Tempest テンペスト
ピアノが弾けなくなってから、音楽関係の授業がつらくなった。 音楽も、演習も、楽典も。 今週最後の授業、楽典Tの授業は、僕の中を素通りして消えていく。怪我をしたのは左腕だから、ノートはとれるのだけど、その気も起きずに僕はぼんやりと教科書を眺めていた。 (ピアノが弾きたい…) 毎日毎日、休むことなくピアノと接していた。それが当たり前だったから、ピアノが弾けないのがこんなにつらいなんて知らなかった。誰かの演奏を聞けば、動かない左腕がもどかしくなり、今月末のミニコンの話が耳に入ると、腕が治るのかどうかが怖くなる。夜、家で先生が弾いているピアノの音色すら、僕を苦しくさせる。昨夜も、我儘を言って先生にピアノを弾いてもらっていたのに、ふいに胸が苦しくなって泣いてしまった。 「…真雪?」 鍵盤の上の手を止め、心配そうに僕を見た先生。先生はそっと僕の髪をなでてくれたけれど、僕は先生に何も言えなかった。 (僕は…先生がうらやましいんだ……) ピアノが弾ける先生に嫉妬しているのに気づいて、僕は涙が出たのだった。大好きな先生のピアノすら素直に聞けなくなっている自分が、すごくすごく嫌だった。 自分でも、情緒不安定になっているのがわかった。 友達との会話の最中も、うまく笑顔が作れないときがある。 ピアノの話になるたびに、みんなが僕に気を使うのを感じるたび、僕の心はどんどん揺らいでいった。 長い一日が終わり、帰り支度をしていると、隣の席の陽路が僕のほうを向いた。 「なぁなぁまゆ、今日ヒマ?」 陽路はまっすぐに僕を見つめて笑った。名前のとおりの太陽みたいな笑顔。 「ヒマだけど……?」 「それならちょっと付きあわへん?」 「?どこへ?」 「ええとこ!」 にこっと陽路は満面の笑みを浮かべ、僕のかばんを肩にかけた。そして僕の元気なほうの腕をとると、「行くで〜!」と引っ張った。 「ちょ…ちょっと待って!」 慌てて僕は席を立った。 陽路は僕のかばんと自分のかばんをまとめて持ち、ずんずんと学校を出た。「自分のかばんくらい持てるよ」といっても、「まゆは怪我してるんやから甘えときって」と断られ、僕は大人しく陽路と並んで歩くことにした。陽路の言葉は、なぜか素直に聞いてしまう。たぶん、陽路はいつも裏表なくまっすぐに話すからなんだろうと思う。陽路はまっすぐに目を見つめて、まっすぐに話す。そういえば、僕の腕に変に気を使わずにいてくれるのも陽路くらいだ。他の人はわざとらしく腕の話題を避けたり、僕の前でピアノの話をしないでいるけれど、陽路は腕のこともピアノのことも、ストレートに扱ってくれていた。心配するところは心配してくれる。だけど、日常会話は怪我をする前と変わらない。それが僕にはうれしかった。 「どこ行くの?陽路」 「だからええとこやって。後は着いてのお楽しみ」 先生に少し似た切れ長の瞳がウィンクする。 それから、僕は陽路と一緒に、家へ向かうのとは反対方向の電車に乗り、降りたことのない駅で降りた。 「こっちや」 陽路は慣れた足取りで駅を出て、駅前に広がる住宅街の中を歩いた。そして、茶色い壁の綺麗なマンションの前で立ち止まると、ぽん、と僕の右腕を軽く叩いた。 「まず一ヶ所目到着ー」 「?」 「ここ、俺の家」 オートロックのエントランスを抜け、エレベーターに乗り、最上階の5階へ上がる。5階には7つドアがあり、陽路が鍵を差し込んだのはその一番奥の角部屋だった。 「いらっしゃい」 ぽんぽんっと履いていたスニーカーを脱ぐと、陽路はばたばたと奥へ入っていき、「空気入れ替えるわ」とベランダのドアを開けた。 「お邪魔します」 僕は陽路のスニーカーの横で靴を脱いで部屋に上がった。 陽路の部屋は広い2Kだった。 玄関を入ってすぐのキッチンは、たぶん4畳くらいありそうで、コンロもふたつあった。そしてその奥にドアがあり、スタンドピアノがドンとおかれた部屋があった。その部屋にさらにドアがあった。たぶんその奥は陽路の寝室なんだろう。ピアノのある部屋は、大きなピアノの他に楽譜や本が並んだ背の高い本棚やテーブル、オーディオセットやテレビなんかがあるにもかかわらず、かなりゆったりとした印象だった。 「広いねー」 ぐるりと部屋を見回すと、陽路も僕と同じように部屋の中に視線を這わせた。 「まぁなぁ。一応防音なんやで、ここ。他の部屋も音楽関係の奴らばっかり住んでるらしいで」 「そうなんだ」 「夜、思いっきりベートーベン弾いても怒られへんで」 制服のネクタイを外しながら、陽路は隣の部屋のドアを開けた。隣は思った通り寝室らしく、ドアの向こうにベッドが見えた。 「まゆー、これに着替えて」 寝室からぽんぽんと何かが飛び出してきた。 インディゴのジーンズと黒いシャツ、カーキのパーカー。 「え?」 きょとんとしていると、制服を脱ぎかけた陽路が寝室から顔を出した。 「出かけるのに、制服だとまずいから」 「え?どこ行くの?」 「うーん……」 陽路は数秒天井を見上げ、「ま、もうええか」といたずらっぽい笑みを浮かべた。 「あんな、ライブハウス行くねん」 「ライブハウス?」 「ほら、前にいうてたやんか。俺の入っとるバンドのライブあるって。それ、今日やねん」 「そうなんだ!」 「まゆ、怪我してから元気ないから、ライブでもみてはじけてもらおうかと思って」 シャツのボタンを指ではじくように外しながら陽路は笑った。 「ライブハウスに高校の制服はまずいやんか。一応、酒とかも出るとこやし。やから着替えていくねん」 「でも……」 「んー?」 「遅くなったら…心配するから………今日、何も言わないで家出てきたし……」 「おかんとかが?」 「両親は仕事でいないんだけど、先生がいるから……」 「あー、あの男前の先生な!」 話しながら、陽路はどんどんと着替えていく。 あちこちがボロボロになったジーンズに、ゆったりめのTシャツ。制服みたいなかちっとした格好をしているときは、先生と雰囲気が似ているなぁと思ったけれど、私服になった陽路は、全く印象が変わっていた。 「だーいじょうぶやろ。それに、そんなに遅うはならへんって。な?」 「うん……………」 「……あんな、ほら、まゆの腕、俺が怪我させたみたいなもんやんか」 「!それは違うよ!」 「でもな、俺が階段から落ちんかったら、まゆも怪我せんかったわけやろ?やから、責任感じてんねん。まゆ、ふさいどるし…俺にできるのってこれくらいやから……」 「―――――――――――――……」 そんなことを言われたら、もう断れない。 僕はうなずいて、制服を脱いだ。 「…陽路の服、借りるね」
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