「バーバー」

バスタブにつかり、雑誌を読みながら、彼女がさらりと言ったあの言葉

「愛してるわよ。」

それから出会った頃の「無口な男は好きよ。」という台詞。

自分の人生を振り返ったとき思い出されるのはその時に強い印象を残した筈の
事件ではなくて、何の変哲もない日常ばかりなのではないでしょうか。メイン
の物語として語られたものではなく、彼にとっての思い出はそういう所に凝縮
されていました。

ふとした拍子で運命の歯車が狂い、みるみるうちに坂道を転がり落ちていく主
人公は「ファーゴ」の亭主役を思い出させます。彼との違いはこの映画が自分
を客観化させた視点、「ファーゴ」でのちっぽけな一人の人間の滑稽さを俯瞰
で眺めるような視点を主人公自身が持っている点です。

「曲がり道ばかりの迷路を上から眺めているようだ。」

最初から迷路を俯瞰で見ることが出来たならば、彼にとっての人生が実は曲が
り道に行く前の平べったい小さな部屋の中にあると思えたかもしれないのに。
後から思い出されるのは「何の変哲もない日常」なのだということを。

何も知らずに曲がり道を進んでいく人間と、進むことをせずに部屋に止まりつ
づける人間、そしてその全てを上から眺めている人間。
実は一人の人間がそのうちの幾つかを同時に担っているのかもしれません。映
画を眺めている観客やそれを世に送り出している作り手や、そういう一人一人
が。それぞれのいる場所が入れ子人形のように別の場所と繋がっていたりして。

コーエン兄弟という人をいつもその全部を上から眺めている人だと感じてしま
ったなら、少し引いてしまうかもしれませんが、僕はそうは思わないので、や
っぱり彼らのことを嫌いにはなれないのです。
02/07/11(木) 23:30

「BARに灯ともる頃」

映画が終わった後、登場人物のその後を想像してしまったり、映画の中で語ら
れなかった登場人物の人柄にまで思いが及んでしまうようなことがあったとし
たら、それはとても心地よいことです。

自分の大切な人が、自分の知らない世界を持っているというのを知ることは、
時として人をひどく苛立たせます。そしてそれだけでなく、そういう事に苛立
つ自分に戸惑い、またさらに苛立つのです。
息子がどんどん逞しくなり、色々な人々から愛されるようになっていくことを
祝福してあげなければいけないのに、どうしてもそれが出来ない。父は自分が
エゴイスティックであることを嫌というほど分かっていて、それでもどうして
もそういう自分を抑えることが出来なかったのでしょう。

どんなにその人のことを思っていても、全ての時間を二人で共有することが出
来ない以上、程度の差こそあれ、時間の溝を埋める努力は結局は空回りに終わ
ってしまいます。
でも、そんな空しい努力を止められない人々にそっと救いの手を差し伸べるの
もまた時間です。お互いが「一人で立つ」存在であることを認め合うのにもや
はりゆったりと流れる時間が必要なのです。

息子にとって父は絶対的な存在です。憧れ、憎しみ、そしてどうしても嫌いに
なれない存在。父から離れよう離れようとしても、いつのまにか父のそばにい
る自分に気がつかされます。
息子にとっても父にとっても、お互いがお互いに真正面からぶつかり合う時に
何よりも本当の自分に向かい合うことになります。

僕にはあの父親は正義感とヒューマニズムに溢れた弁護士であると感じられま
した。そしてあの二人はこの後もあの日と同じようにお互いをぶつけ合いなが
ら、そこから見える自分の姿と向かい合ったのだと思います。

とても心地の良い作品でした。
99/04/06(火) 00:58


「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズチェスト」

期待感もなく、予習も復習もせず、これが3部作の2作目であるということも
知らずに見に行きました。
一言で言うと「下品な映画」
「見ない方が良かった。」という程の衝撃もなければ「見て良かった。」とい
う程の満足感もない映画でした。ケラケラ笑って見ていた場面もあるんだけど
なぁ・・・。
きっと技術的には高度なこともやってるのだろうし、お金もかかっているのだ
ろうけど、僕にはそういうことは抜きにして「レベルを落として見る人の裾野
を広げた映画」という風に感じられました。

一番ガッカリしたのは、もう一作見ないと、とりあえずけりをつけられないと
いうところでしょうか。多分見に行くんだろうなぁ。

「バウンスkoGALS」

ちょっと変かもしれませんが僕はコギャル版「キッズリターン」だと思ってい
ます。これは僕なりのこの映画に対する最大級の賛辞です。

渋谷という街のアンバランスさとそこにいるコギャルと呼ばれる女の子達はよ
く似ています。24時間眠らない騒々しい街だけだと思ったら、一歩入ると意
外に静かで昔からの家並みがあったり。
援助交際の話をしながら、子供や結婚に憧れ、自分の子供とヌード写真集を出
したいという彼女たち。彼女たちの中では何の矛盾もないのでしょう。
そういう意味で別れの朝の3人と巫女さんの対照はとても面白かったです。

映画には渋谷に生息・繁殖する種種雑多な人々が登場しますが、恐らくは僕と
はまったく違う価値観を持った人ばかりです。一番身近に感じたのはお間抜け
なスカウトの彼でしょうか。女の子にもモテたいし、お金も欲しい。でもどち
らも思い通りに出来るほど頭は良くないし、悪い事出来るほど勇気もなければ、
割り切れもしない。中途半端な正義感みたいなものを抱えて。「Come Back
LISA」の貼り紙は結構いけてると思ったのですが、最近の女の子はああいうの
にはグッとこないんでしょうね。
ああ、この映画はそういう作品ではなかった。こういう矮小化をするのは僕の
癖です。

でも、それぞれがそれぞれの価値観を持っているという意味では理解不能な人
物は多分ただの一人もいませんでした。
カラオケと食事だけで10万円払うおじさんもスタンガンでおじさんからお金
を巻き上げるコギャルも、ブルセラも刑事もビデオカメラマンも名誉教授も。
僕の中では自分なりに彼らのことが説明できるのです。

これは脚本のうまさなのでしょうか。

「慰安婦」とか「官僚」とか、やや強引に持ってきた感がありますが、それで
も「価値観の違い」は理解不能ではないのですから・・・、歪んだ世の中の、
歪んだ欲求の為に生きる渋谷のコギャルと、官僚と、名誉教授が抱えている問
題のそれぞれどこに違いがあるの?と問いかけられているような気がしてくる
のです。同じ時代の、同じ日本の、ちょっとおかしい、だけど理解不能ではな
い問題なんです、これ全部。理解不能、理解可能、倫理的に是、倫理的に非。
こういうのを混同すると映画も楽しめないし、「今、何が起こっているか」な
んて夏休みのワイドショーの「コギャル特集」見てても分からないし。

徹夜明けの朝、誰にでも経験があるのではないでしょうか。どんなにごみごみ
した街でも、なんだか朝だけはやけに爽やかで、日差しが眩しくて、体がだる
くて、得体の知れない喪失感とか充実感みたいなものが込み上げてきて。なか
なか良いラストシーンでした。

「俺達はもう終わっちゃったのかなあ。」なんて呟くほど弱くも強くもないの
でしょうが、多分あの女の子達は「まだ始まっちゃいないよ。」って思ってた
のではないでしょうか。
97/12/16(火) 22:24


「橋の上の娘」

ギリシャにいる筈のアデルに呼び止められ、橋の外側から欄干をまたぐガボー
ル。何ともカッコ悪い。フランスで颯爽と川に飛び込み彼女を救ったのとはあ
まりにも対照的です。

「運命はつかむものではなくて作るもの」

ガボールのこの言葉が間違いでないことをこの映画は語ってくれますが、しか
しそう言った時の彼は本当にこの言葉の意味を理解してはいませんでした。
この世には身を委ねなければいけない運命と、自分で切り開くことの出来る運
命の二種類があります。

ナイフの行方やルーレットの目が前者です。
新しいパートナーを見つけ、自分達で運命を切り開いたと思っている二人です
がこの時点ではまだそれまでの人生の延長線上にいます。ナイフを投げる男と
的になる女。恐怖と快感が一体になった今までに体験したことのない感覚に陶
酔する二人。でもこの時二人はその充実感の正体が、たまたま自分達が身を委
ねた運命の巡り合わせの良さだと思っています。

目に見えない全ての物に身を任せれば上手くいくという考えが幻想に過ぎない
ということが、やがて明らかになります。

そしてラストの二人。

やっと二人は自分で切り開くことの出来る運命があるのだということに気がつ
いたようです。二人でいることだけを選択し、二人でその運命に身を委ねる。
その運命がどんなに過酷なものでも、二人して“目に見えないもの”に向かう
姿勢こそが、あの充実感・充足感だということを。

カッコ悪いけど、少しもカッコ悪くなんかない。

ルコントには珍しい明快なハッピーエンド。二人はもう一度あの橋の上のスタ
ートラインに立てたようです。

大人の愛と官能を描きながらも彼の基本路線は娯楽作品です。アクション映画
も手がけている彼ならではのスピード感、躍動感のあるカメラワーク、エキゾ
チックな音楽。最初から最後まで飽きさせることなく見せ切ってしまう力量は
流石です。
00/01/13(木) 17:11


「バタフライ・キス」

過去を回想しながら我々に語りかけるミリアムは、まっすぐに前を見つめてい
ます。そこにはユーニスと出会った頃の怯えた小猫のような様子は欠片もあり
ません。あの彼女の強さは一体どこから来ているのでしょうか?

二人が初めて車の中で一夜を過ごした翌朝、隣りにユーニスがいないのに気が
ついたミリアムは彼女の名を呼びながら荒涼とした砂浜をさまよいます。僕は
このシーンがどうしようもなく美しく感じられて涙が出そうになりました。

「神様に忘れられた人間が、それでも愛し、愛されるんだ!」という強さ。

貴方のためになりたい、貴方を善人にしたいというミリアムに対して、ユーニ
スは言います。「他人を善人にする前に貴方が悪に染まる。」と。

彼女の予言どおり、ミリアムは殺人を犯します。そして、自らの殺人に対して
全く罪悪感を持っていません。
しかし、これは悪に染まったというよりも、ありのままの自分に気がつき、思
いのままに行動した結果だといえるでしょう。(ありのままの彼女が善人なの
か悪人なのかということはどうでもよいことで。)愛の為にモラルの壁も越え
ることができる強さを彼女が元々持っていたということです。
愛を失ったユーニスが次々と殺人を繰り返すのもまた、愛が容易にモラルの壁
を壊してしまうものだということの裏返しです。

マイケル・ウィンターボトムという人の強さにも触れない訳にはいきません。

彼の強さはインモラルをとりあげるセンセーショナリズムではなくモラルを越
えたリアリズムにあります。
「日蔭のふたり」には宗教的慣習に対立するジュードとスーという男女が登場
します。規範と対立することに執着するスーに対して、ジュードは自らの幸せ
の為、愛する人の幸せの為に宗教と真正面から関わっていこうとします。時に
は対立し、時には自らの血や肉としながら。僕は聡明なスーよりも愚直なジュ
ードの方に底知れぬ強さを感じました。モラルを越えたリアリズムの強さです。
「GO NOW」でも同様に、徹底して男女の愛憎を即物的に描くウィンター
ボトム。彼は「愛は美しいものだ。」「愛は人を善に導くものだ。」という幻
想を粉々にぶち壊してみせます。

しかしながら、「愛は強いものだ。」と語る彼のリアリズムの向こうに、「美
しさ」のようなものが見える瞬間があるからこそ、彼の映画からは目が離せな
いのです。
98/06/02(火) 23:34


「ハチミツとクローバー」

とても恥ずかしい話
僕も、ただただ夢中で自転車のペダルを漕いだことがあります。自分のちっぽ
けさも分かっていて、でもそういう自分が嫌いじゃなかったり。
他にも沢山恥ずかしくて、懐かしくて、切なくなる話を思い出さされて弱りま
した。
みんな大好きで、大好きな映画です。
2006年08月17日20:58

「8mm」

久し振りに「これだ!」という一本に出会うことが出来ました。

今年のワーストはこれで決まりかもしれません(^_^;)。

とにかくストーリーが平板で真相まで一直線に辿り着いてしまったという感が
拭えません。また、真犯人探しは枝葉に過ぎず、メインは「主人公が狂気に取
り込まれてしまう話」という二枚腰の展開を狙ったのかもしれませんが、これ
も成功していたとはお世辞にも言えません。一旦家に帰ってから、改めて、の
このこと犯人の前に姿をあらわしたり、狂気に取り込まれた筈の彼がすっかり
いい人になって家族の元に戻ってしまったり、どうにも拍子抜けしてしまいま
した。

ハチャメチャワイルド野郎(怪作「ワイルド・アット・ハート」)もガッツ親
父(傑作(^_^;)「コン・エアー」)も破滅型フェロモン男?(「リービング・
ラスベガス」)も魅力的に演じることの出来るニコラス・ケイジがこんなに退
屈に見えたのは久し振りです。3つともこの映画にピッタリのキャラクターだ
と思うのですが。
99/05/03(月) 22:08

「初恋のきた道」

誕生日に美味しいものでもご馳走しようと思い、お店に行くのではなく、自分
で何かこしらえようと張り切って、「何がいい?」と聞いたら答えは

「チャーハン」

自分への期待が高いのか低いのか複雑な所でしたが、それなら厳選素材のこだ
わりチャーハンを作ろうと、わざわざ焼豚を買いに日本橋の三越まで行きまし
た。それから海老もプリプリの美味しそうなのを選んで・・・。
どうだったんだろ?果たして美味しかったのだろうか?
そうそう、デザートにはアイスクリームがいいと思って、わざわざデロンギの
アイスクリームメーカーまで買いました。これは割と美味しくて評判良かった
かも。

不器用な人は不器用な人なりにトンチンカンな贈り物をし続ければ、それでい
いのではないでしょうか。

とにかく主人公の女の子の一途さ、可愛さだけが印象に残りました。他には何
もないくらい。ル・シネマの館内放送では「モノクロの現代とカラーの昔、2
世代に跨った愛のストーリー」みたいなことを言ってましたが、僕にとっては
これは決してそんな大河ドラマではありませんでした。チャン・ツィイーの文
字通り体当たりの熱演しか憶えてません。
監督がここまで一人の女優に肩入れしていいのかどうか?彼女にそれだけの値
打ちがあったかどうか?は評価の分かれるところでしょうが、僕としてはそれ
は保留にしておいて、それとは別にこの映画は物足りないものに感じられました。

トンチンカンな贈り物を贈りつづける一途な恋は、餃子を持って走っても、教
室の障子を張り替えても、雪の日に待ち続けて凍えても、やはり相手には届か
ないものだと思うのです。
それから、たとえ思いが通じて分かりあえたと思っても、二人の間にはいつま
でも決して知り得ない、理解することの出来ない部分があり続けるのだという
ことも。
だから僕は二人がそれなりの困難を乗り越えて結ばれたことも、その関係を死
ぬまで変わることなく守り続けたことにも、どうしてもリアリティを感じられ
なかったのです。
本当の幸せや希望や願いや孤独を描こうと思ったらどんなウェルメイドで時代
錯誤な映画でも棚上げにしてはいけないものが必ずあるのではないでしょうか。
01/05/18(金) 00:16

「ハッシュ!」

誰かを愛して、誰かに寄り添って欲しいという気持ち
妄信的でも狂信的でもいいから、とにかく誰かを愛したいという思い、愛され
たいという思い
家族の、大切な人の、ありのままの全てを受け容れたいという覚悟
一人でも生きていける強さと孤独を飼いならせるしなやかさを持った人だけが
辿り着ける優しさと温もり

今の僕は、上手にこの映画と距離をとることが出来ません。

前作「渚のシンドバット」公開の際、インタビューに答えて監督がこんな話を
披露していたと記憶しています。(細部は違うかもしれませんが。)
ある末期のエイズ患者の話。彼は親に勘当され荒れた生活を送るうちに発病し、
治るあてもないまま入院をしていたのだそうです。既に体中の水分がなくなっ
てカラカラに干からびてしまっているような極めて深刻な病状で・・・。
そんな父を久し振りに見舞った父親がこう言ったのでした。「それでもお前は
俺の息子だ。お前のことを愛している。」と。すると、もう体のどこにも余分
な水分など残っている筈のない息子の目から大粒の涙が零れ落ちたのだそうで
す。

前作では「人を愛することってこういうことなんだなぁ」ってホワホワとしみ
じみと感じさせてくれた橋口監督は、この作品では、その温かさはそのままに、
「生きるっていうことはこういうことなんだなぁ」という所まで世界を広げて
いました。一人の監督の、人間としての成長や世界の広がりをリアルタイムで
体感することが出来るというのはこの上もない喜びです。

前作でも甘酸っぱく胸がキュンとなるような恋心を彼方此方で見せてくれた彼
ですが、今回もそれは健在。しかも自然さと温かさが増していて。
怒るといつもアイスクリームを食べるという直也と勝裕のやりとりはまさに
「恋する二人」のそれで、なんとも言えず微笑ましくなってしまいました。
それから彼の監督しての(それから多分人間としての)成長がよく見えたのは、
直也と勝裕が朝子の家を訪ねるシーン。あの小気味良い編集に彼の余裕を感じ
ました。



自分の孤独と向きあって、一人でも生きていける強さを自分のものにしなけれ
ば本当に優しくなることは出来ないんだろうなぁ。でも多分それだけでも足り
ないような気もします。狂おしいほどに誰かを求めたくなってしまう自分の気
持ちや、自分と同じ孤独や狂おしさを抱えている誰かの気持ちを思いやらない
と、一緒に生きていくことなんて、とてもとても。

愛のないセックス。スポイトも絶倫饅頭も寒々しくもあり、滑稽でもあります。
でも誰かとの絆や自分が生きていたという証をこの世界に残したいという欲求
や、どんな動機があったにせよ“体が内側からめくれ上がるような痛み”を越
えて、抱きとめた我が子を無条件で愛しいと思う気持ちには一片の嘘もない筈
です。寒々しさや滑稽さは知っていても愛しさを知らない人は多いのではない
でしょうか。僕も未だそれを知らないままです。

でも皆強いなぁ。もっともっと僕も強くならないと、優しくならないと・・・。
“まるで”一人でも生きていけるほどの強さとしなやかさを自分のものにした
とき、初めて誰かに対して優しくなれるのに。今の僕は自分を嘆き悲しむこと
ばかり。自分、自分、自分、自分。自分のことしか考えられません。

この映画から元気を貰って前を向いて歩けるようになる為には、まず自分にそ
れ相応の強さがないと駄目なのかもしれません。
02/07/21(日) 21:20


「バッファロー’66」

とてもカッコ悪い映画です。

「カッコ良いこと」はそれほど「カッコ良いこと」ではなくて、「カッコ悪い
こと」が実はとても「カッコ良いこと」だということを恥ずかしげもなくカッ
コ悪く語っています。

愛し方が上手でないからといって決して恥ずかしがることはない。不器用に愛
することが「愛する」ということなんだから・・・

童顔でポッチャリ(というより、おデブちゃん)のクリスティーナ・リッチ最
高\(^o^)/\(^o^)/。去年の「アイス・ストーム」あたりから、ただ者ではな
いと思っていたのですが、出演作の選び方にも既に強烈なこだわりが感じられ
て◎でした。
99/09/19(日) 00:29

「パトリス・ルコントの大喝采」

何でもありの大衆演劇ブールバール劇の魅力そのままに、のびのびと楽しく演
じきった3人の素敵なおじさま達が何ともいえない味を出している快作でした。
恥ずかしながら、ルコント作品を見たのはこれが初めて。官能的な大人の作品
を撮り続けてる方だと思っていたのですが、今作品の公開前に彼の初期の頃の
作品も話題になり、実はアクションからコメディまで幅広い作風を持った方だ
と知りました。この映画にもそういう様々なジャンルのエッセンスがぎゅっと
詰まっていて、映画らしい映画の面白さを楽しめました。

やはり一番好きなシーンは3人が自信を無くしかけたジュリエットを川のほと
りで励ますシーンです。ヴィアラは言います。「いつまでも舞台にしがみつか
なきゃ駄目だ。私はいつまでもしがみつくぞ。」才能やチャンスに恵まれなく
ても本当に舞台が好きな彼らの気持ちが彼女にも、そして僕たち観客にも伝わ
ります。

ひょっとすると、彼ら役者同様あのブールバール劇の魅力の虜になって、いつ
までも観客席にしがみついている人々があそこには沢山いるのかもしれません。

フランスという国は演劇や映画の需要曲線と供給曲線が日本よりはずっとずっ
と高いところで折り合っている国なんでしょう。観客の乗りの良さには脱帽で
す。この映画を見終わった後ル・シネマの満員の観客席が大喝采になるような
らたいした物なんですが。(実際は半分足らずの入りでした。)
96/08/24(土) 21:21

「花とアリス」

前作だけ見ていないのですが、この監督の作品は、コミックに似ているなぁと
再認識しました。
登場人物一人一人のキャラクターの造形や、微妙なスパイスを加えながら軽や
かに進むストーリーや、素っ頓狂な台詞回しや。少女が主人公のコミックではあ
るのですが、僕は少女コミックというのは読んだことがないので、これが「ガー
リーな世界」なのか「男から見たガーリーな世界」なのかは今ひとつ分かりませ
ん。

女の子を可愛らしく撮るのも上手。いつも男の子より少し先に大人になる女の
子のフワフワとした可愛らしさ、大人になる一歩手前の可憐さ。やっぱり誰でも
にフラッシュダンスを思い出させるあのオーディションシーンのフィニッシュを
決めた美しさにはホクホクしてしまいました。

過去の思い出、ファーザーコンプレックス、思い出と思い出がシンクロする海
辺のシーン。思い出との関わり方、父親との関わり方は「ラブレター」を思い出
させます。このあたりも「コミック的」と感じさせる理由なのでしょう。

こういう雰囲気の作品だけを撮り続ける監督ではなくて、多分もっともっと色
んな引き出しを持った、もしくはこれから身につけていく人なのだとは思うので
す。
でも好きなんだよなぁ、こういうの。
04/04/22(木) 22:26

「花の影」

「女性は皆黒いスカートをはいている。故宮の壁は赤く、城の屋根は金色に輝
いている。空はどこまでも青くそこには白い凧が上がっている。」

忠良が如意に語って聞かせた北京の風景は彼自体が抱いていた憧れです。上海
という都会の喧騒と闇の中で生きる彼こそが、実は明るい太陽の下での「自由
恋愛」を望んでいたのでしょう。

皮肉なことに如意の方はというと、彼が語った偽りの理想ではなく最初から生
身の彼自身に惹かれていきます。

「あなたがどんな男でも構わない。私はあなたが好きよ。」

もし彼がそのことに気付いていれば彼は本当の幸せを手に入れることが出来た
かもしれません。
そして、もし彼女が彼の語る偽りの理想に憧れを持っていただけだとしたら、
彼女とて悲劇的な結末を迎えなくて済んだかもしれません。

これが現実ならば「もし」は通用しませんが、映画についてなら、そういう風
に思いを巡らせることは可能です。前作の「覇王別姫」を思い出させるエンデ
ィング、(幸せとか愛とかそういう物を)捜して、求めて、そして手に入れる
ことが出来なかった二人が迎える結末は、やはりあれ以外には考えられません。
(第一部完)

第二部(コン・リーに捧げる)
コン・リーというのは本当に素敵な女優さんです。
「上海ルージュ」の時には弱い自分を抱えながらも意志の力でそれを表に出さ
ない強い女性の顔をしていましたが、本作では正反対でした。如意はいつも何
かにおびえている表情をしています。

成長した彼女が初めて登場するシーン、石川三千花(こんな字だったか?)さ
ん風に言うなら「アジアを代表する大女優コン・リー様のお通りだ!皆ひざま
ずけ!私の歩く道を花びらで飾りなさい!」という感じでいささか鼻につきま
した。それでもって、最後にお腹のあたりからパンして彼女の顔のアップ「ジ
ャーン!どうだぁぁ。」と言わんばかりでした。でも彼女の表情を見て納得。
やはり、それ相応の扱いを受けていい女優さんです。

それからもずっと彼女のおどおどした表情は続くのですが、初めて彼女が凛と
した意志を秘めた表情を見せるシーンはやはり、忠良を訪ねるシーンでした。
そして、彼を愛するうち次第に彼女は本当の女性、強い意志を持った強い女性
の表情をしていくようになります。

衣装の使い方も上手でした。登場シーンは白の無地、その後はピンクの無地の
ドレスを着ていた彼女。忠良を訪ねるシーンで、初めて鮮やかな刺繍の入った
ドレスを身につけています。そして、それ以降も彼に会うときだけしか刺繍入
りのドレスは着ていません。婚約者と共に登場するときですら無地のドレスし
か着ていませんでした。

勿論彼女は衣装の力など借りなくても、細やかな感情を豊かな表情で表現でき
る女優さんです。流石「Time」誌の表紙を飾る大女優です。
97/01/17(金) 00:45

「HANA−BI」

二つの全く違う作品があると思わないと、僕にはどうにも耐え難い作品でした。


相変わらず編集が巧みで、さすがに北野作品だと思わせる場面が沢山ありまし
た。

本当に大事な人と心を通わせる為には言葉など必要ないのだということを、ま
た嫌というほど思い知らされました。後輩の刑事が語るように「僕にはああい
う生き方は出来ません。」が。
一番好きなシーンは雪の中に転んだ妻を夫が助けに行くシーン。あの、なんと
も言えない不器用な走り方に彼の優しさを見ました。

でも、なぜ彼があれほどまでに暴力的なのか、どうしても僕には分かりません。
とことん即物的な暴力描写。そこにはもう、憎しみすら感じません。それが、
暴力の本質であり、他の映画で見られる「暴力の美しさ」のようなものを一片
も持たない描き方はどこまでも徹底しています。
でも、僕はそれがどんなにリアルだとしても、敢えてそれを描くことを受け容
れがたいものがあります。「不条理な暴力」が溢れかえる現代、やはり「暴力」
を描くのなら、こういうやり方しかないのでしょうか?
どんなにリアルなドラマだとしても、そこからほんの僅かの希望すら得ること
が出来ないとしたら、何になるのだろう?それはドキュメンタリーでも同じ事。

どうして「あの夏いちばん静かな海」や「キッズ・リターン」ではいけないの
でしょう?
98/02/23(月) 21:49

「パフューム ある人殺しの物語」


絞首台に乗せられた主人公が最後に見たものは?

これから始まる処刑を前に狂喜する群集。憎悪の視線も、罵詈雑言もその全て
が自分ひとりに向けられたもの。やがて体に打ちつけられる硬く重い棒。その
中で彼は今まで自分が会うことの出来なかった父親の愛情を思い浮かべていた
のでした。恍惚の表情を浮かべ快楽を感じていたのは彼自身。やがて意識を失
った彼を今度は母親の愛が包んでくれます。骸となった彼をカラス達がついば
んで跡形もなくなってしまうまで・・・。

この映画全体を壮大且つ馬鹿げたパロディだといってしまうことも勿論可能で
す。
「ラン・ローラ・ラン」でその才能を世に示したトム・ティクヴァは主人公が
一貫して憧れる理想の女性を赤毛にし、しかも彼女にローラという名前までつ
けています。私生活でも初代ローラ役のフランカ・ポテンテと交際した後に別
れているという念の入れよう。

パロディだと言われることは別に構わない。でも僕はこの映画を「低俗で無価
値な映画だ。」という人には賛同できません。
お金で買える娼婦から始まって、自分の前にひざまずくローラの父親、更には
自分を産み落とした母親まで彼の求めるものは次第に根源的なものへと向かっ
ていきます。崇高なものへ向かっていったと言ったら言い過ぎでしょうか。

物議をかもし出したあの型破りなラストシーン。でもある一人の男の人生と、
彼が求め続けた愛にはそれだけの価値があるのです。彼がただの殺人者であっ
たとしても、稀代の調香師であったとしても。映画も人の人生も、誰からも忘
れ去られ小瓶の中の香水のように跡形もなく消え去ってしまうかもしれないと
しても。

2007年04月05日18:47

「バベル」

たとえば聾唖の少女であったり、言葉の通じない土地で銃撃に遭った妻を必死
に救おうとする夫であったり、荒野に放り出されて助けを求めてさ迷うメイド
であったり。
意志の疎通が思うようにはかれない特殊な状況に置かれた登場人物たちの苦悩
からはむしろ普遍性を感じることが出来ます。
本当に誰かと繋がりたくて、自分の思いをわかって欲しくて、自分の存在を認
めて欲しい時、普段は簡単に様々な人とコミュニケーションがとれていると思
っていたのに、実は本当に大切なことは誰にも伝えることができていなかった
んだということに気がつかされます。
そういう時に言葉はあまりにも無力で、ただ抱きしめてもらえるあの体がぎゅっ
て小さく縮む感覚と、自分とは違う誰かの体温だけが繋ぎとめてくれます。

でも僕は言葉を費やして、言葉の無力さを思い知らされても、それでも言葉で
誰かと繋がろうとすることは放棄したくありません。
少女が若い刑事に託した紙切れ。やり切れない思いで冷酒を煽る彼がふと思い
出して見たその紙切れには小さい文字がびっしりと書かれていました。

凶暴な銃弾で人々は繋がっている?僕らの気持ちとは全く関係のないもので、
僕らは否応なく繋がっている?

それだけではないと思いたい。確かな実感が得られなくても、「本当に大切な
もの」は必ず伝わるんだって。

兄の命を救うために泣きながら投降する弟の言葉が・・・
何も知らず無邪気に「その日の出来事」を父に電話越しに話す息子の言葉が・・・

大都会の真ん中に屹立する超高級マンション。空虚さの象徴ではあるのですが、
バックに流れる坂本龍一の音楽に身を任せながら、虚しさとは正反対の希望の
ようなものも感じることが出来ました。感じたいという思いを感じることが出
来たのかもしれません。

得体の知れない熱気と凶暴な情熱がみなぎっていた「アモーレス・ペロス」に
比べると、何だか「巨匠の佇まい」のようなものが備わってきはじめているよ
うで、良くも悪くも微妙に予想を外されました。
荒削りだけど「アモーレス・ペロス」の方が好きかなぁっていうのが、「バベ
ル」を見た直後の感想だったのですが、少し間を置いてみて、また両方を思い
浮かべたりすると、必ずしもそうでもないかなぁと思えるようになって来まし
た。

2007年06月08日07:27

「パリでかくれんぼ」

3人の魅力的な女性たちは本当にパリの雰囲気にぴったりでした。

過去とどのように関わっているのかということで、彼女たちの立場はそれぞれ
に異なります。過去を次々に捨てていくニノン、過去を持たないルイーズ、そ
して過去を捜すイダです。

僕は3人の絡み合いがもう少し在った方が良いなあと思いました。最初のほう、
次から次へ3人が登場し、時間の飛び方もまちまちだったので(あと、衣装も
ころころ変わっていた)溶け込むまでに時間がかかりました。「ショートカッ
ツ」や「アパートメント」みたいに最後になってそのイライラが解消されれば
それでいいのですが、この映画ではどうも上手く行かなかったような気がしま
す。僕もやっぱり長く感じてしまいました。
あと、ルイーズの歌はちょっと???でした。が、カワユイので許しちゃうこ
とにします。

もともと、この映画、僕は「パリのレストラン」で

「私は寄せ書きに何も書けないわ。どうせ私のことなんか忘れてしまって思い
出せないのだから。」

と言うシーンで僕が一目惚れしたダニエルを演じていたロランス・コート見た
さに足を運んだのでした。

ロランス・コートは今回も自分の存在が何なのか?自分でそれを見つけだし、
誰かに分かって欲しいと思っている(何となくいつもイライラしている)ちょ
っと生意気で風変わりな可愛い女の子を好演していました。

彼女が自分の部屋で鏡と向かい合うシーンが好きです。じっとワンピース姿を
見ていたり、鏡に向かって
「この顔は誰のもの?この胸は誰のもの?このお尻は誰のもの?」
なーんて、話しかける所なんかは軽い雰囲気の中で彼女の心情を表現していて
良かったです。

他の映画でも女性が鏡に向かうシーンには印象的なものが多いです。
97/01/29(水) 00:25

「パリのレストラン」

とても清々しい作品でした。

レストラン最後の1日に集まる所縁の人々、雑多で個性的な彼らの一人一人を
実に優しく、丁寧に描写しています。一人一人がどこまでも人間臭く、愛すべ
き存在です。登場人物全てに対してそれぞれにコメントしたくなるくらいです。

僕が一番好きなのはシェフとその息子の関係です。

父親を尊敬し、愛していてもその気持ちをストレートに伝える事など息子には
出来る筈もありません。特別な日、特別な人々に囲まれて初めて息子は父親に
自分の気持ちを伝えます。

「パパ、愛してる。」

ただそれだけ、息子は衿の裏側に小さく書きます。そして二人は見つめ合い微
笑みます。この一言が言える親子が実際どれだけいるでしょうか?ジンと来ま
した。

美食は人を幸せな気持ちにしますが、それは相手をもてなす気持ちがあっては
じめて可能になります。この映画にはそういうもてなしの気持ちが溢れていま
す。そんな美味しい料理のある所には不思議と心優しい人々が集まります。こ
の映画にもそんな素敵な魅力があって、これを見た人も、きっと少しだけ優し
い気持ちになれるはずです。(僕は映画館出てから駅までずっとホクホクして
ました。)

こういうお店は大した宣伝無しでも口コミでたちまち評判になりますよね。
だから僕も、

是非是非、一人でも多くの人に見てほしい作品です。そしてこの映画について、
愛すべき登場人物たちについて、もっと話をしてみたいです。

P.S.
「猫が行方不明」の主人公クロエのルームメイト役が印象的だったオリヴィエ・
ピィにまた会えて、とてもうれしかったです。飄々として、とても上手な俳優
さんです。
96/11/07(木) 21:31

「ハルク」

僕がアン・リーに求めるものはどうしても高くなってしまいます。彼ならばど
んな素材を使っても超一級の料理をテーブルの上に並べてくれるのではないかと。
「アイス・ストーム」「グリーン・ディスティニー」「楽園をください」と、ど
んな設定の下でも僕自身が自然に共感できるドラマを提供してくれた彼だからこ
そ。

やたらと画面が分割される事が多くて、冒険的なことをするなぁと感じたので
すが、それがコミックのコマ割を意識してのものだと気がついたのは映画を見終
えてからでした。
僕が期待していたのはコミックの「再現」ではなくて「再構成」だったのだと
思います。ところが今回の彼は、自身が原作のファンだったということも関係し
ているのか、「再現」の方に重きをおいていたようです。他の“ハルク”ファン
からすると正反対の印象を持つかもしれませんが“アン・リー”ファンの僕には
そう感じられました。

だから、リアルなCGもマッドサイエンティストの脅威も科学と倫理の関係も
それだけでは僕を満足させる事が出来なかった。二組の父と子の関わりにはアン・
リーの初期の作品からの流れも見ることが出来たのですが、やはり恋人同士の二
人の描き方が薄く感じられました。
アン・リーならば親子であること、恋人同士であることの関係性によりかかる
人間の愚かさを笑い、その後に、それを全否定も全肯定もせず、関係性を超えた
結論を一人一人が選ぶ様を見せてくれる事が出来たと思うのです。この作品では
コミックの巻頭のあらすじの「登場人物紹介」の枠を飛び越えようとする人物は
一人もいなかった。
原作を見事な手並みでそつなく料理する力量を改めて見せてもらったからこそ、
更にその上を行く事が出来たのではないかと感じられて、少し残念でした。
03/09/18(木) 11:25

「バンドワゴン」

僕が毎日利用している最寄りの駅には、夜になるとギターを抱えた若者達が数
人集まってきて、それぞれがオリジナルの曲やプロの曲のコピーなんかを演奏
しています。結構皆上手です。仕事で疲れて帰ってきたりすると、彼らの曲に、
ほっとさせられることもあります。半分くらい、羨ましいという気持ちもある
のかもしれません。

主人公達の結成したバンド「サーカスモンキー」。ストレートなサウンドは、
なかなかの実力派で僕は好きになりました。元々ああいうオーソドックスな音
は好きです。それからポスターのマスコットマークも可愛かった。

映画のほうも彼らの曲そのままに軽快に進んでいきます。この手の青春ドラマ
ではいつも、最初の内、登場人物は誰が誰だか分からないのですが、次第に一
人一人の個性が出てきて、段々魅力的なキャラクターになっていきます。彼ら
自体の描写も、それから彼らに訪れる災難も必要以上に深入りしないのが、か
えって良かったのかもしれません。“ウルトラポップス”風という感じでしょ
うか。

僕は喧嘩っ早いベースの彼が気に入りました。破天荒で、すぐ問題を起こすの
ですが、筋を通す時にはきちんと通すし、とにかく解りやすくて好きです。ち
ょっとブラピにも似てるし。それから、いい味出してた伝説のマネージャーは
ティム・ロビンスに似ていた。

商業主義とバンドの音楽性の対立というのはよくある話です。どちらかだけに
偏ったのでは何れにしろドンキホーテになってしまうのでしょうが、それでも
やっぱり自分達が楽しむ為だけに演奏をしている若者達にしか出来ない音楽と
いうのもあるのではないでしょうか。あのマネージャーが次から次にバンドを
転々としていった理由も何となくそういう所にあるような気がします。

「公衆道徳」とかそういう訳の分からない理由で、駅に集まる若者達が締め出
されるようなことがないように心から願っています。
この映画の主人公達のように軽い乗りでバンドを結成し、練習まで出来てしま
うような環境があるといいのですが・・・。日本にはあんな大きなガレージは
なかなかないですよね。
98/03/22(日) 22:32


「ハンニバル」

エレガントでスマートなこの映画の主人公は身も凍るような惨劇を洗練された
オペラに仕立てあげてしまいます。それは人食い豚に足を食わせるような貧困
な想像力とは対極にあるものだと感じられました。
復讐に燃える大富豪の館が高価な調度品に満たされていても、決して洗練され
ているとはいえないのに対して、レクターの着こなしは不必要なものを削ぎ落
として削ぎ落として洗練されたものだけを身につけているという感じでしょう
か。斜めに帽子をかぶり、滑るようにフィレンツェの街を歩く彼の姿は、どん
よりとくすんだ風景と相まってとても優雅でした。もとより「洗練」とは後か
ら後から何かを付け足していく作業とは全く正反対のものなのでしょう。

最後の晩餐のシーン、素肌のクラリスに纏わせた黒のイヴニングドレスもゾク
ゾクするほど美しかった。これも勿論彼の趣味。“新しい”クラリスの白い肌、
大胆に開いたドレスの下の乳房の膨らみ。彼女が最も美しく引き立つ最もシン
プルな装いを、彼は誰よりもよく知っていたのではないでしょうか。

大掛かりな装置で観客の度肝を抜くのではなく、限られた演出で観客の想像力
を無限にかきたてるような舞台。くどくどした味付けや盛り付けはなく、食材
の味をそのまま生かした料理。

彼は知的で洗練された演出家であり、そしてシェフでもあったのでした。
01/04/15(日) 23:26

「ピアニスト」

ナイフを自分の胸に突き立てるエリカのあの表情。憤怒、嫉妬、苦悩が最高潮
に達した般若のような。一度見たら忘れられない、でも何度見ても恐らく正確
に思い出すことが出来ないような、後を引く表情でした。
どんな時も決して感情を表すことがなかった彼女の唯一の表情。あの表情だけ
を見せるための映画だったのかもしれません。

楊徳昌の「クーリンチェ少年殺人事件」
主人公のスーは抑えることの出来ない自分の感情、誰よりも何よりも大切な女
性への愛憎をナイフに込めて、彼女とコンタクトしました。
エリカにはそれすら許されなかった。
行き場を失った愛憎を向ける先はもはや自分しかありませんでした。

でも始まりはいつもそうだと思うのです。自分を憎んだり、自分を可愛がった
りする所から始まる。だからやはり血の滲んだドレスで夜の街へと飛び出して
いく彼女はスタートラインに立ったのだと。
命令し、命令される関係から自分の意志を何よりも大切にする関係へ。
自分が望んだことを相手に求め、相手が望んだことに自分が応えるだけの関係
は愛情とは別のものです。それは「契約」でしかありません。いつも裏切られ、
それでも自分が求めていた以上の喜びや悲しみや驚きを共有するような関係で
なければむしろ一緒に歩きつづけることは出来ません。
目まぐるしく関係が逆転し、愛憎が入り乱れるエリカとワルター。彼女たちが
自分の感情すらコントロールできない状況に流されれば流されるほど、二人の
関係の「濃度」や「純度」は高まっていくようでした。
キェシロフスキの「愛に関する短いフィルム」も思い出しました。(むしろ、
映画の終わらせ方という意味ではデカローグ第六話の「ある愛に関する物語」
と言ったほうがよいかも)

彼女のアブノーマルな性的嗜好が強調され「不快な映画」「女性に対する既成
のイメージを壊される映画」という言われ方をしていたのを彼方此方で目にし
ました。
でも僕には彼女の姿を見て自分の中の何かが壊れていくという感覚はありませ
んでした。但し、セックスをネガティブなものと結びつけてしまう自分の感覚
を見せつけられるような、いやな感じはあったかも。
自分も「何かが損なわれている時代」に生きているということを再認識させら
れたという意味では、思ったよりも自分に近い所にある映画だったかもしれま
せん。
02/05/07(火) 22:09

「ヒート」

ヴィンセントとニール、二人は共に闇の世界に生きている。ただ、闇の中でわ
ずかな光を見出せるか否か。両者の違いはそこにある。そしてその選択はあく
まで彼ら自身に委ねられている。決して運命的なものではない。

ニールは結局闇のなかで生きることを選んだ。高飛びのため空港へ向かう途中、
イーディーとニールの二人を迎える眩いほどの光。しかしこれはあくまで、ト
ンネルの中だけの、見せかけの、一瞬の光に過ぎなかった。そして彼は自ら再
び闇の世界へ戻ることを決意する。思えばこの二人の関係自体、最初から巨大
な闇の中の見せかけの光として描かれていた。二人が出会った夜、見つめていた
夜景、切り貼りして作ったような安っぽい「100万ドルの夜景」が象徴的だ。

自分のためだけにでなく、愛する者の為に出口の見つからない闇の中で何とか
光を見出そうとするヴィンセントと、あくまで闇の中で生きることを選んだニ
ールの闘い。それは、あれ以外にない象徴的な結末を迎えることになる。

最後のシーンまでは二人の闘いは日本人好みの団体戦のスタイルをとっている
が、そこでも光を選択した者と闇を選択した者の対比がはっきりとしている。
少女を人質にとった男然り、最後まで妻との愛を信じようとした男然り。そし
て、運命に弄ばれたかのように見えた仮釈放中の黒人運転手とて、結局は自ら
の道を自らで選択したのだと冷徹に描いている。
闇の象徴であるニールは3人に選択を委ねている。「お前はそれでいいのか?
30分フラットで高飛びできる人生を生きられるのか?」と。

男の生き方は運命に左右されるものではない。あくまで自分で選択するのだ。
それがどんな結末を迎えようが、黙ってそれを受け容れる以外にない。

「ヒート」は男の映画だ。正統派ハードボイルド映画だ。
6/22 0:40

「HERO 英雄」

劇場でもブラウン管でも露出の多かった予告編と、「映像はとにかく綺麗だが
ストーリーは平板な作品」という巷の声をインプットされて見に行きました。

僕にとっては「ストーリーが負けて、映像に奉仕する映画」ではなかった。

確かにシンプルではあるのですが平板とか退屈という感じは全くしませんでし
た。為政者の偉大さが際立つように見えて、実は彼の苦悩を描き、またそれに
止まらず彼に対しての名も無き民草の願いまでが描かれている。如何にも中国
の古典らしい、そういうストーリーの構造が僕には心地よく感じられました。
誰でもが触れている映像の美しさ(これもまた典型的な色彩の対照を楽しませ
る王道の美しさ)との相乗効果を出すためには、主張しすぎず、それでいて決
して平板ではない、足腰のしっかりした、こうしたストーリーがベストだった
のではないでしょうか。

数年前に見たアン・リーの「グリーン・ディスティニー」との対照を語られて
いる方も随分いらっしゃるかと思いますが、中国語圏から欧米に進出した実力
派監督がワイヤーアクションを駆使した初の武侠映画ということで確かに共通
点も多く、僕もなんとなく比較をして見ていました。
最近見たこともあり、また恐らくは予算の違いもあるのでしょうから、映像の
美しさについては「HERO 英雄」に軍配をあげることになるかと思います
が、それは僕にとっては大したことではありませんでした。
二人の監督がどちらも単なる武侠映画にとどまらず、時代を超えて不変的な人
間の愛しさや愚かさや美しさを捉えている。そして、チャン・イーモウがパー
ソナルな感情の絡み合いだけでなく、歴史や政治までをも作品に盛り込んだの
に対して、アン・リーは恐らくはそうしたものを意識的に排除した。「グリー
ン・ディスティニー」に感じた現代性と「HERO 英雄」に感じた歴史観と
の対象が僕にはとてもユニークでした。

文句のつけようのない華麗な立ち回りを見せてくれたジェット・リーは僕にと
っては小学生の時に見た「少林寺」以来のスクリーンでの再会でした。今回は
立ち回りだけでなく、彼の立ち居振舞いに見惚れました。日本の歌舞伎役者や
欧米のダンサーが俳優としてスクリーンに映し出された時と同じ驚きがそこに
はありました。
ピンと伸びた背筋、石の階段を掴むようなしっかりとした歩み、何百人もの兵
に囲まれても決して揺らがない気迫を十分に感じる事が出来ました。立ち姿、
歩き方で見る者を納得させることが出来るのは、やはり体に染み付くほどの鍛
錬の賜物なのでしょう。

とても嬉しい再会になりました。
03/08/28(木) 10:02

「日蔭のふたり」

どんよりと曇った空から落ちて来る雨が印象的でした。

「いつか晴れた日に」以来のケイト・ウィンスレットを楽しみに劇場に足を運
んだのでしたが、期待通りでした。僕はタイトルからして運命に翻弄される悲
劇の女性像として、もう少し、か弱い役柄をイメージしていたのですが。あれ
ほど聡明な女性をあれほど魅力的に演じるなんて、流石です。

スーという女性、確かに聡明で賢明な人なのですが、最初から危うさのような
ものを感じます。「賢さゆえの危うさ」のような・・・。
一方のジュードには彼女ほどの賢さはありません。しかし彼には「愚かさゆえ
の強さ」のようなものを感じます。

この作品の主題として「(当時の)キリスト教的倫理観」というのがあります
が、それに対しての二人の関わり方も対照的でした。倫理観と対立する境遇に
なるということでは共通しているのですが。

スーは頭で理解しようとします。非合理的ともいえるキリスト教的倫理観の矛
盾を見抜き、常にそういう倫理観と自分の間に距離を保とうと意識的に行動し
ます。しかし、結局はその倫理観を基準にしていた彼女は我が子の死という悲
劇を前に、まるで戦いに敗れたかのように神の前にひれ伏すのです。

ジュードは違う。彼は意識的に倫理観と対立しようとして自らを辛い境遇の下
に置いたわけではありません。彼の頭の中にあったのは自分が愛する人と結ば
れて、共に幸せになりたいという単純な欲求だけです。しかし、単純だからこ
そ、彼のひた向きさに、スーにはない強さを感じるのです。
そして、重要なのはジュードは「一見倫理的と見える盲信」とは真っ向から対
立しても、本当の意味でのキリスト教的倫理観はきちんと自分の中に受け容れ
ていたということです。それこそ生きる支えとして。本来ならこれは彼が「神
学」としてそういうものを合理的に理解しようとしていたからと、とれるのか
もしれませんが、僕には彼がもっと単純にそういうものを受け容れていたよう
に感じられました(自分の幸せの為にそういうものが必要という具合に)。だ
から、やっぱり彼は学者には向かないと思うのです。

もうひとり、倫理観に対立した人としてジュードの先妻アラベラという人がい
ます。彼女は倫理観と対立し、結局はそういうものと全く関わりを持たない場
所で自分の幸せを獲得しようとした人なのでしょう。

原作は19世紀末の小説。当時論争を巻き起こした「禁断の文学」だそうです。

今みたいに倫理観が実体を持たない時代では「禁断の・・・」を探すのが難し
いですが、多分アラベラのような人が増えているのでしょう。
でも、本当に自分や自分の大切な人の幸せを真剣に考えればジュードのような
生き方は決して時代遅れではないとも思うのです。本当に何かを変えられるの
はきっと彼のような人物の筈です。
97/08/16(土) 23:34

「ひかりのまち」

Alice In Wonderland

誰もがいつも誰かのことを求めていて、どうしても見つけることが出来ない、
どうしても気持ちを伝えることが出来ない、そんな世界に彼女は生まれてきま
した。

僕は27の女の子ではありませんが、たった一人でバスに乗って街の明かりを
見ているとどうしようもなく切ない気持ちになってしまうナディアの気持ちが
よく分かります。僕は離婚した両親の子供ではありませんが、一人ぼっちで楽
しみにしていた花火を見に行ったジャックの気持ちがよく分かります。僕は別
れた妻の子供に月に一度だけ会っている亭主ではありませんが、ふと伝言ダイ
ヤルのメッセージの女性に会いたくなってしまうダンの気持ちがよく分かりま
す。僕は家を飛び出した息子の父親ではありませんが、息子からかかってきた
留守番電話のメッセージを何万回も繰り返して聞くビルの気持ちがよく分かり
ます。
分かったつもりになっているだけかもしれない。でもこの映画を見ていると、
僕が彼ら皆を必要としていて、彼らが皆、僕のことを必要としているような気
がしたのです。

そんな彼らが、ふと自分の求めている人に出会えた瞬間、自分を求めている人
に出会えた瞬間。でも決して彼らは神様に祝福されている人間ではありません。
ウィンターボトムが描いているのはいつも「神様に忘れられた人間」「神様に
忘れられたと思っている人間」達です。「神様に忘れられた人間」が誰かを求
める気持ち、彼らの気持ちはその行き先さえも見失って夜の街を彷徨います。
でもその光は決して消えることはありません。輝きつづけるのです。自分らし
く、自分らしく、一層光り輝くのです。夜の街の明かりのように、空に広がる
花火のように。

「ナディア、その髪型、とても可愛いよ。」

僕はこの映画がとてもとても大好きです。
00/09/14(木) 15:25




「ひかりのまち」は脚本のローレンス・コリアトがアルトマンの「ショートカ
ッツ」にインスパイアされ、当初は登場人物が他人同士という設定で作られて
いたそうです。

「ショートカッツ」の登場人物たちの結びつきは彼らが意図したものでもなけ
れば望んだものでもありません。しかし彼らのつながりは複雑に入り組んでい
て、ある意味その結びつきは「ひかりのまち」以上に強いものであったかもし
れません。しかし彼らはその結びつきに気がつくことすら出来ません。

「ひかりのまち」の登場人物たちは一生懸命に探します。自分の知らないどこ
かで自分をそっと見守ってくれている、自分を待ってくれている人の事を。探
して探しすぎるからこそ彼らは自分のすぐ傍にいる人のことに気がつくことが
出来ません。

「ショートカッツ」の主人公たちが人とのつながりを積極的に欲していないわ
りに、かなり複雑に赤の他人と関わっているのに対して「ひかりのまち」は家
族や友人といったかなり身近な人との関わりを描いています。本当は彼らとき
ちんと結びついているのに、どうしてもそれに気がつくことが出来ず、見知ら
ぬ誰かを求めてしまうような気持ち。かれらが欲しがっているのは「ショート
カッツ」の主人公たちが気がつくこともなく何気なくポイとごみ箱に捨てるよ
うにして、あとにしてきた誰かとの出会いだったのです。
しかし「ショートカッツ」の出会いのように(アルトマンという)神様が目の
前の駒を器用に動かして誰かと誰かを出会わせているような関係から希望を見
つけることをこの映画はしていません。そしてそうした数え切れない運命のい
たずらによる出会いを皮肉たっぷりに眺める(アルトマンのような)冷たさも
この映画にはありません。

本当はどうにもならない運命のいたずらに弄ばれていても、探さないではいら
れない愚かさを描きながら・・・。
そんなことは分かっていて、でも探しつづける人々や街の明かりの一つ一つを
優しい目で見つめることができるのは、それは多分ウィンターボトムという人
が探しつづけている人だからなのかもしれません。

一足早くナイマンのサントラを入手しました。
一人一人の登場人物たちの名前がつけられた曲たち。映画を見る前から彼らに
出会うのが楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。
一番興味があったのがフランクリンという人物です。
シャイで傷つきやすくて、でもしっかりした優しさで自分の大切な人を包み込
んでくれるような人。思った通りの青年でした。

決して登場シーンは多くありませんが、この映画は彼のための物語なのかもし
れません。ほんのちょっとのきっかけがなくて一歩を踏み出せないでいる彼の
ような人物が暗闇に身を潜めてスクリーンを見つめている僕たちに一番近い存
在に感じられたのです(映画をご覧になった僕以外の人に失礼かもしれません
が)。
00/09/26(火) 23:03

 「陽のあたる教室」

昔、音楽活動の真似事をしていた僕が頷けるエピソードが二つありました。少
女にクラリネットを教えるシーン、楽譜を見ないでイメージを思い浮かべるよ
うに指導してましたが、あれは一つの常道でしょう。
僕も実際にプロの人に指導してもらった時、よく「愛が足りない。」「もっと
愛しなさい。」とか、ひどい時には「君のはオナニーだ。」とか言われたりし
たものです。はっきりいうと、このやり方は僕が(彼女が)楽譜を理解できな
いからという意味で、とられた方法でしょう。それならイメージから入ろうと
いう具合に。理解もできないのに楽譜にかじりついていてもろくな事はないと
いうことでしょうか。
勿論、正反対のやり方もあります。「勝手にイメージを持つな。楽譜を忠実に
再現しろ。」という風に。僕はこちらの指導も受けた事がありますが、両方の
意図を自分なりに読み取ると両者の目指す物は結局同じところにあるのだとい
う事が分かります。

もうひとつのエピソードは、ドラムのレッスンのシーン。経験のない素人は変
な癖がないので、上達までに多少時間がかかっても結局は上手くなります。ま
あ最近はカラオケとかのせいで皆変な癖がついてしまっていますが。これは歌
の話ですが、素人同然の人がちょっとしたきっかけで上手くなるということは
確かにあります。特に、ラグビーや柔道をやっていた人は首が太くて声量もあ
り、大きいというより太い見事な声を持っています。そういう意味では、レビ
ューにフットボール部の生徒をかりだしたのは、正解でしょう。

何を書いたところで、この映画良く出来た、チョイと良く出来すぎた「文部省
特選映画」に他なりません。でもそれのどこが悪い。僕は好きです。こういう
の。
5/31 14:30

「ヒマラヤ杉に降る雪」

「シャイン」では人間の心の真ん中の光の部分を象徴していた海が、この作品
では鈍く光を反射し、墨汁のように淀んだ姿を見せています。
しかし、この北の海が象徴するものは決して「シャイン」と正反対のものでは
なく、同じ人の心に光といつも寄り添うように存在している闇の部分でした。

「あなたを愛していると同時に愛していなかった。」

人の心の中にはどこまでも誰かを大切に思う気持ちと、憎しみ嫌う気持ちの両
方が同じように存在しています。たとえ憎しみが「突然の不幸」や「戦争」の
ように人の生来の有り様とは関係のないものによってもたらされたものだとし
ても。

人を許す気持ちと人を疑い憎む気持ちを天秤にかけることは出来るでしょうか?
裁判官は陪審員達に言います。
「その必要はない。」と。

裁判を軸に過去を回想する形で語られる真実。それは全ての人の心に人を愛す
る心と憎しみ嫌う気持ちの両方があるということしか語っていません。そして
その真実を明らかにし、自らの内にある真実を認めることによってしか「正し
い道」を進むことは出来ません。それは心の中の光と闇のどちらに従うかを決
める行為とは別のものです。



イシュマエルの後ろ姿、しんしんと降り積もる雪のように・・・

「それが真実だから。」という理由だけでなく、真実には光と闇の両方を静か
に包み込んでくれる優しさのようなものがあるかもしれません。



僕にとって「父と子の物語」でもあった「シャイン」に引き続いて、あの親子
の関係を彷彿とさせるようなイシュマエルと父の関係がきちんと描かれていて、
嬉しかった。
「シャイン」ほど明らかな苦悩は伴いませんが、傷つきながら父と同じ道を自
ら選んで進んでいくことを決意したイシュマエル。この親子の関係が「真実を
求めること」という映画の芯の部分を担っていました。
00/04/30(日) 22:46

 「秘密と嘘」

主人公のシンシアにはどうしても最後の最後まで好感が持てませんでした。

やたら甲高い声とひどい訛り、それから自分の感情を少しも隠そうとせず、い
つもシクシク泣きながら話をする所など、どうしても生理的に受け付けないと
いうのが正直な所でしょうか。(それにしても何回スウィートハートとダーリ
ンって言ったのでしょう?この世の人間全てがこの二種類だけみたいでした。)

例えば映画の登場人物に全く好感が持てなかったとしても映画自体は良くでき
ていて、それだけを評価できればいいのですが、残念ながら僕はそういう見方
で映画に関わっていないようです。この映画を見ていて、そのことがよく解っ
たのは発見でした。

シンシアはケン・ローチの「レディバード・レディバード」の主人公マギーと
非常に似ています。境遇も年格好も性格も。あの独特の訛りも感情表現の仕方
もそっくりです。でもマギーは見ていて嫌な感じがしなかったのはなぜでしょ
う?

多分マギーは、不器用に、どこまでも不器用に現実と格闘していたと感じられ
たからでしょう。シンシアもホーテンスに出会うまではきっとそうだったはず。
でも彼女は結局自分が抱き続けてきた「秘密と嘘」そして家族たちが抱き続け
た「秘密と嘘」を明らかにして自分以外の人とその現実を共有することを望み
ます。マギーに愛するべき夫がいたのに対して、シンシアはたった一人で愛情
に飢え、辛い現実に耐えてきたということは弟モーリスの言葉からも分かりま
す。でも僕にはどうしても納得がいかなかった。

ラストでホーテンスは言います。「真実が一番、誰も傷つかないから。」彼女
ほど、この言葉を重みを持って伝えられる人物はいないでしょう。それに対し
てシンシアは「人生っていいわね。」と言います。僕は、彼女が手に入れた幸
せが色々なものと引き換えに、(いろいろなものを犠牲にして)もたらされた
ものであるような気がして素直に受け容れることができませんでした。

そんな事は当たり前、愛するもの同士は辛い現実を秘密や嘘としてでなく現実
として共有するべきものなのかもしれません。強い人にはより多くの現実を受
け容れてもらうようにできているものなのかもしれません。

物語の中で魅力を持つ人物と単に物語としてでなく普遍的な現実を映すという
意味でリアリティのある人物。両立は難しいかもしれませんが、映画的に魅力
のある人物はそのどちらかかあるいは両方を満たしている人物のはずです。僕
にとってのシンシアは映画的に魅力的な(生理的に受け容れることのできる)
キャラクターでなかったと同時に(僕にとっての)リアリティのある人物では
なかったといえるかもしれません。

自分の秘密や嘘を打ち明けることは同じ様に他人の秘密や嘘、辛い現実を自分
なりに受け容れ、自分の現実として向かい合う行為のはず。弟夫婦の現実や新
しく娘として名乗り出た一人の女性の現実を受け容れる覚悟が彼女のなかには
あるように見えなかった。(ホーテンス出生の秘密は明かさなかったが、ホー
テンスにとっては明かしたも同じ)だからシンシアの最後の台詞も僕にとって
は嘘に感じられたのです。

「人生って辛いわね。」

幸せそうに微笑みながらも、彼女にはこう言ってほしかった。

それとも彼女はこういう思いをかみしめながら、ああ言ったのでしょうか?
97/03/20(木) 02:48

「ビューティフル・マインド」

僕の尊敬する大学時代の恩師がこんなことをおっしゃってました。

「学生を指導すること、学生と対話することは研究者としても何事にも代えが
たいほど重要で貴重な体験なのだ。」

真理に向かう道というのは恐ろしく孤独なものだと思うのですが、それでも誰
かと対話しながら自分の居場所を確認し、修正したりしながら進むのではない
かと、僕はずっと思っています。その言葉を聞いて以来ずっとです。

一番大好きなシーンは、カフェにやってきたナッシュに気がついた人々が次々
とペンをテーブルの上に置くシーン。学生時代の彼が同じ光景を見たときから、
100%予想のつくシーンではあるのですが、それでも「彼の成長」という意
味では、十分に期待を裏切ってくれたのでした。
再び大学に戻り、今度は若き才能の持ち主たちとの対話を選んだ彼の成長こそ
が其処で評価されたのは言うまでもありません。

思えば学生時代でさえ、彼の真理探究への道は決して彼一人のものではありま
せんでした。変わり者扱いしながらも彼の才能を認めていた友人たちがそこに
はいたのです。

しかし、他者とのコミュニケーションは矛盾だらけです。初めて出会ったとき
から打ち解ける者もいれば、どんなに長い時間を費やしても決して心を通じ合
わせることが出来ないこともある。
たとえばそれが、自分にとってとても大切な人だとしたならば・・・。その人
と同じ時間を過ごしながら感じることは、「お互いが分かり合えている。」と
いう手応えだけではなく、それと同じくらいの「どうしても全てを理解し合う
ことはできない。」という諦めに近いものです。そんな時、人は勇気をもって
そこに止まりつづけることが出来るのでしょうか?

名前も顔も知らない相手とメールのやり取りをする人が増えています。メール
の相手は自分の理想の友人として、いつも自分を励ましてくれたり、甘い恋の
言葉を囁いてくれたりします。それだけでなく、ある時は自分を悩ませたり、
苛立たせたり、どうしようもなく臆病にさせたり不安にさせたりします。それ
はもう生身の人間以上にです。幻覚など見えなくても人は皆(などと言っては
乱暴なのでしょうが)誰でも自分の内に、そうした人物を抱えているのではな
いでしょうか。
その世界と自分がいる世界とのバランスは信じられないくらい微妙なもので、
本当にいつでも、もう一つの世界が取って代われる位のものなのです。

だからこそ、

目の前にいる人を抱きしめた感触や、胸に手を当てたときに感じる鼓動や・・・
そんな「分からないけれども信じられるもの」を大切にしながら、それでも
「分かろうとする」努力はいつまでも続けていこうとするのだと思います。

大事なのは、「何かを信じるということ」が自分では理解できない価値観を自
分の存在全てを盲目的に他者に委ねてしまうことによって消化する行為では決
してないということです。
「時間をくれればきっと解いてみせる。」
ナッシュがそう言ったように、それは信じられる確かさを手がかりにしながら
少しずつ少しずつ、それでも無限に“自分の力で”前進しつづける行為なので
はないでしょうか。

真理を探究する道と、大切な人と一緒に人生を歩く道は、その孤独さにおいて
も、また進む道程においても、それから(これは希望として)たどり着く場所
においても、実はとても似ているのだと、この映画を見て僕は改めて感じさせ
られたのでした。
02/04/09(火) 22:30

「ビヨンド・サイレンス」

全てのシーンが、観客の感動を煽るギリギリ手前のところで、スパッと終わっ
てしまうのがとても心地よかった。

最初から誰かの気持ちを理解しようとしている人にとっては、飾った言葉など
只の音の振動に過ぎないということが一貫して伝わってきて、気持ち良い演出
でした。どんなに言葉を自由自在に使いこなしても、美しい音楽を奏でても、
誰にも何も伝えることができない人ばかりだからこそ。

音楽家としての才能の一つに「静寂に耳を傾け、静寂を表現できること」とい
うのがあると思います。凍った湖、雪の夜、月の夜。そういう静寂を感じる才
能は彼女の両親から授けられたものです。彼女は音楽家として理想的な環境の
中で育ったともいえるでしょう。
それより何より、両親の人間性が彼女を感性が豊かで魅力的な音楽家に育てて
くれていました。自分を見つめることや、人を許すことや、誰かを愛すること
や。

主人公ララの少女時代の女の子が抜群に良かったのは言うまでもないのですが、
僕は母親役の女優さんの寛容な微笑みが忘れられません。「愛は静けさの中に」
のサラを思い出していました。
98/06/18(木) 16:53


「ピンポン」

「ヒーロー見参!!」

あの頃、僕にもヒーローがいました。僕が困っている時、どんなに困っていて
もテケテケ現われて助けてくれるヒーローが。

中学の時、卓球部でした。卓球はとても面白いスポーツです。中学レヴェルで
も、あの映画のようなワクワクするような試合が結構あるもんで、そう言えば
僕のヒーローも胸のすくような試合をしていました。
本番になると、普段の2倍も3倍も力が出る人って、羨ましかったなぁ。僕は
その逆で本番になると途端に手足が縮んでしまう方でした。だからこそ、眩し
く逞しく見えたのかもしれません。

劇画そのままの過剰な台詞が行き交うことで生み出される疾走感。軽快な音楽
や青臭さを臆面も無く曝け出す窪塚君の魅力も相まって、一気に見せきってし
まいました。
冷めた目で物事を冷静に見極めることができる異邦人サム・リーや、いつもは
150%まで行ってしまう竹中直人を腹八分に抑えて使っているところも好感
が持てました。

映画の中の彼らのように、お互いがお互いのヒーローであるような・・・、僕
もほんの一瞬でもそんな風に誰かのヒーローになれる瞬間が果たしてこの僕に
もあったのでしょうか?



P.S.
ただ一つ残念だったこと。どんなに悔しくてもラケットを床に叩きつけるよう
なことは絶対にしないと、卓球をやったことのある人なら誰でも思うのではな
いでしょうか。
02/08/29(木) 20:53



「ファーゴ」

期待通りの作品でした。

冒頭、この映画が実話を忠実に再現したものであることがまず明かされます。
通常この手の字幕はエンディングで出てくることが多いのですが、この映画で
は冒頭にこの事を知らせることで最大限の効果を生むことに成功しています。

「普通の世界に住む普通の人々達が、神様のチョットしたいたずらでまるで映
画のような悲劇(コーエン兄弟風喜劇)に巻き込まれることになる。」

自分の意志では何も決めることのできない人、自分一人で何かを成し遂げる能
力のない人、このドラマの発端となる誘拐劇の仕掛け人ジュリーはそういう人
物の典型です。そんな彼のささやかな抵抗、たった一つの小さな決断がありと
あらゆる人の歯車を少しづつ狂わせていきます。

こういうキャラクターは一見、物語の、しかも多くの人の血が流れるような物
語の仕掛け人としては相応しくないように見えますが、実は違います。自分の
内側に内側に鬱屈を蓄積していく彼のような人物、そして神様がチョットいた
ずらを仕掛けると、もう事態をコントロールすることなど一切できない人物、
彼のような人物こそが悲劇の仕掛け人には相応しいのです。

印象的なシーンがあります。義父に融資を断られ、その上儲け話を横取りされ
た彼は、一度はカッとなり感情を爆発しかけますが、結局大人しくヘラを拾っ
て窓の氷を削ります。その上、妻のために買い物までして帰宅します。

彼はそういう人物です。

ジュリーだけでなく、登場人物は皆非常に人間臭い存在です。相反する2面性
を合わせ持つような。それが、「光と闇」なのか「善と悪」なのかぴったりと
ハマる表現は難しいのですが、とにかくそういうコントラストを意識させられ
ました。

最後の最後で両方の代表選手が相見えます。

数々の命を奪い、相棒の死体を機会にほうり込む男に女署長の声は聞こえませ
ん。もともと、この二人にはお互いの声など一切聞こえないのかもしれません。
パトカーの中でも彼は結局一度も口を開きません。女署長はつぶやきます。

「私には理解できないわ。」

この二面性を抱え持つ一人の人間にとってもお互いの声はやはり聞こえない、
理解しがたいものなのかもしれません。

「人間はおかしくて、哀しい。」

実に上手いコピーです。ただ、・・・・。
当日、場内ではかなり笑いもおこっていたのですが、僕はほとんど笑えません
でした。面白いのはよく解るし、違う映画で同じジョークを聞けばきっと笑っ
たでしょう。でも僕は笑えなかった。

「人間は哀しくておかしい・・・・・・でもやっぱり哀しい。」

僕にはそう感じられました。

2ヶ月後に生まれる女署長の子供はどういう人生を歩むのでしょうか?
少し心配です。
96/11/16(土) 00:21

「ファイトクラブ」

暴力は圧倒的で、まるでそれ自体がひとつの生き物のように人の意志を離れ蔓
延し、ありとあらゆる人を呑み込んでいきます。恐ろしい。
しかしその恐ろしさは実は此方にとって都合のいいものでもあります。暴力が
自分とは無関係な所にあって、自分の向こう側から自分を襲ってくるものだと
思っているのだから。

自らの頭に弾をぶち込む男。言いようのない理不尽な暴力に呑み込まれてしま
った彼が最後に下した決断はやはり暴力だったのでした。
「セブン」のラストシーン。その銃弾が自らに向けられたものだと分かってい
ても引き金を引くしかなかったミルズ刑事とダブりました。

一番好きなシーン

どしゃ降りの雨の夜、ハイウェイでの暴走。サイコ系の映画の中のどんよりと
暗い雨のイメージを見る度に、「ああ、これはセブンだ。フィンチャーだ。」
と思うようになってしまいましたが、やはりオリジナルは流石でした。
99/12/26(日) 19:34

「ファインディング・ニモ」

少年が大人になる。父親が英雄になる。誰かが誰かを元気にする。

様々な映画の中で培われてきた良質な映画の素材が彼方此方に散りばめられた、
とても清々しい映画でした。僕の周りのパパママ達には「是非、子供を連れて
見に行くべし!」と勧めたいものです。
ピクサーのアニメーションは「トイ・ストーリー」シリーズしか見ていないの
ですが、やはりこの作品も高度な技術を気をてらわずしっかりと受け止める事
の出来る、正攻法の物語があってこそだと思いました。ともすれば説教じみて
しまうメッセージも遊び心タップリに語ればスンナリと受け容れられるし。

魅力的な脇役たちも嬉しい。「メメント」な道連れの彼女、「キャプテン・ハ
ーロック」な水槽の主、一番のお気に入りは自由を愛するファンキーな海亀達
でした。長生きしても行き着く先が辛かったり暗かったりでは切なくなってし
まいますから。

映画の人気をきっかけに「カクレクマノミ」がペットショップで売れに売れて
いるそうです。なかにはトイレに逃がして(流して)しまう子供まで。
マーリンだって「自由に進む息子をじっと見守る事」と「本当に大事な事だけ
をキチンと言って聞かせること」の両方共でニモを一人前の大人に育てて行く
のだと思うのですが。
03/12/18(木) 18:18

「フィオナの海」

フィオナの一点の曇りもない純な瞳が印象的でした。

主人公は彼女と彼女を介して伝えられるアイルランドの古い言い伝え、そして
美しく、そして時に荒々しいむき出しの自然です。

言うまでもありませんが、彼女の存在なくしてこの映画は語れません。古い言
い伝えにしてもアイルランドの自然にしても、そのあるがままを素直に受け容
れる彼女の目や耳や心が我々観客にとってはフィルターの役割を果たしていま
した。例えば映画と同じ場所を訪ねたとき、映画を見て感じたのと同じ感慨に
浸れるかというとチョット自信がありません。フィルターが曇りきってしまっ
た思慮分別のある(?)大人である僕にとって、この映画は特に。

そういう意味では原題の「The Secret Of Roan Inish」よりも僕にとっては
「フィオナの海」の方がしっくり来るような感じです。(原題尊重主義の僕に
とっては「恋する惑星」以来の事かもしれません。)

「君は滅多な事では驚かないだろう?」

誰かが彼女にそう言ってました。
本当に彼女は大袈裟に驚いたりしません。その代わり、こまっしゃくれたガキ
のように冷めてるわけでもありません。何が真実で、何がそうでないのか、大
自然の中で、自分はどういう存在なのか、彼女はその事をきちんと理解してい
ます。そういう人にこそ自然は優しく微笑みかけ、神秘的な体験をもたらして
くれるのでしょう。彼女の態度は、よくありがちな自然に対する畏敬の念とい
うのとは微妙に違うようです。(よく似ているが。)

賛否両論のラストについてですが、私も最初釈然としない物を感じました。神
秘的な寓話や自然を楽しむための映画だと思っていたので、チョットそういう
雰囲気を壊されたような気がしたのです。でも思い直しました。
「アザラシに育てられた男の子の話」という寓話が何百年もたった後、また同
じ島で、フィオナのような澄んだ瞳をした女の子に語り継がれていくような気
がして、とてもすがすがしい気持ちになったのです。
「気の遠くなるような時間の流れ」
神秘的な寓話が出来るのにはもっとも必要で効果的な物ではないでしょうか。

フィオナの祖母が島を見ながら、なかなか印象的な事を言っていました。

「島の東側は過去、西側は未来を表している。」(逆でしたでしょうか?)

劇中、フィオナに語られる寓話を聞きながら、セピア色の過去へ、無限の思い
を寄せていた僕が、今度はあのエンディングを介して、自分がこの世から消え
てなくなってしまったずっとずっと先の遠い未来を想像することが出来るので
す。

エンディングもVery Goodでした。
96/10/26(土) 21:20

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」

最初からそこにあったわけではないのに、何かを失ったような気持ちになって、
だからその喪失感を埋めるのに、何を探していいのか、どこを探せばよいのかわ
からない。そんな人々の胸にキューバの伝説のミュージシャン達の奏でる「奇跡
の音楽」は力強く響きます。

ニューヨークの街に感激して子供のようにはしゃぐ愛しき老ミュージシャン達。
彼らは自分たちがその街にとっても「失われてしまったもの」であるということ
に気がついていたでしょうか?初めて足を踏み入れたその街でも彼らの音楽はず
っと前にそこにあったもののように懐かしく響いていたということを。
彼らはそんなこと、きっと思いもしないでしょう。彼らは単なる「探される人」
ではなくて、彼ら自身「探す人」であるから。ニューヨークもアムステルダムも
彼らにとっては昔からそこにいたように懐かしい場所であったのではないかと僕
には感じられました。
ロードムーヴィーが何かを探す旅なのだとしたら、それは「探す人」と「探され
る人」との関係だけでは決して成立しないのではないでしょうか。何かを探して
いる人同士がコミットして初めてそこに音楽や映画が奇跡のように美しく立ち現
れる。老ミュージシャンたちもきっと何かを探しつづけていたように見えました。
カーネギーホールの満員の聴衆を万感の思いで見渡すキューバの“ナット・キン
グ・コール”。それはただ、求められてそこに立つ人ではなく、自らが求めつづ
けていた場所にいる人の姿であったはずです。

それにしても、どんな人生を送ったらあんなにすばらしい顔になれるのでしょ
うか。演技なしでも十分に役者でした。
00/06/25(日) 23:32

「ブエノスアイレス」

残念、はまれなかった。

はっとさせられるほど美しい影像や音楽は至る所にあったのに。特にあの滝は
凄い。

「天使の涙」「恋する惑星」にぼくがはまったのは、ただ単に「影像や音楽の
美しさ」からではないということがよく分かりました。

「魅力的な女性」が一人でも登場してくれていれば、評価が180度変わる可
能性もあるのですが、結局はどんなに立場を置き換えてみても(たとえば二人
の男性のうち、どちらかが女性だったとしても)彼らの感情に共感できなかっ
たのが全てなのでしょう。

地球の裏側の狭い部屋の中で感情をむき出しにして喚き散らし合うような関係
は僕にはあまりリアリティがなかったのです。

でもあの滝見たさにもう一度見に行こうかなと思ってしまうから不思議です。
あの音楽も耳から離れません。
97/11/04(火) 00:36

「フェリックスとローラ」

それは他人から強制されたものなのか、それとも自ら選んだものなのか。演じ
続けることでしか生きられない女性をゲンズブールが演じているという妙がこ
の映画の最大の魅力でした。
恐らくは誰かの手によって、もしくは自らの意志で、虚像を創られ、それでも
演じることでしか自分を理解してもらえない人。謎だらけで決して何も語ろう
としなかった主人公が初めて明かす真実。ローラという女性の存在感と共に生
身のゲンズブール自身の姿が立ち現れたのでした。

謎解きの面白さだけで最後まで観客を飽きさせない映画は多分沢山あるでしょ
う。それこそフェリックスが口にしたように「出来の悪いテレビドラマ」でも
それは可能なはずです。
ルコントの映画はいつも最初から最後まで観客を退屈させません。そこには彼
の仕掛けた巧妙な謎解きの楽しさがあるのは間違いありません。でも煽るだけ
ではないのです。官能的な大人のロマンスを撮らせても、コメディをやらせて
も、アクション物に取り組んでも、いつも彼の職人芸には安心感が漂っていま
す。
「彼に任せておけば大丈夫だ。」という感じ。
決してテクニックだけではないのです。何なのだろう?

フェリックスが良いことを言ってました。

「まず歩いてホテルを探そう。」「見つからなくても歩き続けよう。」

ルコントという人はありのままを受け容れて歩き続けることに喜びを見出せる
人、そこにこそ映画があるんだと信じることの出来る人なのでしょう。
02/01/08(火) 22:13

「フォーエバー・フィーバー」


田舎の中学生が長いガクランの裏に竜の刺繍を入れてダボダボのズボン履いて
バッチリ決めているようなカッコいい映画でした。
人が自分をどう見てるかではなくて自分がカッコいいと信じられることを自信
満々でできるカッコよさ。
ブルース・リーにあこがれ、トラボルタに憧れ、バイクに憧れ、美人のおねー
ちゃんに憧れる。自分の憧れたものにがむしゃらになれるというのはいいもん
です。

昨年の春、シンガポールを訪れたことがあります。中国やアメリカやアラブや
日本の文化が奇妙に混在してできた、やや“作り物くさい”国という印象が残
りました。でも決して嫌な感じはしませんでした。人工的に整備された美しい
街並みがそういう印象を与えてくれたのか・・・?それだけではないと思いま
す。中国やアメリカや日本に(今、シンガポールではちょっとした日本ブーム
らしい。)憧れて、美味しいところを次から次へ取り入れていくしたたかさだ
けでなく、決して大多数ではなくてもシンガポールに根を下ろした土着の人々
の気分のよさのようなものがそういう印象を与えてくれたからなのだと思い出
しました。主人公ホックの幼馴染メイはその代表選手で田舎の中学生が憧れそ
うな屈託のない明るさが魅力的でした。登場人物中最も地に足がついた人物と
いえるでしょう。
ダンス大会のとき、優しい母親のような目でホックを見つめる姿。時代につれ
て様々に姿を変えていくシンガポールという国を憂えるのではなく、どんなに
姿を変えても変わらぬ暖かさで全てを受け容れてくれるような包容力が彼女に
はありました。とても爽やかな女の子でした。
中国系の名前にするか、洋風の名前にするか、あれこれ迷う人々を他所に彼女
だけがしっかりと自分の名前を自分のものにしていたんじゃないかなぁ。
00/08/03(木) 22:33

「武士の一分」

貧ではあるが賎でなく、むしろ不必要なものを極限まで削ぎ落とした潔さや
美しさを其処彼処に見ることが出来ました。
生き残ることに執着した島田藤弥は小賢しい策を弄して馬小屋の屋根の上から
三村新之丞を襲います。武術の世界では地面から両足を離した状態は最も無防
備で危険なのだと聞いたことがあります。「どんなことをしても」生き残りた
い一心で彼はそんなことも忘れてしまったのかもしれません。
思えば巷には「生きたがり」が溢れています。生きても生きても飽き足らず、
次から次へ色々なものに手を出して食い散らかして、そして勝手に破滅してい
くような生き方が。
一週間前に見た映画が「プラダを着た悪魔」だったのは単なる偶然ですが(僕
はこちらもとても楽しめました。)、映画でも「あれもやりたい。これもやり
たい。」「もっとこうすれば面白くなるんじゃないか。」という「作りたがり」
の欲望を抑えるのはとても難しいことなのではないかと想像します。潔い!美
しい!
ラストは「街の灯」かなぁ。こちらは手の温もりの前に妻の拵えた食事が再会
の鍵でした。貧であるが賎ではない。心を込めて作る質素な食事には嘘がない
のだと思います。
2006年12月03日00:22

「ふたつの時、ふたりの時間」

同じ台湾の楊徳昌が初めて台湾を離れて訪れたのが日本だったのに対して、蔡
明亮が選んだのはフランスでした。この対象はいかにも二人らしい。

全般に画面が暗く、動きが少ない長回しばかりが続く彼の作品は体調が悪い時、
特に睡眠不足の場合はかなり辛いのですが、頭をクリアーにしてキチンと映画
に向かえば、実は「たった一つの言いたいこと」を丹念に映画にしているのだ
ということに気がつきます。

誰かが誰かを思う気持が決して届かない。悉くすれ違い、届くこともなく、い
つか通じそうな可能性も感じさせない。それでも人はどうしようもない孤独を
抱えながら誰かを求めつづけようとします。
誰かを求める気持ちが思いがけない出会いに繋がる瞬間。その出会いが「幸せ」
なのか「不幸」なのか、その確率が、また良くてフィフティーフィフティーだ
というところも彼の映画のリアリティのある所。「河」(これは体調が最悪の
時に見たのですが)では結局、出会いはあったものの決してそれが分かりやす
い形での幸せには繋がらなかったのに対して、前作の「Hole」あたりから、
彼のポジティブなメッセージが映画から伝わってくるようになってきました。

狂信的に亡き夫への祈りを捧げる母から逃げ出して、車の中で一夜を過ごすシ
ャオカン。孤独を癒すために抱いた娼婦との“出会い”は決して分かりやすい
「幸せ」ではありませんでしたが、一夜が明けて帰宅し、一人ベッドに横たわ
る母にそっとジャケットをかけてあげるシーンの何とも言えない優しさを見せ
られると、決して目に見える分かりやすい幸せだけが全てではないという気に
もなるのです。
同じ頃、異国の地で孤独に悩み、また違う出会いを求めながら、眠れぬ夜を過
ごしたシアンチー。彼女にとってもその夜の出会いは決して甘いものではあり
ませんでした。睡魔に襲われてベンチで眠ってしまうシアンチー。そんな彼女
にもそっと優しく手を差し伸べてくれる人が・・・。
シャオカンが母親に見せた優しさ。その優しさが空間と時間を超えて、あの夢
のようなラストシーンに繋がったのだとしたら、あまりにもあまりにも陳腐で
しょうか。あれだけの孤独をあれだけリアルに描いた蔡明亮ならば、そんな奇
跡を起こしてくれてもいいのではないかと僕は思いました。
届く筈のない思いを常に伝えようとする映画には、そんな奇跡を起こす力があ
ると彼は信じているのではないでしょうか。
02/04/12(金) 01:03

「二人が喋ってる」

大阪を舞台にした僕の大好きな漫画「じゃりん子チエ」。そのテレビシリーズ
の最終回のエンディングには

「おわりです。」

と出て来るのですが、これはもうはっきりと字幕だけでも、標準語のそれでは
なくて大阪弁の「おわりです。」になっていました。

で、「二人が喋ってる」でも最後に「二人が喋ってる」という字幕が出るので
すが、今日の場合は大阪弁でなく標準語の「二人が喋ってる」に感じられまし
た。これは理屈ではないのかもしれません。
そして、これは作品が大阪の雰囲気を十分に表現できていなかったからではな
くて(むしろ映画の出来としてはその反対)、作り手が「観察する姿勢」で大
阪や登場人物たちを見ていたからだと思います。

「仲の良いコンビは大成しない」

と漫才の世界ではよく言うらしいのですが、友達でも仲間でもない二人がそれ
でも「ただ客を笑わせるためだけに」二人で居続けるというのは非常に不条理
な話です。
長い長い漫才さながらに時間も場所もどんどん飛ばして繰り広げられる笑いの
数々、そこには様々な不条理が存在します。作り手が作品を通して観察し、切
り取って見せたものの一つは「不条理が笑いの本質であるということ」でした。

「オヤジが死んだらその死体を笑いのネタに使う!」

と松本人志は言いました。

或いは

「ブラックユーモアとはどういうものですか?」と尋ねられた時、立川談志は
こう答えていました。

「ブラックユーモアなんてない!あるのはブラックだけだ。」

そんな彼はつい最近自らのガンを告白し、もちろんそれを笑いのネタにしまし
た。決してユーモアなど交えず・・・。
笑いの本質が不条理だとしたらそのネタとして「死」程、効果的なものはない
のかもしれません。

作品中、入院した相方を見舞いに来た男とその恋人、3人の病室でのシーンが
圧巻でした。首吊り、白骨死体と来て、当然その次には、相方が「注射でショ
ック死」して、その事を新しい相方とネタにするシーンがくると思ったのです
が・・・。

主人公の二人も様々な不条理に見舞われます。もうそれこそ「ブラック」とし
か言いようのないような・・・。それでも、それが全部ネタになる。

笑いの本質が不条理で、人生が不条理の連続だとすると、「何でも笑い飛ばし
てやろう」という生き方は意外と自然なのかもしれません。
もっともそれには、知恵や腕力やバイタリティが、かなり必要ですが。

トゥナイトの二人は溌剌としていて気持ちよかったです。東京ではまだまだマ
イナーだと思いますが、そのうち、ちょくちょく見かけるようになるのでしょ
うか?変な理屈を抜きにしても、テンポがあって十分に楽しめる作品でした。
97/09/24(水) 02:34

「二人のベロニカ」

同じ誕生日にパリとポーランドで産まれた姿形も同じの「二人のベロニカ」テ
ーマ自体はさほど新鮮なものではない。
ただ、同じテーマのほかの作品と同じような、「下世話な人情話」や「安っぽ
いファンタジー」にならないのは、ドキュメンタリーのようなリアリティが映
画にあったからだろう。
それにしても、彼の映画でのオーケストラ、ソプラノソロは何と美しいのだろ
う。「デカローグ」でも、「トリコロール青の愛」でも、そしてこの作品でも。
全体的に抑えられた音楽の中で、一際、輝いていた。今までソプラノはあんま
り好きじゃなかったんだけど。
そして、「ベロニカの死」と「彼の死」を結び付けないではいられなかった。
でもだとしたら、「彼の死」からも何か希望のようなものが感じられるような
気もする。
4/25 0:35

二人が出会ったあの瞬間、行きかけたバスはロータリーをグルっと回って戻って
きます。そしてベロニカはベロニカを見つめる。
発車しかけて止まる。「あのバスに乗れたら・・・」って賭けをしたデカローグ
第六話「ある愛に関する物語」の二人のシーンを思い出しました。
その他にも「老婆」「覗く」「電話」など、どこをどう切り取ってもキェシロフ
スキの映画。

最初に見たときは自分の知らない誰かが、自分のことを見守って支えてくれてい
る希望を感じたのですが、10年ぶりの今回は随分感じ方が変わりました。
もうひとりの自分、霊感のようなものに導かれて「生き急ぐ」ことをやめるフラ
ンスのベロニカ。「運命が分っていること」や「運命を察して導いてくれるもの
の存在」は必ずしも幸せとイコールではないのかもしれません。
霊感などなくても「分っている人生」「平穏な日常」っていうのはあります。そ
ういうものの存在なら僕だってわかる。思うままに生きて、幸せの絶頂の中で逝
ったポーランドのベロニカのような生き方に憧れる気持ちの方がひょっとしたら
強いかも。「私は生きた!」「僕は生きた!」って言える一生って?

圧倒的な存在感を持つベロニカに比べて印象の薄い彼女の周りの男性たちですが、
そこに芸術家としてのキェシロフスキの視線も垣間見ることが出来ます。
いつの間にかベッドから出てベロニカという2体の人形を作っている人形師ファ
ブリ。彼の語り始める「二人のベロニカ」の話を遮って彼女は出ていきます。
生身の女性としてでなく芸術や表現の対象としてベロニカを愛する男性。ある時
は「ファインダー越しに」ある時は「細く開いた扉の隙間から」そして「向かい
の家の窓越しに」女性を見つめる眼差し。そういう愛し方もきっとある。
「父の住む家に帰る。」というラストは国によっては分りにくいという評価をさ
れたそうですが。ベロニカが運命の出会いと感じたファブリと、父親はとても似
ているようにも見えます。デカローグ第四話の「ある父と娘に関する物語」も思
い出しました。

プレイスネルの音楽、あのソプラノの歌声も10年前とは違ったものに感じられ
ました。
06/07/23

「ブッシュ・ド・ノエル」

現実と向かい合う姿勢において、フランス映画はあくまで現実的で尚且つ表面
的ではない希望をきちんと提示してくれるので僕は大好きです。
複雑な家族たちの群像劇、お互いの体験が自分以外の人々とさまざまに重なり
合う構成。お葬式、クリスマス、再会、死の予感、恋の予感・・・と舞台装置
も十分に整っていました。やはりフランス映画は面白いと感じました。

ただ、これが「面白いフランス映画」だったかというと、難しい所でしょう。
舞台装置に懲りすぎて肝心の登場人物一人一人に共感できなくなってしまいま
した。やや、作り物としての物語に偏りすぎていたという印象です。

でもやはりこの映画のラストはなかなか気に入ってます。真実と向かい合った
末に他人を許すことが出来る人々は、クリスマスによく似合います。

キェシロフスキの「デカローグ」を思い出しました。
00/12/17(日) 23:18

「冬の猿」

ギャバンとベルモンド、二大俳優の魅力全開!

二人とも子供のような無邪気さと渋さが見事に調和して、こういうのをセクシ
ーな男というのではないのかいなぁと思いました。男の僕が言うのもなんです
が。

可笑しくて、カッコよくて、ちょっぴり切なくて。

小粋な台詞も、年代を感じさせない躍動感溢れる撮影も、お洒落な音楽も・・・
それからそれから・・・。

とにかく魅力いっぱいのまさに「隠れた傑作」でした。
97/02/09(日) 01:12

「フラート」

全編を通して使われていたテーマ曲(監督自身の手による)が印象的でした。
小刻みな電子音にピアノの音、やがて低音の弦楽器の音が重なります。3つの
音が全く関連のない旋律を刻んでいるようで、不思議と違和感なく調和してい
ます。

ニューヨーク、ベルリン、東京、3つの街のそれぞれの雰囲気がよく出ていた
だけでなく、そこに住む人々の息遣いまで聞こえてきそうでした。そしてそれ
らは何ともいえない調和を見せていました。東京以外の2都市は行った事はあ
りませんが、東京で使われていた駅の側の路地裏の雑居ビル群を見ると、2都
市に関しても監督はそれぞれのそういう場所を選んだのではないかと想像でき
ます。

劇場で偶然となりに座っていたドイツ人の若い男性がベルリン編の冒頭でチョ
ット懐かしさのこもったような雰囲気でニヤリと笑っていました。観光ガイド
のベルリン紹介ではなくて、そこに住む人だけが知るような、あの街の雰囲気
が再現できていたのかもしれません。

それぞれのエピソードが微妙に違う結末を迎えたのは、(監督が感じた)その
街の持っているエネルギーの性質やベクトルによるものでしょう。

お互いを知る筈もない3つの街の男と女は、恋の初期段階にありがちな同じ状
況の下、同じ様な行動をとります。ふらふらと漂うように、ゆらゆらと揺れる
ように。彼らは本当は自分が誰を愛しているのか、誰から愛されているのか知
っている筈です。それなのに目の前まで来ている幸せを掴み取ろうとせず、そ
の前に自分が安心できる証を欲しがります。どうしてこうも「フラート」なん
でしょう?

相手を思えば思うほど自分が相応しくないと思えてくる。幸せを手にしようと
した瞬間、それを放り出したくなる。瞬間的なインスピレーションに新たな恋
を求める。そういう男女の姿は滑稽でもあるし、優柔不断でいけ好かない奴と
も映る事でしょう。それこそ実生活で出くわしたらそうでしょうし、下手な監
督にかかればそういう薄っぺらなキャラクターに成り下がってしまうでしょう。

愛する人の前では皆アマチュア!

ハル・ハートリーは前作の「愛・アマチュア」同様、イノセントに生きようと
すればするほど「フラート」になる人々の事を優しく描写しています。

と言うより、監督自身がそういう人物である事をいとも簡単に認めてしまって
いる事が、この映画の何ともいえない魅力になっているような気がします。だ
から一歩間違えば観客の失笑を買うかもしれないあのラストも、とても優しく
穏やかな気持ちで受け止めることができたのでしょう。監督が高みに立ってあ
の話を作ったとしたら、これほど嫌味な事はありません。

幸せでもない。不幸せでもない。幸せと不幸せの間を行ったり来たりする「フ
ラート」な男と女。一本のフィルム缶が、そんな二人に救いの手を差し伸べた
のでした。監督はひょっとしたら映画の可能性を信じている人なのかもしれま
せん。

3つの都市で主人公の相談に乗る人々が非常に面白かった。ニューヨークでは
トイレで"夕刊フジ"を読む中年、ベルリンではヘルメットをかぶった労働者、
日本の代表選手は七三分けのサラリーマンではなく、ズケズケと思った事をい
う強い女性、夜の町の女性たちでした。なかなか鋭い。

もうひとり、楽しみにしていた永瀬正敏。最初の2都市の話を受けてどういう
落ちをつけるかと東京編を見詰める観客には、映画のフィルムをいじりながら、
判でついたような男女の遣り取りを聞く彼の姿が、物語の全てを知っている狂
言回しのように映ります。悟りきっている様子で、明らかに二人の様子にうん
ざりしています。それが次第に変化します。「また駄目か。」から「今度はう
まく行くかな?」そして「うまく行って欲しいなぁ。」という具合に。彼は狂
言回しではなく、"監督が計算した"我々観客と同じ視線で物語を見詰めていた
のです。

彼だけではありません。登場人物は自分の周りのよくいる人というより、まる
で自分の分身のような気さえしてきます。これは前に書いたとおり、監督がい
とも簡単にスルスルと観客と同じ視線にまで降りてきた結果でしょう。不思議
な人です。

テーマ曲の3つの音は幸せで満たされた気持ちと、自信が持てず不安な気持
ち、そして2つの気持ちを抱え、行ったり来たりしたりしながら、いつまでも
「フラート」な男と女の事を表しているのかもしれません。
97/04/06(日) 00:06

「フライトプラン」

確かに男性の力など借りなくても一人で子供を産んで一人で育ててしまいそう。

ややキャリアが偏りすぎかなぁとは思いますが、それでもジョディ・フォスタ
ーは好きな女優です。
誰ひとり味方をしてくれない困難な状況のもと明晰な頭脳と鉄の意志だけで戦
う女性。彼女のハマリ役でしょう。

密室のサスペンス。舞台装置としてのハイテク飛行機。いかにも怪しげな癖の
ある脇役たち。黒幕はド本命と言っても良いほど直球だったかな。僕はこういう
謎解きはからっきしですが、それにしても彼の目つきは、いかにも何か企んでそ
うでした(^_^)

ラストの件は賛否両論ある所でしょうが、僕は誰の力も借りずたった一人で娘
を守ろうとする彼女の決意、「まだまだこれからも戦うわ!」という決意表明だ
ととることにしました。
06/02/09(木) 17:46 スーダラ

 「ブラス!」

思いを込めた演奏というのは、思いの丈をぶつけた演奏とは全然違います。め
いめいが、自分の悲しさや喜びや怒りや切なさをそのまま解放してしまったら
それは演奏とは呼べないものになってしまうはず。演奏者に出来るのは指揮者
の指示どおりに楽譜の通りに演奏をする事だけなのです。
しかしながら、生身の人間の演奏が機械のそれと明らかに違って聞こえるのも
人間の感情の為であるのは間違いない事です。演奏には心の奥にぐっと秘めて
抑えて抑えていた様々な思いが反映されるのではないでしょうか。本人達も気
がつかないうちに。そういう理性とそれに反するものの攻めぎあいとか緊張み
たいなものが観客を感動させるのだと思います。

この映画はどうだったでしょうか?

深刻な問題を描きながら、唐突にユーモラスなシーンが出てくるところなど、
同じように炭坑が舞台という事もありますが「ケス」を思い浮かべました。
「ケス」のラストシーン、少年は何も語らないのですが・・・・・・。

「僕には音楽なんかよりずっと大切なものがある。」

新しいトロンボーンを買うように言われた息子は父に対してこう答えます。そ
の時、息子の頭にあったのは日々の暮らしの為に必要な十分な収入や職や生活
の安定だったはずです。
僕は父親の顔を見ながら「音楽より大切なものなんてない!収入や生活の安定
なんかより音楽の方がずっとずっと大事なのに!」と思ったし、この映画のテ
ーマはそういう事なのだと思いました。

ところが、父であり指揮者であるダニーは授賞式でトロフィーを辞退し、こう
いうのです。

「音楽より大事なものがある!」

映画の中でも、もっとも感動的で、そして作り手のメッセージが込められてい
た台詞でした。

でも、僕はしゃべりすぎだと感じてしまいました。そんなことはあの演奏を聞
いた人、あの映画を見た人なら誰でも分かっている事なのに。ステージに立っ
た彼には絶対にこう言わせて欲しかった。「私たちにとっては音楽が全てだ!」
と。

決勝でのあの感動的な演奏の後に、わざわざその演奏の時に秘めに秘めていた
思いを明かしてしまう必要はなかった。そんなものの力を借りなくてもあの演
奏はすばらしかったし、十分に彼らの思いは伝わってきました。この映画では
「本当に伝えたい事」は台詞ではなく音楽の力でのみ伝えて欲しかった。少し
残念です。

でも、敢えて、言葉にしなくてはいけないほど炭坑や失業者の問題が作り手に
とって大きな物であったという事なのかも知れません。
97/12/30(火) 23:05

「ブリジット・ジョーンズの日記」

ありそうで、実は今までなかった本当に等身大の女性のお話だなぁと思ったの
ですが、さて女性はどう見たのでしょうか?

彼女の友達がよかった。ハウツー本を読んでも読んでも上手に要領よく恋も仕
事もこなす事ができない彼女。でも思ったことを考えもなしにそのまま口にし
ないではいられない彼女のことを大好きだと思っている友達も大勢いたのでは
ないでしょうか。

本当の自分、ありのままの自分を、親しい友人にも見せることなく、タフな女
や利口な女を演じつづけることに疲れた人には彼女のことが羨ましく感じられ、
彼女といると心からリラックスできたのではないでしょうか。
気の抜けないかけひきの世界で生きている弁護士の彼が彼女にひかれたのも頷
けるような気がします。

オープニング近くの彼女の絶唱と青いスープと乱入したレストランでのハッピ
ーバースデーがお気に入りです。

やっぱりレニーは唇がポッチャリしてて、お尻が大きくてとても可愛かったで
す。
01/10/02(火) 22:11

「フル・モンティ」

思いっきり笑えて、ちょっぴりホロリとさせられて、最後には元気になれるコ
メディ映画の典型的作品。
僕は思いっきり笑って、ボロボロ泣いて、とても元気になりました。

いつもフットボール好きの役のロバート・カーライルはこの作品でもヤンチャ
坊主がそのまま大人になったような役柄を生き生きと演じていました。
彼のみならず、6人の男達は普段はぱっとしないのに、土壇場になると信じら
れないことをやってのけるヤンチャ坊主みたいで、とにかく応援したくなりま
した。(昔、泣かされると、急に喧嘩が強くなる奴いたなあ!)

たった一度のステージ、お世辞にも見事とは言えない踊りを見て絶叫する観客
達。みんなみんな、ちゃんと来てくれていたのが、一番良かったなあ!
98/04/27(月) 21:02

「ブルース・ブラザーズ2000」

お馴染みの黒づくめの衣装、出所したエルウッドが刑務所の出口でずっとずっ
と出迎えを待つシーンは泣けました。

本当の仲間は消息なんか知らなくても決して気にならないものです。そして久
し振りに会ってもそういう時間の流れを感じさせません。そんな気の置けない
仲間の同窓会のようなこの映画ですが、アルバムを広げて昔の思い出を語る代
わりに、あの頃と少しも変わらない、いかした飛びっきりのステージを惜しげ
もなく披露してくれます。

作品に合わせて見事にシェイプアップしてみせたエイクロイドの役者魂も流石
ですが、この作品は主役の高齢化に伴って企画自体がお流れになってしまうよ
うな柔な映画ではないのではないかと思ったくらいです。

ベルーシもきっと喜んでるのではないでしょうか。
98/06/16(火) 18:54

「ブレイブ」

予告編の最後ででジョニー・デップのコメントが紹介されていました。「沢山
の人にこの映画を見てもらい、そして考えて欲しい。」と。
観客に「考える」ことを要求する映画を僕はあまり知りません。彼がどの程度
の覚悟でこの映画を作り、そしてこういうコメントを残したのか知りたくて、
映画館に足を運びました。

誇り高きネイティブアメリカンの男。彼らにとっての誇りとはいったいなんだ
ったのでしょうか?

彼にとっては、家族の為に命を懸けて戦うことは当然のことです。しかし彼は
戦いに命を捧げるのではなく、半ば自殺といってもよいやり方で自らの命を売
り渡すのです。彼が戦いに命を懸けることに何のためらいもない男だというこ
とは家族を襲った昔の仲間を惨殺するシーンを見れば明らかです。

彼がああいうやり方で、自らの命を投げ出した理由は「逃れることのできない
運命を前に人はどうあるべきか?」という問いの答えを見つける為だったので
はないでしょうか?それは、彼がどんなに戦っても手に入れることのできない、
想像すらできない未来を家族に託す唯一の選択だったのかも知れません。

役者ジョニー・デップは文句の付け所がないほど魅力的です。断固たる決意と
意志を感じさせるあの表情は見事でした。監督としての彼の力量を評価するの
はもう少し先にしたいと思います。
それから、祭りのシーンで、ガツガツ肉を食ってたイギー・ポップの音楽が特
筆に価すべき物であったことも忘れてはいけません。
98/05/28(木) 23:55


「ブレッド&ローズ」

ふと、掃除をする手を止めて、向かい側のビルに目をやり、同じように作業を
している“戦友”に手を振るマヤ。「大地と自由」のワンシーンを思い出しま
した。スペイン内戦、敵味方に別れて闘っている兵士同士が闇の中、お互いの
出身地を語り合う。その直後、両者はまた戦い始め、撃ち合う事になるのでし
た。マヤと向かい側のビルの作業員は敵同士ではありません。でも同じように
「大地と自由」の二人の兵士も決して敵同士ではなかったのでしょう。ケン・
ローチにとって敵同士というのは「戦う人と戦わない人」の関係であって、
「戦う人と戦う人」の間には「誰も敗者とならぬ戦い」しか存在しないのだか
ら。

彼は怒りに似た信念を持った人ですが、それは特定の主義主張に対しての反抗
ではなくて、武器を持って戦う事を避け、見て見ぬ振りをして自分の安全だけ
を守ろうとする人に対してのものです。
その一方で、誰を信じていいか分からない、どこに希望があるのか分らない、
そういう厳しい現実を描く事が出来るのは本当に人間の可能性や希望を信じる
事の出来る人間以外にないと思います。彼こそはそういう人物だと。

マヤとローズが泣きながら本音をぶつけ合う。彼の映画には必ず、映画を超え
て“真実”が立ち現われる瞬間があります。

マヤがやって来た時には、車で連れ去られる彼女を呆然と立ち尽くして見るこ
としか出来なかったローズですが、別れの日には必死でバスに乗った彼女を、
彼女にさよならを言おうと追いかけるのでした。
02/10/27(日) 16:47



「ヘヴン」

運命に翻弄されるのか、それとも運命を選択し、切り開いているのか。少し上
から誰かの人生を覗き見していると、一瞬、その様子がよく分ったような気にな
ります。でも映画が終わってみると、実はよく分からなくなってしまう。
彼等は運命に弄ばれたのか?選んだのか?
自分の事をどこかから見つめているものの存在すら感じられて、その時はもう、
すっかり分からなくなるのです。映画と自分との距離感も。それから自分が運命
に弄ばれているのか、選んでいるのかも。
でも、これだけは感じられます。誰も弄んだりはしない。思い通りにならない
一人一人の人生をじっと見つめながら、その眼差しはやはり優しい。
時折、街や丘をゆっくりと俯瞰で捉えたショットが挿入されます。その中に厳
しさを感じ、厳しさの向こうに慈愛のようなものを感じたのは僕だけでしょうか。

冒頭から、爆弾が爆発するまで。登場人物たちと運命の係わり合いに息を飲み、
一瞬たりとも目を離せない緊張感は紛れもなくキェシロフスキ作品のそれでした。
トム・ティクヴァという人は今現在、彼の遺稿を引き継ぐのに最も相応しい映画
監督のひとりなのではないかと思います。前作の「ラン・ローラ・ラン」を見た
ときから、僕はそう感じていたのですが、この冒頭部分を見てそれが正しかった
のだと再認識しました。

二人が天に昇り、神に迎えられるラストシーン。次第に映画は神話の性格を帯
びていきますが、僕はあくまでパーソナルな愛情の話として受け容れたいと思い
ます。

様々な制約の中で、フィリッポがフィリッパに初めて自分の気持ちを伝えた小
さなカセットテープ。初めて出会って、彼女の指を握った瞬間から彼女を愛して
しまった彼。たとえ何の制約もなかったとしても、きっと彼は同じ方法をとった
のではないでしょうか。彼女への気持ちを語る時、彼女からの返事を待つ時、彼
の気持ちは昂ぶって、そして遂には絶頂に達します。自分の中の愛する人への思
いの濃度・純度を高める術を彼は知っていたのでしょう。
テーブルの下のテープを指で探す時、「同意します。」という一言を聞いた時、
彼の思いは確信に変わるのでした。

そんな二人の交信を盗み聞きする者たちの存在。これはメディアを介してコミ
ュニケーションをしようとする人たちに付き物。このあたりは映画というメディ
アに対してのキェシロフスキの考え方も含まれているようです。「そういうこと
も全て含めて映画なんだ。」という感じ。
覗き見、盗み聞きはキェシロフスキ映画の頻出シチュエーションですが、フィ
リッパ脱出を助けた二つのアイテム、「電話」と「ミルク缶」もキェシロフスキ
ファンには嬉しい演出でした。

フィリッポの父が二人を訪ねてきます。「息子を愛しているのか?」と問われ
た時の彼女の反応は最初少し意外に感じられました。二人が出会って間もないか
ら、彼女に対する彼の思いは一途だけどそれだけに一方通行のように感じられた
から。キェシロフスキなら彼女にすんなりとそう言わせることはなかったのでは
ないかと思ったのです。
もの静かで内向的な佇まい、それとは正反対の大胆な行動力、そして年上の異
性に対しての盲目的といってもよい愛情。フィリッポを見ていると、どうしても
思い出されるのが「愛に関する短いフィルム(デカローグ第六話)」のトメクで
す。トメクの憧れの人マグダの“最後の気持ち”はともかく、彼女の思いがハッ
キリと彼に伝わる事は「愛に関する短いフィルム」(デカローグでも)ではあり
ませんでした。

やはり「ヘヴン」のフィリッポとフィリッパも決して結ばれる事のない二人。

二人が受け容れたたった一つの運命。彼らが選んだたった一つの道。
(たとえば同情とか、感謝とか、贖罪とか、そういう口実を見つけることで)
自分たちの意志を曲げることを彼等はしませんでした。二人は天に昇っていきま
す。

二人は運命を受け容れたのでしょうか?それとも自らの意志で選択したのでし
ょうか?

この映画は「現代の神話」と言われるかもしれません。でも神話は決して神の
手によって作られたものではないのです。





ありとあらゆる役を演じ、その度に全く違った印象を与えつづけてきたケイト・
ブランシェット。“すごい女優”“只者ではない女優”だとは思っていたのです
が、“大好きな女優”ではありませんでした。
運命に翻弄される弱さ、選べない苦悩。運命を受け容れる強さと運命を切り開
く覚悟。そういう全てを併せ持つ強い(そして弱い)女性。見かけの美しさだけ
ではない抜群の存在感を持つ女性。
キェシロフスキ映画を彩るそんな女性たちの系譜に堂々と連なるフィリッパを
見て、僕は彼女の事が大好きになりました。
03/03/13(木) 21:53

「ベティ・サイズモア」

「君には自分がある。」

どう見ても叶いそうもない夢を信じて信じて決して諦めないヒロイン。夢を諦
めることが出来ない愚かで健気なヒロインは、まさにレニー・ゼルウィガーの
為に用意されたような役でした。

先の展開を全く予想できない凝ったシナリオにも感心しましたが、僕はそこに
少し照れくさそうに、でもしっかりと込められたストレートなメッセージの方
により惹かれました。

夢を諦めることの出来ないヒロイン。そこには受け容れがたい現実に出会う度
に其処から逃げ出して次の夢、次の夢を求める女性と、自分を信じて現実に立
ち向かう女性の二人を見ることが出来ます。そしてこの映画は、そのどちらも
を暖かい眼差しで見つめ全肯定しています。「どちらも結局は思い通りになら
ない現実を生きているのだから。」と。
ラスト近くでブラウン管に映るベティを見つめる友人たち。これは彼女たちが、
“自分を信じつづける”ベティにエールを贈るシーンであると共に、作り手
(と観客)の、ブラウン管を見つめる一人一人へのエールでもあったのでした。

「逃げ出したっていいじゃない。夢見て何が悪いのさ。私は私なんだから。
ケセラセラ・・・ケセラセラ・・・」
01/06/09(土) 00:13

「BeRLiN」

元旦の東京が好きだ。人も車も喧騒もゴミもない東京。東京があんなにきれい
な街だとは知らなかった。ごみごみしたこの街が好きだと思っていたはずなの
に。

この街には、こんなにたくさんの人が住んでるのに、なんでこんなにも皆孤独
なんだろう。でも、ごまかさないで、自分の孤独と向かい合うことしか、出来
ることはないような気がする。
4月4日 池袋文芸座2

「Hole」

どこまでも無機質な団地の一室。

急速に発展した社会の歪みと現代人の孤独の象徴として台湾映画のなかで度々
登場する舞台です。

「エドワード・ヤンの恋愛時代」のラストのエレベーターから「カップルズ」
の雑踏で抱き合う若い二人へと、エドワード・ヤンは白い壁の部屋から飛び出
して二人で生きていく事を積極的に選択したようです。

前作「河」(正直言って僕には辛い作品でしたが)で、どこまでも暗い暗闇の
中で抱き合う二人の男には、決して癒される事のない、そしてだからこそ探し
求め続ける現代人の孤独がいやというほど漂っていました。

そしてこの作品

絶望と孤独から希望と癒しへ、新しい世界へ一歩進んだツァイ・ミンリャンで
すが、それでも彼は決して部屋から逃げ出す事はありません。と言うより、人
間を見つめれば見つめるほど、決してその部屋から逃げ出す事は出来ないと彼
は確信したのでしょう。

底無しの絶望と孤独を描きつつ、明るく暖かい希望と癒しを与える彼の優しさ
は決して荒唐無稽な絵空事ではありません。
底無しの絶望と孤独を抱えているからこそ、そこから生まれる奇跡のようなも
のがあるということを力強くリアルに語っています。

彼はこの先、次から次へと天井に穴を空け、壁中をぶち破り、明るい日の照り
つける外の世界へと出て行くのでしょうか?
そうしたくても決して出来ない、愚かで愛しい人間を描いてくれる事だけは間
違いないでしょう。
エドワード・ヤン同様、次回作が待ち遠しい台湾ニューウェーブの旗手がまた
一人増えました。
99/10/08(金) 23:26

「ボーン・アルティメイタム」

ひどく生真面目に出来た映画。「MIV」を見た時も同じように感じたのですが。
諜報員とか、テロとか、暗殺とか、そういうのが映画の中の話ではなくなって、
「そのまんま」のリアリティが求められるようになってしまったのかなぁ、ア
メリカでは。そんなことを感じました。

ちょっと二枚目のスパイが、ブロンドでちょっとドジの駆け出し諜報員かなん
かとロマンスに落ちて、その合間合間にハラハラドキドキのアクションがある・・・
なんて言う「カラッと明るいアクション映画」は、なかなか作りにくい環境に
なってきているのでしょうか。

僕はそういう映画が9割くらいに幅を利かせている時に、それとはガラリと趣
の異なる1割の「生真面目な映画」を見るのが好きだったのですが、そっちが
9割になってしまうと、ちょっと寂しいような気もします。

結論を言うと、こういう映画嫌いではないんですけどね。

でも見たいなぁ。カラリと明るくちょっと不真面目でリアリティのない、でも
タップリお金も使ったアクション映画も。
「最もセクシーな男」にマット・デイモンが選ばれちゃうっていうのも僕は何
か違う気がするんですけど・・・。
2007年11月18日23:27

「ぼくの大切なともだち」

相変わらずルコントの映画には「気品」があるなぁ。
ミステリー風の侵入シーンあたりから物語が一気に動き出して、エンターテイ
メント性を増す程に、むしろそう感じられるようになるのだから不思議といえ
ば不思議です。
どんな娯楽作を撮っても必ずどこかに芸術性とか“香り”とかが損なわれずに
散りばめられている。それがルコントの真骨頂です。(司会はみのもんたじゃ
なかったけど)テレビのクイズショーなんて使ったら、一気に映画はチープな
方向に転がり落ちても不思議はないところなのに。

「気品」「香り」の構成要素について考えてみる。

脇役の一人一人にまでしっかりと存在感を持たせ、安易で悪趣味な引き立て役
をただの一人も作っていないこと。
主人公の共同経営者の女性、それから主人公の娘あたりが好きかなぁ。いくら
でもありきたりの方法で、あくまで“脇役としての”存在感をお手軽に出す方
法があっただろうに。
上手に生きていると誰からも見られていて、自分でもそう思いこんでいた人が、
実は悩みを抱えていたり、またその逆があったり。
「誰が自分と似ているかなぁ?」ではなく、現代を生きている(パリでも東京
でも)「誰でもが同じなんだ。」と思えるのです。その辺りが「気品」「香り」
の主成分なのかもしれません。

引退なんて、まだまだ先ですよね?何事もなかったかのように、また新作を世
に送り出してくれるのを信じて待ってますよ・・・。
2008年08月14日18:31

「ホテル・ルワンダ」

「私を裏切ったわね!」

暴徒と化した民兵に襲われ、ホテルに引き返して来た妻が夫を罵倒します。

決して人道主義的な動機からではなく、自分と自分の大切な人の為という一種
のエゴから結果多くの人の命を救うことになる。そういう話は過去にも何度か
見てきたのですが。どんな困難な時でも「決して裏切らない人」がいることが
支えになる筈なのに。何よりも痛かったのはあの場面でした。

支配者がその体制を確立・維持する為に最も頼りになる協力者は大抵の場合被
支配者の中に存在します。大抵の場合「民主主義」だの「自国民による自治」
だのといったお題目がついて。
いったい世界中に幾つのルワンダがあるのだろう?

本当は「なかった筈」なのに。でももう「なかったこと」には出来ません。暗
闇に怯え、笑顔を忘れてしまった子供たちは今どうしているのでしょうか?字
幕では表現されていないあの家族の現在と未来が心配です。

「ボーンコレクター」

「死」の持つ力によって、ライムとアメリア、そしてリチャードはどこかで分
かちがたく結びついています。
ライムにとっては一生をかける探究の対象として、アメリアにとっては拭い切
れないトラウマとして、死は彼らの心を虜にします。しかし二人の中にあった
のはそれだけではありません。死の力は強く人を捉えて離そうとしませんが、
それだけに奉仕していたのでは人は歪みます。二人とリチャードの決定的な違
いはそうして描かれています。

死によって結びついている2人は、常にリチャードの計算通りに行動します。
これはサスペンスでの犯人とその相手との関係によく見られる構図です。
まずライムの収集癖などのエピソードを織り込み、彼と「ボーンコレクター」
との関係を匂わせています。首吊り人形のタクシーがアメリアを尾行している
シーン、更には書店に登場する「いかにも」という感じの店員とアメリアとの
出会いなどは、些かやり過ぎという気もします。ただ(確かに後から考えれば
そうなのですが)、本来なら真っ先に犯人との関係を連想しやすいライムから、
アメリアへ観客を誘導するミスディレクションとして、ここはまんまと騙され
る方が、やはりこの映画を楽しめると思います。

生きることに絶望していたライムが、彼への復讐を願う犯人の出現によって、
生きる力を取り戻していくという関係がこの話の肝の部分の一つ。
しかし、そのように犯人を主体、ライムを客体としてこの映画を見ることが間
違いであったということに結局最後には気がつきます。
アメリアが犯人とライムの関係を見つけ出す手がかりになった盾。其処には確
かこう書いてあったと思います。
「友人より・・・・・」
ライムの周囲には多くの友人がいます。彼らが死に瀕した同僚としてでなく、
友人としてライムを訪ねてきていたことは間違いないでしょう。

ライムはハヤブサのような鋭い爪とくちばしで自らの生きる意志を表わし、そ
して死とは正反対のもので彼と結びつく友人達の力によって生き残りました。
それは彼を飲み込もうとしていた「死」の力から、彼が本当に解き放たれた瞬
間でもありました。
00/05/20(土) 08:40

「僕のスウィング」

初恋の甘酸っぱさ。切なさ。ほろ苦さ。

異文化との交流をもう一つの軸に据えながら、あくまで子供の視点に徹したと
ころはいかにもガトリフ監督らしい心憎い演出でした。見知らぬ国の見慣れぬ文
化に接する時、初恋の女の子に出会ったときのように、おっかなびっくり、でも
興味津々で少しずつ距離を縮めていければ良いのですが・・・。

彼女への置き土産として想い出の沢山詰まった日記を残して帰るマックス。で
も彼女は過去を振り返らない民の女性でした。道端にポツンと置き去りにされる
日記。彼女の潔さに胸がキュンとなりました。
民族の違い、文化の違いというだけでなく、これは男と女の決定的な違いなの
かもしれないなぁ。

キャンピングカーの中で皆が踊り歌うシーンが一番好きです。めいめいが自分
の得意な楽器と歌と踊りを次々に披露して。最初は乗り気でなかった女房たちも
ドンドン輪の中に加わって。
歌と踊りと酒と旅をこよなく愛する人々。本当に可愛い人たちだなぁと。おば
あちゃんも、おじいちゃんも、おばさんも、おじさんも、おねえちゃんも、おに
いちゃんも、おとこのこも、おんなのこも皆可愛い。
とても可愛い映画でした。
03/02/06(木) 22:30

「火垂」

「萌の朱雀」の「萌」と「燃」が一体となったあのラストに連なって、漆黒の
闇の中、燃え盛る炎が印象的な東大寺二月堂のお水取りから、この映画は始ま
ります。前作が「萌」から「燃」への転生を想起させるものであったならば、
当然、この作品は「燃」が「萌」へと繋がっていく物語なのだろうと、息を呑
むほどに荘厳で美しい炎を見つめながら考えていました。

しかし、続いて現れる少女が「萌」を象徴する存在へと単純に繋がっているわ
けではなく、彼女が再生するまでには彼女のことを時にはメラメラと激しく、
時にはジリジリと燃やしつづける内なる炎があったのです。それを簡単に「ト
ラウマ」という言葉で片付けてしまってよいとは僕は思いません。

親の愛に恵まれず、男運にも恵まれず、人生に失望し、自暴自棄になる彼女の
姿が、ややくどいのではないかという位続く前半部分だけを見れば、この物語
はただの「トラウマを背負った女性の、その後の話」になってしまうのではな
いかという感じもありました。しかし、陶芸家大司と出会い、彼女が自分のこ
とを単体で完結した一個の人間としてではなく、もう少し大きな時間の流れの
中にいる存在として感じ始めたとき、物語の様相は明らかに変化します。

大司の存在も、それから彼女が永く離れていた故郷と自分のルーツを辿る旅も、
それは彼女を劇的に変えてしまおうとする何かではなくて、彼女の全てを包み
込んでくれるようなものでした。
「たった一人の人間」として見るのなら、彼女の人生は、悲劇的で無慈悲な運
命に翻弄され続けたものであるといえるでしょう。でも「綿々と連なる歴史の
中のたった一人の人間」として彼女を見れば、彼女一人の孤独や喪失など、ほ
んのちっぽけな存在に思えてくる。

河瀬直美という女性監督は、かなり密接に自身との繋がりを想起させるような
(時には明らかに自分自身の)、一人の人間の業のようなものをいつも執拗に
追い求めます。それをただの独白として見てしまうと、なんだかドロドロした
ものを押しつけられているようで、映画自体の稚拙な所ばかりが目立ってしま
うのですが・・・

「私は歴史に名を残すために映画を撮る」

彼女は時に孤独で、時に祝福に包まれ、時に厳しく、時に喜びに溢れた道を歩
き続ける決心を確固たるものにしたようです。僕にはそう感じられました。生
身の自分自身を暴き出し、見つめ続け、曝け出す作業は、その作業に逃げ込む
ためのものではなく、自分を包み込む大きなもの・・・暖かい光や、ゆったり
とした川の流れのようなもの・・・を体一杯に感じるためのものなのです、彼
女にとっては。



登場人物の中では大司が気に入りました。
演じていた永澤俊矢さんは、モデル出身だそうです。なんだか、体や顔がとて
も硬いもので出来ているようで、無骨で無口だけど、どこまでも深い包容力の
ようなものを感じさせてくれました。
歴史の流れの中にいる自分を忌み嫌うあやこに対して、彼はその対極の存在。
祖父から受け継いだ窯とその精神をあのガッシリ、ゴツゴツとした体で守って
いこうとします。
彼の祖父の「親子三代の鎖の話」も印象的でした。去年見た「ナビィの恋」や
「楽園」では両親の世代がポッカリ欠落した孫と祖父母の心の対話、交流のよ
うなものが描かれていて印象に残ったのですが、全てあのたとえ話に通じます。
それにしても「萌の朱雀」といい、この作品といい、河瀬さんの男性を見る目
はかなりスルドイ。今時珍しい肉体労働者系のゴツゴツした男性を選ばせたら
彼女の右に出る人はいないのではないでしょうか。
ひょっとすると彼女のこの「人を見る目」は、この先も映画監督河瀬直美の最
大の武器になるかもしれません。
01/04/22(日) 12:29

「ホワイトアウト」

主人公や敵のテロリストの設定から始まって、いきなり頭を撃ちぬかれる運転
長、窓の鮮血、主人公ともつれ合って階段を転がり落ちて死ぬテロリスト、果
ては無線をしながら携帯食料を食べるシーンまで「ダイハード」とダブる場面
が沢山ありました。

「ダイ・ハード」の魅力はたった一人の妻のために、たった一人で頑張るマク
レーン刑事にあるのですが、この映画はどうだったのでしょうか。

富樫が戦う理由はマクレーンのそれとは明らかに違います。彼を支えていたの
は2ヶ月前に亡くなった親友吉岡の存在です。マクレーンが妻を生きて救い出
すことだけを目的としているのに対して、富樫の場合は勿論ダムの仲間を救い
出すという目的もあったのですが、むしろそれは脇におしやられ、死んでしま
った吉岡のために、そのとき背負ってしまった悔いにけりをつけるためにこそ
戦いの理由があったようにみえます。
この設定は物語に厚みを与えるとともに、勝ち目のない、得るものが何もない
戦いに挑むストイックさを強調し主人公のキャラクターを非常に魅力的にして
いました。

さて、もうひとつの「彼は一人で頑張っていたか?」というところですが、こ
れは難しいところでしょう。
配水管を利用してダムから脱出するところくらいまでは明らかに彼は孤軍奮闘
していたのですが、テロリストたちが内部崩壊してしまってからは彼の孤軍奮
闘振りがやや霞んでしまったように感じられます。だから、この部分では「ホ
ワイトアウト」が「ダイ・ハード」に一歩譲るかというと、それがまたそれほ
ど簡単ではありません。
前に述べた死者との結びつきが物語に厚みを加えてくれたことで、同じように
死者と結びつくキャラクターが富樫の予期せぬ協力者として登場することにな
ります。
敵味方に分かれていたはずの富樫と小柴が実は「死者と結びつくもの」として
同じ側に立つというのは非常にユニーク。
また見方を変えると彼らは同じ電力会社の関係者でもあります。かたや本社勤
務のシステム管理者、もう一方は最前線の現場の人間というこの対立図式も内
包されていて実は、一度も出会うことのなかった二人の関係は反発しながらも
引かれあう二重三重の複雑な間柄になっているのです。
ついでに組織云々の話をすればお決まりの警察の縦割り構造も現場と官僚の対
立の図式が見え、此処では死者と結びつくものに対して、人の命を軽く見る官
僚主義的な中央警察の人間がむしろテロリストの冷酷なリーダーと同じ立場に
位置しているという風にも見えます。

決して主人公をスーパーマンにしたくなかった。この映画の関連記事でことあ
るごとに目にしてきましたが、その為にはテロリスト達の内部崩壊という要素
は仕方のないことだったのかもしれません。ただ物語を主人公以外の人物に拡
散させることで彼を「普通の人」にするのではなく、「普通の人」である彼の
孤軍奮闘振りをもっと追及したほうがよかったような気もします。しかしなが
ら、彼の予期せぬ協力者と彼の予期せぬ敵・対立者の存在が敵と味方という単
純な図式を超えて重厚な人間ドラマを見せてくれたともいえるので、これはむ
しろその面を肯定的にみるのがよいと考えます。

俳優たちに目を移すと

僕は最近になってようやく松嶋奈々子と木村佳乃の区別がつくようになった程
度の奴ですが、でもやはり松嶋奈々子にはあまり個性らしいものを感じられま
せんでした。
反対に織田裕二はよかった。少なくとも世界陸上の司会やって「頼むよぉ、い
とおぉぉぉぉぉぉ(伊東)」とか言ってるときよりは百倍は良いと思いました。
彼にはこういうがむしゃらであまり厚みのないキャラクターを演じつづけて欲
しいと思います。
00/08/30(水) 14:47

「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」

「いいんだよ。心配いらないよ。ありのままの君でいいんだよ。」

そう言ってもらえること以上の幸せはあるのでしょうか。

音楽の世界では、ありのままの自分でいられるジャッキーと、音楽の世界で、
ありのままの自分でいることを拒絶されたヒラリー。しかし姉の前には音楽の
代わりに、ありのままの自分をどこまでも寛容に受け容れてくれる人が現れま
す。

誰かにありのままでいて欲しいという気持ちは、自分もありのままでありたい
と願う気持ちがなければ決して成立するものではありません。また、どちらか
の気持ちが大きくなり過ぎてもやはり上手くいきません。自分の為に誰かを奉
仕させたり、誰かの為に自分が奉仕したり・・・。

過酷な運命はジャッキーが「ありのままの自分でいられる」唯一の拠り所であ
る音楽を彼女から奪い去ろうとします。するとそれまで彼女を寛容に受け容れ、
彼女がどこまでも自由であることを望んでくれていた音楽は掌を返し、彼女に
仕打ちをはじめます。まるで音楽という生き物が、自らがありのままである為
に彼女の奉仕を求めるかのように。

そんな妹の為に姉は、妹がありのままの自分でいられるように、奉仕しようと
しますが、やはりこれも長続きしません。姉は悩みます。妹の為に自分はどん
な事が出来るのかと。
彼女が妹同様、音楽に挫折したということ、そしてその後に最愛の人を得られ
たことが、彼女に色々なことを教えてくれたのは間違いないでしょう。
でも決してそれだけではないと思う。

彼女は自分がもっともっと自由でいられる為に、もっと「ありのままの自分で
いる」為に、妹に寄り添うことを決めたのではないでしょうか。僕にはそんな
気がしてなりません。

生まれたばかりの赤ん坊のような姉妹。二人は他の誰といる時よりもありのま
まの自分でいられることが出来た。世界中を旅する事だって。どんな夢を見る
事だって。

ジャッキーが病床に就いてから息をひきとるまでの14年間。その歳月こそが
「二人がもっともありのままの自分でいられた時間」であったのだと僕には思
えました。
00/03/16(木) 21:13