* * *

 

「まゆが遅刻なんてめずらしーよなぁ」

 放課後のピアノレッスン室で、ハノンを弾きながら東堂がつぶやく。その横で楽譜をよんでいた僕は、昨夜の先生のことを思い出してしまい、ちょっと落ち込んだ。それを東堂は遅刻をしたせいだと思ったらしく、

「まゆは今までまじめに学校きてたんだから、進学には影響ないだろー?」

 と慌てて付け加えた。

 僕たちの通う私立翔央大付属中学校は芸術系に力を入れているエスカレーター校だ。外部から受験するときは、実技試験とペーパー試験が必要なのだけど、僕たちのように、付属中学から付属高校へ進学する生徒は、日ごろの生活態度と実技の点数がよほど悪くない限り、持ち上がりで進学できるのだ。

「春からはいよいよ高校生かぁ」

 頭の後ろで腕を組んで東堂が言う。

「でもさぁ、エスカレーターであがっていくだけだから、あんまり実感ないよなぁ」

「そうだねー」

「その分、大学に行くときに苦労するんだろうけど」

 翔央大に進むときには、内部生とはいえ、きちんと試験を受けなくてはならない。音楽、演劇などの分野で著名な卒業生を輩出している翔央は、人気が高く、内部生でも進学するのが難しいのだ。先生はその翔央大のピアノ科の学生をしている。といっても、ツアーで忙しくて、めったに大学へはいっていない。もっとも、先生ぐらいに実力のある人は、大学で学ぶ必要はないんじゃないかな?って思うけれど。

(でも、先生が学生をやめちゃったら、うちからいなくなっちゃうかもしれないんだよね…)

 先生は、大学に通うために僕の家に越してきたのだから。

 僕の家は、学校に通うにはちょうどよい位置にあるけれど、駅や飛行場からは離れている。なので、しょっちゅう演奏旅行に出かける先生は、本当はもっと都心に住んだほうが便利なはずなのだ。

(やだな…………)

 ただでさえなかなか会えない先生に、もっと会えなくなってしまうなんて、耐えられない。

「なんか暗いなー、まゆ?」

 うつむいていた僕の顔を、東堂が心配そうに覗き込んだ。僕は慌てて笑顔を作って両手を振る。

「そう?そんなことないよ。大丈夫」

「そっかぁ?」

 まだ怪訝そうにしている東堂に、笑ってうなずいてみせる。

「なんでもないって。それより、今日、どの曲やる?」

「あー、えっと……」

 東堂ががさがさと楽譜をあさりだす。その横で僕は、東堂に気づかれないように、そっとため息をついた。

 今日、家に帰ったら、先生に何を話そう?

 先生は昨日みたいに素っ気ないままなんだろうか?

 いつもなら、先生のいる家に帰るのが楽しみで仕方ないのだけれど、昨夜のことが引っかかっていて、素直には喜べなかった。

 そんな気持ちを紛らわせながら東堂とピアノを弾き、学校を出たのは夜の七時前だった。

「うわー、遅くなっちゃったなー」

「真っ暗だねー」

 気づくと、校舎の中は真っ暗になっていた。見回りの守衛さんがくる前に、ばたばたと外へ駆け出て、駅に向かった。そして東堂と別れ、家のある駅につくと――――――――

「まゆー」

 いきなり誰かに呼びかけられた。

 驚いて周囲を見回すと、すぐ横に止まっていた車の窓が開き、中から笹目さんが顔を出した。

「よぉ、ひさしぶり」

 にこっと笑う笹目さん。

「どうしたんですか?こんなところで」

「日下のところへ行く途中に近くを通りかかったから、まゆをひろって行こうと思って待ってたんだ。乗ってくだろ?」

「お願いします」

 駅から家までは距離があるから、助かる。

 僕は笹目さんの好意に甘えさせてもらうことにした。

 車高の高いパジェロの助手席に乗り込むと、中は暖房がきいていてとても暖かかった。

「いつもの車と違うんですね」

 先生を迎えに来るときは、いつもセダンタイプの車なのだ。

「あぁ、あれは会社の車だから。これが俺の車」

「そうだったんですか」

「今日は実家から来たから」

「実家?」

(そういえば、笹目さんの実家のこと、僕、知らないんだ)

 笹目さんがあんまり親しみやすいから、ついつい勘違いしてしまうのだけど、僕は笹目さんのことを詳しく知らないのだ。知っているのは、ただ、先生の昔からの知り合いだというだけ。

「実家ってどこなんですか?」

「鎌倉」

「鎌倉!」

 思わず声が大きくなる。

 そんな僕をちらりと見て、笹目さんは笑った。

「何をそんなに驚いてるんだー?鎌倉なんて、電車で1時間もあればいけるとこだろ?」

「僕、いったことないです」

「めずらしいなぁ。けっこう学校の遠足なんかで来るんだけど……あ、まゆのとこは私立だから、もっといいとこへ行くのか」

「今度遊びに行ってもいいですか?」

「いいぞー。おいで。」

「笹目さんって、何人家族なんですか?」

 知り合ってずいぶん経つけれど、実はそんなことも知らないのだ。

「両親とジジババと、あと妹が二人――――だったんだけど、ひとりは死んだんだ」

「えっ…………ごめんなさいっ……」

「別にいいよ。もう昔の話だから。その分、残ってるほうの妹がめちゃめちゃ元気だからなぁ。で、うちの家業は和菓子屋さん」

「和菓子屋さん!」

「一応、俺は和菓子屋の若旦那よー?」

 にやっと笑って、笹目さんは後部座席を指差した。

「で、あれがうちからもたされたお土産。ひとつがまゆん家用で、残りは事務所行き」

 後部座席には、白地に文字の入った紙袋がふたつ並んでおいてあった。

「じゃあ、笹目さん、和菓子の勉強とかしてるんですか?」

「してない。ああいう繊細な仕事は向いてないんだ、俺は」

 白い調理衣を着て、真剣に和菓子を作ってる笹目さん………似合うかなぁ?……うーん、やっぱり、似合わないかも。

 肩より長い髪をしっぽみたいに後ろでくくって、ごつっとした指で和菓子を整えてる笹目さん。

 想像すると、笑える。

「じゃあ、妹さんが継いでるんですか?」

「いや、妹も別な仕事。だからうちの店は親父の代で終わりなんだ―――――さて、ついたぞー」

 静かに車が止まる。

 気づいたら、僕の家の玄関までついていたのだ。

(せっかくだから、もう少し笹目さんのお話聞きたかったな…)

 そう思いつつ、和菓子の紙袋をもらって車から降りた。

「日下は温室にいるかな?」

 温室とは、家の離れにある僕専用のピアノ練習室のことだ。先生も、よくピアノを弾きに温室に来る。僕の練習を見てくれるのもそこなので、先生は温室にいることが多いのだ。

「先生の部屋、一応見てきます」

「頼むな」

 そういって、笹目さんは玄関の脇から庭へ入り、温室へと歩いていった。

 僕はリビングにいたお母さんに和菓子の袋を渡すと、ばたばたと部屋に荷物をおき、先生の部屋のドアをノックした。

「―――――――――――はい?」

「っ!」

 返事が返ってきてびっくりする。

 予想に反して、先生は部屋にいたのだ。

 中から、こちらに歩いてくる足音がして、静かにドアが開いた。

「おかえり」

「はいっ……」

 先生のやさしい声に、かぁっと顔が熱くなる。

「あのっ…笹目さんが温室で待ってます…!」

「わかった」

 先生はぽん、と僕の頭を軽くなでると、そのまま温室へと歩き出した。僕もその後をついていく。途中、お母さんが笹目さんのためにお茶を準備してくれていたので、それを持って先生の後を追った。

 温室へ行くには、一度庭に出て少し歩かなければならない。

 コートを着ていなかったので、僕は早足で温室へ向かった。

「お茶です!」

 温室のガラス張りのドアの外から声をかけると、珍しく先生が出てきてドアを開けてくれた。そして僕の手からお茶の載ったお盆を受け取って、ソファまで運ぶ。

「まゆ、鼻の頭が赤くなってるぞ」

 笹目さんがにやっと笑う。

「寒かったんですもん」

 僕は先生の隣に座って、鼻を両手で覆う。鼻の頭に触れると、ひやりと冷たかった。そして、指先も。僕は湯飲みを両手で包んで手を温めた。

「まゆは春休みっていつからだ?」

 ずずっとお茶をすすりながら笹目さんが訊く。

「えっと…卒業式が3月1日で……でも、2月の後半からは自由登校になるんで、お休みみたいな感じですけど…?」

「じゃあ大丈夫だな」

「?」

「前に約束しただろう?」

 きょとんとした僕に、先生がやさしく言う。

「ちょうど、2月の後半に国内でコンサートがあるんだ。真雪がいいなら、ついてこないか?」

「えっ………!」

(コンサートに!?)

 そうだ、思い出した。

 先生とした約束。

 いつか、学校が休みのときに短いツアーがあったら、一緒に連れて行ってくれるって。

「本当ですか!?」

「2月の21日から27日まで。大丈夫か?」

「はい!」

 それなら、もう自由登校に入った後だから、学校は休める。

 目を輝かせてうなずくと、先生も少し微笑んだ。

「21日の昼にでかけて、27日の夕方に戻ってくる。コンサートは24日だ」

「24日…?じゃあ、その後はどうするんですか?」

「観光だよ」

 笹目さんが僕の前にタイムテーブルのコピーを差し出す。

「24日のコンサートが終わってから、せっかく遠出したんだし、観光して帰ろうかって日下といってたんだ。せっかくだからまゆも連れて行きたいなぁって」

「うれしいです!」

 先生と観光できるなんて!

「……でも、どこへ行くんですか?コンサートの場所って…」

「北海道だよ」

「北海道!僕、行ったことないです!」

「――――――――――――」

 そういうと、先生がちょっとだけまゆをひそめた。

(?)

 僕、何か悪いこといったんだろうか?

 助けを求めるように笹目さんを見ると、笹目さんはアメリカの人みたいに両肩をすくめた。

「まゆは北海道、初めてじゃないんだってさ。な、日下?」

「……覚えていないのなら、初めてと一緒だ」

「?僕、行ったことあるんですか?」

「―――――――昔、な」

「?」

 昔…………?いつだろう?

 後でお父さんかお母さんに聞いてみよう。

「じゃあ、まゆのご両親に話してみるな。で、OKもらえたら北海道だ」

「わかりました!」

 先生と旅行できるなんてうれしい!

 僕は満面の笑みでうなずいた。

(旅行でなら――――――)

 もしかしたら、先生は僕に触れてくれるかもしれなかったから。

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モドル