Tempest テンペスト




 もう少し休んだら?と心配する両親の声に首を振って、怪我をした翌週の月曜日、僕は登校した。陽路が僕を突き飛ばして怪我させただなんていう、根も葉もないうわさを早く取り消したかったから。

 校門をくぐると、行き交う人たちの視線が僕の左腕に集中するのがわかった。

 芸術家を目指す学生ばかりの翔央では、腕の怪我っていうのは一番怖いものなのだ。だから、見知らぬ人たちまで、僕のことを「可哀想」という目で見ていく。僕はその視線を避けるように軽くうつむいて教室へ向かった。

 ガラッとドアを開けると、教室の中にはまだ半分くらいしかクラスメートがいなかった。

「まゆ!」

 内部進学組の何人かが、僕の姿を見つけて駆け寄ってくる。

「怪我…大丈夫か?」

「折れたんだって?」

「うん…ヒビがいってるんだって。一ヶ月くらいで治るらしいけど……」

 僕は自分の席にカバンをおき、隣の席を見つめる。陽路はまだ登校していないらしく、彼の机の周りに荷物はなかった。僕は落ち着かない気持ちで席についた。

「大変だったよなー。まゆが階段から落ちた後、大騒ぎだったんだぜ。上級生とかまで様子見にきたりしてさ」

 空いていた僕の前の席に座り、短い髪をツンツンと立てた清水が頬杖をつく。清水は初等部時代から何度か同じクラスになったことのある友達だ。彼の横に立って、黒い細いふちのあるメガネをかけているのが小宮山。背の高い彼は、ピアノもスポーツも勉強も器用にこなす、やはり初等部時代からの友達だ。小宮山はメガネの奥の優しそうな目を細めて僕の左腕を見た。

「見てるだけでも痛そうだ」

「痛みはもうないんだよ。薬、飲んでるせいもあるけど、全然痛くないんだ」

 心配そうにまゆをひそめているふたりに笑ってみせる。そこへ、「まゆー」と東堂が現れた。東堂は僕の机の周りにいたみんなにも挨拶をし、僕の首に腕を回した。

「おっはよ!もう大丈夫なのか?」

「うん、平気。ピアノと体育は当分見学だけど」

「体育は見学で当たりだって」

 清水が東堂と視線を合わせて笑う。

「この前からマラソンでさー、今週はタイム計るんだってさ。で、来週からは中距離走」

「怪我するといけないからって、走らされてばっかりってのもなー」

「まゆ、休めてラッキーだぞ」

 クラスメートたちのそんなおしゃべりを聞いていると、自然と微笑みがこぼれた。久しぶりに笑った気がする。学校へくるまでは気が重かったけれど、友達がいつもと変わらず接してくれているのを感じると、なんだか気が楽になった。

 そのとき、クラスの一部がざわめいた。

 東堂や清水たちもそちらへ顔を向け、一瞬、緊張した面持ちになった。

「――――――…」

 彼らの視線の先には、陽路がいた。

(みんな、あのうわさを知ってるんだ)

 クラスに漂うピンと張り詰めた空気でそれを悟る。

(どうしよう)

 陽路に会わなければと学校にきたはずなのに、いざ陽路を見ると、僕はどんな顔をして陽路と向かい合ったらいいのかわからなくなってしまった。

「!」

 長身の陽路が、人ごみの中にいる僕の姿を見つけた。

 思わず姿勢を正した僕に彼は早足で歩み寄ってくる。清水や小宮山は反射的に席を空け、僕と陽路は向かい合った。次の瞬間。

「まゆぅ!」

 にこっと陽路の顔が笑顔に崩れた。

「心配しとったんやで!一週間も休んどったから」

「……誰のせいだよ」

 ぽそっとどこかから聞こえたつぶやき。

 誰のものかわからない声に僕の背筋が寒くなった。

 しかし、陽路はまったく意に関せず、僕の隣の席に座ると、僕の腕を見つめた。

「折れたん?」

「あ…ヒビいってるんだって……」

「ヒビか……」

 先ほどまでの笑顔とは打って変わって、陽路は眉間にしわを寄せる。

「まゆ、俺にぶつかって怪我したやんか。やから俺、めっちゃ心配やってん。お見舞い行きたかったけど、まだまゆの家聞いてなかったから行けへんくって…ごめんな」

「陽路のせいじゃないもん、大丈夫」

「まゆ…」

 東堂が不満そうな声を出す。僕はそんな彼に「大丈夫だから」という意味で、小さく首を振った。

 キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴る。

 東堂たちは釈然としない表情で各々の席へ戻っていった。

「どのくらいかかるん?」

 先生がまだ来ないのでざわめいている教室の中、少し声をひそめて陽路が訊く。

「うん、一ヶ月くらいだって」

「そっかぁ…けっこうかかるなぁ……」

「うん………」

「せやったら、放課後、遊びに行けへん?もうすぐ俺のやってるバンドのライブあるねやんか。良かったら見にけぇへん?ストレス発散なるで〜」

「バンド…………」

 ガラガラっと扉が開き、先生が教室へ入ってくる。「考えといてな」と小声でささやき、陽路は笑った。

(よかった……)

 陽路がうわさを気にしていなくて。

 先週、東堂からうわさのことを聞いて以来、ずっと張り詰めていた緊張がようやくゆるんだ。途端に、ぐったりと疲れが襲ってきた。

(陽路、すごいなぁ…)

 僕だったら、いわれのない非難や中傷を笑顔で交わすことなんてできない。たとえそれが真実に反したことでも。きっと、落ち込んで、学校へ行くのもいやになっていたと思う。

(強いんだなぁ…)

 他人の目を気にしないで、凛としていられるなんて。

 その強さは、少し先生と似ている。先生も、我が道を行くタイプだから。最初の印象に続いて、そういう性格まで陽路と先生と似ているのかもしれない。

 肩の荷が下りた僕は、急に自分の怪我のことを思い出した。今までは陽路のことを何とかしなければということで頭がいっぱいだった。けど、陽路が飄々としているのを見ると、今度は自分の怪我への不安が戻ってきてしまった。

(一ヶ月…………)

 今月のミニコンの出演者に選ばれた陽路。ピアノを弾けない僕。

 再び憂鬱な気分に包まれた僕は、隣の席の陽路に気づかれないようにため息をついた。

(早くピアノが弾けるようになりたい)

 先生が家にいてくれるうちに。

 

 

 僕が腕を怪我してしまったので、放課後、東堂とレッスン室で待ち合わせることができなくなった。「帰り、気をつけろよ」と東堂は心配そうな顔をして、ミニコンの委員会へ行った。僕は教室の前の廊下で東堂を見送り、ため息をついた。

 今日はため息ばかり出る。

 腕の傷が痛むたび、友達がピアノを弾いている姿を見るたび。

(今日はもう帰ろう……)

 人気がなくなった教室を出て、とぼとぼと外へ向かう。だけど僕は校門のそばに見慣れた姿を見つけ、一気に幸せな気持ちになった。

「先生!」

 大声で呼んでその人に駆け寄る。

 長身の先生は、僕の両肩に手を置くと、少しだけ眉間にしわを寄せた。

「走ると転ぶぞ」

「大丈夫ですっ!それよりも、先生、どうしたんですか?高等部で何かあるんですか?」

 大学部は高等部のすぐ近くにあるから、大学生が校内をうろついているのはそう珍しいことではないけれど、先生が高等部に来るのは初めてだった。

 先生は口の端をあげて少しだけ微笑むと、僕の手からかばんをとった。

「…迎えにきたんだよ」

「え?」

「これから打ち合わせがあって、笹目が車でこっちまで来てるから、ついでにお前も連れて帰ろうと思ったんだ」

「!」

「おいで」

(迎えにきた…)

 状況把握に手間取り、ぼんやりとしてしまっていた僕は、歩き出した先生の背を慌てて追う。慌てすぎて小さくつまずいたのを、先生はしっかりと見ていて、「…やっぱり転ぶな」と笑った。

(どうしよう………)

 先生がやさしい。

 嬉しすぎて、きっと僕の顔は真っ赤になってると思う。

「まゆー、どこ行くん?」

 すれ違った人物が声をかけてくる。

「陽路!」

「帰るんちゃうん?」

「車で送ってもらうんだ」

「へー」

 先生は、少し離れたところで立ち止まって僕を待っている。

「…なぁ、あの人が日下さん?」

 陽路がちらっと先生に視線を投げ、僕に小声でささやいた。

「うん、僕の先生」

「めっさ男前やん」

 先生をほめられると、すごく嬉しくなる。

 僕は満面の笑みでうなずき、「また明日」と陽路に手を振った。

「ごめんなさい、先生!あの人が前に話した隣の席の人です。関西の人で…」

「そうか」

 先生は遠ざかっていく陽路の背中を見ながらつぶやいた。

「階段でおまえにぶつかった奴だな」

「陽路のせいじゃないです!」

  先生までがそんなことを言うなんて。

  僕は驚いて先生の服のそでをつかんだ。先生はそんな僕に苦笑した。

「まゆの怪我が彼のせいだなんていっていないだろう」

「あ…ごめんなさい………」

「笹目が待ってる。帰るぞ」

「はい!」

 歩き出した先生に小走りで並び、先生を見上げる。僕がついて来るのを確認した先生の瞳がとてもやさしくて、うれしかった。

「まゆは大切にされてる」

 春、北海道のホテルで笹目さんがいった言葉を、最近よく実感する。

 先生は僕に甘い。

 僕だけに、甘い。

 それがこの上なくしあわせだった。


 

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