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1999年 12月 11月 10月 9月 8月

2005年1月
2005年1月31日 雪&朗報
 今日は朝から断続的に雪が降り、小倉のHさんに電話を入れ、鯰田のMさんのところからYおばさんの家でしゃべっていると、東京のI社のTさんから携帯に電話があった。
 「ホンが面白い」と言ってくれている人がいらっしゃって、「話を先に進めていいですか」とのことだったから、よろこんで進めてもらうことにした。
 家で昼飯を食べ、田川市に向かっていると烏尾峠付近で雪が激しく降りはじめたが、なんとなく心が軽く、Nさんとも快活に話をすることができた。
 夕方にかけては阿部事務局長と合流し、頴田のUさんとIさんを訪ねて製作協力券のデザインの打ち合わせをした。
 自分が書いたオリジナルのシナリオを評価されるということは、涙がちょちょぎれるようにうれしいもので、相手を愛してしまいそうなぐらいです。
2005年1月30日 一日中黙想をしていた
 昨日からの続きで、頴田町のUさんを訪ねたりカミさんや阿部事務局長と打ち合わせをしていても、一日中黙想をしていたつもりである。
 新聞を読んだりテレビを観たりするのはそそくさに、目先の差し迫ったことなんか考えず、四面楚歌から脱出するための大きい流れを読み続けた。
 今日は寒波が来るとの予想だったが外は晴れて暖かく、本来なら海か山かにドライブといった陽気だったが、午前中はカミさんと打ち合わせをして、午後からは頴田町のUさんの工房を訪ね、夕方にかけては阿部事務局長に来てもらって製作協力券とオーディションの具体的な打ち合わせをした。
 黙想をしながらの動きで、僕に必要以上の気合が入っていない分、穏やかに腹をくくる話ができたかもしれない。
 しばらくは、黙想しながら動き、相手と対峙してみよう。
2005年1月29日 波をやり過ごしたような
 確実に被害をもたらす小さい波をやり過ごして(必ず返ってくる)、今日はいろいろ動いたが自分では黙想をした一日だった。
 午前中はカミさんと事務所でいくつかの事態を想定した打ち合わせをし、午後は気晴らしを兼ねてカミさんと遠賀川を下って芦屋港まで行き、中間市の映画館で娘と合流し、飯塚市に戻ってからはK公園の駐車場で一人になって黙想した。
 車のエンジンをかけながら車内を暖房しての黙想であり、ノートを開いて思いついたことを書き連ねる黙想だったが、なんとなくわかってきたこともある。
 明日は日曜日で、この日記を書きながら僕の黙想は続く。
2005年1月28日 小さい波、大きい波
 誰にでも効不調の波があるように、僕にも小さい波や大きい波が押し寄せてくる。
 小さい波といっても馬鹿にできず、それは人に相談することもできない小さい事柄だからだが、今日はその小さい波にアップアップしていた。
 午前中は飯塚市役所のFさんを訪ねて筑豊原色図鑑を10冊ばかり買ってもらい、午後は田川市のN産業、川崎町のOさんを訪ねるがいずれも留守で、飯塚に戻って阿部事務局長に会う。
 阿部事務局長とコーヒーを飲みながら打ち合わせをしていると、途中、県の副知事室から携帯に電話があり、面会の日取りが2月4日ということになった。
 夕方からは家に戻って、数日前に収録があったNHK北九州の番組をカミさんと一緒に観た。
 カミさんの評価は、「よかったんじゃないの」だった。
 
2005年1月27日 日付がずれていた
 いっぱい飲んで日記を書こうとしたら日付が24日ごろからずれていたので修正し、改めて書き始めます。
 今日は朝一番に、直方市の妹を訪ねてコーヒーを飲みながら少しばかり身内の世間話をして、一度家に戻ってからカミさんと市役所やら税務署に行って筑豊観光開発研究所の雑務をこなし、午後は娘も加わってJに買い物に行き、夕方からは頴田町のUさんとIさんのところに行った。
 途中、何度も家に戻って製作協力券のコピーを書きながら、ひそかに自分なりの戦略を練った。
 内容からしか先は見えず、いつも内容を検討していなければならない。
 
 職場からも、家庭からも疎外され
 なすすべもない現代社会に
 果敢にも、男は釣竿を掲げて真正面から挑む


 家族にスペアはない・・・など。
2005年1月26日 NHK北九州へ
 昨日はちょっと酔っ払って少し危ないことを書いたかもしれないが、今日は今日でテレビで少々危ないことをいいそうになった。
 今日は暖かく午前中は家で反省し、午後はまずA商事のN君と会い、安部事務局長と2時半に待ち合わせてA大臣地元事務所の秘書のSさんを訪ね、夕方からは一人でNHK北九州に向かった。
 1月28日夕方から放送の番組(北九州・筑豊エリアのOAで、45分ほどのコーナー)の収録があり、都市高速をぶっ飛ばして18時半ぎりぎりに着いた。
 ローカルエリアの番組とはいえ45分のトーク番組で、僕以外に、音楽プロデューサーのOさん、劇作家で演出家のTさん、ストリートダンサーのNさん、東京でスターへの道を志しているTさん、みんな僕よりもずいぶん若くて初めてお会いする人ばかりだった。
 激論を戦わしてほしいという局の要望だったのだが、みんなそれぞれのスタンスで仕事をしている人たちで、僕にとっては皆さんそれぞれが大事な才能だったから激論になるはずがなく、でもNHK本体の教育番組風で終わりそうだったから、後半少しちょっとばかり本音を言った。
 そして、アトランダムな地方の芸能的な話題としてではなく、地方のメディアが一体となって強力なビジョンを打ち出し、戦略的に実践していく必要があると思った。
 そういう意味で、北九州や筑豊は小さな県以上の人口や経済力があり、これからの日本の行く末を占うような可能性を秘めており、僕らのような大人がもっと考えて思い切ったことを企画して実行していかなければならないなあと思い、今日はとても収穫があったのではなかろうか。
2005年1月25日 病人に共通した症状
 今日は特別予定がなく、というよりいっぱい予定が入っていないといけないのに入ってなくて、午前中は合宿に参加したKさんを訪ねていろいろ言い訳がましくエキスキューズしたり、午後は安部事務局長に来てもらっていろいろ戦略を練ったりしたが、冬の雨が終日降っていて結局一日中家に居てしまった。
 「病人は自分が経験している現状を踏まえて他人の考えを聞かないものだが」ということなんかを考えていたら、夜、食事のときに酒が入ったカミさんが10年来繰り返していることをまた繰り返し聞かされ、僕はそのしつっこさにカミさんが病人ではないかと思った。
 カミさんにかかったら、僕は疫病神であるし、生まれ故郷に異常な愛着を持つどうしようもない変人であり、ありがたき母上がいてのみ存在できるマザコンでしかないようだ。
 僕は、カミさんが酔っ払う前に退散して、冷え切った自宅事務所の部屋でパソコンの前に座って日記を書いた。
2005年1月24日 八女方面へひとっ走り
今日は、東京のN社のSさんから紹介されたUさんに会うために、朝から車で冷水バイパスを通り、小郡インターから高速に乗って八女方面に向かった。
 Uさんの仕事場は、八女インターを降りて茶畑が目立つ川沿いの道を40分ほど走った上陽町の山間にあり、お昼をご馳走になったりしてお忙しいのに2時間ほどお邪魔した。
 逆コースで飯塚に戻り、年が明けてはじめて添田町中元寺にあるK窯元のFさんを訪ね、再び飯塚に戻ったら日が暮れていた。
 今日の走行距離は250キロを越えていたが、高速道路を使ったからたいした疲れはなかった。
2005年1月23日 引き続き企画書
 日曜日で魚釣りでも行きたいところだが、テレビのサンデーモーニングやサンデープロジェクトの番組も見る気にならず、朝からパソコンの前に座って企画書を作成する作業をした。
 1ページ企画にまとめる作業をしながら、映画『すかぶら』は内容的にどんなジャンルに入るのかを考えていた。
 「一言でいうと、どんな映画なのですか?」という問いに、明確に答えるための企画書でもあり、どうどう巡りをしながら言葉をこねくり回していた。
 なすすべもない現代社会に向かって、果敢に釣竿を振り回しながら挑む勇気ある男と捉えられないこともないが、特別な人間になりたがっている俗物と表現した人がいたように、愚かなだけの現代のドンキホーテと思われているかもしれない。
 
2005年1月22日 普遍的な企画書作り
 今日は土曜日で精力的に動こうと思えが動けたのだが、ノートとパソコンに向かって普遍的な企画書を書くのに大半の時間を費やした。
 午前中は、ノートに向かって思っていることを自分の文章で書き連ね、午後は、パソコンに向かって午前中に書いたものをわかりやすく整理した。
 途中、時々プロデューサーモードからシナリオライターモードになったりして多少不安定な気分だったが、プロデューサーモードのほうがテンションが高くなんとか切り抜けることができた。
 夕方までパソコンに向かい、いわゆる僕が好きな1ページ企画書をあらかた仕上げて、頴田町の木工芸工房「杜の船」のUさんを訪ね、染色工房「花こみち」のIさんも一緒に東京での活動の報告をした。
 夜は、焼酎のルィボスティー割を飲みながら、遅くまで普遍的な企画書作りをした。
2005年1月21日 久しぶりに筑豊をウロウロ
 この間まで、「Suica」や「パスネット」などのカードを買って東京をウロウロしていたが、今日は久しぶりにオデッセイを運転して筑豊をウロウロした。
 アポも取らず人を訪ねているとどうしてもウロウロしていることになるが、筑豊ではアポなんか取っていると誰にも会えないことになるケースが多く、まだ夜討ち朝駆けまでやってないのだから許してもらうほかない。
 午前中は飯塚市役所と恩師の先生M、午後は家で昼飯を食べてから川崎町のOさんと添田町役場、夕方からは頴田町のUさんの工房を訪ねて(留守)、東京の報告も兼ねてT君とお茶を飲んだ。
 今日の走行距離100キロ足らずで大したことはないが、途中、東京の井之原プロデューサーから「A・WさんのMマネージャーから、メインスタッフの名前が知りたい」という連絡があったりしたり、プロデューサーモードになっている僕としても田舎の田んぼ道に車を停めて携帯電話に向かっていると、筑豊をウロウロするという行為がもたらす疲労感は結構なものである。
 それは、速いスピードで毎日動いている東京と、まるで眠っているかのように遅いスピードの筑豊との落差で、その大きいずれが精神にこたえるということだろう。
 自業自得、というしかありませんね・・・明るく、頑張りましょう!
2005年1月20日 少し疲れたが
 東京から飛行機で福岡へ向かい、バスで飯塚に戻っていると多少疲れて、8日分の新聞をチェックしたりしていると逆に眼が冴えてしまい、遅くまで起きていることになる。
 結局、酒を飲みながら午前2時ごろまで起きていて8時半過ぎに眼が覚め、パソコンに向かって日記を書いて転送したりしているとすでにお昼で、途中、阿部事務局長がやってきたりしてちっともサボっていないのだが、時間はみるみる過ぎていった。
 それでも、東京に事務所を出して一年間も行ったりきたりしていると次第に慣れ、意識して気持ちや気分を切り替える必要がなくなり、ごく自然に僕の日常になっており、多少疲れるものの取り立ててひどい疲れは感じない。
 夕方からは、福岡から戻ってきた阿部事務局長と共にK大学に赴き、二人で誠意と使命感を持ちながら、熱い製作協力依頼をしてきた。
 
2005年1月19日 東京最終日
 今日は東京最終日で、11時過ぎに井之原プロデューサーと富久町にあるH社を訪ねてUさんに会い、笹塚でO監督に昼飯を御馳走になり、赤坂でIさんと待ち合わせて女優のA・WさんのマネージャーであるMさんを紹介してもらった。
 俳優さん及びその関係者に会うとき、シナリオライター、監督、プロデューサーなどがごっちゃになり、多少不安定な自分になる。
 喫茶店でMさんと別れた後、井之原プロデューサーとIさんとも分かれて五反田の事務所に戻り、帰り支度をして羽田に向かった。
 
2005年1月18日 大忙し
 10時に井之原プロデューサーと待ち合わせて、新宿富久町にあるH社を訪ねUさんとKさんに会い、調度昼飯時だったが渋谷にあるA社に回ってアポ無しでO会長、Y社長などに面会を請う。
 O会長は出かけていて、Y社長は体調を崩して長期休みで、M副社長は会議で誰にも会えなかったが、秘書のIさんにシナリオを渡してもらうよう頼んだ。
 その後、公園通りの坂上にあるT店でトンミンを食べ、Tホテルで俳優のT・NさんとNマネージャーに会い、筑穂町出身のNさんとも会った。
 夜は、五反田の事務所にS社のIさんに来てもらい、まあまあ遅くまで飲んだ。
2005年1月17日 相手があっての仕事
 朝起きてテレビをつけたらハワイオープンゴルフ中継をやっていて、丸山選手が優勝争いに絡んで面白そうだったから、つい最後まで観てしまった。
 月曜日の午前中をテレビなんか見て過ごした報いか、午後1時半に銀座にあるT社のSさんを井之原プロデューサーと一緒に訪ねて打ち合わせをしたが、思っていた枠組みに合わず仕事は白紙に戻ってしまった。
 夕方はI社のTさんと会って「テニプリ」のK・Tのサイン色紙などをもらい、井之原プロデューサーと事務所で話し込んだ。
2005年1月16日 カミさんと娘が戻る
 今日は日曜日だったが、午後から女優のKさんとお会いする予定が入っており、井之原プロデューサーとIマネージャーと事務所で待ち合わせて、高輪にあるMホテルに行った。
 Kさんと1時間ちょっと話をして事務所に戻り、Sマネージャーも合流して、日曜日でもあり明るいうちから一杯やった。
 上京していたカミさんと娘は、15時過ぎに事務所を出て福岡へ戻ったようで、21時半頃カミさんから自宅に着いたという電話があった。
 
2005年1月15日 完全オフ
 今日は土曜日で特別予定もなく、カミさんと娘に付き合って冷たい雨の中を渋谷に出かけた。
 渋谷で甥のT君と待ち合わせをして、久しぶりに台湾料理の麗郷で昼飯を食べたが、中野サンプラザのイベントに行く娘たちと別れ、カミさんと新宿に行った。
 Iデパートなどをぷらぷら歩き、煙草を吸うために喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりしていたが、朝飯を食べずにいきなりビールを飲んだのが効いてきて、くたびれたので買い物がしたいカミさんと分かれて事務所に戻った。
 夜は戻ってきたカミさんと近くの焼き鳥屋に行って、生ビールと焼酎をしこたま飲んでしまった。
 今日は結果的に完全オフとなった。
2005年1月14日 チグハグ
 11時に井之原プロデューサーと一緒に神保町にあるJ社を訪ねてIさんに会うが、予想に反してIさんはシナリオを気に入っておらず、話は前に進まなかった。
 J社を出ると携帯にI社のTさんから連絡があり、昨日に引き続きオフィスホールを訪ね、同僚のOさん、俳優のHさんを紹介された。
 2時間ばかりの面談の後そのまま歩いて事務所に戻ったが、なんとなくチグハグな気持ちで、「どうも、お金を出す人には気に入られず、お金をもらう人には気に入られているなあ」と井之原プロデューサーに言った。
 事務所に戻り、録音のHさんが来るまでキャスティングの方法を整理をし、それからは結構気持ちよく酒を飲んだ。
 カミさんと娘は、姪のKちゃんと待ち合わせをしたりしながら、池袋、原宿、六本木辺りを楽しんだようで、夜遅く戻ってきた。
2005年1月13日 なかなかタイミングが合わないが
 朝起きたら10時で、コーヒーを飲みながらあちこちに電話をしてスケジュールを組むが、今日の今日ではなかなかタイミングが合わない。
 今日19時がIさんとSさん、14日11時がJ社のIさん、17日13時半がT社のSさん、N社のS社長が17日の電話連絡で、ポツポツのスケジュールだが相手があってのこと。
 午後になってI社のTさんに連絡したら調度タイミングがよく、午後13時に五反田のオフィスホールで会うことになり、2時間ばかり話をすることが出来た。
 夕方からは井之原プロデューサーが事務所の来て、19時過ぎにはマネージャーのIさんとSさんもやって来て、結構楽しく酒を飲むことが出来た。
 夜10時半頃、カミさんと娘が五反田駅に着くというので井之原プロデューサーが迎えに行ってくれ、とても賑やかな東京事務所になった。
2005年1月12日 今夜から東京へ
 映画『すかぶら』の準備で、今日から1月19日まで東京に行ってきます。
 いよいよ決めていかなければならないことばかりで、多少の気負いもあり、仕事三昧の毎日が続きそうです。
 午前中はカミさんに付き合って雑事をこなし、午後はインターネットで調べものをしたり、井之原プロデューサーと連絡を取ったり、途中福岡地方に震度2の地震があったりしたらしいが、何とか東京行きの支度が出来た。
 飯塚バスセンターから空港行きのバスに乗り、空港で軽くビールを飲み、機内で久しぶりにシナリオを読み直しながら、東京での動きを組み立てなおすつもりです。
 
2005年1月11日 予算書雛形
 昨日から予算書のフォーマットをエクセルを使って作っていたが、今朝になって何とかA4紙にまとめることができたので、そのファイルを井之原プロデューサーにメールで送ることが出来た。
 予算書のフォーマットは20年以上も前から使用していたもので、きっと当時のコンピューターを使って作成したものだと思うが、内容もレイアウトも微妙に出来ており、なかなかその通りのフォーマットには出来なかった。
 今日も寒く、午後からの動きを思案しているときにNHK北九州局のIさんから連絡があり、午後14時半過ぎから18時半頃まで話し込んだ。
 企画書、シナリオ、いくつかの後援・協力依頼書、資金調達表、スケジュール表など様々な文書を作り、後に契約書も作ることになると思うが、そろそろしっかりした予算書も書き上げなければならない時期がやってきたようだ。
2005年1月10日 大宰府へ初詣
 今日も寒かったが、昨日からズボンの下にタイツをはいており、寒さは堪えない。
 午前中は阿部事務局長とお茶を飲み、午後はカミさんと娘を伴って実家を訪ね、両親に遅い新年の挨拶をしてから小雪が舞う太宰府天満宮に初詣に行った。
 僕は英彦山神宮、カミさんは商売の神様で有名な宮地嶽神社、娘は学業の神様の大宰府天満宮、このような時、当然かのごとく娘の意向が通ることになるのは致し方ないか。
 これらの三社参りとなると、丸一日仕事になってしまう。
2005年1月9日 寒い一日
 今日は寒かった。
 午前中はN新聞の取材で、大半は事務所の部屋での取材だったから気付かなかったが、旧伊藤邸の前で写真を撮られながら震え上がった。
 午後は園田さんからギャラリーをオープンしたとの連絡を受けており、鯰田にあるマサジアートを訪ね、その後T君とお茶を飲み、最後は頴田町にある杜の船に行った。
 マサジアートにも杜の船にも欲しい物はいっぱいあるのだが、いつも見るだけで、二人にはいつもお願いばかりしている。
2005年1月8日 また、スカブラ
 今日は阿部事務局長と午前中から打ち合わせで、途中東京の井之原プロデューサーとスケジュールのやりとりをして、その後することがないので(本当はあると思うのだが)、夕方から若松北海岸に行った。
 天気予報では北風が強く波浪注意報が出ていたが、海岸は西風で(結構強く寒い)、まあ方向によっては釣りが出来るほどで大したことはなかった。
 なかなかいい釣りが出来た。
 ズボンとセーターの上からスキーウェアを着ていたからちっとも寒くはなく(ただ、手はかじかんでいたが)、18時から20時の間に、20センチ以上(最大24センチ)5匹、18センチ前後6匹、リリース数匹という釣果でとても面白い釣だった。
 あらかじめ新聞で確認していたが、19時半ごろが満潮の大潮で、潮がよかったのではないかと思う。
 
2005年1月7日 大事な雑事をこなす
 午前中はカミさんと直近のスケジュールについて、井之原プロデューサーとはクランクインまでの長期スケジュールについて打ち合わせをし、午後は東京行きの切符を手配したり協力・協賛をお願いする文書をつくるなど雑事をこなした。
 実を言うと、協力・協賛の文書やスケジュールを作ることは雑事ではないが、現場が近づくとどうしても現場第一主義的になり、自ら軽んじて言ってしまうようなところがある。
 協力・協賛の文書やスケジュールは、予算を組むのと同じで高度な経験とひらめきを要する重要な作業で、企画の実現に向けて何度も書き直したり組み立てなおす必要がある。
 直近スケジュールでは、1月12日の夜東京入りして19日の夜戻る予定にした。
 予算は、東京で会うべき人に会い、決めるべき事を決めてから、ゆっくりと本格的な予算を組むつもりだ。
 
2005年1月6日 世間と渡り合うということ
 これまで10年の計は立てたことはある(二十歳後半ごろ)が、ということは1年ばかりの計は毎年それなりに立てたことだろうが、20年以上の計は立てたことはない。
 毎月の計ですら月末になってあわてて帳尻あわせをしている始末で、あらかじめ想定した計などないともいえるが、映画『すかぶら』に関わる雑事で一日が終わった。
 午前中にこの1年のスケジュールを組み、この数ヶ月間のスケジュールを表にし、東京の井之原プロデューサーと電話とメールで連絡を取り合ったが、この一ヶ月のスケジュールを埋めることができなかった。
 いつも長話が出来るT君、戦略について話が出来るFさんなどがやんごとない理由で会うことが出来ず、飯塚オーディションの場所やスタッフルームの確保など雑事に追われた。
 途中、協力・協賛のお願いの文書を作ろうとしてパソコンの前に座って原稿を作ったが、せめて20年のスパンで計を組み立てないと、世間と渡り合えないと思った。
2005年1月5日 ちょっとスカブラ
 今日は映画『すかぶら』の後援依頼申請書を各市町村に提出するため、朝から夕方まで車を走らせ続けた。
 昨年回りきれなかったところで、桂川町、碓井町、川崎町、大任町、赤村、香春町、糸田町、金田町、方城町、赤池町、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町の順で回りきり、その後、久しぶりに若松北海岸に向かってちょっとスカブラをした。
 真冬だから寒いことは寒いが、日が暮れ始める頃から風が弱まってメバル日和になり、小1時間で10匹ほどゲットできた。
 夕食が皆で食べる鍋物で、18時半には釣り場を離れなくてはならず、大物が潜む穴場には行けなかった。
2005年1月4日 例年になく早い仕事始め
 僕の記憶では1月4日の仕事始めというのは、この10年間ほど経験したことがないくらい早い仕事始めで、当然のようにカミさんとの温度差が出てギクシャクするが、何とかマイペースで新年の仕事始めが出来たのではないかと思っている。
 午前中はパソコンに向かって資金調達表を作り、阿部事務局長に電話をして一緒にお昼のラーメンを食べ、午後はカミさんを加えてクランクインまでのスケジュールを組むことが出来た。
 夜は東京の井之原プロデューサーと今日打ち合わせした内容を電話で話しただけだが、仕事始めの仕事はそんなもんで、明日からいかに効率よく動くことが出来るかが肝心である。
 いろいろな事情が重なり合って、僕にとっては1月4日に仕事始めが出来たのはとてもラッキーなことで、映画『すかぶら』の浮沈にかかっていたとも思っている。
 
2005年1月3日 一路、福岡へ
 今日は福岡へ戻る日だった。
 早起きして明け方のメバルを狙おうかと思ったりもしたが、雪が残る山陰路をどのコースで戻るかという問題を抱えており、考え直して日本海に行くのをやめた。
 僕は今朝の釣りをやめた分せめて日本海側のコース(10時間かかるが高速料金が最も安い)をとりたかったが、娘が夜7時半までに戻りたいというのとカミさんが10時間も車に乗りたくなさそうな顔をしているので、最短コースをとることにした。
 鳥取県倉吉市から岡山県落合町に出て中国道に乗り、一路、福岡へ向かうというコースを選択したが、三朝温泉から落合方面に通じる道路はまだ雪が残っており、引き返して人形峠を越えて院庄から中国道に乗った。
 帰ってから「筑豊一番」と我がサイトに来ているメールをチェックすると、あわせて1500通ばかりありそのうち必要なメールは1通という有様で、冷え切った部屋でビール飲みながらむなしく削除した。
 今年の仕事始めは、メールを何とかすっきりさせることから始めるべきかも知れない。
2005年1月2日 今日も昼から酒
 朝起きると真っ青な空が広がっていた。
 昨日に引き続き餅一個のぜんざい雑煮を食べ、日陰に多少アイスバーンが残る道路を通って日本海に出た。
 風は西風で、海はうねりはあるものの比較的穏やかで、夜は絶好のメバル日和になるかもしれないと思われた。
 ロックフィッシュ用のロッドを暮れに破損(穂先を後部ドアにはさんでしまった)させており、6フィートのバスロッドでソイ(あるいはカサゴ)を狙ったが、何度もあたりはあるもののフッキングさせることが出来なかった。
 昼からはカミさんの実家で親戚の寄り合いがあることになっていて、後ろ髪をひかれる思いで釣り場を離れ、途中釣り道具屋によってメバル用のラインを買ったりしたが、昨日に引き続き昼から酒を飲んでしまった。
 飲みたくて飲んだわけではなく、親戚の手前ということもあり、飲み助としては飲まざるを得なかったのである。
 
2005年1月1日 雪の正月で
 謹賀新年。
 テレビのニュースによると全国的に雪模様の元日で、カミさんの実家がある鳥取県倉吉市も10センチほどの積雪があり、久しぶりに山陰らしい正月を迎える。
 カミさんの実家の雑煮はぜんざいに餅で、どちらかというと相当苦手な食べ物だが、カミさんの実家で10年も続けて正月を迎えていると、それはそれなりに慣れてしまっている。
 幹線道路は除雪車が入ってチェーンなしでクルマを走らせることが出来るので、午前中は娘の買い物に付き合って午後から海へ出かけるつもりでいたら、昼から酒になって釣りに行くことが出来なかったのは残念だ。
 やることがなく、ホームページを少しいじって、後はテレビを観ているしかなかった。
 テレビは年末年始のお笑い人総出演のおめでたい番組一色になっていて、イラクのことも、北朝鮮のことも、上越地震のことも、スマトラ沖地震のことを報じる番組はなく、新聞で先のスマトラ沖地震による死者が12万人に及ぶことを知った。