Tempest テンペスト




 

 落ちついたら家に帰ってもいいと言われた。

「七瀬くんのおうちのお電話したら、ご家族の方はお仕事で4日後まで帰らないって仰って・・・・・・なんだったら、わたし、家まで送るわよ?」

 心配そうな金井先生の申し出を断り、僕は病院に残った。金井先生が手続きを済ませてくれたので、僕は好きなときにベッドを出て、家に帰れる。けれど、身体が動かなかった。

(手が動かない・・・・・・)

 帰るときのために、僕の左腕は三角巾で吊られている。その真っ白な包帯を見るだけで、身体の奥底がひやりと冷える。

(怖い・・・・・・・・・)

 本当に治るんだろうか?

 治るとしても、元通りに動くようになるのかな?

 それに、1ヶ月も練習できないなんて。今まで、そんなに長くピアノから離れたことがないのに。

 一日練習をしないだけで、どれだけ技術が衰えるのかも知っている。それを1ヶ月も休むだなんて。本当に1ヶ月後、今と同じように指は動かせるんだろうか?

 ピアノが奪われるかもしれないなんて、今まで想像したこともなかった。今までも、そしてこれからも、ずっとピアノと一緒に生きていくのだと思った。それがあまりに当たり前すぎて、気づかなかったけれど、僕にとってピアノはこんなに大切だ。

(どうしよう)

 小刻みに震える身体を右腕だけで抱く。

(怖い)

 窓の外の日がかげるまで、僕はベッドの上で自分をかかえていた。

(帰らなきゃ・・・・・・)

 もうすぐ夜になってしまう。

 だけど、僕の身体は意志に反して動いてくれなかった。その時、バタバタと廊下を駆けてくる音がして、スライド式の病室のドアがいきおいよく開いた。

「真雪!?」

「!」

 飛び込んできた長身の影に、僕は目を丸くする。

「先生・・・・・・・・・!?」

 先生は入ってきた勢いとは裏腹の丁寧さでドアを閉め、僕のほうに早足で近づいてきた。

「家に戻ったら、佐紀さんが真雪が病院に運ばれたって言って・・・・・・」

 そして先生の目が僕の包帯に落ちる。

「手・・・・・・なのか・・・?」

 重たい先生の声。その声が耳に入った瞬間、僕の目から涙がこぼれた。

「ごめんなさいっ・・・・・・先生・・・・・・っ・・・」

 ぱた、ぱた、と真っ白な布団に涙の雫がしみこんでいく。

「ごめんなさい・・・・・・・・・」

 手なんか怪我してしまってごめんなさい。

 せっかく先生がレッスンをしてくれているのに、ピアノが弾けなくなってしまってごめんなさい。

 先生の前にいるのが恥ずかしくて、悔しくて、消えてしまいたかった。僕は時間をさいて僕のピアノを見てくれている先生の気持ちも裏切った。自分の不注意で。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 先生は考えるようにしばらく黙り、それからそっと僕の頭をかかえた。

「痛っ・・・・・・・・・」

 先生の腕が頭に当たると、ズキンとした。

「頭も怪我してるのか?」

「頭は・・・・・・・・・たんこぶです・・・・・・」

「そうか」

 ほっとしたように先生の声が和らぐ。そして今度はたんこぶの部分に触れないように、そっと僕の肩を抱いた。

「階段から落ちたんだって?」

「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

「どうして謝る?」

「だって・・・・・・僕・・・・・・当分ピアノひけなくて・・・・・・先生にせっかくレッスンしてもらったのに・・・無駄にしてしまって・・・・・・・・・」

「治るんだろう?」

「1ヶ月・・・・・・・・・」

「なら、それまでゆっくり休めばいい」

「ごめんなさい・・・・・・・・・」

「俺に謝る必要なんてない。いちばん傷ついているのは真雪だろう?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・!・・・・・・」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で先生を見上げる。

「いちばんつらいのは真雪なんだから、謝るな」

「先生っ・・・・・・・・・・・・!」

 僕は動かせる右腕で思いきり先生に抱きついた。

「・・・・・・っ・・・・・・・・・っ・・・・・・」

 嗚咽をもらしながら泣く僕の背を、ゆっくりと先生がさする。

「・・・ピアノ・・・・・・練習できないっ・・・・・・・・・」

 背中をなでる先生の手につられるように言葉がこぼれる。

「手も・・・・・・本当に動くようになる・・・・・・・・・?こんなに長く休んで・・・・・・」

「最初は動かしにくいかもな。だけどすぐに元に戻るよ。大丈夫だ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 先生に「大丈夫」と言ってもらえると、少し気持ちが落ちついた。しゃくりあげながら涙を拭うと、心配そうに見つめていた先生が、ぽんぽんと髪をなでてくれた。

「帰れるか?笹目が車を出してくれてるんだ」

「・・・・・・・・・はい・・・・・・・・・」

「それじゃあちょっと医師か看護婦さんに言ってくるから、待ってろ」

「あ・・・」

 ベッドから離れようとした先生の服をとっさにつかんでしまった。

「・・・あっ・・・あの・・・・・・」

「?」

「もう少しだけ・・・・・・」

 先生に抱きしめていて欲しい。

 そう口には出さなかったけれど、先生は優しく僕を抱いてくれた。

 先生のぬくもりは、ほんの少しだけ、腕の痛みを和らげてくれた。

 

 

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