「最愛の夏」

ホウ・シャオシェンの映画を劇場で何本か見ていますが、どうも彼とは巡り合
わせが悪いらしく、いつも映画の世界に没入することが出来ません。ぼんやり
とした印象を残していつのまにか映画が終わってしまうのです。積極的に貶す
気にはならないのですが、かと言って誉めるところも見つからない。そんな感
じでしょうか。

またまた現れた台湾ニュー・ウェーブ、チャン・ツォーチによるこの作品も僕
にとって、同じような位置付けです。

ただ、愛らしい主人公カンイと、温かくて穏やかな余韻の漂うラストシーンだ
けは爽やかな印象を残してくれました。
00/10/14(土) 00:44


「サイダー・ハウス・ルール」

文明社会に迷い込んでしまったキングコングの例を出すまでもなく、誰かが誰
かを求める気持ちは往々にして既成のルールを越えてしまいます。しかし其処
が未開のジャングルならいざ知れず、様々なルールによって社会性を構築した
人間の世界である限り、必ずその代償を求められることになります。

「これは俺の作った法律でない。」

娘に自分と同じ名をつけ、自分の子を身ごもらせたミスター・ローズはそう嘯
きます。彼の言葉にはひとつの真理があります。そして大事なものが欠けてい
ます。

ルールを既成の倫理観と同意の絶対的なものとして捉え、それに盲目的に従う
ことしか知らない人々にはこの言葉の真理は理解できないでしょう。彼らには
「誰がこのルールを作ったのか?」という問い自体が不必要なのです。その問
いの如何に関わらす、彼らのとるべき態度は「ルールを守ること」と「ルール
を守らせること」だけだから。
ミスター・ローズの言葉にはルールが最初から其処にあったのではなく、また
自分自身が積極的に選びとったものでもないという真理が含まれています。

そして彼の言葉に欠けているもの。それは「なぜ?」の問いです。どうしてそ
のルールがあるのか?たとえそのルールが自分の信念とかけ離れたものであっ
たとしても、自分の信念(ときに動物的な情動)をルールとすりかえて他人に
押し付けることはできません。「なぜ?」の問いを発すれば、ルールを支えて
いるのは実は権力でも、多数決でもなく(良くも悪くも)パーソナルな欲求の
集合であるという答えに辿り着けるはずです。
意にそぐわないルールを前にして我々に与えられている自由は決して無制限で
はなく、ルールを破る贖いを“たった一人で”引き受ける覚悟か、もしくは新
しいルールを時間をかけてじっくり育てていくことしかないはずです。

ルールに向かい合うのには相反する二つの態度が必要です。それはどんな既成
のルールにもひれ伏さない断固たる決意であり、そうした共通の決意を抱えて
いる孤独な隣人たちの存在を感じ受け容れることのできる寛容さです。自分は
たった一人であり、でも「たった一人の自分」は決して一人ではないと思える
こと。断固たる決意と寛容さ、そのどちらもを支えているのが決して個人的な
欲求などではなく「誰かが誰かを愚直なまでに大切に思う気持ち」であって欲
しい。ホーマーの真っ直ぐな瞳と、彼を愛し、彼が愛してやまない孤児院の子
供たちの微笑を見ると本当にそう思わないではいられませんでした。

彼を出迎える孤児院の人々、意地っ張りな女の子の嬉しそうな笑顔が何よりも
一番印象的で、決して安易なドラマではないのに、さわやかな余韻がいつまで
も残りました。
00/07/24(月) 23:14


「THE 有頂天ホテル」

映画の中の全ての人が愛しく思えました。誰かひとりの事を好きになると、周
りにいる人全部が好きになる。だから映画を見終えた後、すれ違った人たち皆
が好きになりました。
誰でもどんな人でもプロフェッショナルとしての矜持を持っている。先生は先
生としての、サラリーマンはサラリーマンとしての、お母さんはお母さんとし
ての。
我慢したり、妥協したり、体調が悪かったり、気に食わないやつがいたり、家
庭がゴタゴタしていたり、今夜のおかずが決まらなかったり・・・。自分にと
って「やりたい仕事」よりも「やらねばいけない仕事」にこそプロフェッショ
ナルとしての矜持が。
誰も気がつかないかもしれないけれど、でもきっと誰かは見てくれていて。そ
う言えば言ってたなぁ。

「きっと神様が見ててくれるから。」

って。やっぱり全員が主人公なのだと思います。

誰か1人を選ぶなんて絶対無理。だって、あの人もいるし、あの人も・・・。
でも敢えて一人選ぶとしたら。

原田美枝子さんっていうのはとても綺麗で、とても可愛くて、とても素敵な人
だなって心の底から思いました。
06/02/02(木)  

「ザ・エージェント」

当たり前のことを語ることが御伽噺になってしまう"そんな世の中"が今の世
の中。この映画はハリウッドらしい超一級の御伽噺でした。

「生まれてくる子供をそんな世の中で育てたいの?」

感情的になるロッドの妻にドロシーが訴えるこの台詞。この「ドロシーの問
い」に対する答えが映画のなかで描かれています、

自分の幸せの為、家族の幸せの為に働いているに過ぎないはずの自分が、い
つのまにか自分を捨て、家族を犠牲にして、組織の為、金の為に奉仕させら
れていると感じることは、誰でもあるんじゃないでしょうか。それでも、働
き続けなくてはいけないのは、やっぱり自分の幸せの為、家族の為です。

熱にうなされたように、提案書を書いたジェリーには、理想はあっても、そ
の矛盾と向かい合う覚悟はありません。絵に描いたようなインスタント結婚
が、最初上手くいかなかったのは当然です。

で、例えばこの時、彼が仕事をやめて、家族と共に田舎かなんかに引っ越し
て、貧しいけれど良い家庭を築くパパかなんかになったとしても、それはそ
れで、ありだと思うのです。実際そういう人生を魅力的に生きている人はい
るのだし・・・。

でも彼は違う選択をしました。理想の為だけに金まみれのスポーツ界で体を
張るロッドを見たからです。映画のなかで、度々エージェントとクライアン
トの立場が逆転するのも面白かったし、これもまた理想的な関係なのだなあ
と感じました。

ジェリーの下した決断は「君が僕を完全にする!」という、100%予想のつく、
しかし最高に感動的な決め台詞によって表されていますが、「ドロシーの問
い」への答えは、ラストシーンで語られています。

子供の将来の幸せを願う親が「子供には私と同じ道を歩んで欲しいと思わな
い。同じ苦労をさせたくない。」というのはよくある話。でもこれも良く考
えてみると、おかしなことです。"今時の世の中"が抱えている矛盾なのかも
しれません。
オーバーフェンスの大遠投に感動して、息子を自分と同じスポーツの道に進
ませようかと真面目に熱っぽく語るジェリー。この時の彼は"そんな世の中"
でも子供の為に、子供が憧れるような生き方が出来ると信じています。

「現実の世の中で生きる選択をした主人公を」「それでも夢や希望たっぷり
に見せてしまう」所が、「ハリウッド流の」「御伽噺」です。超一流の。

そして、ジェリーの提案書のように「皆が思っていても決して口には出さな
いこと」を堂々といってくれる所が映画という御伽噺のいい所です。
97/05/26(月) 22:05



「ザ・ダイバー」

荒れ果てた土地をラバで耕す父。ぐゎしぐゎしと大地を踏みしめるその足を息
子は受け継ぎました。ダイバーとスイマーの違いは、あの力強い歩き方にある
のでしょう。
海軍初めての黒人マスターダイバーと、彼が憧れた引退ダイバーの教官。畑仕
事の跡がついた手をした教官と、彼を結びつける絆となったのもやはり父親の
存在でした。
父の姿そのままに法廷を歩くブラシア。挫けそうになる彼を鼓舞する教官。
デ・ニーロはやっぱり役者です。

映画はこの二人にギュッと物語を絞り込むために、ずいぶん窮屈なつくりにな
っていました。絞り込むと言いつつ、要素だけは残しておきたいという未練が
あちらこちらに見受けられました。例えばサンデーと嫌味な眼鏡の軍人にサン
デーの妻が絡んだ確執のエピソードなどは、まあ状況証拠でわからなくもない
のですが、ちょっと欲張りすぎかなぁと思いました。
その他にも人種の話やブラシアのロマンス話や、訓練生同士の友情や、家族へ
の愛情や、いかにも、という素材をあまりにも詰め込みすぎた感は正直ありま
す。キラリと光る所はあったもののシャリーズ・セロンがあの程度の扱いとい
うのはいかにも残念。それでも2時間以上の映画ではあるのですけど。

デ・ニーロ、グッティングjr、セロンの演技がもっともっと見たかったです。
幾分作りが大味になっても僕にはその方が良かったような気がします。
01/06/03(日) 23:59

「座頭市」

いつ頃からなのか、血が流れる映画が苦手になりました。特に生々しい暴力シ
ーンで血が流れる映画は。だから少し心配だったのです。

踏みしめる大地の響きに鳥肌が立ちました。惨いシーンに血の気が引くのでは
なく、大地から僕の足を伝って体の下から上へ血液が逆流する感じ。

そのラストのタップダンスを予告編で見て、真っ先に思い浮かべたのは僕も黒
澤明の「隠し砦の三悪人」の火祭りのシーンでした。どちらも外国で賞を貰うよ
り、小さな映画館に足を運んだ沢山の観客が鳥肌後の余韻に浸りながら満足して
帰っていくのが相応しい作品です。美味しいものてんこ盛のごった煮的痛快娯楽
活劇ということでよいのではないでしょうか。ごった煮のように見えて実は素材
の一つ一つやその組み合わせには細心の注意を払っているということなのでしょ
う。

素材の一つ一つ

浅野忠信。病気の妻の為と言いつつ、実は己の本能の赴くままに人を斬ること
に快感を覚える侍。一筋縄では行かない狂気と、その凄みと愚かさを演じわける
あたりはさすが。今更改めて言うまでもありませんが、スケールの大きい役者で
す。
ガタルカナルたか。大衆演劇の幕間に登場するお笑い芸人、狂言回しのような
役。どこまでも軽妙で憎めない、ある意味“たけし”の分身のようでした。実は
この映画の中で最もタフな人物の一人。

北野監督は縦社会の幾重にも連なる上下関係の構図にこだわりを持っているの
でしょう。彼なりの“黒幕のステレオタイプ”みたいなものがあるようです。
そしてどんな縦社会でも必ず存在する最下層の人々。今回はいつにもまして分
りやすくポジティブに彼らへの賛歌が聞こえてきました。
上下関係に飲み込まれたものが皆命を落とす中、しっかりと生き残る人々。し
っかりと生き残る人々の力の源。彼等は大地を踏みしめて歩く。彼等は大地に這
いつくばって生きる。だから最後の座頭市が転ぶシーンは象徴的です。あれこそ
が彼らの強さ。そう言えば大昔に見た彼の監督デビュー作でも彼扮する雑草のよ
うな刑事は、やたらと自分の足で歩いていました。

大地を踏みしめる響きは久石譲の、流れるような音でなく、ロック!
鈴木慶一、お見事でした。
03/09/18(木) 21:57

「サバイビング・ピカソ」

「日の名残り」以来の待望のアイボリー作品、しかも主役を演じるのがA.ホ
プキンスとなれば、見に行かないわけにはいかないでしょう。と意気込んでい
たのに、結局公開終了直前の滑り込みセーフ。でも何とか見られてよかった。

「日の名残り」との共通点、一番感じたのは音楽でしょうか。前作では車で旅
を続けるスティーブンスのバックに流れていたあの弦楽器の響き、今作でも、
ゆっくりと、しかし確実に流れる「時間」を感じさせました。

ピカソという人物はあまりにも有名な人ですから、彼の実像に関しては様々な
解釈があるのでしょう。僕はあまり詳しくありませんが、この作品を見る限り
彼の生き様はこの世に存在する全てのものを自分のものにしようとする(単に
所有するというのでなく、強力に自分の世界に引き込もうとする)独占欲のよ
うなものを感じました。

芸術も名声もそして女性も彼はそのカリスマ性で次々と自分のものにしていき
ます。度々登場する仕種。感情的になった女性をなだめるとき、そして誘惑す
るとき、別れを言うとき、甘い言葉を囁くとき、彼は女性の頬から首のあたり
を撫でます。強くもなく弱くもなく、繊細でそれでいてがっちりと女性の心を
つかんで離さない、そんな絶妙のタッチでした。彼のそんな仕種に女性たちは
一様にうっとりとします。まさに魔法のようでした。

彼が自分のものにしたのはそれらだけではありません。あの音楽に象徴される
「時間の流れ」。彼はそれさえも自分の世界に引き込んでしまいます。

祖母の危篤を知り、数年ぶりにパリへ戻るフランソワーズ。祖母の友人が皆こ
の世を去っているのを知り、彼女は愕然とします。あんなに自分を憎んでいた
父親も、もう今では怒りの表情一つ浮かべません。
そう、ピカソと過ごした日々は竜宮城の浦島のように外界と隔絶され、時間の
流れが止まってしまっていたのでした。ピカソの前では時間すら彼の思う通り
に流れていたのです。ピカソの愛した女性たちは彼の絵の中で永久に生き続け
るだけでなく、彼と一緒にいる間は永遠の生を得ることが出来たのでした。彼
女たちは皆そのギャップを引きずり、悲劇的な結末を迎えることになります。

なぜフランソワーズだけは「生き残る」ことが出来たのでしょうか。

映画を離れ、冷めた目で年表を見詰めると違った答えが出てきそうですが、そ
れでは身も蓋もありません。

「愛の奴隷になったのよ、あなたの奴隷じゃあないわ。」

これだけで答えとしては十分でしょうが、ちょっと出来すぎの台詞のような気
もします。僕はラストの台詞の方が好きです。

「彼が私に不屈の強さを与えてくれた。彼との10年間を生き抜く強さを。」

彼女が他の女性と違うのは、彼と過ごした日々や彼の呪縛から必死に逃れよう
とするのではなく、それら全てをありのまま受け容れた所でしょう。他の女性
にそれができなかったのは彼女たちが彼から逃れようとするあまり、皮肉にも
依然として「時間の止まったピカソの世界」の中で生き続けることになってし
まったからです。
フランソワーズは祖母の死をきっかけに彼の下を偶然に一時的に離れます。そ
の時に感じた確かな「時間の流れ」、ピカソと過ごした時間の重みを感じるこ
とが彼女に無限の力を与えてくれたのでした。

「日の名残り」のクライマックス、再会するケントンとスティーブンス。時間
の流れの外にいたスティーブンスは少しも老いた様子はありませんが、ケント
ンはすっかり老けて、生活感を漂わせています。僕はあのシーンの彼女を見て、
どうしようもなく寂しいものを感じたのですが、今日「サバイビング・ピカソ」
を見て少し印象が変わりました。自分の意志で人生を選択し、幾年もの間、妻
として、母として苦労をした彼女の姿にスティーブンスの高潔さとは違う強さ
のようなものを感じることが出来そうです。

その強さは、闘牛場で馬にまたがり、堂々とピカソを見詰めるフランソワーズ
の強さと同じものでしょう
97/03/06(木) 00:12


「サマー・オブ・サム」

汗が体にまとわりつくような暑さ。エゴと猜疑心が膨張し、憎しみが憎しみを
生み街全体が不気味な熱をため込んでいく。「ドゥ・ザ・ライト・シング」を
思い出しました。

「俺の怒りだ!」

「ドゥ・ザ・ライト・シング」ではそう言ってウィンドガラスを叩き割り、人
々の怒りに火をつけた俳優スパイク・リーが本作では「事実を伝えるジャーナ
リスト」として登場します。今回の彼はあの冷静な目でただ事実を伝えていた
だけなのでしょうか、それとも人々の恐怖心を煽り、あの惨劇を引起こしたの
でしょうか?

「憎しみ」というテーマを彼ほど頻繁にとりあげている監督は珍しいと思いま
す。そしてこのテーマを扱う時の彼の姿勢は一貫しています。憎しみは決して
一つの方向にのみ向けられるものではなく、様々に関係を変えて多層的に広が
っていくのだということ。彼の考える憎しみは「最初から其処にあるもの」と
して語られています。

それが自分に向けられたものであっても、自分以外のものに向けられたもので
あっても、人は原則として「憎しみ」を嫌います。「憎しみ」を憎むと言った
方がいいでしょうか。そして自分の「憎しみ」を正当化するためにその責任を
転嫁しようとします。社会のせい、暑さのせい、薬のせい、酒のせい、あいつ
のせい、殺人鬼のせい・・・・。
しかしリーはそうした正当化を許しません。残忍な殺人鬼の狂気が(普段はな
りを潜めていたとしても)同じように誰の中にもあるのだという現実を突きつ
けます。「それが憎しみなのだ!」と。
彼が差別主義者なのか、反差別主義者なのか、"似非"反差別主義者を憎む者な
のかは分かりません。ただ彼は「憎しみ」の本質を描きたいと思い、そのため
には憎む者、憎まれる者を単純化された集団同士として見たのではどうやら上
手くないということに気がついたのでしょう。だから、彼は憎しみを個人の領
域まで掘り下げて捉え、どんな理由があるにせよ、あくまで憎しみの根源は個
人の中にこそあるのだという態度を貫くことにしたのでした。

しかし彼は個人の心の中にある憎しみだけを描いているわけではありません。
「憎しみ」を個人の領域で考えるなら、意図的に憎しみだけを抽出するのでは
なく、「憎しみ」と均等に個人の領域にある「憎しみ」と正反対のものをとり
あげないわけにはいかない筈です。
印象的なシーンが2つあります。
停電の夜、ヴィニーととディオナ、リッチーとルビーの4人は外の大暴動が嘘
のように静かなレストランで蝋燭の光の中食卓を囲みます。リッチーは二人を
初めてのライブに誘い、4人はリラックスしてとても親密な雰囲気でした。
もう一つは、ヴィニーがリッチーを訪ねるラストシーンに挿入されるディオナ。
彼女は聖母像の前にひざまずき何かを只ひたすら祈り続けています。
肩を寄せ合う人と人の温もり、そして誰かの幸せの為に神にすがりたくなる気
持ち。リーはそうした人の姿をも「自分以外の何かを当てにしている!」と突
き放すほど冷酷ではありません。
憎しみを越えた後にあるもの、憎しみといつも隣り合わせにあるもの。そうし
た希望のようなものをそっと映画の中に忍び込ませることを彼は忘れていませ
んでした。

この映画での俳優スパイク・リーは「事実だけを伝える」と自認しながら、そ
の実、事実の半分しか伝えていません。人の心の"ダークな"部分だけ。
しかし、監督スパイク・リーはもっと冷静でそして優しい。事実を伝えるとい
うことは、ただ見たままを伝える(暴動に突入して決死の中継をするような)
行為ではないという信念。そして憎しみの向こうにあるもの、憎しみの裏側に
あるものも見つめたいと願う気持ち。その両方をこの映画から感じました。



P.S.
ディオナ役はポッチャリと肉感のある僕好みの女優さんでミラ・ソルヴィーノ
そっくりだなぁと思っていたら、本人だった(^_^;)。
「誘惑のアフロディーテ」は最高で、その後は色んな路線に進出したけど、イ
マイチ彼女の魅力が出てないような気がしていた(「ロミーとミッシェルの場
合」は大好き!だけど)。
でも本作の彼女は魅力全開。女性の色気と可愛さと強さと弱さと健気さの全部
がムンムンに漂ってた。これからがますます楽しみ(#^.^#)。

以上、おやぢモード全開でした。
00/05/13(土) 22:27


「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」

実はとても可愛らしい映画。

矛盾だらけ、欠点だらけの人々同士が引き起こす化学変化。

予告編を見る限りでは、もっとシニカルでもっと癖のあるキャラクターがアク
の強い演技をする映画なのかなぁと思っていたのですが、思いのほか後味が良
かったです。

もしこの素材で直球勝負をしていたら、さすがにベタベタの家族の再生の話に
なっていて、それはそれで引いてしまったかも。また逆にアクの強さだけで押
し切っていても結局は淡白で印象が薄くなっていたかもしれません。そのあた
りのバランスは絶妙だったといえます。

群像劇を見る時、僕の評価軸はほぼ一つしかなくて、それは自分と登場人物一
人一人の“距離”です。
距離が近い場合は自分を彼らのすぐ隣に据えて、目一杯感情移入しながら楽し
みます。遠い場合は一人一人の人物の繋がりや構成の妙を少し高い所から俯瞰
して楽しみます。

さて、この映画は・・・。

これは、この映画の後味が悪くなかったこととも関係しているのですが・・・
最初は「奇妙で奇妙で自分と全く接点を持たない人のシニカルな悲喜劇」とし
て始まったこの作品はいつの間にかスルスルと僕との間の距離を縮め、気がつ
くと僕の傍らにちょこんと腰掛けていました。
いつのまにか、屋上に並んでタバコを吹かしているマーゴとリッチーの二人の
ように。
僕の場合は、群像劇を見る場合、最初から彼らとの距離が詰まっていたり、最
後まで距離を保ったまま見終えたりすることの方が多いので、この作品は希有
な存在であるといえます。

ストーンズやヴェルヴェッツ等の“隠れた癒し系サウンド”も、瑣末主義をく
すぐられる嬉しいアイテムやエピソードの数々も、あとから気がついてみると、
少しずつ彼らと僕の間の距離を埋めてくれていました。

でもやっぱりハックマンかなぁ。登場人物中最もノビノビとしていて、最も可
愛らしかった彼。孫たちを連れて“悪さ”をしに出撃するシーンが、とても好
きです。
02/10/10(木) 23:41

「39」

非常に挑戦的な映画です。僕は自分の中に不安が広がって、それから忘れてい
た怒りのようなものまで喚起させられるのを感じました。人間の心の中の闇が
幾重にも奥の方に底の方に連なっているのだということを語っている映画です。

まず、刑法三十九条に代表される法や司法制度への挑戦

鑑定士が容疑者の「予想外の共犯者」になるという特異な状況の中で、観客自
身の中の「法の矛盾への疑い・怒り」を喚起させていました。
映画はまず、どんなに責任能力のない精神状態であったとしても、それは決し
て真実を解き明かす作業を中断させるべきものではないということを主張しま
す。これは即座に「人が人を裁く」ということの限界へと繋がっていきます。
責任能力を問えないほどの精神異常が何らかの「不幸な状況」であったとして
も、「果たして人の命を奪えるほどの不幸が存在するのか?」「人の命を奪っ
ても罪に問われない程の不幸は存在するのか?」という疑問を強く感じないで
はいられません。いわんや「どうやって罪を償うのか?」という問いに至って
は、個人の主観によって容易に片づけられる代物ではありません。

映画としては最近流行のサイコスリラー系映画への挑戦

ノイズ、不安定なアングル、ぶつ切れの台詞、「セブン」を思わせる印象的な
雨の描写など、必要以上に観客の不安を煽る前半部分は明らかに過剰で、現に
僕は胃のあたりが重くなってきて「ちょっとやりすぎだな。」と感じていたの
です。
しかしこれは監督の策略だったようです。個人の主観に訴えるやり方なら、幾
らでも真実を捻じ曲げることが可能だということなのかもしれません。
目に見える現実やデータであかされる事実だけをとりあげてもそれだけでは決
して十分ではない。人が解き明かさなければいけない真実(闇)は、映画が表
現することの出来る真実(闇)はもっと違うところ、深いところにあると主張
していました。

だからこそこの映画は僕の心の奥の方をかきむしったのです。

癖だらけのキャラクターを演じていた樹木希林、江守徹、岸辺一徳の3人には
唸りました。流石です。
99/05/02(日) 23:14


「幸せになるためのイタリア語講座」

不器用にコーヒーを飲むと、不器用な唇にミルクの泡が不器用な線を作ります。
牧師は何も言わずナプキンでそれを拭ってあげます。
今でも、あの様子を思い浮かべると、僕は少し涙腺が緩んでしまいます。

彼は「拭ってくれる人」なのかもしれません。素直になれない意固地さや、心
を伝える事が出来ない臆病さ、不器用な彼らの何かを、そっと優しく拭ってくれ
る人。

「大丈夫ですか?今夜一緒にいてくれる人はいますか?」
「大丈夫です。一人でいるのは慣れていますから。」

不器用にしか生きられない人は、誰かを不愉快にしてしまうことが怖くて、一
人で生きていこうとします。でも、そうじゃなくて・・・。不器用な人同士だか
らこそ、お互いの存在が必要になる。

また、パンを台無しにしてしまって、パニックに陥った彼女は、牧師を訪ねま
す。とりあえず、彼が彼女にしてあげられることは

「まず、涙を拭うティッシュを出してあげよう。」

最愛の妻を亡くした二人の聖職者。同じ境遇にいる二人は、全く正反対の道を
進もうとしていました。自分の信条や、彼女の思い出という頚木から逃れること
の出来ない、抜け出そうとしないレッドマン。
これに対して「拭う人」アンドレアス。彼も後ろを振り返ることはするのです。
でもそれだけでなく、他者や未来や、自分なりの神様に心を開こうとする。迷い
ながら、振り返りながら、でも前に進んでいこうとするのです。レッドマンに対
していつになく強い口調で「貴方はエゴイストだ!」と非難した後、それでも自
分なりに「喪失」について考えてみたり。

彼がホテルのプールで一人で泳いでいる姿も印象的でした。独りで静かに何か
を考えている。でも彼は、そこに留まるのではありません。差し出されたタオル
でキチンと自分の体についた水も拭っている。殻に閉じこもって、過去を反芻す
るだけではないのです。
そう言えば彼の冒頭の登場シーンでは、説教台の上に飛び散ったレッドマンの
唾にアンドレアスが気がつくシーンがありました。「拭う人」であるアンドレア
スに対してレッドマンは「拭わない人」だったのかもしれません。過去しか見よ
うとせず、自分の感情や価値観を主張するだけで、他者の心に思いを致すことの
出来ない人物。

何かを差し出すのではなくて、最初からそこにあるものに気がつかせてくれる。
本当はピカピカに光っているガラス窓のほこりやくもりをそっと拭きとって、忘
れかけていたそこから見える美しい風景を思い出させてくれる。
そんな彼の優しさが大好きになりました。
04/04/08(木) 18:54


「しあわせはどこに」

思いがけず転がり込んでくる、現実離れした、チョットありそうにない話。

でも、幸せってきっとそういう物なんでしょう。「どこに幸せがあるか?」
「どうして幸せか?」なんて考えたって意味のない事です。

平凡な日常の中の些細な出来事にビックリしたり、ドキドキしたり。
そんなビックリやドキドキを誰かにプレゼントしたり。

「どこに?」とか「どうして?」とか考えさえしなければ、思いがけない驚き
が勝手に向こうから転がり込んでくるのかも・・・。

あんなドラマには出会えないかもしれないけれど、僕も幸せな気分になりまし
た。あんなドラマに出会えなくても、いいことありそうな気がします。
97/05/12(月) 01:41

「シーズン・チケット」

「最高の紅茶さ。」

チケット目当てで2週間だけ通った学校のクラスの皆の前で、彼が語ったスタ
ジアムと父の思い出。それまで彼を見下していたクラスメートたちも、じっと
黙って彼の話に耳を傾けました。

ケン・ローチの「ケス」を思い出した人、多いのではないでしょうか?

「ケス」の少年ビリーは自分が飼っているハヤブサの話をします。あの時もク
ラスメートたちは、じっと黙って少年の話を聞いていました。

彼等の言葉には聞くものを惹きつける力があります。それは多分(ケン・ロー
チ以降の様々な監督が受け継いできたリアリズムにおいての)辛い現実を生き
るための力とも呼べるものです。

ビリーの話は真実の話、実体験の話です。どんな現実の下にいても自分の世界
を頑なに持ち続ける逞しさ、自分にとっての現実を大切にしようとする彼の姿
勢がそこにはあります。唯一心を寄せていたハヤブサを失っても、彼はまた、
たった一人で頑なに自分自身の現実と向かい合って生きていったのでしょう。

ジュリーの話は空想の話、憧れの話です。彼には「自分だけの現実」に逃げ込
むことはもはや許されません。「シーズンチケット」を手に入れるという目的
の為の彼の格闘は途端に「彼を取り巻く現実」に飲み込まれてしまいます。

「この作戦は悪くなかったよ。」

ちょっと血の巡りの悪い相棒スーエルもまた、自分たちだけの現実に逃げ込む
ことは許されないと悟っていたのでした。

逃げ場のない現実に飲み込まれそうになる彼等を救ったのは「運命のいたずら」
でした。もういたずらに期待するくらいしか希望を提示する方法はなかったの
でしょうか?
でも、このいたずらを生んだのが「憧れ」なのだとしたら・・・。そこに現実
を変えるほどの力があるかどうかは分かりませんが、ビリーとは別の方法で生
きていくために、その力もひょっとしたら有効なのかもしれません。
01/06/10(日) 23:33

「GTO」

皆が揃うまで、ただの一人が欠けていても決して授業を始めない教師。お得意
の自己紹介は最後の最後でした。彼にとってはその事が他のどんなものよりも
大切だったのでしょう。

失われた時間を強奪して、彼の最初で最後の授業が始まります。

コミック原作の娯楽作品に徹した小気味よい演出と反町の男気で十分楽しめま
した。三谷組勢揃いの豪華なスタッフ・脇役人も個性を発揮していてよかった。
特に梶原善はオイシイ役でした。

藤原紀香の演技が予想どうり大したことなかったことと、オッパイが邪魔にな
って、走るのもあんまり得意でないということを再確認できたのも収穫でした。
映画を見終わった直後から「ポイズン♪」と口ずさみ、一教師鬼塚の身振り手
振りを真似する楽しみが鑑賞後に待っているのも大きなプラスポイントです。

2年にC組があるのに、全校集会に集まる人数はやけに少なかったということ
を除けば、何の欠点もない作品でした。
00/01/16(日) 22:04

「シービスケット」

車のボンネットに登ってレースを見守る馬主の妻。一番気に入ったシーンでし
た。
僕の父親はもう50年近いキャリアになる競馬好きです。色々なことを競馬に
たとえて語るのが癖で・・・。僕も小さい頃、父親に連れられて競馬場に行っ
たりしていました。多分、ハイセイコーとかテンポイントとか、そんな頃。小
さいので記憶は定かではないのですが、とにかく何色の帽子を被った馬を応援
すればよいのか、しきりに父親に尋ねていました。

「人生にたとえられるもの」は色々あると思いますが、競馬もそのひとつ。走
るのは馬ですが、そこには騎手、馬主、調教師、予想屋、馬券を買った人、競
馬場に応援に来た人、実況アナウンサー、などなどありとあらゆる人が関わり
ます。その中には懸命に走る馬に自分の人生を投影させる人もいて。

サラブレッドは脆い動物で、骨折や足の炎症は、直接的に死に繋がることも多
いですし、常に落馬の危険に晒されている騎手の中には命に関わるほどの怪我
を負う人もいます。大抵の場合彼らには「二回目のチャンス」はやって来ない
のです。だからこそ彼らに思いを託し熱い声援を送って復活を願う人々がいる。

マラソンランナーでもなく、サッカープレイヤーでもない。彼らだけでは語る
ことの出来ない別の形。自分の力だけでは、ままならない、どうしようもない
ものに思いを託すことが、やはり人生の中にあるからなのだと思います。それ
は、ただ運を天に任せて祈る事とも少し違います。100%能動的でもなく、受動
的でもなく。誰かに何かに思いを託して、そして一つになれた時に、託したも
のと託されたものの両方に同じ重さの「勝利」が待っているのです。

僕はボンネットではなくて父親の肩の上でした。無心に思いを託した時にこそ
勝利の女神は微笑んでくれるのかもしれません。
04/02/11(水) 14:12

「シェフとギャルソン・リストランテの夜」

原題がシンプルに「Big Night」だと聞いてしまうと、身も蓋もない邦題と言
わざるをえないのですが、シェフとギャルソンという微妙な関係にある兄弟の
絡みが物語の中心であるということはよくわかります。

知能が異様に発達した火星人の脳味噌のようなティンパーノ。一発逆転を狙っ
た豪華なディナーを象徴するに相応しい見事な料理でした。素朴で暖かいイタ
リア音楽と表情豊かな俳優陣の力を借りて、美味しさを演出するのは、まさに
映画の独壇場という雰囲気でした。

でも、この映画の最も映画らしいシーンは厨房でのラストシーンです。

何も言わず見事な手つきで、本当に見事な手つきでオムレツをつくるセコンド。
3人分作ってそっと兄の分を残しておく。それとほぼ同時に帰宅する兄。
「お帰り。」も「ただいま。」も言わず、オムレツとパンをさし出す弟。部屋
を出ていく見習いコック。やがて黙って肩を抱き合う兄弟。

絶妙のタイミングと無駄のない動き。無言の長回しの中に、この映画の魅力が
ぎゅっと詰まっていました。時に反目しながら、これからも共に人生を歩むで
あろう兄弟の絆を感じさせる「Small Morning」でした。

方々でレシピを見かけたティンパーノではなくて、美味しいオムレツの作り方
と食べ方を教えて欲しくなりました。
97/06/12(木) 21:17

「シカゴ」

「まったく女って生き物は・・・。お前等には負けたよ。」

仲が悪い事が障害にならない二人のピッタリ息の合ったステージを眺めながら
苦笑いするリチャード・ギアの顔が一番印象に残っています。

大好きなレニー・ゼルウィガーはいつもだともう少し頭が弱くて、もう少し純
なキャラクターを演じていますが、本作は新境地というところでしょうか。やは
り何をしても憎めないのが彼女の魅力です。近くに座っていた年配の観客の方は
モンローをしきりに連想していたようでした。ブリジット・ジョーンズから何キ
ロくらい痩せたんだろう?
キャサリン・ゼタ・ジョーンズはスクリーンで見るのは初めてでした。先入観
がない分“はまり役”度合はレニーより上だったかもしれません。やっぱり予告
編でも盛んに使われていたヘッドスライディング(乳スライディング?)が良か
ったです。

これぞ映画!これぞエンターテイメント!って感じ。言葉にすると熱がどうも
上手く伝わらないのですが、とても楽しめました。
03/05/26(月) 21:21

「四月物語」

ちっぽけな想いと大きな未来

上京した女の子はちっぽけな想いを大切に抱えています。ちっぽけだけど、と
ても暖かい気持ちを。彼女はまだ気がついていません。彼女の目の前には今ま
さに無限に広がる大きな未来があるんだということを。

ちっぽけな想いを抱えた彼女に大きな未来が広がっているということ、大きな
未来を目の前にした彼女がちっぽけな想いを大切に抱えていること、そのどち
らもがあの頃の自分を思い出させてくれるようで、少し涙が出そうになりまし
た。

彼女には不思議な引力があるようです。彼女の周りには心優しい人達が沢山集
まってきます。幾つものそういう出会いや、それから別れを経験しながら彼女
が大きな未来に向かって歩いていく姿が目に浮かんでくるようです。

いつまでもいつまでも、ちっぽけな想いを大切に抱えながら。
98/04/02(木) 23:31

「シクロ」

体に汗がべっとりついて拭っても拭っても吹き出してくるようなそういう熱気
を感じた。意識がボーっとしそうなほどの嫌らしい暑さ。

主人公のシクロは18歳という年齢から見るとかなり老けた印象を持つ。あの
虚ろな目はもう既に現実に疲れ切っているかのようだ。彼に限らず、登場人物
たちは一様に表情が乏しい。
ラストシーンで学校の教室の中で、マンドリンのような楽器を弾く子供たちが
次々と映し出される。皆、にこりとも笑わない。音楽は本当はもっと楽しいも
のなのに。奏でる音色が美しければ美しいほどそのギャップに胸が痛くなる。
彼らがシクロと同じ年頃になった時、彼らはどんな表情をしてるのだろう。

何とか、希望を探そうとしていた。ラスト近くでシクロを抱きしめながら女将
は我が子の死を悼み号泣する。即物的、日常的に暴力や死が描かれる中、誰か
の死や痛みに対してはっきりとしたやり方で悲しみ表現する人は皆無だった。
悲しむことにすら疲れた人々の中で、声を出して泣き続ける女将の姿は多少の
救いになるかもしれない。

以前と同じように家族たちを乗せ、シクロを走らせる18歳の青年の姿から、
希望を感じられるのかどうかはちょっと分からない。
96/08/24(土) 21:40

「死刑台のエレベーター」

この映画には2組の対照的なカップルが登場します。一言で言えば大人のカッ
プルと子供のカップルでしょうか。

偶然に弄ばれそれぞれに悲劇的な結末を迎える事になる4人ですが、男と女の
立場は微妙に違っているように感じられます。

男の場合まず、ジュリアンは自分の計画した完全犯罪の最中、ロープを現場
に置き忘れるという初歩的、致命的なミスを犯した事からその結末を迎える
事になります。それから若者ルイの方はというと彼もまた自らの無軌道な行
動、衝動的な犯罪によりその報いを受ける事になります。

一方女性の方はというと、どちらも自分自身は犯罪行為には及んでいません。
男の手助けはしますが、これも打算的な行動というより寧ろ男を思う気持ち
故と言えるでしょう。彼女たちのこの思いこそが様々な悲劇的偶然を引き起
こし相手の男と自分自身を追い込む事になってしまいます。しかし彼女たち
は少しもその事を後悔はしていません。
若い女は男と二人で自らの命を断つことに何の躊躇もないし、自ら罪を背負
う事になった社長夫人も誇らしげな表情すら浮かべてその事実を受け容れま
す。

悲劇的な結末を見た後も虚無感がほとんど残らない不思議なエンディングは
「誰がどういう罪を犯し、どういう報いを受ける事になるか」ということで
なく「誰がどのように誰を愛したのか。」というドラマを感じられたからな
のでしょう。

マイルス・デイビスのトランペットは効きました。
96/10/30(水) 22:49

「地獄の黙示録 特別完全版」

前回のヴァージョンやビデオなども含めて、初めてスクリーンで見ました。

最近映画の好きな人と話をすることになると、それが無意味だと分かっていて
も「ハリウッド的な映画」と「そうでない映画」という二分法でどちらを支持す
るかという話題になります。もう、そうした分け方自体がないのだというのが大
方の落ち着き先ではあるのですが。でもそういう話をしているうちに自分が個人
的に映画に求めているもの、好みとしてどういう映画を支持するのかということ
が少しずつ分かってきます。

この映画は僕が支持しない映画の一つの究極であるというのが率直な感想です。
正にこれが映画だという映画的なシーンの次々。4時間という時間を全く感じさ
せない迫力がありました。
再公開に合わせて、現在の世界情勢になぞらえてこの映画こそ「戦争の狂気」
を描いているのだという評やコマーシャルを彼方此方で見かけました。僕はとい
うと、映画を見ている最中では一瞬そうした感慨に近づかないでもなかったので
すが、映画を見終えてから時間が経過するにつれて、そういうものからは次第に
離れた所にこの映画をプロットするようになりました。戦争の狂気も、そこにい
る人間の苦悩も僕には全く感じられなかった。むしろそうしたものを一切廃した
映画的なシーンの連続にこそ、この映画の価値はあるような気がします。

いずれにしても傑作。僕にとっては僕が求めるものとは別の頂にある傑作だっ
たのでした。
02/03/21(木) 14:02

「60セカンズ」

クリストファー・エクルストンは「シャロウ・グレイヴ」のときほど“いっち
ゃってる度”が高くなくて、誰もが震え上がるほどの恐ろしい奴には最後まで
見えなかったです。
それから時間との戦いがイマイチ中途半端であまり緊張感が高まらなかったよ
うな気がします。

とは言え、僕はこの手の映画には無条件に甘いので・・・。

シャカリキになっているニコラス・ケイジはやっぱいいわ。あとはなんと言っ
てもアンジェリーナ・ジョリーとアンジェリーナジョリーの唇(^_^;)。僕的に
はこれだけで十分でした、実は。

木のインテリアをこよなく愛し、スクラップ工場を経営している黒幕の哀れな
最後と盗んだ車を慈しむように話しかける主人公。鉄冷えなんてとんでもない。
まだまだ僕たちの心を熱くしてくれる鉄の塊達への賛歌。無免許の僕には想像
もつきませんが、車好きにはこたえられない映画なんでしょう、多分。
00/09/21(木) 22:50

「シッピング・ニュース」

自分を自由にすることの出来る革命の源はいつも自分の内側にあるのだという
ことを、またしてもハルストレムは語ってくれました。

都会の喧騒や物質的な文明とは隔絶されたニューファンドランドの暮らし。そ
こにやって来た一人の男の小さな革命。彼の血に流れる蛮勇が、いつしか島の人
々の心を溶かしていきます。



幼い頃から自分にコンプレックスを持ちつづけてきた彼。そんな彼が初めて誰
かから必要とされた時のなんとも言えない表情。それがたとえ場末の娼婦のよう
な女性相手だとしても・・・。でもどうやら彼はまだその時は自分の力、自分の
血に流れる力に気がついてはいなかったようです。だから、すぐにそれまでの自
分に戻ってしまいます。自分を押し殺し、目立たないように周囲の反感を買わな
いように様々なことをやり過ごす生き方に。

妻を失い、決して自分で望んだわけではなく・・・、でも実は宿命的に何かに
引き寄せられるように祖先の地へ戻るクオイル。おとぎ話そのままのような不思
議な島で、かれはさらに何かに吸い寄せられるように、祖先の家で暮らし始め、
船についてのコラムを書く新聞記者になります。そしてまた「誰かから必要とさ
れている自分」を認識するのです。
しかし今度は彼は自分の内にある力と共に自分の血に流れる呪われた過去も受
け容れなければいけませんでした。誰からも相手にされないみじめさとは違う、
ある意味でもっと厳しい現実と向き合わなければいけなくなったのです。

ハルストレムの映画は不思議です。「自分の内側にあるもの」に苦悩して自分
と向きあって向きあって向きあっているうちに、いつの間にか自分の周りの同じ
苦悩を抱えた人々と繋がることが出来る。そんなことを気づかせてくれる彼の映
画は「リアリティのあるおとぎ話」のようです。

夫に去られたシングルマザーや、実の兄に犯された叔母や、母親の死を受け容
れることが出来なかった多感な娘や・・・。クオイルは他人のことを思いやる余
裕がない程、厳しい現実に直面した時に初めて、漫然と生きていた時には気がつ
かなかったことにたどり着くことが出来たのでした。

世界で一番ちっぽけな筈の自分の中に、実は無限の可能性(希望と絶望の両方)
があるのだということ。
ハルストレムにはいつも「そんなの当たり前だよ。」と言われてしまいます。
02/03/31(日) 21:34

「シド・アンド・ナンシー」

破滅的な恋愛が、どちらか、もしくは両方の死で終わりを迎えるというのは当
然の結末です。
でも、90年代の今と、この映画で二人がこの世を去る70年代の終わりとで
は、その死の意味は微妙に違うような気がします。

あらゆる物を叩き壊すことで、成立していた二人の生き方、二人の愛情は最終
的には自分たちも壊すことで終わります。僕は彼等は時代に殺されたように見
えたのです。彼等はありとあらゆるものを否定しつつも結局はそれらの中で生
きていかざるを得なかった。その矛盾が彼等を殺したのです。勿論、死んでし
まったから敗者、彼等は時代に負けてしまったという意味ではありません。時
代に踏み潰され、二人の愛情が捻じ曲げられてしまったとしたら、それは明ら
かに敗北でしょうが、この二人の場合はどこまでもどこまでも、時代に逆らえ
ば逆らう程、二人の関係だけは、ピュアになっていったわけですから。

90年代の今はというと、例えば「リービング・ラスベガス」。あの二人には、
共通して闘う対象のようなものは一切ありません。二人は狭いモーテルの一室
の中で、二人だけで破滅的な愛を育て、そして男は静かに息をひきとります。

アレックス・コックスはこの作品に寄せたコメントのなかで、
「パンクはオルタナティヴへ、アナーキズムは奇妙な個人主義に変質した」
と語っています。

まさに、パンクとアナーキズムの象徴であった二人は、その時代に最もふさわ
しい、あの時代での究極の愛情の形を見せたということになるでしょう。そし
て決して彼等はそんな事を望まなかったとしても、二人の生き方・死に方がそ
の後の時代や男女の関係を変えてしまったのではないでしょうか。時代に殺さ
れるくらいなら、最初から時代と闘うのを止めようと・・・。

前言を訂正します。彼等は時代に殺されそうになりますが、殺されませんでし
た。

「Love Kills」

二人は時代を超えて伝説になる究極のラブストーリーを演じて見せたのです。
97/07/27(日) 01:29

「シベリアの理髪師」

久し振りに重厚でどっしりと腰の据わった映画を見ました。
しかしこの映画にはそれだけではなく生き生きとした躍動感や一種の軽やかさ
みたいなものもあります。

それはちょうどオーケストラのアンサンブルのように。

堂々とスクリーンに現れる広大な自然や20年という歳月を重厚さだとするな
らば、それらと一体となり、ハーモニーを奏でた軽妙さは何だったのでしょう
か?

僕はそれを「人の愚かさ」だと感じました。

僕はこの言葉を「ただの弱さ」と同じ意味には使いません。むしろ強さにさえ
近いものだと思う。愚直なまでの強さ、愚を貫き通せる強さ。
誰もいない部屋の鍵穴に向かって自分の気持ちを伝えようとするジェーンや、
納屋の中に隠れ、鎌を持ち息を潜める妻(元メイド・名前失念)など女性達に
もその愚かさを見ることは出来るのですが・・・。
なんと言っても男たち。男はなんと愚かで、男が戦う動機も戦う武器も愚かさ
しかない、男の存在自体が愚かさなのではないかと感じました。
それは「シベリアの理髪師」というパロディを真剣に演じるような愚かさとで
も言えばよいでしょうか。素人の余興だと、それを見つめる大公たちは穏やか
に笑うばかりです。しかし、大切な友人のことを心から心配し、ビショビショ
に濡れた衣装で舞台に立つ若き士官たちにとってそれは陽気なパロディなどで
はなかった。そして若いアンドレイの愚かさは「強く」真っ直ぐで、決して上
辺だけの軽やかさで理髪師を演じることなど出来なかったのです。
彼らの愚かさは決してただのパロディを軽軽しく演じるような愚かさではない!

凍てついたシベリアの森をけたたましい音を発しながら進むマシーン「シベリ
アの理髪師」そして刑を終え北の大地で暮らすアンドレイの家に掲げられた表

「シベリアの理髪師」
これらを目の前にすると、彼の演じていた、彼ら皆が演じていたパロディの壮
大さに圧倒されます。しかも彼らは最初からわかっていた厳しい運命に自らあ
えて進んでいったような気すらしてくるのです。まるでパロディを演じるよう
に。妻の知らない思いを込めた「シベリアの理髪師」という表札にまた、彼の
愚かさと愚かさゆえの強さを感じないではいられません。

「モーツアルトは偉大な作曲家だ!」

彼の偉大さは重々しさと軽やかさの両方に決して一筋縄では行かない凄まじい
までの激しさが実はあるからなのかもしれません。
00/12/06(水) 22:40

「シャイン」

厳格な父と父の期待通りの道を歩む息子。二人の感情の触れ合いと葛藤が物語
の核です。

デヴィッドにとっての運命の曲、ラフマニノフの3番は彼の父への思いが凝縮
された曲でもあります。少年時代、ラフマニノフを弾きたいという彼に対して
父親は言います。

「いつか立派に弾きこなして父さんを喜ばせてくれ!」

王立音楽学校でのコンクールで、わざわざ難曲と言われたこの曲を選んだのは
父への複雑な感情からです。父に認められたいという気持ち、父に反発する気
持ち、父に対する後ろめたい気持ち。正気を失わせるほどの熱情の源はやはり
父への思いだったのです。

再起後のリサイタル。演奏を終えアンコールの拍手に包まれながら目頭を押さ
えるデヴィッド。カメラは彼の視線となり、観客席の父親を探します。でも、
いない。彼同様、父親への思いをきちんと伝える事のできる息子はきっとそん
なにいないでしょう。

「この世で私ほどお前に愛情を注ぐものはいない。」

自身たっぷりにそう言い切る父。子供にとっても親の愛情に変わるものなど決
して存在しないでしょう。でもその愛情は、本来、やや短めの“期限付きの愛
情”であるべきものです。
この話が正確な実話かということとは別にしても、デヴィッド・ヘルフゴッド
という素晴らしい芸術家の存在、そして彼に関する悲劇や喜劇、全てのドラマ
が、やや屈折した、父親の彼への思いにつながっている。映画を見る限り僕は
そう感じたのです。

父親がこの世を去り、彼は生き続ける。
父親の存在から解放された後、彼はどんな人と、どんな人生を歩んだのでしょ
うか。
97/04/06(日) 00:59

「ジャッキー・ブラウン」

日本に先んじて大型小売業の合理化を進めたアメリカ。さすが、あれだけの売
場を一人の店員だけで運営しているのですから。あと、あの異様に広い試着室
もいいですね、あれは寛げます。タランティーノお得意のあの現金すり替え劇
の舞台としては非常に上手い設定だったと思います。
2度目の現金引き渡し以降は引き込まれるように一気にラストまで見ることが
出来ました。

ただ、やはり2時間半は長すぎると感じてしまいました。過去の監督作品2作
では劇中で「この作品はひょっとして傑作なんじゃないの?」なんて考える余
裕は全くありませんでしたから。
前半の人物描写や遊びの場面がラストになって効いてきているとは思うのです
が、僕はタランティーノにはどうしても別のものを期待してしまいます。

前半削って、1時間半の作品だったら満点をあげたのですが・・・。
98/05/14(木) 22:40

「しゃべれどもしゃべれども

口下手の打撃職人が飲み屋のテレビを見ながら語ってみせた勝負の裏側。勝負
に臨む男達の心の奥にまで迫った良い「解説」でした。

テレビのような消費型のメディアでは物事の本質よりもむしろ容易に消費でき
る意味のない言葉が重宝されます。そして「本物」が隅に追いやられていく。

昨年初めて生の落語を見ました。
見る人に相応の集中力を求め、それに見合うだけの喜びや驚きを与えてくれる
至高の芸。テレビなどで落語の魅力を伝えることは到底出来ないのです。

少し不器用だけど本物の価値を知り、それを真っ当に守り続けようとする人々。
そういう人たちが「時代遅れ」になっていく世の中っていうのは味気ないなぁ。
仏頂面が愛しくなるあの女の子の実家が今では珍しい「町のクリーニング屋さ
ん」だったのも印象的でした。
2007年06月25日00:19

「Jam」

「何でもないわ。花屋さんがお花を届けてくれたの。」

こんな上手な嘘を、あっさりと、さり気無く言える人を僕は知りません。素敵
でした。

でも僕は嘘をついた本人ではなくて、それを聞いていた若者のほうが羨ましい
と思いました。さらりと嘘をつける人よりも、自分に正直な為に器用に生きら
れない若者に僕は憧れてしまったのです。しかも彼は世の中には咄嗟に器用な
嘘をつける大人がいるんだということを知るのですから。

経済成長だったり、合理主義だったり、富や権力だったり、そういう「極彩色
の世界」の中で見えなくなってしまう真実。ほのかに思いを寄せている人に思
うように気持ちが伝わらず、涙を流すジャジャが羨ましい。

でもこの世はやっぱり白と黒だけで出来ているわけではありません。真実を歪
曲したり、見えなくさせている極彩色の世の中で僕たちは生きているのです。
この映画はそんな世の中を批判するのではなく、嘆くのでもなく、そこで大切
な何かを見つけ出し、生きていく勇気を与えてくれる作品です。映画の中の若
い二人も、ただの恐いもの知らずの無軌道な若者には止まらず、次第に現実を
見つめ、現実と格闘し始めていきます。

さすが、片腕だけあって、エドワード・ヤンの映画の本質を良くわきまえてい
る人です。

映画を越えた映画があるように、その極彩色の映画の向こうには自分だけの真
実が優しく待っていてくれるような気がする暖かいエンディングでした。二人
が極彩色の世の中で生きる力を与え合い、その中で自分たちだけの真実を見つ
けることが出来た瞬間、それと似た感慨が自分の中にもじわじわと広がってい
きました。
98/09/01(火) 03:30

「シャンドライの恋」

夫との悲劇的な別れから、彼女は女性としての情念を自ら封じ込めてしまった
のでしょう。彼女は情念の代わりに理性を選び、全ての物事を頭で理解し解決
しようとします。恐らくは無意識のうちに。

彼女にとっての夫の存在はその時から「尊敬の対象」に変わっていきます。行
き場を失った情念を理性にすりかえて。

しかし彼女の中には、女性としての情念が消えることなく残っています。魂を
揺さ振るようなアフリカンミュージックの響き。彼女は決してそれを捨て去る
ことは出来ませんでした。彼女にとってのあの音楽は、故郷や夫への思いでは
なく、自らの性、情念への思慕をあらわすものだったのでした。
彼女の情念を呼び覚ますようにピアノの切なく官能的な調べが押し寄せてきま
す。ピアノの響きを思い浮かべ快感に身を委ね、情念の赴くままキンスキーの
ベッドに忍び込むシャンドライ。彼女は思います、「自分はこの男を愛してい
るのだ」と・・・。
違います。彼女は決して彼を愛しているのではない。それは彼女の中の女性と
しての情念が再び目覚めた瞬間だったのでした。

ベッドから飛び出すシャンドライ。彼女の選択は「夫か?キンスキーか?」と
いう問いに対するものではありません。そんな生易しいものではない。それは
不安定で、理不尽で、しかし強く彼女を捉えて離さない情念に従って生きるこ
とを彼女が選択した瞬間でした。
00/03/05(日) 23:25

「ジャンパー」

とびまっす、とびまっす♪
って二郎さんも顔負けのとびっぷりでした。

簡単に言っちゃうと、世界中で適当にロケしまくって撮ったのに適当にCGく
っつけて適当に編集して、そしてあの「ビュンっ」って音を後付けしていっちょ
あがりって映画でした(^_^;)
あの「ビュンっ」の費用対効果高し!

さすがに120分だとツラかったかもしれませんが、超コンパクトにまとまって
いて楽しかったです。

彼がアナキン・スカイウォーカーだったのも、お母さんがダイアン・レインだっ
たのも、僕はエンドロールまで気がつきませんでしたが(^_^;)
2008年03月02日23:26

「シャンプー台の向こうに」

イギリス映画らしい良質なドラマの、良質な要素が上手に散りばめられていま
した。

たとえばチームワークの勝利。

大した説明もなくいきなり始まる「ヘアードレ
ッサー選手権」。映画が進んでいくにつれて、勝つために大事なのがチームワー
クなのだということが段々分かってきます。メンズ担当、ナイトヘア担当、トー
タル担当、そしてモデルまで、主人公たちのチームが結束を取り戻す様子と、そ
れ以外のチームが空中分解していく様子を対照させて、スポ根ドラマのステレオ
タイプに仕上げています。
ヘアードレッサー選手権自体が、どことなく時代に忘れられたような雰囲気が
漂っていて、それもよかった。戦う場所がそういう所であればあるほど、そこで
戦う人の意地やこだわりみたいな物が伝わってくるというもんです。それから、
舞台になった典型的なイギリスの片田舎もよかった。“おらが町”の代表に熱い
声援を送る住人たちもやはりスポ根ドラマには欠かせません。

たとえば家族の絆。

父親や母親や息子たちが、それぞれに“らしい”役回りを
演じるような在り来たりの家族像でなく、妻の駆け落ちの相手の恋人や息子の憧
れの女の子まで、それぞれの結びつきに戸惑いながら、お互いをかけがえのない
存在と認め合うまでの過程が描かれています。
在り来たりの家族像が何の説得力も持たなくなってしまった。そんなことはも
う誰でも分かっています。でも出来ることなら、それを越えたところに、それま
でとは別の希望みたいなものがあってもいいのでは・・・。意外とその希望まで
をキチンと声を出して語ってくれる映画は少ないものです。

たとえば死への関わり方。

「さっきまで元気だった夫があっという間に死んでしまった。死んでしまうと
やりのこしたことばかりが沢山頭に浮かんできて・・・。」

終わりが見えなかったり、人によってそこまでの距離が違ったりすることはあ
っても、それが不可避なものであるのならば、誰もが悔いが残らないよう、そ
の準備をしなければいけないのです。
モデルとして颯爽と登場したあのお婆ちゃん。バロック調の見事なヘアスタイ
ルをして誇らしげにポーズをとる姿。あれは彼女が逝ってしまった大切な人へ
の悔いとキチンと向かい合いながら、彼女なりの準備をする決意をした現われ
なのでしょう。僕は一番驚いて、一番大好きなシーンでした。
その他にもシド・ビシャスのような髪型になってしまったお爺ちゃんの話など、
至るところに死に対する関わり方を思わせるシーンがありました。

「不思議だけど死んでも人の髪の毛や爪は伸びつづけるんだ。」

ブライアンの言葉もなんだか色々なことを考えてしまいました。



ブライアン役のジョシュ・ハートネット。(彼が主役って扱いでいいのかどう
かはチト疑問ですが)無口なのに気持がキチンと伝わってくる、意志の強さや
誠実さや純粋さを感じさせるいい役者だと思いました。「ヴァージン・スーサ
イズ」も見てるのですが、どの男の子だったのかは印象ないなぁ。
レイチェル・グリフィスは「日蔭のふたり」「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・
プレ」と見てますが、いつも全く違ったタイプの決して簡単ではない役を存在
感たっぷりに演じています。ちょっと忘れられない顔になりつつあります。
アラン・リックマンも相変わらず上手い。意固地だけど人情に厚い今度の役は
「ギャラクシー・クェスト」と似ているかなぁ。クライマックスのコスチュー
ム、笑って鳥肌が立つくらい決まってました。背中と足の裏のハサミが“可愛
カッコいい!”個人的には「ウィンター・ゲスト」以来の監督作も楽しみにし
ているのですが。もう2、3本出演作品が続けば、映画作るお金も溜まるでし
ょうか。

とにかく見所の多い映画。予告編を見たときの期待を全く裏切りませんでした。
02/01/17(木) 22:14


「十二人の怒れる男たち」

「彼らは何に怒っていたのか?」
それがこの映画の大きなテーマです。

大きく分けると2つのタイプに別れます。一つは個人的感情を暴発させて怒る
者、もうひとつは合理主義を貫徹させるためにそれを妨げるありとあらゆる矛
盾に対して怒る者です。

有罪3、無罪9になった時点が、この映画の大きな山場の一つでした。この時
有罪を唱えていた3人が最後に意見を翻すまでの仮定にはアメリカという国の、
アメリカ人達が重んじてきたのは何なのかということが実に良く凝縮されてい
ます。

まず最初に反駁されるのが10号です。彼は感情を暴発させるタイプの人で、結
局最後には自身の偏見を自ら暴露し、自滅してしまいます。「ありとあらゆる
偏見と矛盾」アメリカ人はそれらに対して徹底的に批判を加えます。
(反駁その1)

次に反駁されるのは4号です。彼は12人の中でも8号に匹敵するほどの合理
主義者であり、筋金入りの切れ者です。彼には3対9(この時点では2対9で、
一人除外の状態)という状況はさして問題ではありません。合理的な議論をす
るのに多数派、少数派の優劣はないからです。
ここでいう合理的な議論とは批判的であり続けることが前提となります。自分
の意見の正当性をあれやこれやの理由をつけて主張するのではなく、むしろ、
自分の意見を徹底的に批判してもらい、それでもなお自分の主張が反駁されな
ければ自分の意見が生き残れるのです。4号は最初から最後までこの立場を取
ります。そして、9号の指摘により、自らの主張の正当性に疑問の余地が出る
と自ら無罪の側に立ちます。(反駁その2)
この態度は非常に重要です。「疑わしきは罰せず。」と言う言葉がありますが、
生半可ではなく、徹底的にこの言葉を実践しようとしたのが8号であり、4号
であったのです。

最後に残るのが3号ですが、この人を最後に残したことこそがこの映画の最大
のポイントであり、アメリカという国の文化の象徴だと言えます。(すごく嫌
らしい言い方をすれば、この映画の限界とも、アメリカという国の限界とも言
えます。)

彼は最初のタイプ分けでいうと明らかに「感情を暴発させるタイプの人」に属
します。しかし、同情の余地のない偏見の持ち主ではありません。彼の「有罪」
の主張を支えていたのは「親子の情」に他なりません。だから、10号を反駁
した時とは違い、3号を見る11人の目は優しく穏やかなものです(ある種の
同情や共感を含んだ。)。結局最終的には、誰に説得されるわけでもなく、こ
れもまた同じく「親子の情」により、「無罪」の側につくことになります。
(反駁3)

アメリカという国を支えてきたのは表面上は(反駁1)や(反駁2)に象徴さ
れる合理的精神なのですが、最後の最後にはやっぱり合理性だけでは語り尽く
せない「情」が残ります。これは最初から議論の材料になるべきものではない
筈です。アメリカ人にも合理性だけでは割り切れない美徳のようなものがある
のでしょうか。

ただ、最初から情に流され、徹底的に合理的な議論をすることを避けてしまう
どこかの国の国民性とは明らかに区別されるべきでしょう。やはり、アメリカ
という国の底力を思い知らされました。少年が有罪である可能性すら残ってい
るという状況で、12人が救ったのは、一人の少年の命だけではなくてアメリカ
という国の「誇り」でもあったのですから。

最後に反駁3を残したことでこの映画は人間ドラマとしても超一級だという評
価を得たのかもしれません。ちょっとその視点で映画を思い起こしてみて、
「12人のなかで一番好きなのは誰か?」と考えてみると。

僕が1番好きなのは6号です。

彼は反駁2に積極的に参加するほどの力量はありませんが、議論の最中9号を
かばってみせたり、「長幼の序」というか「義理・人情」みたいなものをもの
すごく大事にする人です。表面的にアメリカを支えているのは4号や8号のよ
うな人なのかもしれませんが、本当はアメリカという国のパワーの源は6号の
ような人達にあるのではないでしょうか。

勿論誰を一番好きと言っても、それぞれに色々と書けるくらい、一人一人が魅
力的でリアルですが。(10号、11号はちょっと難しいかな?優柔不断な
12号は一番自分に似てました。)
96/10/04(金) 00:54

 「祝祭」

「風の丘を越えて」に引き続き、この映画も「恨」を題材にしています。

アン・ソンギ演じる人気作家が母に寄せて著した童話には初めて「恨」から解
放される母を祝う気持ちと、自分の「恨」と向かい合おうとする気持ちの両方
が込められていました。
母を偲ぶ行為は母を美化するだけでなく、生前に自分が出来る全てのことをし
てあげられなかった悔いを実感する為でもあります。儀式は、悔いを棚上げに
して「死んでしまえば全てが良い思い出」としてしまうわけでもなく、悔いを
他人への恨みに変えてしまう為のものでもありません。あくまで、これからも
生き続ける自分と向かい合う為の作業です。
生と死が向かい合っているのです。

オ・ジョンヘは今度も「恨」と向かい合い、そして恐らくは「恨」を越えて生
きて行くであろう魅力的な女性を演じていました。祖母へ寄せる思いが、自分
を不幸にした人々への恨みになっていた彼女が、儀式を通して、他人への恨み
ではなく自分自身が背負っている「恨」の存在を認めるようになれたのです。
全ての人間が、生きてから死ぬまで「恨」を背負い続けていくという意味では
罪深い存在であることに変わりはありません。一族の中に入り、屈託なく笑う
彼女を見て、彼女が「恨」を越えるであろうということを確信しました。

歳をとるにつれ、人が幼子に帰っていくという考え方は万国共通なんでしょう
か。僕は半分くらい賛成です。

痴呆症になり、他人の存在がどんどん希薄になっていった老婆。ひょっとした
ら彼女は次第に自分自身と、自分自身だけの「恨」と向かい合うようになって
いったのかもしれません。
97/06/10(火) 21:23


「修羅雪姫」

とにかく釈ちゃんに尽きます。

メジャーデビューのころのふんにゃかおとぼけキャラに毛が生えたような演技
でも僕としては全然オッケーだったのですが、予告編を見る限り、あと前評判
を聞く限りなかなか頑張っている様子でしたので、それなりに期待をしていま
した。

そしてその期待を少しも裏切らない熱演ぶり。声や表情、特に目に力がありま
す。最近、目に力のある日本の若手女優さんは少ないように感じます。そうい
う意味で彼女は本当に魅力的。トップレス背中のサービスカットはあったもの
の、グラビアアイドル時代の貯金を全く使わないあたりも、勿論演出の助けも
あったのでしょうが、大したものでした。

このままアクション路線を進むもよし。ふんにゃかキャラも合わせて本格的に
演技の道を進むも良し。非常に大きな可能性を感じさせてくれました。この調
子だとパート2とかありそうだし、そしたら勿論彼女が主演でしょう。とても
楽しみです。
02/01/31(木) 23:36


「シュリ」

銃撃戦の迫力や、ストーリー展開の早さなど、アクション映画として十分に楽
しめました。

アクション映画の登場人物は、かなり簡略化されたステレオタイプの役柄を担
わされることが多いのですが、やはり魅力的なアクション映画のヒーロー・ヒ
ロイン達はその枠を越えた所にあるのではないでしょうか。

映画の前半部分では、アクションが先行し、だからこそ設定の強引さや不自然
さが目立ってしまったのですが、主人公とその恋人の立場が明らかになるにつ
れて(と言うか、最初から分かり切ってはいたのですが)、次第にキャラクタ
ーの魅力が前面に押し出るようになってきます。そうするとアクションシーン
の迫力も増すように感じられるから不思議です。

恋愛関係あり、友情あり、そして考えてみれば北朝鮮の工作員のリーダーと主
人公とその恋人はかなり屈折した三角関係でもあるわけで、血も涙もない戦闘
機械のようだった彼らに人間らしさを急に感じ始めてしましました。

しかし、彼らの人間性の多くが「分断された北と南」「同じ民族が違う国に別
れ反目し会う悲劇」という歴史的事実に収斂してしまうのが僕には少し残念で
した。登場人物に本当に血を通わせるのは「個人と個人との関わり」であると
思うのです。彼らが「北」と「南」の代表選手としてではなく、独自の個性を
発揮してくれれば映画はもっと魅力的になったのに。
「個人と個人の関わり」の為に歴史的事実を越えようとした主人公達が宿命的
な別れを迎えなければならなかったということが、この映画のもう一つのテー
マだということは重々承知しているのですが・・・。

ちょっとおとぼけの新米情報員や療養中の少女などはそうした意味でとても魅
力的に映りました。

彼らのような人物がスクリーン狭しと暴れまわる映画が、政治の力の助けを借
りずに実現してくれれば、もっともっと韓国映画は面白くなると思います。
00/02/20(日) 22:10

 「小便小僧の恋物語」

ちょっとだけ知ってたストーリーから、冒頭のシーンを見て少年時代のハリー
の役者さんは、主人公の方にそっくりで、うまい子を選んだなあと思ってみて
いました。で、やがて訪れるであろう「突然の死」を待ち構えていたのですが、
まずはお預け。ただ、その後のストーリーでハリーを襲った「突然の死」を暗
示させるエピソードがいくつか出てきます。
まずは、70歳の老人の自殺、そして、若き日の管理人のおばさんの恋人の死。
死が突然に訪れた時、生前の喜びや幸せが大きければ大きいほど、生き残った
ものにはそれと同じだけの悲しみや喪失感が残ることになります。「愛してる。」
と言えなくなってしまったハリーの悲しみが胸に刺さります。

そんな彼に愛を注ぐのがジャンヌ。僕は彼女のことをハリー以上に小便臭いと
思いながら見てました(決して悪い意味ではなく)。かすれた声も、悪趣味な
洋服と化粧もそして下品な会話も。職業をとってみてもまさに男勝りという感
じなのですが、しかし、彼女にはそれでいて本当に女性的で繊細な面も感じて
しまうから不思議です。
「優しい男は苦手」という彼女、そう言って男勝りの自分を演じる彼女もハリ
ー同様辛い過去を背負っているのではないかと思いました。ハリーのように告
白してしまえないほど辛い過去を。映画の中の恋愛感情にまで「何故好きにな
ったのか。」という答えを見出したくなってしまう僕ですが、その点ジャンヌ
とハリーがお互いに共感し、惹かれあったというのには非常に説得力がありま
した。

この映画の重要なアイテムとしてポスターにも使われていたキンキラキンのハ
イヒールがありましたが、よくあれだけ悪趣味なものがあったなあという感じ
です。他にもあります。時代遅れのダンスホール、謎のビニールで覆われた車、
そして前述の彼女のワンピース、黄色い乳首などなど。こういう趣味が本当に
好きな人(B&Dの二人組とか)もいると思うのですが、彼らの場合は不器用
で感情を素直に表現できない様子が、とても切なく感じられました。実際、見
た目が派手なものの本当の魅力って全然別の所にあったりすることが多いと思
います。

で、話はまた「突然の死」に戻るのですが、ハリーは普通の人なら一生に一度
あるかないかという愛する人の「突然の死」に不幸にもまた直面することにな
ってしまいます。しかし今度は彼に残されたのは悲しみだけではありません。
管理人のおばさんの言葉が印象的です。
「星は死んだ後どうなるか知ってる?輝き続けるのよ。」
やはり、人が死んだ後、何かの希望が生き残った人にもたらされたとすればそ
れは究極の希望だと思います。
今思えば、ハリーの家族の死も、70歳の老人の孤独な死も、その死によって、
この美しい恋物語をハリーとそして僕たちにもたらしてくれたわけですから。

ちょっと不謹慎でしょうか。


「ショコラ」

「人生は変えることができるわ。」

10歳の少年でも80歳の老婆でも犬でもカンガルーでも人生は自分の力でだ
け、変えることができるのだと・・・。
神様にも両親にも夫にも、決して他の誰にも自分の人生を自由にしてもらうこ
とは出来ません。

「ギルバート・グレイプ」では閉鎖された町に閉じ込められていたデップが今
度は流離うものとして映画に登場します。
しかし、流離うもの=自由、町にとどまるもの=不自由という単純な図式では
ありません。もとより「ギルバート・グレイプ」はそこに止まっても、そこか
ら飛び出しても自由はそこにあるのだと、人生は変えることができるのだと語
っていた映画でした。彼が何もかもを投げ出して街を出て行ったとしても其処
に待っていたのはまた違う不自由だったことでしょう。
北風に誘われて街を出て行こうとするヴィアンヌ。抵抗する娘を引きずって家
を飛び出そうとしたとき、彼女を縛っていた亡き母の形見が零れ落ちます。彼
女もまた、「戦うべき戦いに挑むこと」を知らず知らずのうちに自分に強いて
いたのでした。
暖かいチョコレートだけでなく、ままならない人生を変える勇気をヴィアンヌ
から貰った人々が今度は彼女に訴えます。自由は年齢や性別や身分や生まれた
場所、住む場所によって決まるのではないと。慣れぬ手つきでこしらえたチョ
コレートも添えられていました。

南米の音楽とルー達のジプシーの音楽のシンクロが素晴らしい。解放され、闇
夜に浮かぶ炎の中、ダンスに興じる村の人々。ビノシュのあんな楽しそうな顔
は久し振りに見ました。不自由な足を引きずりながら孫とステップを踏むデン
チ、涙が出ました。

封建的な村の象徴である村長の存在は「サイダー・ハウス・ルール」を想起さ
せます。映画の冒頭、礼節や質素を重んじた村のしきたり自体についてナレー
ションが入りますが、これはその後の展開から、彼を皮肉っているようにも聞
こえます。でも僕は彼女が村のそうしたしきたりをキチンと尊重しているよう
に感じました。決してその掟自体を否定しているわけではありません。
村の掟は元来、人々をそれにかしずかせる為のものではなくて、もっとパーソ
ナルな人々の幸せを願ってのものであったのでしょう。チョコ塗れになりなが
ら、ようやくそのことに気がついた子孫をみて、掟の主もやっと肩を撫で下ろ
したようでした。

善人ばかりが登場する物語は本当にまるでチョコレートのように甘いと言われ
るかもしれません。確かに物語だけを見ればそうかもしれない(映画の中の村
が非常にリアリティに乏しい設定であったのは象徴的)。でもこの作品にある
のが、善い人は必ず幸せになれるという身勝手な楽観主義でも、善い人が辛い
境遇に堪え続ける身勝手な悲観主義でもないことは確かです。自分の力で自分
のまわりの世界を劇的に変えてしまうことのできるパワーを持った人々。僕は
ハルストレムの描くこうした人物達にリアリティを感じ、だからこそいつも彼
らに元気づけられるのです。
01/04/29(日) 22:09

「ジョゼと虎と魚たち」

「それもまたよし・・・や・・・。」

別れても友達になれない相手との別れを経験して、皆大人になっていくのかな
ぁ?何かに惹きつけられて、恋に落ちてしまうことと、一緒に暮らしていくこと
は違うのかなぁ?怖気づく事だって、逃げ出したくなる事だって、そりゃ、ある
ある。
この世で一番エッチなことは「最初」にあるんだってこと、ジョゼはきっと知
っていたのでしょう。それから「1年後」のことも。でも小説通りになることも
小説通りにならないこともあるからこそ、面白いんだって事には一年後に初めて
気がついたのだと思います。これは僕の想像。電動車いすで颯爽と走る彼女の後
姿、椅子から元気にダイブする彼女。僕は少し微笑みながら「そうや、そうや。」
って頷いて、それから少し元気を貰ったのでした。

初めて台詞を口にした途端、映画の雰囲気をガラリと一変させてしまう力を持
った女優、やっぱり好きだなぁ、池脇千鶴。それから妻夫木君も相変わらず、肩
の力の抜けた爽やかな感じで。大阪の九州人っていうのも、なかなか面白い設定
でした。

「一緒に暮らしていくこと」っていうのは、二人で同じおかずと同じ白いご飯
を同じ卓の上で食べるってことだと思います。1年どころではなく20年も30
年もずっとずっと続く事、積み重なる時間、ゆっくり流れる時間。二人が小さな
ちゃぶ台で食事しているところを見ていると僕も美味しい魚と味噌汁で白いご飯
をバクバクとかき込みたくなりました。

食欲の出る映画。これって良い映画の条件かもしれません。
04/02/04(水) 13:10

「ジョン・ジョン・イン・ザ・スカイ」

花柄の布の翼に木の操縦席の飛行機は大空を飛んでジョンジョンたちをサンフ
ランスシコまで運ぶことは出来ませんでしたが、閉塞感と停滞感に雁字搦めに
され、生きていかなければいけなかった人々にある贈り物をしてくれました。
それはいつまでたってもどこへも行けないと思っていた人々が「別にどこかに
行かなくても自由に生きることができるんだ」と思える時間、理解しあえなか
ったもの同士がやさしく抱き合うことのできる時間でした。
ただの時間ではありません。ジョンジョン自身、そして父と祖父、判でついた
かのように威圧的な姿勢で息子に接する彼らの姿を見ると「ただの時間」が何
の解決にもならないということはハッキリしています。
あの飛行機はそれまで人々の重荷でしかなかった時間の「流れ」を変えてくれ
たようです。

少年時代はもっと淡々と抑えた演出にした方が見る側の懐かしさにも訴えてく
れたような気もしますが、決して後味の悪い映画ではありませんでした。
00/07/21(金) 20:48

「白い花びら」

なぜユハはすぐにマルヤを追いかけなかったのでしょうか?

妻を他所の男に奪われ逆上して取り戻しに行くのなら、それは衝動的な行動で
あるのが自然です。でも彼は季節が過ぎ去るのを待ってから彼女の許に向かい
ます。なぜだったのでしょう?

あまり納得のいく答えは見つからなかったのですが・・・

ユハにとっては結局マルヤの存在は娘に等しいものであったのでしょう。年頃
になった娘が家を飛び出すのを止めることが出来ないように彼には彼女の事を
いつまでも自分の傍に置いておくことは出来ないと思ったのかもしれません。
いやらしいほどに鋭い嗅覚を持った狡猾な男シェメイッカはすぐにそのことを
見抜きます。彼女が求めているものを瞬間的に嗅ぎ分けた彼はすかさず彼女に
言い寄ったのでした。
彼の嗅覚は多くの女性を駒のように使い男たちに侍らせてきた経験から来るも
のなのかもしれませんがそれだけではないと思います。シュメイッカはユハと
マルヤから自分に共通した関係「何かが欠けた男女の関係」を感じとったので
はないでしょうか。

妻より先にさっさと眠ってしまう夫、子供のような妻と暮らすことだけで満ち
足りてしまう夫と妻の関係には明らかに何かが欠けています。くる日もくる日
もキャベツを作り、それを売りに行く毎日。ユハにとっては二人の生活はキャ
ベツ畑からそのうちやってくる子供を漫然と待ちつづけるようなものだったの
かもしれません。あるいは彼はもう既にキャベツ畑でマルヤを手に入れて満ち
足りてしまったのかもしれません。

ユハが自分に親子の関係しか求めていないと気がついたマルヤは自分を一人の
女性として扱ってくれる男を求めシュメイッカと共に行くことを決心します。
しかし彼とても彼女を一人の女性として見ることはありませんでした。ユハと
は違う形で彼女を拘束し、自分の道具のように扱うシュメイッカに絶望した彼
女は「それでもユハしかいない。」と思い直し、帰ることを決意したのでした。

しかし彼女は身篭ります。恐らくはシュメイッカの子供を。キャベツ畑ではな
く自分のお腹の中に。彼女はユハでもなくシュメイッカでもなく、子供“だけ”
を選んだのでした。
だからこの映画で見られる「何かが欠けた男女の関係」は男たちだけのもので
はなく彼女の中にもあったのかもしれません。しかし彼女は強い。誰にも頼る
ことなく、まるでキャベツ畑で生まれたかのような子供を自分ひとりで育てる
決意をしたのだから。男たちが利己的な立場で「男女の関係」を放棄したのに
対して、彼女の場合は自ら便利な道具としての「男女の関係」を断ち切ったと
言えるでしょう

やっとマルヤを取り戻しに来たユハ。彼が求めたのが親子の関係だったのか、
夫婦の関係だったのか僕には最後まで分からなかったのですが。再び彼の前に
現れたマルヤはもう「別のもの」を選んでいました。
彼女を逃がし、決着をつけるためだけにシュメイッカに襲い掛かるユハ。シュ
メイッカにとどめをさし、倒れこむユハの傍らには朽ち果てたキャベツが転が
っていました。

正反対に見えるユハとシュメイッカが実はそれぞれの方法で同じようにマルヤ
に接していた、彼らはそれぞれのやり方で「男女の関係の不在」を象徴してい
たのでした。
00/08/30(水) 15:00

「白い風船」

大昔、あの子と同じ年の頃、友達についてって、それまで全然行ったこともな
いほど遠くへ遊びに行って、そこから一人で帰らないといけなくなった時、ほ
んとにすごい大冒険をしたような気持ちになって家まで帰ってきた記憶があり
ます。多分大した距離ではなかったんだろうと思って、この前行ってみたら、
結構遠かった。やっぱり大冒険だったんだと思いました。

大人たちにとっては些細なことでもあの子にとっては大問題、この世の終わり
みたいに泣き出す表情がかわいらしかった。
でも大人たちの面倒ごとには一切お構いなし。彼女の頭の中は丸々太ったかわ
いい金魚のことでいっぱいだから。

大人の問題と子供の問題、二つが全くリンクしない世の中は平和な世の中なの
かなぁ。

ほんとにあんなラジオ放送あるのかどうか知らないけど、間に合ってよかった。

「赤頭巾チャン気をつけて」(庄司薫著)に出てくる女の子を思い出しました。
とすると、あの兵隊さんは薫君かな。
4/10 2:07


「白い船」

男の子には算数や国語だけでなく「白い船」も必要な時が必ずあるのです。

遠い海の向こうに浮かぶ大きな船。色とりどりの大量旗を掲げて子供たちを出
迎える沢山の船。そして海のように澄み切った目をした優しい人たち。全てが
少年にとって、少年が大人になるためになくてはならない「白い船」だったの
でした。

頭が良くて、他の仲間よりも少し遠くを見ることができる小動物のような顔を
した中村麻美。目に力があってとても良かったです。
でもラストシーン。無理に遠くを見ることをやめ、双眼鏡から目を離して海を
見つめる彼女の優しい眼差しと、その笑顔が実は一番印象に残っていたりもし
ます。
02/08/29(木) 21:09

「親愛なる日記」

最近、自分の日記を公開する人が増えていると聞きますが、僕はまだ見た事が
ありません。でも日記を書くという行為はそれを公開するにしても、しないに
してもどんどん内側にこもっていくというより、むしろ外界との関わりを意識
したものであるような気がします。本当に内側にこもるだけなら、それを書き
留めることもしないのでは・・・。

この日記にもナンニ・モレッティというサングラスを取るととても優しい目を
した映画監督の一見矛盾しているとも見える色々な想いが込められています。

「人間を信じていないわけではないんだ。多数派を信じられないだけだ。」

気ままに一人でバイクを走らせながら、彼は街を行く人々に話し掛けます。本
当は日記に話し掛けているだけなのかもしれませんが。ベンツに乗った男も、
いけ好かない映画評論家も、ジェニファー・ビールスも、からかったり、説教
したり、悪態をついて見せたりしますが、一人一人はやっぱり嫌いではないの
です。

どんな人の、何も起こらない一日でもちゃーんと映画になる。モレッティの映
画への拘りを感じます。彼は決して楽観主義者ではありませんが、それでもや
っぱり人間が好きで、映画が好きでしょうがない人なのだと僕は感じました。

医者は信用できないと言いながら、それでも一杯の水の美味しさに、この上な
い喜びを感じてしまう。感じることが出来る。

彼や彼の愛する人はそういう人なのです。
97/08/15(金) 01:31

「シングル・ガール」

お目当ては勿論「カップルズ」のヴィルジニー・ルドワイヤン。今回も彼女は
知らず知らずのうちにトラブルに巻き込まれていく女の子を演じていました。

リアルタイムで彼女の日常を追う構成なんですが、僕は朝を舞台にしていると
ころがとても面白いと思いました。朝は何だか皆が義務感に駆られてシャキッ
としていなければいけない時間だからです。
鼻筋が通って、意志が強そうな目つきをした、めったに笑わないヴァレリーと
いう女性は、確かにシングルガールとして生きていく強さを十分に秘めている
のですが、どこか危なっかしい。彼女はとにかくよく歩くのですが、その歩き
方も何となくぎこちなく感じられてしまうのです。
自分を奮い立たせるために、彼女は意識的に笑います。彼女が笑顔を強制され
る仕事に就いているのも印象的だし、その仕事についていることでありとあら
ゆるトラブルに巻き込まれてしまうというのも象徴的です。たった数時間の彼
女の日常で見事に彼女の人生を凝縮させていました。

ラストでの母親とのやりとり。

同じ様な人生を歩いてきた母親は言います。
「後悔しているとハッキリ言える。」

二人はそれぞれに女性としての強さを持っています。母親の言葉にはそれなり
の重さと強さがあると僕には感じられるのです。
娘は自分の選んだ道を後悔しない。強い女性として母親として生きる決意を固
めています。でもやっぱり母親になった彼女にもどうしてもぎこちなさや危う
さのようなものが漂っていました。
「自分の弱さを認める強さ」というのもあると思うのです。

P.S.
恋人役のブノワ・マジメルという役者さんはとても上手で気に入りました。フ
ランスにはこういう若手の男優がたくさんいるんだなあと感心してしまいまし
た。例えば「夜の子供たち」に出ていた無口な彼とか・・・・。
と書いてから、調べてみたら同じ役者さんでした。道理で。

ブノワ・マジメル。チョット注目です。
97/11/29(土) 01:18

「人生は、時々晴れ」

胃袋にズシンと来る映画でした。

登場するのは皆貧しくて、要領が良くなくて、毎日毎日少しずつ人生での“損”
を溜め込んでいくような人々たちです。「秘密と嘘」にもこういう人たちが沢
山いました。スクリーンを通して接していてもイライラしてしまう感じ。
でもどこかから少しずつ変わるのです。彼らが人生で損をするタイプである事
に変わりはないのに、そんな彼らのことを愛しいと感じてしまえるように僕は
変わりました。
登場人物たちは“それなりの”救いを見出してホンの少しの希望を手に入れる。
僕はそんな彼らのことを愛しいと感じる事が出来る。それで良い。映画の終り
としても映画鑑賞の終わりとしても、それで良いはずなのですが・・・。

映画の中の彼等は前に進んだのか、後退したのか?
映画を見ていた僕は前に進んだのか、後退したのか?

昨日の次は今日、今日の次は明日。結局後戻りなんてないのだとすれば、そん
な疑問自体がナンセンスなのかもしれませんが、でも「スクリーンの中の人々
が傍らに寄り添ってくる温かさ」とは微妙に違うモヤモヤが残っていた事だけ
は確かです。食欲がなくなりました、実際。

多分、彼等は変わっていない。変わらない。たった一日だけ早起きをして空港
に行く客を乗せたタクシー運転手は一週間もすればまた子供達から小銭を集め
るのだろうし、飲んだくれ夫婦は相変わらず飲んだくれるし、胸に傷をつけた
内気な彼の気持ちは決して彼女の思いを溶かす事はないだろうし・・・。違う
のは“疎外感”を感じていた彼ら一人一人の関係性。自分が一人ぼっちではな
いと思えること。そこに救いがある。

でも僕はモヤモヤしてしまうのです。モヤモヤの原因は「“誰かと共に生きる
こと”の強さと弱さ」「“一人で生きること”の強さと弱さ」に、順列を付け
られないことにあるのかなぁ。

映画の中で最もしっかりしていて、最も強い人物と言えるシングルマザーのモ
ーリーン。彼女の持つ強さが、夫に頼らないで「一人で生きること」によるも
のなのか、娘と共に「二人で生きること」によるものなのか・・・(多分両方)。
そしてその母親と同じ道を歩もうとする娘はどんな女性になるのか。4人家族
の自分以外が“それなりの”希望を見出す中、一人だけ自分の思いを吐き出す
ことが出来ないレイチェルは何に救いを求めるのか。
そんな「その後の彼ら」にこそ答えがあるのかもしれません。
03/07/17(木)

「人狼」

じっくり作られたこの映画の世界は、映画の中で完全に完結し、僕にとっては
自分との接点を見つけることが非常に難しかったです。
「赤ずきん」の寓話を効果的に挿入し、緻密に構築された世界観とストーリー
を最後まで計算通りに見せることには成功していたものの、登場人物達が作り
手や観客の思惑を超えて自らの人格を主張する「嬉しい誤算」は残念ながら味
わうことが出来ませんでした。
特に、地下排水溝の中で女テロリストが布施に向かって叫んだ台詞などは、あ
まりにも薄っぺらく、とても一人の女性の複雑な心情を言い尽くしているとは
思えませんでした。

どんなにドラマチックなストーリーであっても登場人物達がストーリーに奉仕
する"駒"の域を脱することの出来ない映画には僕はあまり魅力を感じることが
出来ません。
00/06/16(金) 19:04

「スイミング・プール」

細い糸で唇の端の方だけをクィッと引っ張られたような、あの表情。いかにも
神経質そうなシャーロット・ランプリングの顔が一番印象に残っています。す
っかり大人といってもよい肢体を惜しげもなく披露してくれたリュディヴィー
ヌ・セニエの顔が殆ど思い浮かばないのとはあまりにも対照的です。
「8人の女たち」のイメージが残っているからなのか、映画の中では「火花を
散らす女同士の戦い」に目が行きがちで、果たして本当に“したたか”なのは
どちらなのだろう?という観点で見ていました。結局、ラストシーンを見るま
で結論が出なかったのですが・・・。

どちらが勝っているかなどという問い自体が無意味だったのです。

奔放でしたたかな若い娘は、作家の掌の上でのみ、存在感を際立たせる事が出
来る。どんなに平凡で退屈な人間でも彼女の手にかかれば見事なヒロインに変
身することができる。

全ての対象物は作品の為にある。啓示を受けて作品を産み出す。自らを神に置
き換えても何の躊躇いもない。傲慢な征服欲と収集欲の権化。

たとえそれが冷たい編集長への“当てつけ”の為だけに書かれたものであった
としても、そこには創作者としての意地とプライドと、何よりも洗練されたド
ラマがありました。その動機は決して作品自体を矮小化するものではありませ
ん。

フランソワ・オゾンはこの映画を作るに当たって「現実」と「虚構」の関係を
十分に意識していたのでしょう。どちらかがどちらかのミニチュア版というこ
とでなく、追いついたり追い越されたり、どちらが大きいのか分からなくなっ
たり。

極々私的な理由で作られた作品が、もしもそれ以上の意味を持ち得なかったと
したら、ひょっとしたらそれは「作品」ではなくなってしまうかもしれません。
それを許さないのは「自分は人間である前に絶対的な神である。」と言わんば
かりの創作者としての意地とプライドからなのではないでしょうか。

「一人の人間のちっぽけな思いや気づき」と「そこから産まれた作品としての
ドラマ」。どちらもが同じ輝きを持ってこそ、創作者は創作者たり得るのでしょ
う。

アルノー・デプレシャンのことなど、思い浮かべてしまいました。
04/07/15(木) 22:01


「SWEET SIXTEEN」

負け続ける人生というのはとても辛いもので、人にはやはり勝つことも大事だ
とは思うのです。でももっと大事なのは本当の戦いに立ち向かう事なのかもし
れません。

見知らぬ場所で途方に暮れて一人彷徨うリアム。

彼は貧困や暴力やドラッグやそういうものに敗れたのではないと僕は見ました。
それだけでなく、彼は何にも“まだ”負けてはいません。彼はやっと見つけた
のです。自分が本当に戦わなければいけないものは何なのかということを。ど
んなに誰かの事を大切に思っても、どんなに深い愛情を注いでも、それが受け
容れてもらえない事もあるのだという事。僕たちはそうやって戦っていくんだ
という事。

ケン・ローチは「ケス」のビリーと同じ15歳の少年を再び主人公に選びまし
た。リアムは見るからに弱々しくどちらかと言うといじめられっ子タイプだっ
たビリーとは対照的です。ビリーが閉塞感に押し潰されそうな不安をハヤブサ
との交流の中で忘れようとした(?)のに対してリアムにはひょっとするとそ
ういう閉塞感を突き破ることが出来るのではないかというしたたかさ(と同時
に危うさ)を感じる事が出来ます。(「ケス」ではビリーのダメサッカー少年
ぶりが、かなり可笑しくて、またそれが元でいじめられたりもしていましたが、
リアム役の彼は元々プロサッカー選手ということで、映画の中でもそのボール
さばきは見事でした。)
でもやはり「厳しい現実」を前にした二人の少年は同じスタートラインに立つ
ことになります。見た目は対照的な二人ですがやはり同じ弱さと同じ強さを持
った兄弟のような間柄なのでしょう。
そう言えば昨年話題になった村上春樹の「海辺のカフカ」の主人公も15歳の
少年でした。彼の苦悩も恐らくは二人と同じ所にあるのでしょうが、彼の場合
は随分前からその辛い戦いを自分に強いていたように見えます。

「本当に残念だわ。」

「本当に厳しい現実」を知っている彼女の思いを伝える術が電話しかないのは
象徴的ですが、それでも傍に寄り添う事は出来なくても、彼のことを思ってく
れる人がいるのだという、小さな希望、でも本当の希望がそこにはある。
人生はbitterな事ばかりですが、それを越えたところにしか本当の希望
はないのだとケン・ローチはいつも言っています。

「誰も敗者とならぬ戦い」を皆が戦っているのです。
03/01/05(日) 10:37


「スウィンガーズ」

とにかくよく喋る。冒頭のヨタ話から既にタランティーノ風。違うのはこの映
画は最後までそのペースで進むというところです。何度も声を上げて大笑いし
ましたが、一番笑えたのは「レザボア・ドッグス」のパクリシーンでしょうか。
その前のシーンで映画のポスターをさり気なく見せておいて、いきなりのあの
スローモーションにはやられました。
タランティーノ作品の魅力が「喋り」と「暴力」だとしたら、その前者だけを
徹底的に追求し、後者を徹底的に排除したのがこの作品ということになるでし
ょうか。「スウィンガーズ」と呼ばれる男達にとって「カッコいい事」はそう
いう事なのでしょう。

スーが拳銃を持ち出したことを仲間たちが咎めるシーンではそういう拘りを感
じました。

主人公のマイクはコメディアンということもあり、いつもクヨクヨしている性
格が何となくW.アレンを連想させるのですが、彼の場合にはいつも楽しい仲
間たちが側にいます。
アレンが恋人とのことで悩む時、彼は友達にそのことを相談するよりも、自分
に語りかける、もしくは観客に直接話しかけていました。マイクにはおせっか
いな友達がいて彼等がどうにも頼りないマイクのことを慰めたり、叱咤したり
してくれています。反面、マイクは彼等の影響で常に自分の幸せと他人の幸せ
を比較してしまったりもするのですが。
マイクに限らず「スウィンガーズ」たちにとっては「カッコ良い事」の必要条
件がいくつかあって、それを一つ一つクリアーしていくことこそが当面の目標
だったりするようです。この点でも明らかにアレンとは違うでしょう。

明るい余韻を残す、なかなか楽しいラストシーン。「暴力」に変わって全編を
通して描かれていたテーマが清々しい。どんなにお気楽と言われても。

「ま、失恋と友情の物語だけど、ね。」

という感じです。

P.S.
テレビゲームに興じる主人公たちの部屋を訪れる配達員はスパイク・リーに似
ていた。
97/10/10(金) 00:37

「ストレイト・ストーリー」

久し振りに飲んだビール。よく冷えた“ミラー・ライト”。

もう少しで再会することの出来る兄に、一体何を話せばいいのだろう?長い旅
を経て彼の分身となった66年型のトラクターがそんな心情を代弁してくれま
した。

自らの肉体の衰えと、たった一人の兄の病の知らせ。「時間との戦い」を迫ら
れたアルヴィンは、それでもゆっくりと時間をかけて自分の力で進もうと決意
します。兄と一緒に星空を見るために。ただそれだけのために。

「年をとって最悪なのは若い頃のことを憶えていることだ。」

時間が全てを解決してくれるとは思いません。長い長い人生の中で決して忘れ
ることの出来ない辛い思い出も後悔もあるから。もし、ただ時間が解決してく
れるというのならば、恐らくアルヴィンは十分すぎるほど時間を費やしている
だろうに。
でも、忘れるためにではなく、自分と向かい合うために、誰かと向かい合うた
めに必要なのもやはり時間だったのでした。それもゆっくりと流れる時間が。

ただ時間を費やすこととゆっくりと流れる時間の中に身を置くことは違います。
そこでは様々な人々との出会いがある。飛行機や車ではなく、ゆっくりと走る
トラクターからは様々な人々の人生が見えてきます。

夜になると彼はたき火をしてコーヒーを飲みながら夜空を見上げます。リンチ
の映画には先の見えないほどの濃くて深い闇が度々登場します。リンチだけの、
誰にも真似出来ない底知れない闇の中で出会った人々は真実を語ります。それ
まで決して誰にも語ることのなかった真実を。リンチの闇とはそういうものだ
と思います。

「お前、あのトラクターに乗ってきたのか?」「ああ、そうだよ。」

森の中の一軒家。漆黒の闇の中に浮かぶ満天の星。
あの後の二人の間には語るべき真実すら必要がなかったのでしょう。



どんな人と出会っても決して大袈裟に別れを言わないアルヴィンに代表される
ように、どこまでも抑制の効いた演出が心地よかった。決して台詞で説明しよ
うとしないからこそ、ひとつひとつの台詞が生きていました。

「癒し系の音楽」と言っても、狙ってやると案外鼻につくものなのですが、バ
ダラメンティの音楽こそ、まさに癒し系と言ってよいのではないでしょうか。
最高にこの映画にフィットしていました。
リンチの旧作とバダラメンティの音楽を無性に再体験したくなりました。
00/03/30(木) 21:24

「スケッチ・オブ・Peking」

得意の公開終了前の滑り込みセーフ、もう前売券は皺になってた。

この作品に興味を持ったのは、知り合いが今北京に住んでるからなんだけど、
彼女はこんな事を言ってた。
「中国は良くも悪くもまだ昔からの情によって動いている社会だ」と。

この映画を見て、僕も同じような事を思った。昔ながらの風景からカメラを引
くと聳え立つ高層ビル。急激な成長の中でそれでも昔からの暮らしを続けてい
る人々が見え隠れする。主人公の警官が立派な制服を脱ぐとその下は安っぽい
トレーナー。中国は情が支配する昔からの暮らしの上に大急ぎで欧米流の社会
制度という制服を身につけようとしているのだろうか。その様が滑稽でもあり、
また、淡々としているがゆえに逆にリアルで、少し恐いような気もした。

ほとんど素人の俳優陣が、奇跡的ともいえる名演技を披露したのはひとえに監
督の手腕だろう。多くを語らない彼らの演技にこれもまた独特の味わいがあっ
た。テレビのインタビューなどでもそうなのだが、中国の人々は饒舌に色々な
事を語っていても、まだ何か大きな物が胸の中でくすぶっているようなそうい
う雰囲気というか迫力みたいなものを感じる。この映画ではそういう物をちら
りちらりと感じた。例えば子供の自動車遊びの中で、戦車が町中を走っていた
りするところなど。

「スケッチ」と言うからには、のっぺりとしたドキュメンタリー風映画かと思
っていたのだが、どうしてどうして、無声映画風の警察官と犬の追いかけっこ
シーン、ユーモアあふれる独特の演出、ラストに向けてのストーリーの盛り上
げ方など一級の娯楽作品だった。この監督憶えておくことにしよう。
6/11 2:05


「スコア」

老境にさしかかった伝説的な泥棒と、血気盛んで売り出そうと躍起になってい
る若者とのコンビという設定は映画の世界では一つの典型なのでしょう。そし
て僕が知る限り、それは大抵が面白い。ジャン・ギャバンとアラン・ドロンの
「地下室のメロディ」とか、好きです。

年齢を重ねるということは、体力が衰えるとか、気力がなくなって臆病になる
ということだけでなく、生き方や考え方、その人にとっての「大切なもの」が
次第に形を変えていくということに他なりません。
ニックには裏稼業の他にジャズクラブオーナーとしての表の顔がきちんとあり
ます。自分の素性を隠すためということもあるのでしょうが、そこにはむしろ
彼自身の成熟のようなものが見てとれます。
派手ではないが実力派のミュージシャン達を集めたシックな店、質素だけどこ
だわりが感じられる家。オーナーとして部下からは信頼され、年の離れた恋人
とは嘘偽りのない関係で結ばれている。
結婚を決意した彼女に嘘をつくことなく「これが最後の仕事だ。」と正直に告
白する彼からは彼女との関係において自らに課した決意のようなものが見えて
きます。
そして、裏稼業のパートナーであるマックスとの間にもそうした信頼関係がき
ちんと出来上がっている。

才能に溢れ、この世に怖いものなどないジャックはそんなものを必要としませ
ん。彼は溢れる才能だけを頼りに計画を次々とこなしていきます。そして最後
の裏切り。ピークを過ぎた金庫破りを出し抜くことなど、彼にとってはた易い
ことだった筈なのに。

ある時、ニックはジャックに言います。

「お前には才能がある。しかし危ない賭けなどしていては、必ず痛い目に遭う。
オレは決して危ない賭けなどしたことはない。」

実際は彼も若い頃、ジャックと同じように血気盛んで危ない橋を何度も渡った
のでしょう。そして、なんとか生き延び、逃げ延びながら、才能以外のものの
大切さを身にしみて感じていったのではないでしょうか。ジャックに若いころ
の自分を見た。だからこそあの台詞があり、最後の逆転劇があったのだと思い
ます。

ブラウン管に映し出される自分の手配写真と第二の男のシルエットを見比べな
がら、ジャックは「才能以外の大切なもの」に少しだけ近づいたのでしょうか?
01/10/08(月) 10:21


「スナッチ」

前作の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」は過剰なスピ
ード感と癖のあるキャラクターが立ち過ぎて、僕にとっては「面白いんだけ
ど・・・」という映画になってしまいました。
そういうものを期待して劇場にやって来た観客に期待以上のものを提供しなが
ら「やり過ぎ」と言われてしまっては可哀想な気もしますが物事には限度って
もんがあります(^^;)。

さて、本作はというと、一言で言って「やり過ぎ」。前作の経験からある程度
予想はついていたのですが、今度もまたそのさらに上を行く過剰な演出・編集
でした。

登場人物たちはどこかがポッカリ抜け落ちてどこかの部分だけが極端にとんが
ったキャラクターばかり。この映画自体、どこかがポッカリ抜け落ちて、どこ
かの方向だけにとんがった映画だといえるかもしれません。

こうなったらどこまでもこの方向でとんがり続けて欲しいものです。とりあえ
ず次作も見に行くことにします。

「ロック、ストック・・・」より、この映画が勝っていると思える点が2つ

一つは決して出番が多くはないのに流石の存在感で美味しい所を持って行った
ブラピ。彼自身かなり楽しんでいるご様子。それにしてもどれがブラピらしい
ブラピなのか益々分からなくなって来ました(^^;)。

サントラも◎。これは買いです。
01/04/04(水) 22:09


「スパイ・ゲーム」

去年見た「スコア」もそうでしたが、やはりこのパターンには面白い作品が多
いです。映画自体とともに男優二人の立場のようなものも相まって、その相乗効
果が効いています。
互いに力を認め合う二人の男は決して打ち解けあったりしない。反発・反目し
ながら、それでも強烈に惹かれあうものなのでしょう。命がけの作戦にあたるビ
ショップに対して、常に糸を引くだけの黒幕的な存在であるミュラー。在り来た
りの映画なら、その二人の好対照だけが描かれるのですが、この映画のすごい所
は「過去の回想」と「リアルタイムの緊迫したやりとり」という2つのパートそ
れぞれで実は彼等は二人とも常に「負けることの許されないゲーム」を戦ってい
たのだということを強烈に主張している所です。
だとすると、これは男優二人の関係にも繋がるのかもしれません。青臭さやが
むしゃらさを前面に押し出して、まさに脂の乗り切っているブラッド・ピットに
対して、ロバート・レッドフォードは「俺も昔はそうだった。」という役割。表
面的にはそうなのかもしれませんが、実はレッドフォードも「まだ映画に対する
熱い冒険心を失ってないんだよ。」と主張したかったのかもしれません。
02/01/31(木) 23:44

「スパイシー・ラブ・スープ」

「恋人たちの食卓」ほど豊かでもなく、
「Jam」のように巧妙でもなく、
「恋する惑星」のようにスタイリッシュでもなく、
「エドワード・ヤンの恋愛時代」のように研ぎ澄まされているわけでもなく、

でも好きになれる映画です。

恋愛とか男女の有り様とかの本質がきちんと描かれていて、そういうことを誰
にでも思い浮かべられるように、やさしく表現しているから。

録音マニアの少年の話がいちばん好きかもしれません。男は恋をしたらみんな
ストーカーみたいになるもんです(と、僕は思う)、彼みたいに。
あんな風にちょっと上手く行きかけるほど現実は甘々ではありません。でも彼
が、一生懸命彼女を追いかけまわしていた自分のことを「良い奴じゃん、俺っ
て。」って思えたんだってことがスクリーンからきちんと伝わってきたし、そ
れってやっぱり恋愛や男女の有り様の本質だと思うのです。
映画監督という職業を選んだ人の気持ちも何となく込められているような気が
します。

伴侶募集のおばあちゃんの話は「そんなのありかいな?」というような結末で
したが(書道の先生の登場は不要じゃないの?)、後半の夫婦2組と最後の若
いカップルはタイトル通りピリ辛の仕上がりになっていました。

人が恋をするのは本当に数え切れないほどの偶然の積み重ねだけど、多分それ
を持続させる平凡な日常も同じくらいたくさんの偶然に支えられているのでし
ょう。

そういう全部の偶然と・・・

それから、ほんのちょっとの偶然で上手く行かなかった星の数ほどの恋と・・・

そんなことをふと思い出したくなるような映画でした。
99/11/14(日) 23:16

「スパニッシュ・プリズナー」

やや退屈かという感じもする前半部分ですが、それでも雰囲気があって、これ
から起こる逆転劇を予感させるに十分であったと思います。銃撃もカーアクシ
ョンもありませんが、緊張感が漂っていました。

事件が起きてからは怒涛の展開でエンディングへ向かうという手法もクライム・
サスペンスの王道ですが、しかし秘書の女性と行動を共にしてからのストーリ
ーにはどうも釈然としないものを感じました。
特にラストの特別捜査官の登場は、本来ならこれからが見せ場という所で映画
を放棄して「えーーいっ、これで終わらせちまえっ。」という感じでやっつけ
たという印象を持ってしまいました。

映画のなかで時折挿入される日本人描写のステレオタイプは、もう半ばあきら
めて見るしかないのですが、虚栄心につけこむ「スパニッシュ・プリズナー」
に引っかけられる主人公が、勤勉で、正直で、気が弱くて、お人好しで、そし
て何よりも虚栄心のある最も日本人的な役柄を演じているというのは・・・・、
ちょっと複雑な気分です。
それにしても、自分では決して時計の針を進める事が出来ず、知らず知らずの
うちに事件に巻き込まれてしまう主人公は本当に(外国人が見た所の)日本人
そのもののキャラクターでした。
99/05/10(月) 23:32

「スペース・カウボーイ」

40年前に宇宙に行くことを諦めなければ行けなかった男たち。彼らはそれぞ
れに悔いを抱いてその後の人生を送ったのでしょう。

彼らが若く向こう見ずな若者であったなら、衛星を墜落させないことだけが唯
一最大の目的であり、その目的のために殉ずることこそが彼らにとっての美学
となったかもしれません。しかし、彼らはそうした美学に殉ずるにはあまりに
長い人生を生き、沢山の悔いを背負いつづけてきた。

だから彼らはスペースシャトルを無事に着陸させること、機と共に無事に帰還
することにあれほど執着したのでしょう。
40年前に自らの無鉄砲な行動で飛行機を失ってしまったホーク。彼こそが最
も「機を無事に帰還させる」ことにこだわり続けた人であったはず。本来なら
その役目は彼に担わせてあげたかったところですが、そこはやはりイーストウ
ッドらしいところで、彼には老カウボーイの哀愁ではなく、正統派のヒロイズ
ムを任せたようです。

沢山の悔いと共に、自分より先に逝ってしまった人々の願いも背負い続ける老
カウボーイたち。イーストウッドはあとどれくらいこうした映画を作りつづけ、
自らの願いを誰かに託そうとするのでしょうか?
00/11/26(日) 16:31

「スリーパーズ」

「明かりを消して眠れるか?」

復讐の計画を打ち明けたマイケルが躊躇するシェイクスに尋ねます。たった一
言で、復讐劇に説得力を持たせる良い台詞でした。

「スリーパーズ」と言われる彼等は、しかし眠る事さえ出来ない深い傷を負っ
ていたのです。

結構辛いシーンも多いのですが、映画が終わった後、大して残るものがなかっ
たのは、失敗作とも、狙い通りともいえるでしょう。この映画はハリウッド本
流の娯楽映画です。 題材にしても、キャスティングにしても、監督にしても、
もっと違う後味を残す事が出来たと思うのですが、少し残念でもあります。

不満なシーンは・・・。

計画を打ち明けた手紙を読んだキングベニーの表情です。ニヤニヤ笑うんです
よね、なぜか。あの笑顔はどうしても分かりません。ノークス殺害の動機や少
年院でのいきさつを彼が十分に知らなかったとはいえ、笑って参加できる痛快
な逆転劇ではないと思います。その後、彼が要所要所に出て来て「汚い仕事は
俺にまかせろ!」なんて渋い台詞を吐くのですから、ますますギャップを感じ
ます。

それからラストの4人の再会シーン。これもいかにもハリウッド流で賛否両論
あるかと思います。ああいう甘々のシーンも嫌いではないのですが・・・。

法廷で無罪を勝ち取るジョンとトミー。落胆の表情を浮かべるマイケル。やが
てマイケルと被告席の二人は視線を合わせる。ただ見詰め合う。傍聴席にいた
シェイクスだけがその視線の意味を知っている。

という感じで4人の関係に決着をつけて欲しかった。

映画のなかで、マイケルと被告席の二人が視線を合わす事があまりなかったの
は、そういうラストを用意しているからだと思ったのですが。

とは言え、ディテールにこだわった脚本、豪華キャスティングなど見るべき所
が多い作品であった事は間違いありません。鑑賞前に期待していた事は全く裏
切られなかったので、非常に満足しています。
97/04/22(火) 21:33

「スワロウテイル」

映画を見る前に「YEN TOWN BAND」のCDを3千回聞こうと妙に
意気込んでいたのですが、アルバムの発売は思ったより遅く、結局当日の朝
買いました。

ところが、店頭では既に売りきれ、やっとのことでCharaのコーナーに
並んでいた最後の一枚を購入しました。

本編を見てビックリしました。自分がその朝体験した光景がスクリーンに現
れたのですから。「YEN TOWN BAND」のCDは映画でも即日完売
でした。僕は岩井俊二や小林武史やCharaの仕掛けた罠に、まんまとは
まってしまったのです。

本編でのライブシーンは文句無しのカッコ良さでしたが、公開前のインタビ
ューで岩井監督はこんな事を言ってました。
「ライブシーンがある程度カッコよくなる事は分かっていた。」
そう、この映画も、この映画から派生したメディアも現象も全て彼には計算
づくだったのです。そして、恐らく彼の計算どおり映画自体もヒットするの
でしょう。映画という枠のみにとどまらず、彼の非凡さを感じました。

作品自体も彼の計算により構築されたコミック仕立ての架空都市「イェンタ
ウン」がその舞台です。こういう架空の街を舞台にする場合、現実的な設定
をどんどん肉付けして説得力を持たせる手法が常道なのですが、彼のやり方
は違っていました。時事的な要素は多少織り込まれていたとしても、どこま
でもコミック風の架空都市を映像とストーリーだけで表現し、存在感を持た
せることに成功しています。

一人一人のキャラクターも魅力的です。山口智子なんか、もう完全にコミッ
クのノリだし、Charaと三上の関係には他の岩井作品の男女関係に似た
物を感じました。そして、伊藤歩がかわいい。彼女も酒井美紀や奥菜恵みた
いに人気が出るのでしょう。願わくばCharaと江口洋介の絡みが欲しか
った。それを敢えて描かなかった拘りも分かるのですが。

オーディションのシーンでの"スーパーバイザー"の言葉が印象的です。
「国籍や祖国がもはや自分と他人を隔てるアイデンティティになり得ない。
通貨も言語ももはや独自のアイデンティティを持っていない。イェンタウン
の2世達は円を求めるためだけに生きているわけではない筈だ。」
他者から自分たちを守り、仲間として生きて行けるような共同体も、それを
支える価値観ももはや存在しません。これは近未来の出来事ではなくて、現
在の命題です。

結局、一人一人の個が、どれだけそれぞれの価値観を見出し生きて行けるか、
ということになります。

この物語の中で本当に「My Way」を歩いていたのは誰だろう。

アゲハは、母の死により円を求めてのみ生き続けるイェンタウンの生き方か
ら開放されます。友達と戯れ、ときに屈託なく笑う彼女は、次第に「My
Way」を歩きはじめます。
グリコには娼婦として生き、仲間たちと歌う時にこそ「My Way」が相応
しい。いったんはショービジネスに巻き込まれ、他人の道を歩かされますが、
フェイフォンの死により、また、自分の道を歩きはじめます。
ラン達テロリストや、マフィアのリョウ達はどうでしょうか。自分たちの思
うままに生きているように見える彼らも、結局は組織のために歩かされてい
るのではないでしょうか。
「My Way」が最も似合うのはやはりフェイフォンでしょう。何しろこれ
を歌いながら死んだのですから。どんなに無軌道な行動をとっても彼は結局
のところ自分の愛すべき人たちのために生きることを止めません。どんな時
代になってもこの生き方だけは恐らく永遠でしょう。

やはり、岩井映画(ぼくの好きな岩井映画)に共通なテーマを感じることが出
来ました(勝手に)。
96/09/17(火) 21:49

世界最速のインディアン


「心は18歳だ!」

でも僕にはもっと幼い男の子のようにも見えました。

成功すること、それも充実した人生を自分のものにするというミッションを
成功させるためには、常に前向きであること、楽観的であることはとても大
事な要素です。
永遠の青春を生きる老ライダーはとてもカッコよくて、そして可愛い。18
の若者が自分の夢を貫き通そうとするなら、世間は時に彼にとって冷たく、
またそれこそが彼の反発力を引き出すことにもなるでしょう。でも18歳の
スピリットを持った老ライダー、自分の夢にどこまでも直向でまるで子供の
ような彼には皆がひかれて手を差し伸べてしまいます。同情ではないんだよ
なぁ。なんだろう?あのモテモテぶりも納得してしまいます。(^.^)

そもそもがただ真っ直ぐに走ってスピードだけを競う、競うのではなくて追
求するという行為自体が、あまりにも滑稽で、ある意味愚かで、でも純粋な
彼の人生そのものを象徴していました。これは絶対に「男の子」でないと無
理。「五分間で一生を越える充実を味わうことが出来る。」胸を張ってそう
キッパリ言い切る彼を前にしたら、僕たちは目の前で戦っているボクサーを
讃えることしか出来ないじゃないか!

どんな役を演じても男性の色気、可愛げ、愚かさ、哀愁、哲学をキチンと表
現することができる名優ホプキンス。彼のキャスティングなしには成立しな
い映画でした。

2007年02月11日22:30

「世界中がアイ・ラブ・ユー」

いろいろとうまく行かなかったり、辛いこともあるけれど、やっぱり僕たちは
誰かに「アイ・ラヴ・ユー」って言う為に生きているんだと思うのです。決し
てそう言ってもらう為だけじゃなく、そう言わなければいけない関係を築く為
でもなく。

撮影現場の楽しい雰囲気がそのまま伝わってくるような作品。病院のシーンな
んて本当にそういう感じでした。

ティム・ロスやジュリア・ロバーツ、そしてウッディ・アレンの歌声は飛び切
り上手いというわけではないけれど、俳優ならではの味があってとてもよかっ
たです。

ウッディ・アレンは完全に吹っ切れて、一つの境地に達したのではないでしょ
うか。別れた夫婦があんなふうにお互いを理解し合い、いたわり合えるなんて。
出来すぎのファンタジーかもしれませんが、いつかきっと現実がこの映画に追
いつくはずです。
97/11/17(月) 23:55

「世界の涯てに」

自分の命があとわずかだと言われた時、自分の大好きな人に見守られて死にた
いと思うのか、それとも自分の大好きな人と僅かの間、一緒に生きたいと思う
のか、両者は同一であるように見えて、微妙に違います。ケリーはこの二つの
間で揺れ動きます。
彼女は、どんな時でも、いつまでも一緒に歩いてくれる男性を選びました。

この映画のなかで、良かったのは二つ。

まず、「世界の涯て」と呼ぶにふさわしいスコットランド、セント・キルダ島
のむき出しの自然。あらゆるイマジネーションをかきたてられる迫力のある光
景でした。

もう一つは何と言ってもケリー・チャン!!かわいい!!

僕は彼女がはじめの方で路上の子供に話しかける時の声が大好きです。歌手ら
しく音域の広い魅力的な声の持ち主と感じました。勿論、マスクもスタイルも
見事です。確かに、部屋にこれ見よがしに貼られたポスターの通り、ショート
パンツ姿でスクーターに乗り込む姿は「香港のヘップバーン」という所でしょ
うか。(ちょっと違う気もするけど)まあ、とにかくカワイイ。

典型的甘々ラブストーリーに仕上がっており、これはこれでいいのですが、こ
の素材とこのテーマを使えばもっと深みのある作品になっていてもよかったよ
うな気がします。
97/07/27(日) 01:06

「セブン・イヤーズ・イン・チベット」

粗野なようで繊細。人を寄せ付けないようで実は寂しがり屋。冷めているよう
で実は熱い。そんなブラッド・ピットの魅力が良く出ていました。彼の起用は
当たっていたと思います。

脚本の方はというと、前半部分、エピソードの一つ一つがぶつ切れの感があり、
次々と起こる事件が唐突だという印象を受けました。ドキュメンタリーの要素
が強い前半部分では、それもある程度仕方のないことなのかもしれませんが、
主人公の人間描写に関しては、それが後半にも大きく関わってくるだけに致命
的だったのではないでしょうか。
ダライ・ラマに出会ってからの後半部でも、その印象は変わりません。本来は
十分に魅力的なキャラクター、題材である筈なのに、「ハラーがどのようにチ
ベット仏教の思想を消化したのか?」「若きダライ・ラマとハラーの交流は二
人にどのような変化をもたらしたのか?」という二つの主題の描き方が不十分
で、単に歴史を後からなぞっただけという感じがしてしまいました。

無邪気な表情から想像もつかない含蓄のある言葉を吐くダライ・ラマ。既に風
格を兼ね備えている人物として説得力がありました。一見、非現実的なチベッ
ト仏教の思想も、むしろ現代では多くの人の共感を得ることが出来るのではな
いでしょうか。
彼に登山をする理由を尋ねられた時、ハラーは答えます。
「何もない存在になれるから。」
ハラー自身は気がついていなかったでしょうが、彼の人生観はチベット仏教の
思想に合い通じるところがあったのでしょう。

功名や名誉の為にではなく、自我を捨てることを人生の目的とする生き方には
大いに惹かれます。
98/01/29(木) 00:44

「セレブレーション」

見事としか言いようが無いくらい、計算し尽くされたリアルタイムの群衆劇で
した。

家族はもはや、無条件に安らぎを与えてくれる存在ではなくなっているのでし
ょうか。厳格な父、寛容な母、従順な子供たち・・・・。そうした役柄を一人
一人が演じる事で成立していた家庭というオアシスはもう存在できなくなって
いるのかもしれません。

「映画的なストーリー」の対極、あるいは緩衝材としてしばしば使われてきた
家族、家庭というシチュエーションはもはや説得力をもたないものになってし
まったようです。
しかし、単に「家族の崩壊」というテーマだけを取り上げたのなら、それは決
して新しいものではないでしょう。

「平穏な家族」→「家族の崩壊」→「家族からの逃避」

という順序で、もはや家庭に留まる事の出来なくなった人々を外から描くやり
方は沢山あったと思います。崩壊した家庭から、人々を締め出すことで映画が
成立していたといえるでしょう。
ところがこの映画では人々は鍵をとられ、屋敷から出られなくなってしまいま
す。「家族の崩壊」に繋がった家庭の閉鎖性はそのままに、想像をはるかに超
えた『家族の崩壊』に茫然とし、真実を見せつけられるのです。そしてさらに
(これもまた家庭の閉鎖性ゆえ)、屋敷に招かれたゲスト達は口々に不快を露
にし、黒人を蔑視する歌を歌い始めます。
「真実を見せつける事」と共に「真実を語る事」を強要する、そんな力を持っ
た映画だと思います。

ラストでの父の言葉の通り、それがどんなに呪われたものであっても「血の繋
がり」を拭い去る事は出来ません。真実を直視し、さらに真実を語り、さらに
は真実を語らせる事でしか前に進めないと決心したからこそクリスチャンはこ
の日を選んだのでしょう。

今までとは全く違ったやり方で「家庭の閉鎖性」を取り払ってみせた彼の姿は
いつも追いかけっこをしている「現実」と「映画」の関係を象徴しているよう
な気がしました。

クリスチャンの決心の先にあるのが希望なのか?絶望なのか?その答えを先に
見つけ出すのは「現実」なのか?「映画」なのか?
とても興味があります。
99/08/06(金) 23:35

「洗濯機は俺にまかせろ」

なんでこんな事思い出すのだろう?

堀切商店街、京成金町、木根川橋、草野球、ストリートミュージシャン、ラジ
オの投稿、ペンネーム、デートの約束、自転車二人乗り、近所のパン屋の優し
い娘、忘れられない人、年上の女性、真夜中のテレビ、精一杯の優しさ、がん
ばれ!がんばれ!、初めての夜、何も出来ずに添い寝、大事な親友、彼女の秘
密、彼女を許せなかった、彼女に優しく出来なかった。

なんでもない事がきらきら輝いて・・・。

最初は映画の出来を云々しようとしていたのに、次第にぐいぐいと引き込まれ
ていき、最後には彼らに思いっきり感情移入していました。普通すぎるほど普
通な彼らの日常に自分の大切な大切なものが散りばめられていると感じる事が
出来て、本当に幸せな気持ちで映画館を後にしました。

帰りの電車の中、思い出の場所で途中下車をする自分をぼんやり想像していま
した。
99/05/10(月) 23:11


「千と千尋の神隠し」

自分の大切な人のために頑張れること。自分を大切だと思ってくれる人に感謝
できること。

何の変哲もないよく晴れた朝が、命がけの大冒険と同じように輝きだす。

ただそれだけで良いのかも?

友達と列車に乗って、6つ目の駅で降りて、お婆ちゃんと一緒に一夜を過ごす。
魔法も奇跡も起こさない手編みの髪留めを身につけて。そんなことの中に、か
けがえのない大事なものが沢山沢山詰まっているのかもしれません。

宮崎作品には珍しい頼りない女の子の大活躍。ごめんなさい、「10歳の女の
子の為“だけ”に作られた作品」に色々なことを気がつかせてもらいました。
手段さえ整えば何でも簡単に手に入れることが出来ると思えてしまう錯覚の中
で、本当に大切なものを見失わないのは難しい。



「よかったね。」大会と化した食事の時間、ふと思い出したように聞きました。

「10歳の頃、君はどんな女の子だったの?」
01/08/16(木) 23:12


「空の穴」

熊切監督は今までで一番真剣に取り組んだものを映画にしようと思ったのだそ
うです。そしたら、それは恋でした。
彼が一番真剣に取り組んだもののもう一つは勿論映画です。

この映画の中には3つのフィルムが出てきます。古い戦闘機のフィルム、家出
してしまった母親のブルーフィルム、そしてそれに繋がっている森の中で母親
が彼と戯れるフィルム。全てのフィルムに彼や父親や母親の思いがこもってい
ました。
そして、幼い頃にいなくなってしまった母の思い出と、母への恋しさと、恐ら
くはその経験がもとで上手に誰かのことを愛することが出来なくなってしまっ
た彼の思いと・・・。そうしたものを感じて妙子は呆然とし、そして彼を森の
中に置いて去ることが出来なくなってしまったのでしょう。
犬にも母にも思いを寄せた途端に自分の所を去られてしまう。「小便小僧の恋
物語」の主人公のように「愛している。」の一言が彼は言えなくなってしまっ
たのでしょう。
妙子の方も彼と全く同じではないにしてもやはり上手に誰かに自分の思いを伝
えることや誰かから愛されることが出来なかった人なのではないのでしょうか。
映画の冒頭から分かるとおり、一言で言うとイライラさせてしまうタイプなの
ではないかと。彼女自身がとびっきり魅力的かというと、そこまでではないと