Tempest テンペスト






 

 その瞬間のことはよく覚えていない。

 ピアノの演習が終わって陽路と教室へ戻ろうと階段を下りていたとき。上から駆け下りてきた誰かが陽路にドンとぶつかった。

「・・・っ・・・わ・・・・・・」

 陽路は体制を整えようとしたけれど、反動に負けて階段から足を滑らせた。僕はとっさに支えようと、教科書や楽譜を投げ出して手を出した。

 今思えば、僕よりずっと背の高い陽路を僕が支えるのなんて無理だってわかる。僕は腕力もたいしてないから。だけど、あの時は勝手に身体が動いていた。

 そこで僕の記憶はとぎれる。

 保健の金井先生の話によると、僕は結局、陽路と一緒に階段を転げ落ちたらしい。陽路は身体のあちこちに打ち身を作ったけれどなんとか無事だった。だけど僕は、落ちたときに頭を打って気絶してしまっていたらしい。気づくと僕は病院のベッドの上にいた。

「頭のほうは異常なしだそうよ」

 学校から救急車で運ばれた僕に同行してくれた金井先生は、目を覚ました僕にそう言った。

(頭・・・・・・・・・?)

 そう言われて僕は初めて自分が病院にいることに気づいた。横になったまま目だけ動かしてみる。4人部屋らしく、僕が寝ているほかにベッドは3つあったけれど、そこに人はいなかった。静かな病室の中は、僕と金井先生の二人だけだった。

「えっと・・・・・・・・・」

「わかる?七瀬くん、階段から落ちたのよ」

 縁無し眼鏡の奥の金井先生の目が心配そうにほそまった。

「階段・・・・・・・・・」

 そう。

 そうだった。

 確か陽路が階段から落ちそうになって、それを支えようと腕を伸ばして・・・

「先生、陽路・・・北見くんは・・・・・・・・・?」

「北見くんは打ち身がいくつかあったくらいで大丈夫よ。もう学校に戻って授業受けてるわ」

「そうですか・・・・・・」

 よかった。陽路は無事だったんだ。

 ほっとしつつ体を起こそうとベッドに手をついた。その瞬間。

「――――――っ・・・痛っ・・・!?」

 左手にずきんと痛みが走った。反射的に目をやると、僕の左手は真っ白な包帯でぐるぐるに巻かれていた。

「え・・・・・・手・・・・・・?」

 僕は横になったまま、左手を持ち上げてみた。左手に力を入れると、またずきっと痛んだ。

「何これ・・・・・・・・・」

 白い包帯とそこから見えるギプス。僕の左ひじから手首までは、包帯とギプスできっちりと固定されていた。

「・・・・・・骨にひびが入っているそうなのよ」

 金井先生が、先生のせいではないのに、申し訳なさそうに瞳を伏せた。

「治るまでは1ヶ月かかるそうよ」

(1ヶ月!?)

「でも・・・ピアノが・・・・・・」

「・・・その間はピアノもドクターストップ。きちんと治さないと、後で困るから、今は我慢して、ね?」

(ピアノが弾けない・・・・・・・・・)

 さぁっと全身の血の気が引いた。

 固定された左手の指先が細かく震える。

(腕を怪我するなんて・・・・・・・・・)

 音楽家にとって、手は命よりも大切なものだ。手が動かなかったら、思うような演奏をすることができない。

「治るんですか・・・・・・?治ったら、ピアノ、弾けるんですよね!?」

 長年、芸術家の多い翔央の保険医をしてきた金井先生は、きゅっと唇を結んでうなずいた。

「だいじょうぶよ。だから、先生に弾いていいと言われるまでは、腕を休めてあげなさい」

 

 

 

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