提供し続けている九州は、しかし、自らが製作主体として作品を完結させるという思考を持ちませんでした。映画は「中央」で製作されるもの、という思い込みに疑問をさしはさむことすらしなかったのです。
 しかし、自明のものとして神話化されていた「中央」の瓦解が始まっています。
 東宝・東映・松竹などが貸し館業者となり、角川映画が沈没し、フジテレビの映画も神通力を失い、‥‥‥という具合に、映画界は過渡期の混沌にあります。それは、新しい映画ブランドが待望されているということでもあります。
 そして映画は、九州でも製作できるのです。
 それ以上に、環東シナ海からアジアを展望する地の利と、その気象風土、そして才能の宝庫である九州こそ映画製作の適地であるといえるでしょう。ここでは、映画製作の根拠地として、撮影所の構想も射程に入ることを付け加えておきましょう。
 まさしく今、私たちの手で、日本の映画界がダイナミックに変わろうとしているのです。
 
 映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』は、落ちこぼれ(逆落ちこぼれもいる)の高校生たちが、自分たちで本物の飛行機を作って、本当に大空を飛んでしまうというストーリーを軸に、九州各地の街や自然を背景に大ロケーションを敢行しながら、彼らのハイスクールライフを明るく爽やかに描く青春映画です。
 主役の高校生七人とそのクラスメートの面々は、九州各地で開催するオーディションで選考します。新たな才能の発掘です。
 この映画を製作していくなかで彼らの才能を厳しく鍛えながら、魅力ある存在に磨き上げていき、真の興行力を持ったエンタテイナーに育つべく世に送り出していきます。
 時代の閉塞感を体現するのが、制度としての管理教育から落ちこぼれていく少年少女たちであり、その彼らが、しかし明るく自らの意志と知力と体力で本物の飛行機を作り、まさに生きて在ることの喜びを謳うかのように、大空に向けて飛び立つのです。
 21世紀を担う若い才能、若い観衆、みなぎる青春。新たなムーブメントは、いつも若さから始まります。
 映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』は、一大エンタテイメントとしての青春映画なのです。
 ―――映画『スーパー・ハイスクール・ギャング』製作委員会

(1994年/共同プロデューサーとして増永が執筆)