「アイ・ウォント・ユー」

セピア色のフィルターを通して見える世界は、この世が人々の満たされぬ想い
で満ちているということを静かに語っています。それは狂気だったり、希望だ
ったり。

登場人物達は皆、自らの愛情の対象そのものには心を開くことが出来ません。
疑似体験によって、それを補おうとしたり、殻の中に閉じこもったりしようと
しますが、それでもなお、誰かを愛したい、誰かを愛したいと、誰かを求め続
けます。気持ちが伝わらないからこそ、益々愛しくなる。「I want you」とい
う叫びが悲痛に響きます。

官能的でありながらピュア。アンバランスな魅力を全身から発散させていたヒ
ロインのヘレナ。そのアンバランスさが最初から危うさを漂わせていました。
彼女の背中の傷は父親に虐待されていたことを示唆するものなのでしょう。だ
とすると、14才という幼さでマーティンと関係を持ったのは、父の愛に飢え、
それに代るものを捜し求めていたからなのかもしれません。
その事こそが彼女の苦悩の大きさをあらわしています。
もし、マーティンを愛し続けたなら、彼女は彼の中に自分が殺害した父親の面
影を見てしまっただろうし、マーティンを愛することをやめたなら、自分がた
だ単に父親を殺すためにマーティンを利用したことを認めてしまうからです。
彼女ほど「I want you」と叫び続けた人はいないでしょう。でも彼女の叫びは
本当は誰に向けられたものだったのか?それは彼女にも分かりません。彼女は
自分の知らない誰かを、自分を知らない誰かを求めて街を出ます。

映画の語り部でもあるホンダという少年、彼は機械にのみ真実を語り、機械を
通してしか真実を見ようとしません。
母の愛に変わるものを求め続けた彼は、ひょっとしたら「母の愛に変わるもの
などこの世には存在しない。」という真実を最初から知っていたのかもしれま
せん。そんなものがあるとすれば、それは虚構にしか過ぎないということを。

強烈なメッセージを込めつつも、僕たちに自由に感じることを許し、いつも挑
戦的な作品を創造し続けてきたウィンターボトム。
今度は映画も狂気や希望に満ちた虚構であるということを見せつけながら、そ
のなかでしか語れない愛もあるということを僕たちに問うているのかもしれま
せん。

映画のなかでしか、虚構のなかでしか語れない愛があるとしても、それ自体は
決して虚構ではないという信念をきっと彼は持ち続けていると僕は感じます。
彼の映画のなかに、安っぽくもなく、生易しくもない本当の希望が含まれてい
るといつも思えるのです。
99/01/21(木) 02:01



「AIKI」

理由はよく分らないのですが、映画のかなり最初の方から涙腺が緩みっぱなし
で弱りました。彼が自暴自棄になるのも、どうしても前向きになれないのも、
確固たる自信を自分のものにできないのも、そういうひとつひとつがヤケにリ
アルだったからでしょうか。
世界中の不幸を一手に引き受けるのは簡単な事で、たった一人のちっぽけな
“今の自分”を受け容れる事はとても難しい。だから、ついつい簡単な方向に
逃げてしまうのです。「はじめての自分」っていうのは、やっぱり獲得するも
のではなくて、受け容れるものなのかなぁ。大切なものも、大切な人も、全部
自分を受け容れる事から始まる。

「すごくいいよ。指からジンジン伝わってくる。」

何かに脅かされたり、怯えたりような様子は微塵もなく、ただお互いの存在だ
けを感じて、優しくゆっくりと抱き合う若い二人のシーンが僕は一番好きでし
た。
02/12/12(木) 22:10

「アイス・ストーム」

今年最も印象に残っている作品の一つである「ウィンター・ゲスト」と共通す
るところが多く、この作品もまた僕にとって忘れられない一本になりました。

アン・リーという人の人物描写の巧みさにはいつも感心してしまうのですが、
その手腕は本作でも全開です。
彼の凄いのは「ユーモアを交えている事」そして「死を扱った事」。人間の死
ほど人間にとって不可避な運命はないのに、人間は自分以外の人間の死に動揺
しまるでみずからが責任を負うているかのように悔いを抱き続けます。人間を
描くのにこれ以上の矛盾はないだろうし、そういう事を達観し悟り切れない人
間の生き様(死に様)ほど、ある意味"滑稽な"ものはないと思うのです。
幼い少年が死を担い、生と死が常に繋がっているのだという様も見え、このあ
たりは特に「ウィンターゲスト」と共通しているところです。

不倫もみ消し疑惑で騒がれているクリントンの登場を待つまでもなく、「大統
領とて人の子」だということを知らされた人々。それは地域のコミュニティが
崩壊し、矛盾を抱え、反発するエネルギーを持つ家族とのみ、真正面から向か
い合わなければいけなくなった時代の到来と時を同じくしています。

自分が矛盾だらけの人間だと知った時、「それを恥じて口をつぐむか」「矛盾
をひた隠しにして語るか」「矛盾を吐露し、自分を見つめた上で口を開くか」
という選択を僕たちは迫られる事になります。

予告編でも使われていた印象的なシーン。凍った森の道を娘を抱きかかえなが
ら歩く父親の姿、そしてその時の彼の台詞。この台詞は「自分のことを棚に上
げた物言い」ともとれますが、僕は「自分を見つめた上での率直な気持ち」だ
と解釈したい。
だって、僕はあのシーンを見たいがために劇場に足を運んだようなものなのだ
から。

人がどんな矛盾や欠損を抱えていても、その事を吐露する勇気(ただの居直り
かも?)を持っていようが持っていまいが、自分と自分の大切な人にだけは真
摯に接したいという気持ちに決して嘘はないと僕は信じたいのです。
抱きかかえた娘に、教え諭す父親。彼の抱えていた矛盾に象徴されることが、
まさに「氷の嵐」となってあの夜のあの悲劇を生み出したのかもしれません。
でも嵐の後に残ったものには決して嘘はないと信じたいのです。
98/11/03(火) 21:04


「愛に関する短いフィルム」

デカローグバージョンを先に見た僕でしたが、再見のつもりで今度は計算され
尽くされたキェシロフスキの技巧に酔いました。

マジックの種が分かっても、少しも退屈しない。ただの計算ではなく、人間へ
の鋭い洞察力に裏打ちされたものだから。初見の時とはまた違う意味で、しび
れました。

ラスト以外は同じ内容でしたが、好き嫌いは多少分かれるかもしれません。私
がちょっと気になったのが「女の部屋に招待されたトメクのシーン」のある日
本語訳。

この映画ではイッちゃったトメクに対して女は「それが世間で言われている愛
の正体よ。」デカローグでは単に「それが愛よ。」と訳していたと思います。
私は断然デカローグバージョンが好きです。恐らくデカローグの日本語訳の方
が、あとでつけられたものだと思いますが。
4/22 0:10


「明日へのチケット」


人が負っている“使命”って?

それぞれに余韻が残る3つの話

どこまでが想像で、どこまでが現実か分からない老教授の回想。
この時だけでなく、何度も何度も自分の人生を振り返る時期に差し掛かってい
るのかもしれません。
誰かのことが気になって、その人に自分の思いを伝えようとした時、自分につ
いて真摯に語ろうとした時・・・改めて自分の置かれている現実や自分が歩い
てきた道が思い浮かんで、実際にそれを口に出して伝えることもあれば、手紙
の文面を考えるようにさらに自問自答を繰り返すこともあります。そして結果
としてその場に留まり、新しい一歩を踏み出すのをやめてしまうことも・・・。
自分が歩んできた道や自分が大切にしてきたものにはそれなりの「重み」があ
るのです。

どう見ても不釣合いな男女の組み合わせ。最初は当然母子なんだろうと思って
見ていました。実際彼も最初はそんな気持ちで任務を引き受けたんじゃないか
なぁ?
母親に対しても、他の家族に対しても、彼女に対しても、中途半端で投げ出し
てきた彼は「埋め合わせ」のような気持ちで気乗りのしない任務を“こなして”
いました。
でも偶然電車の中で出会った郷里の少女との会話を通して彼の中の何かが弾け
た。本当の使命に気がついた彼は彼女が働いているというローマまで、そのま
ま電車で向かったのでした。
あの太った老未亡人、今までの人生をまさにああして歩んできたのだろうとい
うことが容易に想像できます。無理を通して自己主張をすれば自然と周りの人
間が譲歩してくれる。そんなやり方。
人影もない寂しい駅のホームに腰を下ろして、彼女は自分がこれから引き受け
なければいけないことを少しでも理解することが出来たのでしょうか?

あれれ?どこからどう見てもセルティックのユニフォームだぞ♪と思ってみて
いたら案の定でした。最近のケン・ローチはユーモアのセンスに益々磨きが
かかったらしく、彼らには随分笑わせてもらいました。
しっかり彼等が背負っている現実も垣間見えるものの(なにしろケン・ローチ
だから、いつ暴発しても不思議はなく、ドキドキしました。)、あくまで彼等
のパワーはポジティブで、いつも逃げ足だけは速い「永遠の悪ガキ」を見せて
くれました。彼等にはいつまでもあのままでいて欲しいなぁ。決して簡単なこ
とではないけれど。
「イン・ディス・ワールド」「フルモンティ」なんかもかなり強烈に思い出し
ました。
それにしても俊輔は良い所でサッカーしてるなぁ。映画の中でも出てきたラー
ションはセルティックが産んだ伝説のプレイヤーの一人ですが、俊輔の日本人
特有の職人気質とサッカーに対しての真摯な姿勢は、かの地で「第二のラーシ
ョン」として次第に評価され始めていると聞きます。彼のワンプレイワンプレ
イに一喜一憂する悪ガキ共が大勢いるのかと思うと堪らなく嬉しくなってしま
います。
2006年11月16日 11:11

「明日を夢見て」

単純に「ニューシネマパラダイス2」を観に行くつもりで、映画館に足を運び
ました。冒頭シーンはそういう雰囲気だったのですが、最後まで観終わると、
PART2というよりは、むしろ「もうひとつのニューシネマパラダイス」と
いう感じでした。それも切なく、哀感漂うパラダイス。
映画のフィルムは不遇な人々、裏通りの人々、映画が幸せにしてあげられなか
った人々の思いも吸い込んで、回り続けているんだなぁ。だからこそ人々は映
画にそれぞれの夢や希望を託しているのだなぁと感じました。
「ニューシネマパラダイス」と「明日を夢見て」。どちらが毒で、どちらが毒
消しなのかは分かりませんが、ある意味でそういう関係にあるような気がしま
す。何れにしろトルナトーレ監督の映画に対する思い入れは、映画の主題とし
て、とても好きです。「明日を夢見て」で描かれているように、映画が持つ影
の部分も含めて映画を愛する気持ちが伝わってきます。
ちょっと疲れぎみだったので、からっとした映画、「キスしてハッピーエンド
の恋愛映画」みたいなのを期待して行った僕には少しきつかったのですが、で
も嫌いな映画ではなかったです。

「アダプテーション」

「愛する事は自由だ。」

最も良心的で最も理性的な女性の代表選手であるメリル・ストリープの豹変ぶ
りに少なからずショックを受け、正直少し嫌な気分になり始めていたときに不意
打ちを食らいました。
「お前が羨ましいよ。お前は良いよな、いつも前向きで・・・。」そう言いな
がら「お前は何もわかっていない。お前の強さは所詮“何もわかっていない強さ
”だ。」と、僕もどこかで彼のことを見下していたのです。

妄想や猜疑心や嫉妬に襲われて眠れず、自信過剰と自信喪失の間を行ったり来
たりしながら、「何も得る事のない日常」こそがリアルだと、いろんなことが見
えてしまう自分の自意識だけがドンドン肥大化していく。
悪くない。脚本家の憂鬱だって十分映画になるじゃないか。そう思っていまし
た。「種の起源」や「どこか知らない国で死んでいく人々」までを引き受ける必
要はなく、そうしなければドラマが生まれないわけではないと。それは映画を見
た後でも変わっていません。
でも、多分そういうものとは別に、しっかりと自分で引き受けなければいけな
い責任とか覚悟とかがやっぱりあるのかなぁ。

「愛される事よりも愛する事の方がずっと大切だ。」

彼の不意打ちは続きます。

ドラマは銃撃戦やカーチェイスの中にあるのではなく、彼らの内側にこそある
のだと思います。背負っている苦悩の重さにではなくて、未来に向かう意志や覚
悟にこそあるのだと思います。

チャーリーは決して完全に吹っ切れたわけではありません。次の新作に取り組
み始めれば、また不眠症に襲われるだろうし、妄想や猜疑心や嫉妬から逃げられ
ずに、彼女のとの仲がまた危うくなってしまうかも。いや、そうなるに決まって
います。
でもその度に彼はドナルドの言葉を思い出すのです。何度も何度も、何度でも
思い出すのです。
二人の分身のうち、彼が生き残った理由、「何も得る事のないリアルな日常」
に逃げ込む事を許さず、彼の方を生き残らせた理由はそこにこそあったのでした。
03/10/16(木) 09:18

「アデュー、ぼくたちの入江」

眩しい光の降り注ぐ海辺で出会う少年と少女。

想像力が膨らむ出来の良い予告編を見てからずっと楽しみにしていた作品でし
た。

本編の方はちょっと残念な出来。出来の良い予告編を1時間半にわたってずっ
と見せられ続けたような映画でした。
何も起こらないことが問題ではありません。作り手のイメージが、映像に、登
場人物に、そして観客に押し付けられ、いつまでもそこから自由になることが
出来ないのです。結果、作り手の独り善がりに延々付き合わされたという不満
が残る事になってしまいました。



大切な人とたった二人で、誰にも邪魔されず生きることが出来たら?

若い二人は停滞感と閉塞感の漂う海辺の町から飛び出して、天使というサメの
伝説の残る島へと渡ります。しかし、彼らには社会と関わらず、たった二人で
生きていくことは到底出来ません。魚も食べたくなれば、お金も欲しくなる。
純粋に二人だけで生きていくことを望んだ彼らとて、その島に居続けることは
許されませんでした。
入り江での二人だけの時間を守るため、また社会に戻ってきた二人。しかし彼
らのそうした未熟さ、身勝手さを許してくれるほど社会は寛容ではありません
でした。彼らを襲う悲劇は間違いなく彼ら自身が招いたものであった筈です。

いつも誰かに監視され、縛られているような社会から再び逃げ出すオルソ。大
切な入江には侵入者がいました。故意だったのかどうかは定かではありません
が、オルソは彼を撃ちます。その侵入者はオルソにとって、入江に最も相応し
くない人物であったのでしょう。
00/03/23(木) 15:58

「アドレナリン・ドライブ」

「見終わった後何も残らない映画」イコール「スッキリする映画」という言い
回しを色々な所でよく見かけますが、巷で言う所の「何も残らないスッキリす
る映画」は僕にとっては結構「後を引く映画」だったりします。

で、矢口監督の作品ですが

彼の作品こそ「見終わった後何も残らない映画」として僕の頭の中に堂々と君
臨しています。「ひみつの花園」と本作しか見てませんが・・・。
これは結構すごい事だと思います。

ただ、映画の面白さとそのことは別のようです、僕の場合。

カラカラとチープな音を立てながら、それでも山も谷も川も海も乗り越えて一
気に見せきってしまう力のあった「ひみつの花園」に比べて、本作ではアドレ
ナリンの分泌量はぐっと抑えられてしまっていました。
チンピラがアパートに乗込んだ所からはラストまで一気になだれ込んで欲しか
った。カラカラとチープな音を立てながら、それでも色んな物を蹴散らして。

誰にも真似出来ないオフビートな感覚に得体の知れないスピード感が加わって
こそ「スッキリする映画」になる事が出来るのに・・・
ちょっと残念でした。
99/08/06(金) 22:43

「姉のいた夏、いない夏」

目に見えないものに縛られて生きてきた少女が目に見えるものと向かい合う大
人の女性に成長する物語。主人公の女の子は幼さと大人っぽさのアンバランス
さがよく出ていてなかなか素敵でした。ラストのかくれんぼのシーンはそうい
う意味で印象的。
母親似の金髪をした姉が父親に惹かれ、黒髪の妹が母と和解し、心を通い合わ
せるというのはなかなか面白いなぁと思いました。

姉を主体として彼女の人生を考えると、どうにも描ききれていない薄っぺらな
感じは拭いきれないのですが、あくまで主人公を妹と考えれば、そんなに悪い
出来ではなかったかもしれません。

が、しかしクリストファー・エクルストンの長髪だけは絶対に似合わないので、
時代背景を無視しても絶対やめるべきでした(^_^;)。
01/07/15(日) 23:39

「あの子を探して」

赤いほっぺの上を不器用に零れていく涙。小さな村の小さな女先生の必死の呼
びかけ。予告編で何度も見ていたのに、やはり涙腺が反応してしまいました。
彼女の呼びかけはホエクーだけでなく、国中の人に届き、善意の寄付が寄せら
れ貧しい村の小学校には沢山の文具が送られたのでした。めでたしめでたし。

でも子供たちに国中の善意を届け満足げに去っていくテレビクルーたちを見て、
僕のなかには何か釈然としないものが残ったのでした。こんなに簡単でいいの
だろうか?貧しくなくなればそれでいいのだろうか?という疑問。第一これで
は映画は要らないということになっちゃうんじゃないの?

クルーたちが去った後の教室。色とりどりのチョークを囲んで集まる先生と生
徒たち。チャン・イーモウは僕のもやもやに対してもきちんと答えを出してく
れました。

思い思いの文字を黒板いっぱいに次々と書き込んでいく子供たち。字の書けな
いおチビちゃんまで花の絵をかいたりして(^.^)。そう、それはまるで黒板い
っぱいに花が咲いているようでした。
子供たちを輝かせているのは“与えられた”物質的な豊かさではなくて、彼ら
の中に最初からある豊かさなのだということが伝わってきます。彼らが他人か
ら与えられたストーリーではなく、それぞれに自分で考え選び取ることの出来
る人生を生きているのだということも。彼らが貧しくても、そうでなくても彼
らの生き方を勝手に限定しているのは(テレビだったり、中途半端な知識とい
う名の偏見だったりといった)彼ら以外の人たちなのです。
助ける人も助けられる人も与えられた役割をこなすことで喜びを得られること
ができるのがテレビの世界なのだとしたら、映画の居場所はそのストーリーを
超えた一人一人の人間の真実の姿と共にあるのかもしれません。この映画のス
トーリーは映画の中にあって僕たちがそれを与えてもらうのではなく、(最初
から)僕たちの中にこそあったのだと感じました。

お気に入りの登場人物、素敵な女性が二人。

一人はホエクーに食事を与えてくれた食堂の女将さん、もう一人は学習委員の
女の子ミンシエン。

僕は女将さんが実は貧しい農村の出身で幼い頃から一生懸命働いてやっと自分
の店を持てるようになったのだというストーリーと、成長したミンシェンが立
派な先生になって水泉“希望”小学校に戻ってくるというストーリーの両方を
想像してホクホクしていました。
00/08/13(日) 17:50

「あの頃ペニー・レインと」

 痛々しい挫折感とは無縁の青春映画、これ以上はないという程の直球勝負で
た。邦題では中心に据えられているヒロインのペニー・レインですが、「年
上の憧
れの女性」としては輝きがもう一つに感じられました。多分、彼女自身、
大人に
なり切っていない「夢見る少女」としての役割も演じなければいけなか
ったから
なのでしょう。その両方を微妙なバランスで演じるというのはかなり
難易度の高
いことですから、そこまで求めるのは酷なのかもしれませんが、も
っともっと複
雑で魅力的な女性に見せることが出来たかと思うと、やはり残念
です。彼女の背
負った影の部分がもうすこし表に出てくると良かったのではな
いでしょうか。

  楽しみにしていたフランシス・マクドーマンドの演技ですが、演技というよ
彼女が演じていたキャラクター自体に引かれました。自分の価値観を押し付
け、
子供を管理したがる厳格な母親、一種ノイローゼともいえるようなその姿
は去年
見た「ヴァージン・スーサイズ」のキャスリン・ターナーとダブりまし
た。(そ
う言えば体系の崩れ具合もかなり似ていた(^^;)。)二人の唯一最大
の違いは最
後の最後で我が子を信じることができるかどうか、許すことができ
るかどうか、
引いては他人を信じることができるかどうか、許すことができる
かどうかという
ところにありました。あとは、この二人本当にどこも違わない
ほどそっくりだと
思います。
  そっくりと言えば、この映画の登場人物たちは皆、本当によく似ています。
長し切れなくて、背伸びをして、片意地を張って、夢を見て・・・。ウィリ
アム
も姉も母もペニー・レインもバンドのメンバーたちも、皆が同じような愚
かさと
同じような直向さを持っています。だからこそ最後の最後で信じたり許
したりす
ることができたのかもしれません。ラッセルとウィリアムの母親の電
話のシーン
が僕は一番好きでした。
  スティルウォーターの花形ギタリストは若き音楽ジャーナリストのことを
「天
敵」と呼びます。敬意と親しみを込めて。彼らの関係は「ザ・エージェン
ト」の
エージェントとアメフト選手によく似ています。
欠点だらけで反発し合うもの同士が、お互いを高めあっていける関係を築け
か否か?それはやはり最後の最後のところで相手を許して、信じてあげられ
るか
どうかにかかっているのでしょう。
01/04/04() 23:30

「アパートメント」

音楽が、最近見たなんかの映画と感じが似ているなあと思い、途中で「ユージ
ュアルサスペクツ」だったと気がつきました。「全編にわたり巧妙に構成され
たサスペンス」、フランス流のスパイスをぴりっと効かせると、こういう映画
になるのでしょう。前半部での喫茶店での商談シーン、あれを後半部で再び再
現させられた時の感覚は確かに「ユージュアルサスペクツ」で、カイザーソゼ
の正体を明かされた時のそれによく似ていました。偶然のいたずらだと思って
いた全ての出来事が実はたった一人の女性の手によるものだったということを
知らされるのです。今回も僕はまんまと引っ掛かり、大いに楽しめました。た
だ、少し違うのは前者の場合、指にフーッと息を吹きかけて黒幕が何もかも残
さず消えてしまう潔さがあったのに対し、本作はストーリーの種明かしをした
後、物語自体が完結した後もふわふわと余韻が残りました。これもフランス流
でしょうか。

冒頭で宝石を喩えにして、登場する3人の女性が語られます。

まずは、気品があって美しく流行に左右されない指輪マックスの婚約者ミュリ
エルは適度に美しく適度に優しい女性です。美しさはまあ、見た通りですが、
出張前に彼を訪ねてきたり、出張先からの電話を受ける様子などはもう既に
「よき伴侶」としての素質ありありです。そして、何より大事なのは適度にマ
ックスのことを信頼し、それ以上のものを求めないということ。
結局彼女は彼をめぐるその他2人の女性のことを知らず、適度な幸せを手に入
れます。

次はかなり美しいが癖があり、扱いが難しい鑑賞用の指輪リザは彼女自身が必
ずしもそう望んだわけではありませんが、何人かの男達を虜にし、惑わせてし
まいます。この場合大事なのは彼女自身がその事を意識していないということ、
だからこそ男にとっては罪な女性なのです。そして、その扱いの難しさゆえに
悲劇的な結末を迎えるのですが、僕個人としてはあの場に居合わせた2人の男
性、リュシアンとパトロンの画商が命を落とし、生き残った彼女は、また次々
男を惑わせるというラストを期待していました。(これじゃああんまりにもリ
ュシアンがかわいそうすぎるか。)

最後に見かけはぱっとしないが、光を当てると美しく輝く指輪アリスの場合、
リザ同様、男を虜にしてしまう魅力を持っていますが、はっきりと作為的なも
のを感じます。やっていることはかなり酷いことが多いのですが、自分の幸せ
のためにひたむきに生きる姿勢は裏切りとか背信行為とかということで簡単に
片づけられることは出来ません。ここまでやるかはともかくとして、恋には駆
け引きは必要でしょうし。一度は幸せをつかみかけた彼女、マックスが赤いハ
イヒールを送るシーンはまさに彼女がシンデレラになれなかった瞬間でした。
と思ったら、空港ではバッチリ再会し、あれあれという感じでしたが、やっぱ
り最後は手堅い本命が幸せを持っていってしまいます。

ぼくが感じたふわふわとした余韻は「3つとも、とても気に入りました」と言
ったマックスの気持ちと似たようなものかもしれません。

「フランス映画はチョット苦手」という人も大いに楽しめる作品なのではない
でしょうか。
96/08/23(金) 23:30

「阿弥陀堂だより」

自分の周りの半径1メートル。気にしているのは今日の夕食の献立で、昨日の
夕飯はかろうじて覚えていても一昨日となると途端に怪しい。
それが僕の普段の守備範囲です。

この映画は僕の小さな守備範囲を同心円状に大きく大きく広げてくれました。
過去と未来、それから自分の周りの小さな世界から遠くに見渡す事の出来る雄大
な風景へ。

ゆったりとした時間の流れや豊かな自然。僕にとって大事なのはそういうもの
を体験する事ではなくて、その真ん中に自分が存在するのだという事をキチンと
認識できることです。どこか知らない遠い観光地のPRフィルムを見るのとはわ
けが違う。自分と繋がっている、連なっている。過去から未来へゆっくりと流れ
る時間や見渡す限りの豊かな自然の丁度真ん中に自分がプロットされているとい
う感覚です。

「わたしは歴史に名を残す為に映画を撮る。」

これは別の監督の言葉ですが、この言葉の“謙虚さ”と共通のものをこの映画
からも感じたのでした。
02/11/10(日) 22:44

「雨あがる」

仕官の望みがなくなり宿を去る浪人夫婦。夜鷹の女は「何かお礼をしなくては!」
「是非何かお礼がしたい。」そう思ったのでしょう。彼女がこんな風に人
に感謝する気持ちになったのは久し振りのこと。一生懸命考えて、考えて、旅
支度をする夫婦に精一杯の感謝の気持ちを込めて、薬を渡したのでしょう。

「つまらないもんだけど・・・」

この映画の主人公は名もなく貧しい市井の人々達です。

心優しき浪人とその妻も市井に交わってこそ、主人公に相応しい。自分の身の
上を殿様に語って聞かせる伊兵衛には、名も知らぬ人々と肩を寄せ合って生き
ていく身の上を心から楽しんでいる様子が見えてきます。

どこまでも寛容でいつも包み込むような暖かさと優しさで夫を支える妻おたよ。
彼女の柔和な笑顔。そして侍二人にきっぱりと言った台詞が忘れられません。

「大切なことは何をしたかではなくて何の為にしたのかということではござい
ませんか。」

あまりにストレートなこの台詞。しかし文字通りの“黒澤ファミリー”が力を
合わせ、故人の遺志を継いだ一度限りの作品としてはもっともは相応しい。
市井の人々を描き、市井の人々の為の娯楽作品に徹したからこそ彼は世界中の
人々に愛されたのでしょう。

映画館を出ると・・・
いつのまにか日が長くなり、まだ明るい外の景色を見て・・・

やはり「晴れ晴れとした気持ち」にならないではいられませんでした。
00/02/13(日) 21:16

「アメリ」

トリコロールの青は自由、白は平等、そして赤は博愛。フランスから届いた不
器用で可愛い女の子の物語。彼女の部屋は赤一色でした。台所にずらっと吊るさ
れていた赤いお鍋達が特に可愛かったなぁ。キェシロフスキの「トリコロール」
のようにハッとさせられるような色使いではないのですが、全編に散りばめられ
た彼女の赤のイメージはなんだか心を落ち着かせてくれるような不思議な赤でし
た。

「博愛っていうのは、見ず知らずの全ての人にも遍く愛情を振り向けるという
ことだけでなく、自分の幸せと自分の大切な人の幸せを大事にしながら、自分に
とってかけがえのない人をひとりずつひとりずつ増やしていくことなんだ。」

「トリコロール赤の愛」を見た時と同じ事をまた感じました。

そうなんだよね、自分の幸せのためにも他人の幸せのためにも「はじめの一歩」
を踏み出すのには本当に勇気がいるんだよね。自分の幸せのために一歩を踏み出
せない時、「他人の幸せのため」という言い訳を口にしてしまったり、それから
その逆も・・・。分かっていても、どうしても勇気が出ないんだよね。
だからそんな一歩を踏み出すために彼女の背中を押してくれる人々の存在が嬉
しくて嬉しくてたまりませんでした。
「君の骨はガラスじゃない。人生にぶつかっても立ち直れるはずだ。」
とびきり素敵な、皆に勇気をくれる台詞でした。

アメリとガラス男との対話は、彼が描く絵画を通して、また彼女の送るビデオ
を通して、また彼の外界との唯一の接点である望遠鏡を通して成立していました。
このあたりは監督の映画への思いが明確に込められていて、また同じ思いを込め
たキェシロフスキのことを再び想起しないではいられませんでした。
彼の作品にも望遠鏡(双眼鏡)やビデオが度々登場しました。それらにはいつ
も明確なメッセージが込められていました。決して口に出すことはなくても映画
の可能性を信じてる人なのだと思います、二人とも。
(そう言えば「トリコロール赤の愛」の主人公ヴァランティーヌと退役判事の
関係とこの映画のアメリとガラス男の関係はとてもよく似ています。)

「映画や絵画や空想の世界は虚構に過ぎない。でもそれらはきっと私たちが現
実に立ち向かうために力を与えてくれるはずだ。」

そんな力強いポジティヴなメッセージになんだか胸が高鳴って映画を見ながら
両手を唇に当て僕はホクホクしてしまいました。

映画の最初と最後で登場人物に対する自分の感じ方がガラっと変わってしまう
この映画。ただ自分の世界に閉じこもり、お互いの繋がりが希薄であるように見
えたアメリの両親。彼らに対する見方も旅に出ることを決意する父親を見る頃に
は全く違うものになっていました。

「自分の幸せがなければ自分の大切な人の幸せはない。」
「自分の大切な人の幸せがなければ自分の幸せはない。」

自分の世界を大切にすることは決して「博愛」と矛盾しないのです。

優しくゆっくりと積み重ねられた歴史と暖かい光が印象的なモンマルトルの街
並みは数え切れないほど沢山のそうした「二人達」を思い浮かべさせてくれまし
た。もう一度見たい映画。今度は彼女を誘って行くことにします。
01/12/20(木) 22:00

「アメリカン・ビューティー」

微笑を浮かべたまま頭を撃ちぬかれたレスター。彼を見つめるリッキーは確か
に微笑んでいました。しかし、映画の中で最も美しい(?)この光景を彼がビ
デオに収めることはありませんでした。彼の顔から微笑みは消え、表情は途端
に硬く厳しくなります。
いつまでも"永遠に"微笑み続けるレスターとは対照的に・・・。

「ひょっとしたら父の仕業ではないか?」彼の頭にその事が浮かんだのだと見
るのが一番自然でしょう。しかしこれは彼が息子という役回りだけを演じてい
た場合の話。彼が「美を切り取る表現者」としての役割を担っていたのだとし
たらそこには違う解釈が可能になります。

劇中の極々平凡な登場人物達は皆、些細なきっかけで、忘れかけていたそれぞ
れの美を追い求め始めます。そのなかでリッキーは常に本質的な美を意識し続
け、それを切り取って記録することに執着します。
キアロスタミ作品のような(若い彼のビデオ作品はそれほど美しいとは言えな
かったが)白いビニール袋の映像、そして死んだ鳥の姿。
それから忘れてはいけないのは窓越しに衣服を脱ぐジェーンを見つめ続けた映
像。触れることの出来ない愛情の対象をじっと見詰め続ける姿は非常に官能的
で僕は大好きなキェシロフスキの「愛に関する短いフィルム」を思い出さずに
はいられませんでした。
しかもこの作品ではリッキーの部屋のテレビ画像により、覗く行為と覗かれる
行為が一体となっています。これも「愛に関する短いフィルム」のイメージ。
そして彼女の豊満な(豊胸手術不要の)胸が露になり緊張が最高潮に達した瞬
間に部屋に押し入る父親。今度は父親に折檻されるリッキーがテレビに映し出
され、ジェーンがそれを見つめます。このシーンはドラマとドキュメンタリー
が一体となったようでした。ドラマとドキュメンタリーが不可分に結びつく。
これもキェシロフスキのイメージです。

「愛に関する短いフィルム」を持ち出すまでもなく、この映画の中の彼の担う
役割は見せかけの美しさでなく本当の美しさに常に目を傾けようとする存在だ
ということは明らかです。それはアンジェラに「君は何の魅力もない平凡な女
だ!」と言い放つシーンで最高潮を迎えます。

しかし、その後、レスターがアンジェラがキャロリンが、見せかけの美に惑わ
され翻弄されていた(恐らくリッキーもそう思っていた)人々が彼らにとって
の本当の美に気がつき始めるに至って、実は彼の立場は急に怪しくなってきま
す。見せかけの美しさに惑わされている人ばかりだからこそ本質的な美に執着
する彼の行為には価値があったのです。
彼が美しいもの"だけ"に執着するということは、その片側で美しくないもの
を排除しているということでもあります。それは彼が本質的に美しいものを追
い求めているようで実は自分"だけの"「美しいもの」に逃げ込んでいたという
ことでもあります。全ての「美しいもの」「美しくないもの」は決してその場
所に留まり続けることはないということを彼は見落としています。
一つだけ例外があるとすれば、それは「死」かもしれません。朽ち果てていく
鳥の死体を美しいと思うなら、死は絶対的に美しいものとしてその場所に留ま
り続けます。そういう意味でリッキーが死に惹かれていたというのは至極当然
のことなのです。

しかし、その「死」さえも彼にとっては絶対的に美しいものとしてその場所に
留まり続けることはありませんでした。
朽ち果てる鳥と同じ死。幸福の絶頂の中、死を迎えたレスターの微笑み。リッ
キーはそれをビデオに収めることは出来ません。彼にはもはや自分の信じる
「美しいもの」に留まり続けることは許されません。彼は「父親の存在」とい
う現実から逃げることは出来ないから。

映画監督が美しいものを切り取る表現者だとしたら、彼に求められていること
は、美しいものを完全に自分と関わりを持たない絶対的なものとしてとらえる
か、それとも、美しいものだけでなくその周辺のそうでないものも自分にとっ
ての現実として受け容れるか、そのどちらかしかないのでしょう。

リッキーの迎えた結末が不敵とも言えるこの作品の作り手の最も謙虚な姿勢、
表現者の苦悩を表わしていると僕は思ったのですが、考えすぎでしょうか?

こうして振り返ると、只一人だけ「本当に美しいもの」の存在に気がついてい
たと見えるリッキーが実は只一人だけそこに辿り着けなかった一人負け状態と
いえるかもしれないし、幸福に留まることを許されず現実と向かい続ける人々
を尻目に、微笑と共に頭を撃ち抜かれたレスターの一人勝ち状態といえるかも
しれません。

いずれにしろ、いかにもイギリス人らしい実に見事にシニカルで緻密に構成さ
れた演出と脚本(は、アメリカ人か!)でした。
00/06/08(木) 23:32

「アモーレス・ペロス」

唸り声を上げ、ヨダレを垂らしながら獲物を見つめる。飼い主の手から放たれ
ると一気に突進する二匹の犬。その瞬間、頭蓋骨と頭蓋骨がぶつかり合う鈍く
野蛮な音が薄汚れたコンクリートに響く。
様々な人生が交錯し、車だけでなくありとあらゆる物を破壊した、あの衝突事
故のイメージと重なりました。

このシーンだけでなく、時折挿入される犬のイメージはイヤというほど登場人
物たちとの関連を想起しないではいられませんでした。

事故現場で傷ついた犬を拾い、命を救ったエル・チーボ。その犬に可愛がって
きた“子供たち”を惨殺されてしまった彼は、それでも犬に向かって引き金を
引くことをしませんでした。そして、いつもなら冷徹に“ビジネス”をこなす
はずの彼は何故かターゲットの命を奪いませんでした。普通ならば彼が「命を
奪うことの空しさ」を感じたということになるのでしょうが・・・。縛り付け
られ、憎しみとエゴを剥き出しにして向かい合う兄弟。この二人もまるで戦い
の前の闘犬達のようでした。エル・チーボが薄ら笑いを浮かべながら言った兄
弟の和解は、どうやら訪れそうもありません。エル・チーボはやはり「命を救
うことの空しさ」から逃れられないのでしょう。いや、そもそも彼にとっては
命の重さという意識自体が希薄なのかもしれません。
捨てたはずの娘の家へ忍び込むエル・チーボ。彼の愛情表現は「ありったけの
金を彼女にあげる。」「父親として相応しい風貌になって家族と過ごした時間
を取り戻す。」「自分のしてきたことを悔い、本心を打ち明ける。」といった
こと。彼のそれには父親が娘を思う純粋さはなく、サイコ男の薄ら寒さと、哀
れで滑稽なほどの矛盾が溢れています。

「平等な世界を目指したかった。」

血に汚れた金を娘に贈ってもなお、彼は消え失せてしまった理想を口に出して
自己を弁護しようとするのです。そして留守番電話のテープは途切れ、彼の最
後の一言は娘には届きません。

「愛している。」

(時間切れのテープのせいでなく)どんなことがあっても彼の気持ちは決して
彼女に届くはずがないのです。

「オクタビオとスサナ」でも男の見せかけの愛情は届くことがありません。来
るはずのないスサナを待つオクタビオはそれに気がつくことが出来たのでしょ
うか?
金と愛情さえあればどこかで幸せに暮らせると信じ切っているオクタビオの存
在は自分のことしか考えない粗野な夫と少しも違っていなかった。スサナにと
っては(実はよく似た二人の兄弟だけでなく)男は全てエゴイズムの塊で、
“いつかきっと自分を裏切るもの”だったのでしょう。

男だけではありません。「ダニエルとバレリア」のラストシーンも印象的でし
た。片足を失い夢を絶たれたバレリアは抜け殻のようになって、あの部屋に戻
ってきます。穴だらけの床を見ても、やっと助け出された愛犬を見ても彼女は
眉一つ動かさないのです。それなのに自分の姿が消え、ブランクになった看板
を見た途端、こらえ切れずに嗚咽をはじめます。
解釈は色々あるのかもしれませんが、僕は彼女は自分の為には涙を流せる人な
のだと感じました。それは他の二つのエピソードやパートナーのダニエルと同
じようなエゴなのだと。

エゴを剥き出しにする登場人物たち。それは狡さや弱さであると共に彼らの根
っこを支えている強さなのだと思わないでいられませんでした。今まで全く馴
染みのなかったメキシコの人々たち。陽気で楽観的な人々という先入観はなく
なりましたが、彼らを衝き動かしている情熱はやはり本物であるということが
分かりました。そしてその根源は矛盾だらけの自己を押さえ切れずに一直線に
突進していく強さなのだということも。

涙を浮かべながらバス停を去るオクタビオ、車椅子の上で声をあげて泣くバレ
リア、分身と共に荒野を行くエル・チーボ、彼らの後姿に、共通した強さのよ
うなものを感じました。
02/02/14(木) 13:55 

「ある貴婦人の肖像」

「責任をとる誇りが人間にとって一番大事だ。」

オズモンドがイザベルにキッパリと言ったこの言葉、僕にとっては映画の中で
最も重い意味を持った言葉でした。

この言葉を通じて、イザベルがマダム・マールがパンジーが、そして同時代を
生きた女性が(そして恐らくは「ピアノレッスン」のエイダが)ある時は闘い、
ある時は従ってきた「伝統と格式」の重みを感じさせられました。

例えば「伝統や格式」が、ただ保守的にそれを守ろうとするものの手によって
受け継がれていたのだとしたらそれは意外に脆いものだったかもしれません。
しかし、この物語の中では「伝統や格式」にとらわれず、自らの自由な生き方
を選択しようとした女性までもが、結果として旧来の「伝統や格式」を引き継
ぐ結果になっています。これは並大抵のことではありません。「伝統や格式」
が人間の本質的、根源的な欲求に根差したものだということになってしまうの
ですから。

イザベルは自分が自分の望む自由を選んだと信じたいからこそ、親の望む縁談
をパンジーに積極的に進めることが出来ません。それが自分の選択した自由と
矛盾する結果を招くと知っていても・・・。

矛盾はそれ以前にあります。「伝統や格式」にとらわれず、一人の人間として
自由に生きたいと願った彼女は実は「伝統や格式」に守られ、その枠の中で生
きていたという矛盾です。彼女が最後に悟った真実の愛にしても「財産を譲る」
という最も「伝統や格式」に直結した方法で体現化されたものでした。

そもそも「誰と結婚するか?」とか「結婚するかしないか?」という具合に結
婚を基準に自分の生き方を決めようとしていること自体に限界を感じます。


少し話は変わって冒頭の現代の少女たちについて。

次々と登場する少女たち、楽しそうに笑う少女と少し羨ましそうにそれを見詰
める少女がほぼ交互に出てきます。あの羨ましそうに見詰める眼差しを見てい
てカンピオン監督の「エンジェル・アット・マイ・テーブル」を思い出しまし
た。

あの映画の主人公も最初は、いつも羨ましそうに友人の長い髪や素敵な恋人を
見詰めていました。でも彼女は最後には他者と自分とを比較したり、他者との
関わりで自分の幸せを測るようなことをせず、ただ自分が自分らしく生きる、
自分がただひとりの人間として尊厳を持って生きるという道を選択します。そ
んな彼女は自信満々で少しもおどおどした所なんかありません。そういう意味
では時代が現代に近いというだけでなく「ピアノ・レッスン」のエイダ以上に
自由な女性像、現代的な女性像を描き切っていたと思います。

それではイザベルはどうだったのでしょう。それを解く鍵はやはりラストシー
ンでしょう。

ラルフの「真実の愛」に気付いた彼女は今度は葬儀の後キャスパーにに迫られ
ます。彼女は一度は拒みますがやがて彼に身を任せます。この時彼女を支配し
たのは恐らくは性的衝動、つまりは本質的にオズモンドに惹かれたのと大して
変わらない欲求であったはず。もし彼女が彼に抱かれたままエンディングを迎
えたとしたら、それはそれでひとつの「現代的な女性像」を描いていたともい
えるでしょう。(「ピアノ・レッスン」のエイダはこのタイプ)

しかし、彼女は彼の腕を振り解き屋敷へと走ります。そして一旦屋敷に入りか
けて止め、振り返ります。強い意志を秘めた印象的な表情で。

このラストシーン、原作ではローマのオズモンドの許へ戻るという選択を示唆
するものだそうですが、僕はどうしてもそうは思えませんでした。もし原作の
通り、結果としてオズモンドのところへ戻ったのだとしても、それは甘んじて
「伝統や格式」を受け容れたからだとは思えなかったのです。そして、結婚を
はじめとして異性との関わりでしか自分の自由や幸せを測れない女性の態度と
も思えませんでした。

もし彼女が温かい屋敷の中へ逃げ込んだとしたらそれは彼女が結局は「伝統や
格式」の傘の下で生きることを選んだということになるでしょう。これは若き
乙女パンジーの姿です。

もし彼女が屋敷の中へ戻ることはできない、今更やり直すことはできない、と
いう理由でオズモンドの許に戻ったのだとしたら、それはまさにマダム・マー
ルの姿とダブるものです。結局は「伝統や格式」の枠から逃れられず、自分の
選択の過ちを知りながらもそれを受け容れる女性です。

それでは彼女はどういう選択をとったのか。

「責任をとる誇りが人間にとって一番大事だ。」というオズモンドの言葉にど
ういうけりをつけたのでしょうか。

彼女は自分の誤りを認め、新しい生き方を選択し直したのです。恐らくは、自
分がたったひとりの人間として自分らしい生き方をする道を選んだのではない
でしょうか。だから、あの後、彼女は屋敷にも入らず、オズモンドの所に戻る
こともせず、凍てつく雪道をひとりで歩き出したような気がするのです、僕は。

3人の女性はそれぞれ「自分では運命を選択しない(ということを自分で選択
した)女性」「自分がたった一度だけ選択した運命をどこまでも受け容れる女
性」そして「何度でも運命を選択し続ける女性」と言うことが出来るでしょう。

そういう意味ではイザベルは「ピアノレッスン」の女性像よりも「エンジェル・
アット・マイ・テーブル」に近く、より現代的な感覚を持っているような気が
します。

繊細な感情の描写とそれを忠実に表現した演技、カンピオンとキッドマン、二
人の才女に脱帽です。
97/02/13(木) 23:58

「アルテミシア」

黒のドレスを身にまとった若き主人公。そう言えば「ある貴婦人の肖像」のラ
ストでも、主人公イザベルは黒いドレスを着ていました。

瑞々しい若さを残しつつも、決意を内側に秘めた印象的な彼女の表情。彼女の
決意は一体なんだったのか?彼女を成長させたのは何だったのか?考えてみた
くなりました。

アルテミシアは類まれな才能を持った芸術家です。そして芸術家によくある傲
慢さのようなものも持ち合わせています。
「全てを自分の目で見極められる」という自負とそれを裏打ちする才能。彼女
の瑞々しい若さはそんなもので出来ていたのではないでしょうか。彼女は神話
の世界に場を借りて、人間を見つめようとします。さらに自分自身を見つめよ
うとします。そして、自分の目で見つめるものこそが唯一無二の真実なのだと
信じ、その世界に没頭していくのです。

そんな彼女の前に現れたのがアゴスティーノです。

彼は自分の才能の限界を知る男です。芸術とは無関係の処世術を駆使し、地位
や権力を手に入れることも出来る人物です。
そんな彼がアルテミシアに教えたことは、「この世界の事物は複雑に絡み合っ
ている、どんな目を持ってしても見極められないくらいに。」「世界はそれを
見詰める人の数だけの様相を持っている。」という現実でした。

アルテミシアは彼に惹かれていきますが、僕は彼女が彼の才能に惹かれたとは
思っていません。むしろ才能の限界を受け容れる生身の彼に惹かれたのでしょ
う。
「君は僕よりも色の使い方を知っている。」
誰かを好きになることで、彼女は自分の中の自分の知らない自分を自覚し始め
ます。「全てを見極められる」と信じていた彼女は初めて現実の混沌の中に身
を置くのです。彼女が惹かれたのはそれまで自分が知らなかった現実の混沌自
体だったのかもしれません

現実の混沌は二人にひどい仕打ちをします。時代はまだ保守的で、そこでは宗
教的倫理観が支配し、人々は「世界はそこにいる人の数だけ存在する。」とい
う現実を寛容に受け容れてはくれませんでした。
いや、多分そうではないでしょう。どんなに時代が変わっても二人のいる世界
はいつも「現実の混沌」の筈です。だから、黒いドレスに込められた彼女の決
意は決して遠い昔のひとりの女性だけのものではありません。

「自らを見つめる女性」と「自らを見つめようと決意する女性」は似ているよ
うで違います。その違いが大きいものかどうかは僕には分かりませんが、アル
テミシアはアゴスティーノとの出会い、別れを通して、そういう風に成長した
のではないでしょうか。



作品のなかでは、暗闇の中で、蝋燭の限られた光の中で、対象に食い入るよう
に目を凝らすシーンや、窓から零れる光を必死に覗く印象的なシーンが多く登
場します。
僕は「映画という芸術」の存在を感じないではいられませんでした。
98/09/29(火) 18:27

「アルビノ・アリゲーター」

遺伝子のいたずらが生み出したアルビノ種。人間における親子の情や兄弟の情
というのも一種の「遺伝子のいたずら」なのでしょうか。

密室でのリアルタイムのサスペンスドラマ。ピンと張り詰めた緊張の中で、一
気に最初から最後まで観客の視線を離さないこの映画のスパイスは「情」とい
う名の「遺伝子のいたずら」でした。

青年にショットガンを向けた粗野な男は、二人が親子だと知り、初めて怯みま
す。ところが、それまで及び腰だったもう一人の男は全く反対の行動に出るの
です。
恐らくは、たった一人の自分の理解者である兄を失った彼にとっては兄の存在
こそが「白いワニ」であったはずです。そして彼にしてみれば生き残る為には
親子にも同様の生け贄を差し出す覚悟が必要だったのでしょう。

親子は生き残る為に、それぞれが互いを生け贄として差し出します。

犯人にとっても、人質にとっても「アルビノ・アリゲーター」は取るに足らな
い弱い存在などではありません。生け贄として差し出すのに大きな痛みを伴う
かけがえのない存在でなければならないのです。

肉親を思いやる気持ちと、生への執着心。人間の本能とも言える感情がむき出
しになる時、遺伝子が暴走し、信じられないドラマを生み出したのでした。

「ケビン・スペイシー、三度恐るべし!」
98/03/14(土) 00:58

「アントニア」

こういう映画こそ、テンポが命なんだと思いました。時間はゆったりと流れて
いるのに、不思議とスピード感があり、一気に最後まで見せられてしまいまし
た。
オランダの田舎町の美しい田園風景とあいまって、映画全体にも登場人物にも、
何か四季の営みのようなものを感じました。アントニアからサラへと続く4代
の強い女性たちはそれぞれが春夏秋冬を象徴しています。

強い意志を持ったアントニア、情熱を秘めたダニエル、理性的なテレーズ、そ
して感受性豊かなサラ。彼女たちを筆頭に、登場人物たちはそれぞれの季節を
担っているように見えました。魅力的な人物描写、ユーモアを交えた数々のエ
ピソードが素敵でした。

とにかく強い女性たち。シングルマザーとか同性愛とか現代的なテーマが扱わ
れているのですが、モラルや是非がどうのこうのというのではなく、とにかく
強い意志と自分の決断を信じる実行力に溢れた女性たちの生き方に納得しない
ではいられませんでした。やっぱりオランダって進んでるのでしょうか。

概ね男性は押され気味なのですが、「曲がった指」は全登場人物中、僕が最も
好きなキャラクターです。

「我々を苦しませる災いは全て偶然に起きる。こんな不条理には我慢がならな
い。」
「一番最良なのはこの世に生まれてこないことだ。その次に良いのは死だ。」

そうして、彼は偶然に弄ばれることなく、自ら命を絶つのです。

考えることに疲れた彼が、どうして考えることだけを止めずに死を選んだのか?
これからもずっと考えていきたい。

そして、そんな世の中でも彼を愛し、彼が愛した人々が大地に根を張り、しっ
かりと生き抜いているからこそ、彼の死がアントニア達や我々に残したものは
「どうしようもない絶望」というよりはむしろ希望に近いものの様な気がする
のです。

甘すぎるかなあ?

アントニアの死が幼いサラに残したものも同じかもしれません。ひょっとした
ら「偶然」かもしれないけど、冬の次には、やっぱりかならず春が来るのです。
97/08/02(土) 22:11

「アンナ・オズ」

シャルロット・ゲンスブールは大好きな女優で、しかもパーツ・フェチの僕は
彼女の異様に長い首の大ファンです。

そんな僕にとって「アンナ・オズ」は最高の映画でした。

「悩める乙女」と「魔性の女」の二つの顔を使い分け、ミステリアスで圧倒的
な存在感。夢と現実が入り乱れる幻想的な雰囲気。そう言えば、彼女の目はい
つも白昼夢を見ているような目です。

そして、何と言っても首。今回は十分に彼女の首の美しさを堪能しました。異
様に長い。そして首の先にある彼女の顔は妙に口が前に突き出ているので、よ
り一層彼女の首のなだらかな曲線が強調されています。

ひょっとしたら、この監督も首フェチではないんだろうか。いや、そうに違い
ない。
とにかくもう一度見に行くつもりです。今度は首以外の所もきちんと見よう。

P.S.
目玉フェチの人も楽しめる映画です。
97/08/02(土) 22:46

「活きる」

影絵芝居でグォ・ヨウが発するしぼり出すような声、博打のサイコロを振るカ
ラカラという音、幼い娘に引かれるように雑踏を走るグォ・ヨウ。躍動感のあ
るまさに活き活きとした予告編を見たときから楽しみにしていました。

やはりグォ・ヨウが素晴らしかった。仕事には身が入らないが、育ちのよさが
染み付いていて人当たりが良く、決して他人を不愉快にさせない典型的な大棚
の若旦那タイプ。日本の時代劇などでもこのタイプの中には舞や唄などプロ顔
負けの才能を持った人物などがよく出てきますが、この映画の影絵芝居も見事
でした。「風の丘を越えて」で見た韓国のパンソリの発声法も思い出しました。

40年代から60年代の中国を舞台に映画を撮るのなら、どんな人物を主人公
にしても国共内戦から文化大革命までの政治的な動きと無関係ではいられない
のでしょう。但し、この映画の登場人物たちはどんなに歴史や政治に翻弄され
てもそれを批判したり、自分とかけ離れた所で起こっている大きな出来事を嘆
き悲しんだりはしません。

思えば物語の最初の方で息子の借金を潔く払う父親もそういう人物だったので
しょう。運命を嘆き悲しんだりしない。そのことが何の意味も持たないという
ことをいやというほど知っているから。恐らくはそれを口にした途端、やって
来るのは自らの身の破滅なのでしょう。時代の流れを呪うものに対して歴史は
どんな手加減もしないということをこの国の人たちは長い長い時間をかけて悟
ったのではないでしょうか。
家を失い、息子を失い、娘を失って、それでも決して恨み言など口にしない人
々。生き抜くことだけが彼らにとって唯一の抵抗だったのでしょう。

政治と距離を置き、自分や自分の大切な人々と共に生きることを唯一の喜びと
する生き方。政治に頼ることはしないけれど、決して屈服もしない。この国の
人たちが身につけた生き方は歴史的であると共に実は極めて現代的な生き方だ
ということを気がつかせてもらいました。
02/04/13(土) 01:47

「ICHI」

「綾瀬はるかちゃんを見る!」
という明確な目的で見に行って、きっちりその目的にだけ応えてもらった。

もう怖いものは何もない!
次は「ハッピーフライト」だ!
2008年11月13日19:23

「いちばん美しい年令」

昨年の「太陽の少年」以来“青春の残酷さ”というテーマには非常に惹かれる
ものがあります。今回はフランス流の残酷さを堪能しようと劇場に足を運びま
した。

クロードとデルフィーヌ、二人のヒロインの最初で最後の短い会話の中にも、
しっかりと残酷さが描かれていました。クロードは初対面のデルフィーヌに対
して学校生活の心得を忠告し、帰り際に「あなたは合格する。」と言い残しま
す。まるで、先の事が分かっているかのように。
「先の事が分かっている。」
その事こそが、この映画に描かれている「残酷さ」の根幹です。

言葉遊びのようですが「先の事が分かる残酷さ」とは「映画の残酷さ」の根幹
であるとも言えます。デルフィーヌがクロードの残した"ビデオレジスタンス"
というフィルムを通じて、ブラウン管を通して、彼女の見た未来を知り、自分
の未来を知るシーンは象徴的でした。このシーンは、普段は「先の事が分かる
こと」を映画として楽しんでいる観客に、デルフィーヌが味わったのと同じ残
酷さを突きつけてきます。映画がスクリーンに、ビデオがブラウン管に、映し
出す映像が観客自身の未来を象徴しているとしたら、それは必ずしも光り輝く
未来とは限らないのです。

「人生の最初の三分の一は宿題に苦しみ、次は生活苦、最後は旅行三昧。でも
最初の三分の一が最良と思わせるもの、それが青春。」

そうカメラに向かって独白するクロードは、それでも「自分の知らない未来」
を信じたかったのです。何度も諦めかけて、それでもやり直そうとしながら。
しかし、結局彼女の目の前に広がる未来は彼女には見えていた事ばかり。現実
が残酷であるばかりでなく、その現実が先に分かってしまうという二重の残酷
さを彼女は抱え、自ら命を絶ちます。


昨年見たオランダ映画の「アントニア」に"曲がった指"という男が出てきます。
彼は
「一番良いのはこの世に生まれてこない事だ。その次に良いのは死だ。」
「私たちを苦しみ悲しませる災いは全て偶然に起きる。こんな不条理には我慢
できない。」
と言い残して、首を吊ります。

運命という偶然に最初から決められた悲劇を強要される事を避けて、自ら命を
絶つクロードを見て、僕は彼の事を思い出しました。

クロードの予言どおり、合格するデルフィーヌ。彼女の顔は一瞬ほころびます
が、やはり晴れません。果たして彼女にだけは「誰にも分からない未来」が広
がっているのでしょうか?

時はベルリンの壁崩壊の頃、「見た事のない自由」を求めて人々が向かう花の
都パリには、実は彼らの望んだ自由はありませんでした。少なくともパリにあ
る、あるエリート進学校には。
98/01/12(月) 00:37

「いつまでも二人で」

ついに今日(というほどの感慨もなく)30代に突入した僕は映画の中の二人
とほぼ同年代。U2の「With Or Without You 」は僕のベストヒット集の中
の一曲でもあります。

ウィンターボトム初のロマンティックコメディは見方によっては陳腐なテレビ
ドラマのようでもあり、これがウィンターボトム?と言いたくなるような出来
だとも言えるかもしれません。
でもしばらく映画を見続けているうちに、今となっては陳腐なテレビドラマで
もお目にかかれないような30代前後の夫婦の滑稽なドタバタ劇が、かなりリ
アルであることに気がつかされます。彼らと同じ年代にいる自分は、そんな陳
腐なドラマを軽く笑い飛ばすことにも慣れているのですが、ふと振り返ると自
分の周りがいつの間にかそういうもので溢れ返っている。
たとえば「別にその気がない人とはセックスできるのに、パートナーとの間に
子供が欲しいときには人工授精(しかも他人の子)」みたいな世の中。

この映画では「軽く笑い飛ばしてしまえること」を後から後から反芻したくな
ってしまうのです。「これは映画なんだ!」と笑い飛ばしてしまった後に、
「いや、待てよ。これは映画ではないかもしれない。」と何度も何度も自問自
答してしまうような感じ。これはもう完全に「ウィンターボトム的な居心地の
悪さ(居心地の良さ)」そのものであると言ってよいと思います。
上辺だけの「ウィンターボトムらしさ」を常に壊しつづけリアリティを追求す
る彼の姿勢がよく出ています。

僕にとって一番笑えたのは、彼らが会話やセックスでなく、昔書いた手紙や、
わざわざ目の前にいる人に書いた手紙で自分の思いを伝えようとする所です。
彼らは会話やセックスでは自分の気持ちとは必ずしも合致しない行動をとって
しまうのに、手紙の中でだけは正直に真摯に真実を語ろうとします。そしてそ
れを読む方も同じように相手の気持ちを素直に受け容れていく。不自由だらけ
のツールを使ったときにだけ彼らは本当に通じ合えるのです。
「一番笑えた」というのは勿論「一番笑えなかった」ということになるのです
が・・・。

ウィンターボトムは同時代を生きている人々の「失ったもの」「欠けているも
の」を本当によく知っている人なのだなぁと思います。
それは裏返せば同じ人々が「失うことなく持ち続けているピュアなもの」もよ
く知っているということなのでしょう。
彼はそんな「絶望」と「希望」を等しく見つめ、いつも感情に流されることな
くリアルに映し出そうとしています。



ひとりで映画を見た後、妻と待ち合わせをして二人で30代最初の日をお祝い
しました。
00/11/20(月) 23:59

「イン・ディス・ワールド」

決死の脱出行の合間に見えてくる、剥き出しの自然に僕は一番心を奪われまし
た。ゴツゴツした荒野や、見渡す限りの砂漠や、厳しい吹雪や・・・。
16歳にしては、やや華奢に見える体格と16歳にしてはやけに大人びて見え
る表情の両方にその境遇を強烈に感じさせる少年。少年の目には、あの風景が
キチンと見えていたのでしょうか?映画の中には彼が行く先々の、そうした自
然に心を動かされるシーンが出てきます。でも、本当は彼の周りにはもっとも
っと沢山の美しい光景が広がっていた筈。酸欠で命を落としかけ、コンテナか
ら飛び出し、走って逃げる彼の傍らには綺麗な海が広がっていたに違いありま
せん。
極限状態の中で、彼が見る事の出来なかった風景、極限状態だからこそ彼が触
れることの出来た自然の美しさ。その両方にドラマとドキュメンタリーの枠を
越えたリアリティを感じました。

ウィンターボトムの新作の噂を聞いたとき、僕は以前の彼の作品「ウェルカム・
トゥ・サラエボ」の事を思い浮かべました。主人公が辿る結末という点など似
ている所が多いのではないかと思っていたのです。
確かに似ているところもあるにはあったのですが、そこはさすがにウィンター
ボトム、やはり全く違った懐の深さを見せてくれていました。
03/12/07(日) 10:42

「インデペンデンス・デイ」

冒頭、宇宙からの電波を受信する男の部屋で流れているのはR.E.Mの
「Its The End Of The World As We Know It(And I Feel Fine)」です。

皆知ってのとおり、世界が終わりを迎える。でもって、僕はとっても気分がい
い。

冒頭のこの曲でこの映画の魅力はぜーんぶ言い表されているでしょう。それに
しても、そのまんまの意味でこの曲を使うなんて・・・。

そのまんまといえば邦題の「インデペンデンス・デイ」ですが僕はずっと「イ
ン"ディ"ペンデンス・デイ」だと思っていました。まさかローマ字そのまんま
の読みだなんて・・・。

映画自体は楽しめました。
96/12/20(金) 01:50

「インファナル・アフェア」

よく練られたシナリオで、僕は今までの香港映画にはない経験をさせてもらえ
ました。そして寡黙な表情が絵になるトニー・レオンの魅力は相変わらず際立っ
ていました。
ヤンがモールス信号で警視に情報を送りつづけるシーン。それぞれが手下を潜
入させている事に気がつくシーン。取引のシーンのリアルタイムのやり取りの緊
迫感が一番のお気に入りです。

死んだ人間は安らぎを得て、生き残った人間の苦悩は続くというハードボイル
ドの常道。死んで彼女と結ばれたヤンと、生き残って彼女を失ったアンディ・ラ
ウの対照もまた渋い!

そして脇役たちの顔がまた良い。石橋凌を崩したようなマフィアのボス役、ヤ
ンを助ける手下役、それから天知茂風の警視。レオンだけでなく、皆、言葉を発
しなくても十分に存在感を持っていました。

この映画のリメイク権はブラピならずとも買いでしょう。
03/10/15(水) 15:00

インランド・エンパイア

どこをどう切り取ってもリンチにしかならない映画を撮るのがリンチ。もはや
僕には理解不能ですが、でもリンチワールドにとっぷり浸れる3時間は決して
悪くありませんでした。
2007年10月04日20:17

「ヴァイブレータ」

彼女は彼を食べた。彼は彼女を食べた。でも吐いてはいない。キチンと噛んで
食べ、消化して、おしっこをする。だから行きずりの愛ではあっても、吐いて
捨てる関係では決してない。

感情にまかせて食べる事はそんなに難しい事ではない。その気になれば、どこ
にでも食べるものは転がっている。コンビニ、無線機、自販機、シャブ、ホテ
トル、ストーカー、電話の恋人・・・。
でもそれを自分の体の中に受け容れて、キチンと噛んで消化して血や肉にする
ことは、時にとても難しい。皆が普通に出来る簡単な事だからこそ、難しくて、
頭の中の声に責めたてられて・・・。だから拒絶される前に、自分でその関わ
りをシャットアウトしてしまう。そうすれば、今の自分だけは、守る事が出来
るから、その夜だけはグッスリ眠る事ができるから。

無線で繋がる仲間たちには、自分の中の守りたい自分だけを見せてあげればい
い・・・中卒工務店、ホテトルのマネージャー、シャブの運び人・・・。誰か
が自分を遮って大きな声で喋っている時は、じっと耳を澄まして、遠くの声だ
けを聞いていればいい。それも辛くなった時は「ヒュー」って口笛を鳴らして
切ればいい。喉に指を突っ込んで吐き出してしまえばいい。

だけど目の前にいる大切な人は肩を震わせて泣いている。冷たくなった肩を震
わせて泣いている。
目の前にいる大切な人は肩を抱いてくれる。そっと、優しいお湯をかけてくれ
る。
お互いに食べて吐いてしまう関係にする筈だったのに。

本当の自分は、自分以外の物を自分の中に受け容れることによって、作られて
いく。取り戻していける。
長旅で疲れた彼女の疲れた顔が、コンビニの明かりに照らされて見えた。口元
や目元が不器用な曲線を作って波打っていた。とても可愛く見えた。
トラックの中の彼もきっと同じ顔をしていたと思う。これは決して“女性の話”
ではないと思った。
04/01/12(月) 21:29

「ヴァージン・スーサイズ」

胸がギュッと締めつけられて、その胸の真ん中あたりからジワジワとしたもの
が込み上げてくるような、そんな感覚を久し振りに味わいました。

電話線を介してだけ通じ合える少年達と少女達。彼らはそれでも生身の声を発
することなく自分の思いを伝えるために次々とレコードに針を落とします。そ
れに応えて彼女たちもまたレコードを手にとります。難を逃れた“ロック以外
の”レコード達。
自分の大切な人に自分の大事な歌や詩や映画を贈りたいと思ったことはありま
せんか?僕はあります。
自分の気持ちを伝えることも相手の気持ちを理解することも出来ない未熟さ、
そして、もどかしさを感じながらも決してそれを止めない愚かなひたむきさ。
そんなものたちをきちんと描いている映画が僕は大好きです。

元来映画にはそうした未熟さ、不完全さ、もどかしさ、愚かなひたむきさが溢
れています。映画という表現手段を世に問うことによってしか関わり合うこと
の出来ない作り手と受け手。
そんな思いを映画にしのび込ませる小道具としてレコードや電話が世界中の優
れた映画監督達に好んで使われて来ました。このシーンはその両方を旧来の映
画文法の枠を外すことなく配置し、なおかつ他のどのシーンよりも鮮烈で印象
的です。

「僕たちは騒々しいだけの子供で、少女ではなく大人の女であった彼女たちの
考えの深さや彼女たちが死を選んだ理由を全く理解していなかった。」

少年時代を回想する形式で語られる台詞ですが、しかしこの映画は、未熟さを
若さだけによるものとは捉えていません。少なくとも姉妹達は自分が自分の気
持ちを完全に理解できているなどとは思っていなかったし、そんな事に興味を
示している様子すらありませんでした。何故だろうと考え続ける少年達と形こ
そ違え、彼女達は決して何もかもをわきまえた大人の女性などではなかった。
そんな少女や少年達から感じられる空気。
人や人の気持ちは不完全で不可解で不自然だということ、それらが全ての人間
に普遍的なものではないかという問いかけがそこにはあります。
どうしてコッポラはこんな問いを発したのでしょうか?そこには彼女たちの対
極、即ち理解できることだけを真実とし、それ以外のものを切り捨ててしまお
うとする考え方が見えてきます。
テレビレポーターが臨場感たっぷりに伝える事実だけが真実だというような大
いなる錯覚が彼女たちにああした問いかけをさせたのではないでしょうか。
「本当にそうなの?目に見えるもの、理解できることだけが真実なの?」と。

大人達は自分達の理解できないことに対処するために、自分達の理解できるル
ールを押し付けようとします。セシリアの死後、学校が作った「刺激的でなく
“適切な”緑色の本」。自分達で勝手に守備範囲を決め、線引きをし、そこを
越えるものは不可解なもの、理解しようとする努力を放棄していいものとして
処理しようというわけです。
大人達だけではありません。「緑色の窒息パーティー」では若者までが「俺達
は悩める十代だ!」と自らをステレオタイプ化することで正当化しようとさえ
し始めます

彼女たちはそんな時代の到来を予感していたのでしょうか?
彼女たちが未熟な少年達に最後のメッセージを送った理由が僕にはよく分かり
ます。彼らは愚かだけど、自らの愚かさと愚かさゆえに理解できないことから
逃げ出したりしない(逃げ出せない)から。
パンフレットの中だけの世界旅行。空想の中でだけ思い出を共有できる少年達
と姉妹。そんな彼らのことを「欠けている」と言うことはた易いのですが、そ
う言った人達の中に「自分も欠けているということ」をきちんとわきまえてい
る人は果たしてどれほどいるでしょうか?

タイトルでも明らか、常に姉妹の自殺を匂わせながら、そして実際に姉妹達が
不条理な死を選ぶこの映画が僕の中に「救いのない虚しさ」以外の余韻(むし
ろそれとは正反対のもの)をいつまでも残しているのは何故だろう?
束縛された自由が彼女たちの純粋さを守り続け、(多くの若者のように)純粋
さと引き換えに「見せかけの現実」と妥協することを彼女たちが選べなかった
のだとしたら、それは辛いことでもあり、希望でもあるような気がします。



偉大な映画監督の娘としてのソフィア・コッポラ論やマルチな才能を発揮する
現代女性(カッコイイ女性)の代表としてのそれを語るだけではあまりにも勿
体無い。
この映画には一個の作品としての「ヴァージン・スーサイズ」について語るだ
けの価値が十分にあるのですが・・・。

抑圧され、制限された不自由の中での無限の自由
姉妹達の無限の想像力は優れた表現者としての「映画監督ソフィア・コッポラ」
の中にも同じように存在しています。
「親の七光り」などで得ることの出来る自由とは比べ物にならないほどの不自
由を彼女は味わってきたのでしょうか?それとも少女の無限の想像力を今でも
失っていないのでしょうか?
いつも女の子が何を考えているか分からない男の子だった僕には、そう簡単に
彼女の事を理解出来るわけもありません。
00/06/01(木) 21:50

「ウィンター・ゲスト」

凍てつく氷の世界。生き物が皆息を潜めている静寂のなかでは、そこに生きて
いる者の生の鼓動が聞こえてくるようです。きちんと耳を澄ませば。

「生きる」ということをこれほどまでにありとあらゆる角度から描いている作
品はなかなかないのではないでしょうか。「生きる」という行為が必然的に死
に繋がっているということも含めて。

人生の様々な局面にいる登場人物達。僕は遠眼鏡で人々を観察するように老境
に差し掛かったエルスペスが達観した目で人々の生を見つめているように最初
は感じていたのでした。
しかし、この映画で描かれていた死生観は、「全ての生きている人々は皆同じ
ように生に執着し、死に憑かれ、死に憧れ、死を恐れて、死に立ち向かいなが
ら生きているのだ。」というものでした。

生の終着点としてでなく、常に生の裏側に位置している死。独りで歩かなくて
はいけない凍り付いた道だと分かっていても、それでもそっと手を差し伸べ合
える連れが側にいて欲しいと思わずにはいられませんでした。

「手につかまって。絶対に倒れないと私が保証するわ。信じて。倒れないわ。」

何かを欲しながら、何かを恐れながら・・・・・、凍てつく冬のほんのわずか
の晴れ間のような一日、そんなたった一日でも、自分の道連れとしてこの世に
存在している大切な人と見たい映画でした。
98/06/16(火) 23:35

26日までの上映ということで、本日もう一度見に行きました。

オリジナルが戯曲だということもあり、非常に練られ、良く出来た脚本だと改
めて感じさせられました。

世代や関係の違う2人ずつのシーンでほとんどが構成されているのですが、ま
ず舞台の限定の仕方が非常に上手いです。フランシスの家、灯台、浜辺、それ
からバス通り、サンドイッチ屋などに二人ずつが絶妙のタイミングで現れます。
それから、バスを待つ老女が新聞の死亡記事を見ながら「最後にあった時、あ
の人はケーキを食べていたわ。」と語るのですが、映画の後半では今度は二人
がケーキを食べていたりして・・・。

他の方の感想にはあまり出てこなかった若い二人、特にニータ役のアーリーン・
コックバーンは僕の中には鮮烈な印象を残しました。
若い頃のイザベル・アジャーニをポッチャリさせたような彼女(と言ったら誰
か怒るだろうか?)このポッチャリはフランシスの若い頃を語るエルスペスの
台詞と繋がっているのでしょう。
冒頭の雪道を走るシーンから、既に彼女は「若い生命」の代表選手としての役
割を担うのですが、彼女のその若い生命は死に対しても真っ向から戦いを挑み
ます。それは「死を恐れる」ということを越えていました。

凍りついた海の上を歩こうと彼女は言います。

「今日が人生最後の日かもしれないのよ!」

しかし、だからこそ彼女は死を恐れず真っ向から立ち向かえるのです。彼女に
とって「死と戦う」ということは死を恐れて、誰かと抱き合ったり、愛情を確
かめ合ったりするようなことではありません。
彼女はアレックスから写真を取り上げて、捨ててしまおうとします。飛び散る
ガラスの破片に傷つき彼女は血を流します。その赤い血からさえも、彼女の、
死に戦いを挑む若い生命を感じないではいられません。このあたりは灯台で転
んで膝から血を流したエルスペスとの対比なのでしょう。
ニータには「今日が人生最後の日かもしれない。」という潔さと「私の若さは
永遠のものだ。」というたくましさを同時に感じることが出来ます。相反するこ
の二つの感情を体中に漲らせることが出来るのが若さということなのでしょう。
そっけない態度でアレックスと別れる彼女、ふと振り返る彼女の表情には若さ
ゆえの潔さ、逞しさがあらわれていました。
98/06/24(水) 22:51


「ヴェラ・ドレイク」

「僕は許す。僕は許すよ。」って呪文みたいに何度も唱えていました。映画が
終わってもしばらくずっと。

「ありがとう。感謝している。今日は人生最良のクリスマスだ。」
決して感情を表に出すことのなかった彼の言葉が忘れられません。感情をスト
レートに表現しなかったのではなくて、上手にそれを出来なかった。マイク・リ
ーの映画には、そういう登場人物たちが沢山出てきます。と言うか、そういう人
たちしか出てこない。見ていると少しイライラして「大丈夫なの?」って思った
り、「しっかりしろよ!」って思ったり。いつも最初は彼らのことを見下ろしな
がら見始めるのですが・・・。最後はいつもカウンターパンチ。

彼の一言と、それから母に代わって祖母の世話をするという娘と、あとはラス
トシーン。何も言わず、いつもと同じ食卓を囲んで母の帰りを待つ家族たち。刑
期が半分で終わることよりも、もっと大切なもの。良質のイギリス映画だけが見
せてくれる究極の希望が間違いなくそこにはありました。
05/09/18(日) 14:15


「ウェルカム・トゥ・サラエボ」

この監督ほど「ありのままの真実を伝える」という信念を感じさせる人は、あ
まりいません。これはケン・ローチなどから続く系譜なんでしょうか。真実を
伝える為にストーリーに奉仕するキャラクターを徹底的に廃し、全ての事物、
特に男女の愛情関係を即物的に描く姿勢には、いつも圧倒させられます。

そんな彼が、「ジャーナリストの映画を撮る。しかもサラエボ紛争を舞台にし
た映画を撮る。」と聞いた時、僕は「この人はまた、新しい挑戦を始めたのだ
なあ。」と思ったのでした。
「物事のありのままを伝える。」という意味でのリアリティを追求するジャー
ナリズムを、否定しても肯定しても、違う方法論で同じ目的を目指している彼
にとっては自分の首を絞めることになりかねないのだから・・・。

彼は「自らのリアリズム」に徹しながら「もう一つのリアリズム」に対してど
んな答えを見出したのでしょう?

手法がテレビであれ、映画であれ、それらの提示する現実には「送り手」と
「受け手」が本来存在するはずです。しかしウィンターボトムは、その事に対
して疑問を投げかけています。

「送り手」と「受け手」の関係の中に客観化されている現実が、実は全ての人
にとって唯一無二の現実の一部なのではないか?という疑問です。
送り手の側に、倫理的な制約などありません。受け手の側にも説教臭い示唆な
どしていません。彼の疑問はどちらかというと「挑戦」、送り手と受け手の双
方に対する「挑戦」と感じられます。

スクリーンやブラウン管の中の現実に対しても、それに関わった全ての人間が、
何らかのアクションを既に起こしているのです。その全てがその現実の一部で
もあるのです。
ある者は銃弾に倒れ、ある者はそのシーンを記録し、ある者はそれを目にしま
す。どこか遠い国の、不幸な出来事として。

前作までの姿勢も健在です。

電話で再会を果たした実の母親に対して英語で受け答え、「私は幸せだから。」
と言い切るエミラ。
「愛情という現実」はいつも僕たちの安っぽい想像や幻想を越えています。
98/07/27(月) 00:21

「ウォーター・ボーイズ」

意地と勢いともののはずみだけで何かに夢中になれる、何かをやり遂げること
が出来る。そんな時期が一生の中にほんの限られた一瞬だけあるとしたら、誰
でもが思い出すのはあの頃の、あの暑い、あの夏の日なのではないでしょうか。

漫画のようではあるが決して自分とはかけ離れていない親近感。そう、多分漫
画だったのだと思います、あの頃の僕たちも。

かっこつける必要なし!偉そうに構える必要なし!

映画としても青春としても「これでいいんだ!」って心から思うことの出来る
清々しい作品でした。

「フルモンティ」でもあり、「Shall we ダンス?」でもあるこの作品、誰で
もが指摘している編集の上手さは僕も認めているのですが、キャスティングに
も随分助けられているような気がします。
そう言えば揃って「Shall we ダンス?」にも出ていた竹中直人と柄本明の二
人、やり過ぎだという声も方々から聞こえてきそうですが、逆に言うと、それ
くらいやってくれないと彼らを使う意味がなしということになると思います。
間違いなく日本映画に欠かせない人々です。

つべこべ言わずに見て笑う。何度でも見たくなる。久し振りに出会った元気で
ノー天気な日本映画でした。あぁ、も一度見たい(^_^)
01/11/29(木) 23:31

「ウォレスとグルミット」

技術、手法の善し悪しと作品の善し悪しを混同してはいけないと、妙に警戒感
を持って映画館に足を運びました。「トイ・ストーリー」を見た時、何となく
そういう釈然としないものを感じたものですから。

当日は、休日だったこともあり、会場には子供連れの方がたくさん来ていまし
た。映画好きでも、家族サービスはあまり好きでなかった親父が、珍しく子供
の頃に連れて来てくれた映画のことを思い出しました。(確かナンチャラ・カ
ンチャラグランプリとかいうお話で、模型を使ったアニメだったような気がす
るのですが・・・。「ぴあ」のビデオガイドで調べたら「ピンチクリフ・グラ
ンプリ」という75年の作品でした。筋は覚えていませんが、とても面白かっ
たのは確かです。)この日会場に足を運んでいた子達の中からもEEMのメン
バーがきっと出てくることでしょう。

あの日の感激を思い出させてくれるに十分な、ハラハラ、ドキドキ、可愛くて、
可笑しい、元気になる作品でした。「これがイギリス流なのかな?」と思わせ
る良質のジョーク(雰囲気で笑わされているのか、計算づくなのかよくわから
ない)が独特の質感とテンポで次々と繰り出され、少しも飽きさせません。

「ペンギン」のダイヤモンドを盗みに行くシーンと、ラストのチェイスシーン
は、もう「ミッション・インポッシブル」顔負けという感じで、手に汗を握り
ました。やはり、脚本自体がよく出来ていました。

クレイアニメーションという手法は何と言うか、デジタルとアナログが奇妙に
入り交じっているという感じで、本当に独特な味がありました。これは監督の
力によるものなのかもしれませんが、その手法の中から僕は「小さいもの、物
言わぬもの、古いもの、弱いもの」への興味や愛情、優しい眼差しのようなも
のを感じました。それは、小学校にもまだ行っていないあの頃、多分僕も持っ
ていた眼差しです。そして当日、たまに奇声をあげたりしながら、映画を見て
いたあの子達にも。あの頃、自分の周りにあるものはどんなものでも生きてい
るような気がしたし、友達になってくれたり、命がけで闘う相手になってくれ
たりもしたものです。

言うまでもなく、「トイ・ストーリー」の時に感じた釈然としない気持ちはこ
の映画ではかけらもありませんでした。技術・手法に血が通っていると感じら
れました。


余談
渋谷で最近見た予告編、ピーター・ガブリエルの「スレッジ・ハンマー」がB
GMに流れていました。彼の「Big Time」も合わせ、当時「ベストヒッ
トUSA」で小林克也が、作者は幼児向け番組出身の人だと言っていたように
記憶していました。まさかこんな形で再会することになるとは思いもしません
でした。
本編に先駆けて「スレッジ・ハンマー」を映画のスクリーンで見られたのも感
激。僕の田舎では一週遅れで放送されていた「ベストヒットUSA」を毎週録
画して、何度も何度も繰り返し見ていたのを思い出しました。

この映画、僕にとっては思いがけない「のすたるじっくむーびー」でありまし
た。
96/09/17(火) 20:59

「浮き雲」

奇妙な印象が残る映画です。でもその奇妙さが心地よい。

僕が今まで見てきた映画のなかで一番似ているのは「ファーゴ」かもしれませ
ん。殆ど感情を表に出さず、映画らしい大演技がひとつもないこの映画ですが、
にも関わらず、と言うより、だからこそ
「人間は悲しくておかしい」
ということがじわじわと伝わってきます。

結果として残る余韻は最初に書いたとおり「ファーゴ」とは正反対のものでし
た。「ファーゴ」を見た後には重い虚無感みたいなものが、いつまでも残って
いたのに対して、ほんの僅かな最後の希望を胸に肩を寄せ合って空を見上げる
夫婦からは嘘臭さが全くない、幸福のようなものを感じました。

余談ですが、レストラン「ワーク」の最初の客は恰幅の良い男性でした。去年
見た「パリのレストラン」によれば、開店して最初の客が男性だとその店は成
功するということですので、きっとこの店も評判になり、この後繁盛したのだ
と思います。
97/08/15(金) 01:17

「渦」

グロテスクな魚が語り部となる一風変わったお話という前評判を聞いて劇場に
出かけました。

全編を貫く水や血のイメージは統一感があり、映画の世界を大きく広げていま
した。予告編や前評判から期待していたものに十分答えてくれていました。こ
うしたイメージの世界にどこまでも入り込み、前衛的な作品にしてしまうこと
も可能だったのではないでしょうか。もしそうなっていたとしても僕は少しも
怒らなかったでしょう。

しかし、この作品はそうしたイメージの世界を脇に追いやり、「一人の女性の
成長の物語」として見事に成立しています。予想していたよりずっと直球勝負
でした。

「貴方と寝たいの。」

容姿端麗で経済的にも恵まれているヒロインが実は自分の感情を素直に表現す
ることが極度に苦手な人物であるという設定は決して珍しいものではないので
すが。虚言症の彼女はきっとそれまで本当に好きな男性にその気持を伝えたこ
とがなかったのでしょう。また彼女のことを本当に大事に思ってくれる相手も
なく、彼女の体や財産を目当てに言い寄ってくる人物は大勢いたのではないで
しょうか?彼女は本当に癒される男性に出会って自分から思いを伝えたことが
なかった。だからあの唐突な言葉に繋がっていったような気がします。

全ての人物がどこかで微妙に繋がっているという設定も好きです。「魚」の使
い方や彼女の部屋の「トイレ」の使い方などもいいです。それから地下鉄のホ
ームとバーで登場し、味わいのある余韻を残して去っていく太っちょの男も効
いてました。

器用に印象的なイメージを繋ぎ合わせる作品に逃げることをせず、映画にも登
場人物たちにも愛すべき不器用さのようなものが漂っていて、僕にとって、と
ても後味の良い作品になりました。
01/08/30(木) 22:24 

「打ち上げ花火下から見るか横から見るか」

「打ち上げ花火」・・・一人で見るか。あの娘と見るか。

つい最近、高田馬場で見ました。その後発売されたばかりのビデオで復習。

「今度会えるの2学期だね!楽しみだね。」

ナズナはあの時、自分が夏休みを最後に転校してしまうことを知っていたので
しょうか。もし知っていたとしても、そして知らなかったとしても、こんなに
胸がキュンとなる言葉はありません。
まちがいなく言えるのは、この日の出来事をきっと彼女はずーっと忘れないだ
ろうということです。人生でもっとも多感な年頃、両親の離婚に少なからず傷
ついた彼女、裏切られる血筋のはずの自分ををノリミチは決して裏切りません。
手をつないで逃げます。一緒にバスに乗ります。トイレにだって付いて行きま
す。切符まで買おうとします。夜のプールに忍び込みます。そして墨汁のよう
な水の中を一緒に泳ぎます。
困って、戸惑ってどうしていいかわからなくても決して彼女を裏切りません。
どこまでも付いて行きます。
彼女にとってはそれだけで良かった。そんなちっちゃなナイトのことを彼女は
誰よりも頼もしいと思ったことでしょう。
ちょうどあの頃、一足先に大人になる女の子をちょっぴりもどかしく、ドキド
キと「下からみる」しかない男の子ですが、ノリミチはそれでもビシッと決め
てくれました。ほんとにカッコ良かった。

「マコトと三浦先生の結婚を祝してーーー!」
ぼん!ひゅるるるーーシュパ!

花火師のやっさんは幼なじみとフィアンセのために飛びっきりの花火をサービ
スします。ノリミチとそしてスタンドバイミーしてた悪ガキ4人組はどんな気
持ちであの花火を見てたのでしょうか。
やっさんもかっこよくて、好きです。悪ガキ共もきっとやっさんみたいなかっ
こいい男になる事でしょう。

そして、ナズナも一人どこかであの花火を見上げていたのでしょうか。たとえ
そうだとしても、そしてどこに転校してしまっても自分は決して一人ぼっちじ
ゃあない、きっとそう思えたことでしょう。ほんとに良かった。

もちろん「映画は一人で見る派」の僕です。
96/7/26 2:15

「うなぎ」

僕が予想していたよりずっと登場人物たちは饒舌でした。ちょっと喋りすぎで、
こちらがあれこれ考える余地はあまりありません。映画的なストーリーの為に
魅力的・個性的な演技陣が与えられた役目をきっちりこなしている、卒のない
映画です。良くも悪くも"若くない感性"を感じさせる映画でした。

セックスに、生殖行為以外のあれやこれやの意味を求めるのは多分人間だけで
しょう。自分の罪を正当化する山下に迫る柄本明。圧倒的な存在感のある怪演
でしたが、演技の迫力だけでなく本質をうまく言い当てていました。

山下が妻を殺したのも、桂子が堂島に利用されてしまうのも、そういう人間の
行為の結果としてです。で、それは人間が高度に知的な生物であるからこそ可
能な行為のはずなんですが、結果としては、より原始的なうなぎと同じ選択を
し、うなぎと同じ様な運命を受け容れることになります。セックスの意味付け
という行為の一種の愚かさを知っているというか、その事で痛い目に会ってい
る二人にとっては、お腹の中の子が誰の子かということは大した問題ではなく
なってしまっています。

愚かで未熟な人を描きつつ希望的な結末をきちんと用意するあたりはウマイと
思いましたが、同時に胡散臭さのようなものを感じてしまったのも事実です。

ただ、お腹の子供のことを考えてみれば、現実問題としてきちんと子孫を残し
ているのは「セックスが上手いだけの」堂島です。やっぱり人間もうなぎとど
こも変わらないのでしょうか。

まあ、そういう事だけに注目すればの話ですが。
97/06/10(火) 20:36

「海の上のピアニスト」

J.アイヴォリーの「サバイビング・ピカソ」を思い出しました。

ピカソが愛し、ピカソを愛した女性たちは皆、時間の流れを止めてしまう彼の
魔法の虜になってしまいます。たった一人の例外を除いて。

時間を止めてしまう魔法の正体は本人にも分からないものです。止まった時間
の中にいる本人にとってはそれは魔法でもなんでもないから。それを本当に理
解し、そして語り継ぐことの出来る人は魔法によって止まってしまった時間の
外と中の両方に身を置いたことのある人だけです。

トルナトーレの映画には時間を止める魔法が溢れています。それはいつもでも
変わらぬ愛で永遠にたった一人の人を愛し続けること。
彼は自分自身をピアニストに投影させたのでしょうか?恐らくそうなのでしょ
うが、でもそれだけではない筈です。
見知らぬ人に電話で話しかけようとするピアニストのように、彼は見たことも
ない誰かとも関わろうと願い続けているのではないでしょうか。「止まった時
間」の中に住む人と「流れる時間」の中で生きる人、それぞれがそれぞれに
「無限の愛と悲しみと孤独」を抱えています。その両方を知る人にしか「魔法
を語る」事は出来ないから。

映画は魔法をかけることでなく、魔法の正体を知り、語ることだと彼は信じて
いるのでしょう。だからこそ時間を止める魔法を見せてくれた「ニュー・シネ
マ・パラダイス」のあとに「明日を夢見て」で時間の流れの残酷さを語らずに
はいられなかった。
「海の上のピアニスト」ではその二つの役割を1900とマックスという二人
の男に見事に担わせています。

衣服こそ乱れていても年令を全く感じさせない1900に対して、どこから見
ても冴えない中年男のマックス。しかし、友の死を見届けて、また時間の流れ
の中に戻って行く彼の背中はどこまでも強く、トルナトーレの覚悟を誰よりも
ハッキリと語ってくれていました。
それは(魔法の力を知りながら)魔法とは無縁の、しかし残酷な時間の流れで
生き抜くことの出来る強さのようなものでした。
00/02/06(日) 00:26

「エヴィータ」

事前の報道や前評判を参考にするまでもなく、エヴィータとマドンナが重なっ
てしまいます。どちらを主語にしてもいいくらいです。

エヴィータが病床から夫のペロンに語ります。

「私は昔のようにもうあなたの役に立つことはできない。」

このシーン大好きです。男女の愛情を語るのにどちらかがどちらかの役に立つ
か立たないかなんて言うことは問題ではないはず。でも彼女は敢えてそういう
事を男女の間に求め「ありがとう、さようなら。」と次から次へと男のもとを
去っていったのでした。
このシーンでは初めて、そしてただ一度だけ違う感情を口にします。
「自分が男にとって、役に立つ存在であるということを証明していたかった。
そうでないと私の本当の気持ちを見透かされてしまうから・・・。」
どちらが彼女の本性なのかは分かりません。それは大した問題ではないでしょ
う。ただ、彼女が死を目前にして弱音を吐いたのだとはどうしても思えません
でした。

彼女が踏み台にした男性もアルゼンチンの民衆たちも彼女が徳を備えた善人で
ないことは最初から分かっていたはず。それでも彼女に惹かれたのは彼女がど
んなに憧れても決して自分には真似できない生き方をしていたからでしょう。

彼女は本物のダイヤモンドとして輝き、そして誰もがそのまま輝き続けること
を願わずにはいられなかった女性です。

彼女には政治家・権力者という肩書きより、やはり聖女という呼び名の方が相
応しいでしょう。
97/01/30(木) 23:54

「エキゾチカ」

複雑に絡み合った登場人物たち

その全てが愛する物を失ったショック(しかも娘の殺害容疑もかけられる。取
り調べを受けるうち、いつのまにか娘の死に対して罪悪感を抱くようになった
のでは?)から立ち直れないでいるフランシスの心にぽっかり空いた穴を一時
的に塞いでくれる為に存在しています。実に微妙で奇妙なバランスで。

そのバランスを壊し、もつれた糸を一気に解きほぐしたのはフランシス自身で
す。彼にとっての"癒し"の場所であったクラブ「エキゾチカ」では
「踊り子に手を触れてはいけない。」
という掟が全ての均衡を支えていたのでした。それは客と踊り子の関係だけで
なく彼と彼を癒すもの、彼の失った物との危うい均衡を支えていた物でもあっ
たのです。

彼の手がクリスティーナに触れる。その時明らかになったものは・・・。

スクールガール姿のストリッパーは彼にとって失った娘の象徴であったはず、
彼が踊り子の体に触れるという事は、親と子の超えてはならない一線を越える
という事を意味します。彼が触れたのはクリスティーナのお腹でした。客が感
極まってゾッコンの踊り子に触れるとして、そのお腹に手を出すという行為は
どう見ても不自然です。ただこの場合は別。我が子を身ごもったオーナーのお
腹を触る事に抵抗を感じるDJエリック、そして必要以上に強調される彼女の
お腹。お腹は肉親への愛を象徴する物だったのです。

フランシスにとってはこの行為が自らを現実に引き戻す事に繋がります。娘を
失った事実を受け容れようとしなかった彼に変化が訪れます。娘の為に雇って
いた子守りの姪(妻の浮気相手である弟の娘!)も、もう必要ありません。そ
して彼の感情は愛する娘を奪ったもの、自分からかけがえの無い物を奪った者
へと傾き、エリックの殺害を決意するのです。

一方のエリックにとっては彼がクリスティーナに触れるという事は「許されぬ
裏切り行為」です。

それは単純な嫉妬ではありません。フランシスがクリスティーナの体に触れる
ということは「癒し」「癒される」ものとしての関係を保ち続けてきた自分・
クリスティーナとフランシスの関係を壊す行為です。クリスティーナを愛し続
ける彼にとってはそれは決して許すことのできない行為だったのです。

クリスティーナにとっては

彼が自分の体に触れるという行為が、娘への愛なのか、それとも自分への愛な
のか、解らなかったのではないでしょうか?(でもあくまで触れるのはお腹で
す。)彼女はどんなに愛しても、彼が自分に触れてくれない(癒してくれるこ
とはあっても愛してはくれない。)苦しさを過去に味わっています。そして今
度は彼をどんなに癒しても自分に触れてくれない(癒すことは出来ても愛して
くれない。)辛さを味わっていたはず。彼女にとって彼の行為がどういう意味
を持っていたのかは難しい所ですが、ただ言えるのは彼女にとってフランシス
の存在を身近に感じることの出来る唯一の均衡が、あの行為によって壊れてし
まったということです。

掟を破り、彼女に手を触れる人物がもうひとり登場します。ホモセクシャルの
トーマス。彼にとってはその行為は重大な一線を超える行為、そして人ひとり
の命を重大な危険にさらす行為だったのです。
しかし、エゴイアン監督が幾重にも張り巡らした巧妙で複雑なドラマの前では
彼の行為はあまりにも軽い。クリスティーナにとっても単なるアクシデントに
すぎません。彼女はトーマスの手を握り、何事もなかったかのように踊り続け
ます。

緻密に計算されたドラマにより、2つの同様の行為はその重みをまさに劇的に
逆転させたのでした。


長余談
「妖しげなスクールガール・ストリップが見たかった!」という分かりやすい
欲求と「アトム・エゴイアンていう名前、何かすごくインパクトがあるなぁ。」
というよく分からん興味、二つの理由から映画館に足を運んだのでしたが、ス
トリップも本編もなかなか楽しめました。もっと話題になってもいいのでは?

エンドロールで、もうひとりエゴイアンを見つけました。サントラの一曲の演
奏者にイヴ・エゴイアンという人物がいましたが、一族の人でしょうか?

それからエリアス・コーティアスのキャスティング、もしこの映画の方が「ク
ラッシュ」より先に作られていたのだとしたら、クローネンバーグはこれを見
て起用を決めたのではないでしょうか。「愛と癒しのDJ」キャラクター的に
も非常に似ていました。
97/02/22(土) 00:52

「エスター・カーン めざめの時」

「僕は映画の可能性を信じている。本当の人生は映画の中にこそあるのだか
ら。」

《映画の中にこそある真実》

映画の外にある真実(と呼ばれるもの)よりももっと真実らしいものが少しず
つ見えてくるような映画でした。

彼女の類稀な女優としての才能は、見るもの全て、体験すること全てを客観化
できることにあります。他人を、家族を、そして自分を、彼女は全てを「目に
見えて感じられること」から切り離し、必要があれば、それを再現することが
出来るのです。
しかし彼女が《本当の人生》を演じることの出来る女優になるのには、まだ足
りないものがありました。
舞台で知り合った老優の演技レッスン(「演技とはどういうものなのか?」を
知るのにとても印象的なレッスンでした。)
カフェで食事をしようと思ったのに、店が混んでいてウェイターがなかなかオ
ーダーをとりに来てくれないという設定。彼女には「3つの真実」が求められ
ます。

「オーダーをとりに来てくれなくて腹を立てているという真実」
「でも大勢の前で大声をあげるのは恥ずかしいという真実」
そして
「今演じていることがすべて虚構だという真実」

です。

《第三の真実》

それは虚構を越えたところにある(越えて初めて現れる)真実です。あるいは
それは真実を越えたところにある(越えて初めて現れる)虚構ともいえるかも
しれません。彼女が本当の女優になるために必要なのがこの《第三の真実》で
した。

主役として初めて迎えた運命の舞台の初日。どんな虚構でも機械のように正確
に演じることが出来るようになった彼女に幾つもの真実が襲いかかります。文
字通り彼女は血を吐くほどの思いをしながら《虚構を越えた真実》そして《映
画の中にこそある本当の人生》を演じきるのです。それはサマー・フェニック
スという女性が舞台という虚構と映画という虚構を一度に越えて僕の目の前に
現れた瞬間でした。
類稀な彼女の才能は血を吐いてものにした真実(虚構)をもまた客観化し、己
の内側に消化してしまいました。映画の中でもただの貧しい少女だった彼女が
次第に存在感を増し、女優になっていく様子が伝わってきました。でも僕は彼
女が客観化した真実のその向こうに、彼女がまだ知らない真実が無限の広がり
を見せているようで、それがまた楽しみでもありました。

舞台の直前、そして舞台袖で、彼女をときに励まし、ときに叱咤する名もなき
ベテラン俳優たち。彼らからもまた《第三の真実》がいくつも立ち昇って見え
ました。
それに対して映画のラストでは演出家のフィリップが「決して《第三の真実》
にたどり着けない男」として描かれていました。これは映画監督デプレシャン
の照れなのか、正直な気持なのか、それとも覚悟のようなものなのでしょうか?

彼が今度はどんな《本当の人生》を見せてくれるのか、とても楽しみです。
01/11/08(木) 17:48

「エマ」

19世紀のイギリス上流社会、両家のお嬢様の恋物語。という設定だと、余程気
をつけない限り、チョット時代錯誤のお話になってしまうのですが・・・。

で、この作品は、"おもいっきり"時代錯誤のお話でした。

登場人物は見事なまでに型にはまり切っているし、ストーリーは平板でエンデ
ィングなんて100%予想のつくものだし。そして、あの時代の階級制度、身
分制度。登場人物が時折見せる現代的な感情の揺れも、結局は全て階級制度に
結びつくものでした。

でも全然悪くないです。こういう映画大好きです。

エマ役のグウィネス・パルトロウがメチャメチャキュートでプリティ(オヤジ
だなあ、でもこの表現がぴったり!)だったから?それもある。
あのユアン・マクレガーがロンゲで白馬に乗って現れるシーンに爆笑できたか
ら?それもある。

でも一番の魅力は、やっぱりこの作品が徹底的に「時代錯誤」に徹してくれた
事だと思います。没落した貴族の話とか、確かに上流社会へのアンチテーゼみ
たいなものは出てくるのですが、それも結局は恋物語の一部に吸収されてしま
います。世の中の幸せも心配事も全部無邪気で気まぐれなキューピットの仕業
だという具合に・・・。

恋のキューピットはエマ一人じゃありません。おせっかいなキューピットたち
が次から次へ登場します。こんなに他人の人生に積極的に関わろうという人が
沢山いる状況は(それがどんなに表面的なものだとしても)、「奇妙な個人主
義」に支配された現代から見れば、もう奇跡としか言いようがありません。

19世紀のイギリスの上流社会。時代を錯誤してもいい状況を最大限に活かし、
「イギリスお得意のユーモア」を添えて、上質のコメディに仕上げていました。

カップルで、もしくは女性同士で行くのには、なかなか良い映画じゃないでし
ょうか。無精髭で、ヨレヨレのシャツを着た僕はやや肩身が狭かったのですが、
日曜の会場はカップルが多く、皆一様に甘々のストーリーに大満足の様子でし
た。


P.S.
ロビーに「キューピットクラブ」という会社のDMが置いてありました。結婚
情報の会社らしい。この映画に協賛しているらしいのですが、まあ名前自体が
アヤシイのは良いとしても、よーく考えると、この映画に乗っかるのは逆効果
なんじゃないでしょうか?
あんなキューピットだったら誰も相談にいかないでしょう。多分。
97/05/12(月) 01:52

「エリン・ブロコビッチ」

僕などは、彼女に「そのネクタイ趣味悪いわね!」と言われそうなくちで、実
際に彼女に出会うことがあっても決して打ち解けることは出来なかったでしょ
う。映画の主人公としても自己主張が強すぎて、こちらが引いてしまいそうに
なりかねないのですが・・・。そこをギリギリの所で踏みとどまり、魅力的で
颯爽とした印象を残すことが出来た最大の理由はジュリア・ロバーツのキャラ
クターによる所が大きいでしょう。女優なら誰でもが演じてみたくなるこの役
を、今、最も演じる資格を持っていたのが彼女だったということなのでしょう。

実在のエリン・ブロコビッチという女性もなかなか魅力的です。
彼女の最大の武器は嘘をつかないこと、駆け引きをしないことです。
失業した彼女が求人欄を頼りに片っ端から電話をかけるシーン。彼女は決して
自分の境遇や能力を偽ることをしません。その場凌ぎの駆け引きではなく、あ
りのままの自分を文字通り体当たりで売り込もうとします。

体制側についている人を目の前にすると、ついつい一言多い彼女ですが、電話
だと意外と素直になれるのかもしれません。もともと誰かを憎んでいるわけで
はなく、自分に正直で、嘘をつけない、駆け引きが出来ないだけなのですから。

もう一つ印象的な電話のシーン

「すごいことがあったよ!赤ちゃんが言葉を喋ったんだ。彼女の初めて口にし
た言葉は"ボール"だよ。」

心から感激し、胸を詰まらせるエリン。彼女には、もはや自分を主張する言葉
すら必要ありませんでした。
00/05/30(火) 23:29

「エンド・オブ・バイオレンス」

残念ながら彼の初期の作品を僕は見たことがありません。見たことがあるのは
「ベルリン・天使の詩」以降になります。
僕にとってヴェンダースという監督は「自分が何を映画にするのか?」を模索
し続けている人という印象があります。
前作「リスボン物語」で、彼は自分が撮るべき映画、撮りたい映画を再認識し
たと僕は感じました。だから、今度の作品では一歩踏み込んだ彼の作品が見ら
れるのだろうと期待していたのですが・・・・。

どうやら彼の模索はまだ続いているようです。

怪しげなFBIのプロジェクト。それは犯罪を監視することのみに止まらず、
自らの正義の基準により、誰かを抹殺することにまで及んでいます。結局は暴
力を抑止する為に他の暴力を行使しているに過ぎません。
最先端の技術に支えられた衛星からの監視映像は前作「リスボン物語」の「究
極の無機的な映像」に相当します。映画=映像の担う役割が「現実を出来るだ
け正確に再現すること」だとするならば恐らくはこれ以上の技術・映像の方向
性はないと思われます。

しかし、「誰かが誰かに感動を与える」という使命を映画が担うのだとすれば、
テクノロジーはその目的の為の手段に過ぎないはずなのです。

「現実を忠実に再現しただけの映像」を越えたところには何があるのでしょう
か?

自分の思いを誰かに伝える為に、それを声高に主張し、様々な手段を駆使して、
感動を煽る映像というのが、まずあるでしょう。しかしそれは、ややもすれば
自らの正義感を振りかざし、「映像の暴力」によって、他の暴力をねじ伏せる
ことになりかねません。
僕はヴェンダースがハリウッド嫌いで、暴力描写を批判の対象にしているとい
う捉え方は表面的だと思います。彼は暴力描写に止まらず、自らの価値観を扇
情主義によって主張するありとあらゆる作品に対して疑問を投げかけていると
感じました。

だとしたら、「現実を客観的に忠実に再現すること」「自らの主観を強烈に主
張すること」を越えるものとして彼が映画に向き合う姿勢とはどんなものなの
でしょう?

女スパイマチルダはFBIの高官に対してきっぱりと言います。

「自分を見つめ、自分を変えられる人こそが素晴らしい。」

と。

彼が「映画の可能性」を信じているのだとしたら・・・・・・

ヴェンダースはいつの日か「厳しい目で自分を見つめ、作品を通して自分を変
えることが出来るような映画」を撮ってくれるのでしょうか?
それとも「彼の撮るべき映画」はもっとその向こうにあるのでしょうか?
98/04/12(日) 01:20

「オーシャンズ11」

「彼は君のことを笑わせてくれるかい?」

「・・・、彼は私を泣かせたりはしないわ。」

泣かせない男よりも笑わせてくれる男の方が良いに決まってるじゃないですか。
役柄もよく似ていた「オー、ブラザー」に引き続き、ジョージ・クルーニーが
2枚目半のカッコよさを全開にさせていました。

いかにもありそうな種を沢山ばらまいておいて、結局裏切りも駆け引きも存在
しなかった仲間たちとの関係も、実は最初から「ひとりの女」が目当てだった
からこそ説得力があったのかもしれません。半端物、曲者揃いの彼らがラスベ
ガスの眩いほどの夜景を見つめながら浮かべる誇らしげな表情は金が目当てで
集まったビジネスの為のパートナーとは明らかに違うものでした。

最初、キャストを聞いたとき、どう考えても一人一人にそれなりの見せ場を作
ってキャラクターを立たせるのは無理だろうと心配していたのですが、そこは
ソダーバーグ、見事にまとめてくれていました。
小粋な小品というところでしょうか。ちゃんと楽しめました。
02/02/21(木) 19:23

「桜桃の味」

荒涼とした砂の山に雨が降る。そこに雨が降り、新しい命が育まれるんだとい
うことを忘れてしまいそうなほど荒涼とした砂の山に。

キアロスタミお得意のジグザグ道を行く一台の車。砂埃が舞う荒れた大地を行
く車は、もうそれだけで人々の人生を象徴しているようでした。ただ、そのジ
グザグ道は、道に沿って、ただ車を走らせるだけでなく、車を降り、そこを横
切って走ることも出来るのです。ただ車を走らせているだけでは気がつかない
ことも沢山あるのです。
「車に乗っている主人公」「車に同乗し、やがて車から降りる人々」「車から
見える人々」の対照が印象的でした。

何の飾りもない、ありのままの、ありふれた自然。荒涼とした砂山にも、かけ
がえのない生命の存在を感じないではいられません。
その風景は「たった一個の木の実の美味しさに人生の喜びを見出すことが出来
る」「たった一個の木の実に命を救われることもある」というメッセージと共
に、「たった一個の木の実の美味しさを感じることの出来ない人生には何の意
味もない。」と語っているようでした。

少しカメラを引いて俯瞰で見てみると・・・・・・

今まで見たキアロスタミの映画の中で最も饒舌な、あの老人。生きることの意
味、生きることの喜びをストレートに切々と語る彼の言葉は"言葉で語らない"
キアロスタミ映画には異質の存在といえるでしょう。
そう言えば彼は最初から車に乗っています。車に乗っている人を「死んでいく
人」車の外の人を「生きている人」と対比させるなら、彼の存在は例えば神様
のようにも感じさせられるし、自ら命を絶つことを選んだ死者の代表のように
も感じられるのです。
しかし、キアロスタミは敢えてもう一度彼を登場させます。博物館を訪ねるバ
ディ。老人が実体を持たない人物でなく現実の存在であるということを我々に
も確認させるのです。

そしてキアロスタミは、もう一つの「さらにリアルな現実」を用意します。

いつのまにか草木が青々と茂っている春の風景。そこを走る兵士たち。生きる
喜びに溢れたその風景が「映画という虚構」であるという現実を我々に確認さ
せるのです。
ジグザグ道を走る人さえ、生命を感じさせる砂山さえ、雷さえ、桜桃の味さえ、
「映画という虚構」に過ぎないということを彼は敢えて語るのです。

「映画の中では主人公は生きる喜びを見出そうとするが、現実の世界ではどう
なるか分からない。」

そのメッセージの中には自ら死を選択した人々への敬意も込められているので
しょうか?

「現実と虚構」「ドキュメンタリーとドラマ」との絡み合いはキアロスタミ映
画で、ことごとく追求されているものです。彼の描く現実(虚構)はかなり細
かい階層に分かれているように感じられます。レベル1の現実(虚構)レベル2、
レベル3の現実(虚構)という具合に。全てを現実と見ることも、その反対も
可能です。

僕は、"幾つかのレベルの違う現実にまたがっているように見える"あの老人の
言葉が忘れられなくて、全ての現実において「生きる希望」のようなものを感
じないではいられませんでした。

車で送ってもらった別れ際、老人は言います。

「やるのは簡単だが口で説明するのは辛いことなんだよ。」

やはり、死者の言葉ともとれるこの台詞。僕は「桜桃の味」という映画は言葉
で語らないキアロスタミが「敢えて語った映画」だと思いました。そして彼が
敢えて語ったのは、やはり「生きる希望」だったと思うのです。勿論、彼自身
がコントロールしている、全てのレベルの違う現実において。
98/03/11(水) 00:01

「大阪物語」

東京生まれで東京育ちの市川準が「大阪」を舞台にしているということで、と
ても興味深かった作品ですが、どちらかというと二つの街の違いよりも共通し
た雰囲気のようなものを感じました。
「東京兄妹」「東京夜曲」の2作品を今まで見ていますが、僕はいつも彼の映
画から浮遊感のようなものを感じていました。東京という街にしっかりと根を
下ろして生きているというのではなく、ふわふわと漂いながらそれでも東京が
好きで、東京から離れられない雰囲気のようなものが・・・。まるで市川準と
いう人がどこか他所から来たような不思議な感覚がいつも映画の中にあって、
それがとても好きでした。
脚本の犬童一心さんは一昨年「二人が喋ってる」を見てますが確かこの方も大
阪の方ではなかったと記憶しています。客観的に大坂を見た視点が心地よく、
そのあたりが市川監督と相通じるところが大いにあると感じました。

そこに住む人を縛り付けるわけではないのに、いつも優しく包みこんでくれる
ような街の魅力は、人々同士の繋がりにも反映されているようです。娘が父親
を探して歩いた先々で人々が語る彼への印象がそのまま大阪という街に寄せる
愛情になっていました。
街を漂う少年と少女にふと優しく声をかける青年

「可愛い子連れてるやないか。」

僕は何故だかこの一言を聞いて涙腺がじわじわ緩みました。多分大阪という街
が二人の大阪っ子を優しく抱いた瞬間だったのでしょう。

言葉にしてはいけないことまで「お笑い」として口にしてしまっているようで、
実は本当に言いたいことはぐっと胸の中にしまっている大坂の人々。気丈な少
女の沈黙が一番雄弁でした。
池脇千鶴ちゃん、濃い眉毛が印象的でとても良かったと思います。

田中裕子と沢田研二は期待通り見事な演技でした。特に沢田研二は良かった。
客からは「自分では決して真似出来ない生き方」を求められる芸人達。「笑わ
れているのではなくて、笑わせているんだ。」と見栄を切って全ての生き様と
さらには死に様まで「笑い」にしてしまう芸人の悲哀を見事に演じていました。

脚本の犬童さんは「二人が喋ってる」のときには一歩届かなかった「死ぬこと
まで笑いにする」という芸人の生き方をこの映画のなかではきちんと取り込ん
だようです。

もう一度見たい映画です。
99/05/02(日) 22:32

「オール・アバウト・マイ・マザー」

僕にとって、初めてのアルモドバル体験でしたが、どうもイマイチはまれませ
んでした。残念。ストーリーと台詞に「伝えたいこと」を詰め込み過ぎで、何
かを押し付けられっぱなしだと感じてしまいました。

「女性を演じる女性」の存在感、女性の強さ、母親の強さは十分に感じること
が出来たのですが・・・。女性の方の感想を読むのは楽しみです。
00/06/01(木) 21:32

「おかえり」

正確な言葉の意味も分からず、「静謐な映画」を見に行こうと決めて映画館に
向かった。今思うとこのコピーは、「眠る男」か「幻の光」のものだったよう
な気もするが、結果としてこの表現が、ぴったりとはまる映画だった。
夜眠れない時に、耳をふさごうとするのではなく、静寂の中、耳を澄まして時
計の音や水滴の音を聞いていると、だんだん落ち着いてきてよく眠れる。なぜ
かそんな事を考えながら、オープニングから全編音楽のない映画に耳を澄まし
た。
どこまでも静謐で、淡々と流れる日常に耳を澄ませば澄ますほど、自分の心の
中の声は大きくなった。ただ呆然と、見慣れた風景を見続けているように見え
る妻、しかし彼女は、隣家の表札のわずかな変化にも目を凝らし、月の光にさ
え耳を澄ましていた。彼女の日常と我々の非日常がいつから、どのように重な
りはじめたのかはわからない。想像する事はできるけど。そして、それを思え
ば思うほど胸のあたりが苦しくなった。我々の日常は本当に脆い微妙なバラン
スで成り立っていると感じた事は何度かある。でもこれほどはっきりと目の当
たりにさせられると。
夫の腕のなかで、泣きじゃくる彼女を見て切なくて切なくて、たまらなくなっ
た。病院で詰問される彼女を見て、「そんなやつに何が分かる。そんなやつに
何もしゃべるな。」と叫んだ。心の中の声はどんどん大きくなった。
数年前、音楽活動の真似事をしていた時、「観客に休符を聞かせろ!」と、口
を酸っぱくして言われた。演奏本番、場内に一瞬訪れる完璧な静寂に鳥肌が立
った。「休符は究極の音符だ」と文字どおり肌で感じた。この映画を見て、そ
のことを思い出した。映画館は究極の静寂を再現する場所でもあるかもしれな
い。

「オセロ」

恥ずかしながら原典の方は全く知りませんでした。勿論シェークスピア4大悲
劇の一つだということくらいは知ってましたが。
私のような人間は別としてあまりに有名な作品ですから、ストーリーを云々す
るよりもキャスティングの面白さを味わうのが良いのではないでしょうか。

オセロ、デスデモーナ、イァーゴのキャスティングは完璧だったと僕は思った
のですが、原典や他の映画化作品を知ってる方にとってはどうだったのでしょ
うか。

ケネス・ブラナーは本当に溢れる才気を感じさせる役者です。というより、彼
の才能をあらかじめ知っている観客にとってあのキャスティングは非常に効果
的でした。
自らの計略と言葉の罠だけで完璧な信頼関係で結ばれているはずの人々を次々
と落としていく姿はセクシーと評されたオセロ役のL.フィッシュバーン以上
にセクシーでありました。計略をめぐらせ、言葉巧みに感情をコントロールす
るというのはある意味、脚本と主演を同時にこなし、観客を魅了する作業に似
ているように思います。
舞台を意識し、カメラ視線で彼が独白をするシーンが何度もありましたが、僕
はあれは不必要だったと感じました。戯曲風の洒落た台詞を聞かせるだけなら、
ナレーションだけでも良かったのでは?彼の演技は言葉なしでも十分説得力が
ありましたので、ちょっと浮いた印象を持ちました。

イレーヌ・ジャコブという女優さんは本当に美しい人です。「二人のベロニカ」
の頃に比べればずいぶん歳をとったなあと正直思いますが、そういう外見では
なくて、内面的な美しさ、精神的な豊かさのようなものを感じさせます。今、
こういう女優さんは珍しいのではないでしょうか。デスデモーナの清らかさ、
気高さ、慈悲深さ、少ないシーンの中でそのどれもを見事に表現していました。

「こんなに美しい人(内面的にも)は実際はいないだろうなあ」

という気持ちが僕を含め観客のどこかにあるからこそ、脆くも奸計にかかって
しまうオセロの姿に説得力があるのでしょう。

「キェシロフスキが最後に愛した女」なんていうある意味では失礼な紹介のさ
れ方をしていたので、ちょっと心配していたのですが、ちゃーんと彼女の魅力
が引き出されていて安心しました。

オセロの凱旋のときの踊りはちょっといただけませんでしたが。死の直前に唄
っていた歌はよかったです。

「ぴあ」の映画評にもありましたが、シェークスピア入門編として、なかなか
良い作品なのではないでしょうか。(素人の僕が言っても説得力ありません
が。)本編の前に、シェークスピア関連の映画の予告編が二つありました。
(ケネス・ブラナーの「世にも憂鬱なハムレットたち」とアル・パチーノの
「リチャードを探して」)
96/11/01(金) 23:12

「オネーギンの恋文」

実はスクリーンでリヴ・タイラーを見るのは初めてでした。

「私は可能性を信じます。」

そう言った時の彼女の力のある眼差しに圧倒されました。

この映画は「可能性を信じる人」の物語です。「可能性を信じる人」はどの時
代でも一種の愚かさのようなものを持っています。その愚かさは時代を変えた
いという信念である場合もあるし、誰かを愛するひたむきさである場合もあり
ます。

タチヤーナのひたむきさがオネーギンには愚かだと映りました。貴族の世界、
退廃的な時代の空気の中に生きてきたオネーギンには可能性を信じる愚かさが、
若さと田舎育ちの為のものだと思えたのでしょうか。それとも「時代」という
砦の堅牢さを知り抜いていたからでしょうか。彼女の純粋さに動揺しながらも、
決して時代と対決することはありませんでした。彼が決闘を拒めなかったのも、
彼女の前から姿を消したのも、全て彼が時代と対決することを選ばなかったか
らなのでしょう。

六年の歳月が流れ、ペテルブルグに戻ったオネーギン。彼の前に華麗に成長し
たタチヤーナが再び現れます。しかし彼女は既に空虚な貴族の世界に身を投じ
ていました。優雅さや気品と引き換えに、彼女はあの力強い眼差しを失ってい
ました。柱から顔を覗かせて彼を見つめた時、舟の上から水辺にいる彼を見つ
めた時、決闘の日、息を呑んで彼を見つめた時、あの時のような真っ直ぐな眼
差しはもう彼女にはありませんでした。

「私の愛を拒んだ時のあなたの方がもっと堂々としていた。」

今度はオネーギンの愚かさをタチヤーナが拒みます。「あなたが現れるのが遅
すぎた。」と。

もしオネーギンがかつての輝きそのままにタチヤーナの前に現れていたら、彼
女はもっと動揺したでしょうか?
それはないと思います。もし、そうして彼女が彼のことを受け容れていたとし
たら、それは「夫を貰ってから、それでも愛情が欲しければ愛人を作ればいい
。」という貴族の生き方をもそのまま受け容れることになってしまうからです。
時代と対決することを選ばなければ彼女は最初から空虚な貴族の世界に悩むこ
となどない筈です(ちょうど彼女の妹のように)。

だから、彼女を救い出すことの出来るのはオネーギンしかいないと思います。
病気の体を引きずって、雪の中、彼女の屋敷へ向かうオネーギン。ほんの僅か
の可能性を信じるしかない彼の愚かさしか時代を変えることはできないからで
す。
00/06/16(金) 19:27

「オネーギンの恋文」をめぐる対話

「Under The Big Trees」の大倉さんの書き込みより

『オネーギンの恋文』読みました。やはり、十八番ですねぇ。(^^;;

撫でるように、二人の心の綾に分け入った語り口は見事です。
この映画は、非常に繊細で且つ我が侭な素材を扱っており、
各人の評を読むのが楽しかったりします………(^^ゞ

マダムの方は、「曖昧さ」と申しておりましたが、スーダラ様は、
「可能性」と来ましたか(^^)

2000/06/18 (日) 23:55

<参考>
大倉さんのHP
「マダム・DEEPのシネマサロン」(マダムの「オネーギンの恋文」の感想掲載)

大倉さんの書き込みを受けて

大倉さんどうも。マダムの感想も拝見させていただきました。

退廃した時代を舞台にした作品の場合、時代と主人公との関わり方で大きく
分けて二つのパターンがあると思います。

一つはそうした時代の雰囲気に逆らって、違う形の(ある時は愚直な、ある
ときは誠実な)生き方を模索しようとする人々の物語。
もう一つは退廃の中にとっぷりつかり、その背徳的な空気を楽しみ、自由奔
放に振る舞うことで、歓びを見出していこうとする(そして当然、その行為
の代償を払うことになる)人々の物語。
前者にはウィンターボトムの「日蔭のふたり」やカンピオンの「ある貴婦人
の肖像」があります。
そして後者の筆頭はもちろん「危険な関係」。

確かにオネーギンの生き方は「危険な関係」を彷彿とさせるものがありまし
た。賢明なる彼は「虚栄と幸福が両立しない」ことを誰よりもよく知ってい
たのでしょう。
しかし、マダムのおっしゃる通り、この映画の一筋縄でいかないところは、
時代と喧嘩しないことを選んだ筈のオネーギンが180度その姿勢を変え、
そしてタチヤーナはその正反対の道を辿るという所です。

何れにしろ、これらの人々が彼らなりの方法で時代と向き合ったということ
は間違いないでしょう。
タチヤーナのように前者から後者へ立場を変えるキャラクターには「ある貴
婦人の肖像」のマダム・マールのように、やはり時代に逆らうことのできな
い女性が多くいるようです。(後者の主人公達の大半は前者からの転向組か
も?)
オネーギンのように後者から前者に乗り換えた人物としては「リディキュー
ル」のポンスリュドンを思いつきますが・・・。
ポンスリュドンの場合は珍しい転向成功組といえるでしょう。しかし、彼の
ある意味でのハッピーエンドはこの手の題材の結末としてはやや甘すぎたか
もしれません。
幾重にも張り巡らされた砦のように堅固な時代を相手にする以上、彼らの辿
る結末は悲劇的なもので、それでも尚、時代に逆らい続ける「愚かさ」に我
々の心は震えるような気がします。

そういう意味ではオネーギンは正統派、王道を行く「愚かな主人公」だと僕
は思ったのですが、いかがでしょうか?
2000/06/19 (月) 01:39