Tempest テンペスト


11


 

 明るい光の射し込む温室。

 ピアノに向かっている先生の後ろ姿を、僕はソファにもたれながら見つめていた。

 真摯な目で鍵盤を見つめる先生。あんな目で見られてみたいな、とピアノが少しうらやましくなる。先生とピアノは恋人同士みたいだ。長い指で撫でられて、ピアノはとても心地よさそうにメロディーを奏でる。

(今まで生きてきた中で、きっと、僕よりもピアノのほうが先生と長く一緒にいるんだろうなぁ…)

 多分僕もそうなのだけど。

 昨夜、先生とセックスをして、今日はお昼までずっと先生のベッドにいた。先生は僕の腕をすごく心配していたけれど、痛みはなかったし、汗をかいてギプスの中が少しかゆいかなというくらいだった。それよりも僕は先生の腕の中で眠れたほうがうれしかったのだ。独りでいたら、きっと陽路のことを考えて眠れなかっただろうから。

(陽路…………………………)

 ライブハウスの低音の響きと一緒に、陽路の言葉を思いだす。「気が向いたらいつでもエッチしよな」。

(気が向いたらって………本気…なのかな…………?)

 もちろん、そんなことをするつもりはないけれど。

 来週、陽路に会ったらどうしたらいいんだろう?どんな顔をして会えばいいんだろう?

 ふぅ、とため息をつき、膝を抱える。

 次から次へと考えなければならないことが出てくる。

(なんだか、陽路に会ってから急に忙しくなったような気がする……)

 入学式以降、いろんなことがありすぎて、頭がパンクしそうだ。本当なら、先生がオフの間ずっとレッスンをしてもらえて、幸せの真っ只中にいるはずだったのに。

 またため息が出て、僕は抱えた膝に顔をうずめた。

「……聞いているばかりで退屈じゃないか?」

 ワーグナーのラプソディーを弾いていた手を止めて先生が振り向く。

「退屈じゃないです!」

 ため息は、そんな意味じゃない。

 僕はソファから立ち上がり、ピアノの前へ行った。

「僕が弾けない分、先生のピアノ、聞かせてください」

 そう。

 せめて、先生のピアノを全部覚えていたい。

 レッスンをしてもらうはずだった分も、全部。

「―――――――――――――――」

 先生は僕を見て少し考えると、「おいで」と僕をピアノの前に座らせた。

 温室のピアノの前には、いつも椅子が二つある。腕を怪我するまでは、いつもこうやって並んで先生にレッスンをしてもらっていたのだ。だけど今は左腕がギプスで固定されているから、演奏なんてできないのだけど…?

 すぐ左側に座った先生を見上げると、先生は柔らかく微笑った。そして、僕の目の前でゆっくりとピアノを弾き始めた。

(これは……バッハのインヴェンション?)

 小さな頃から基礎練習として何度も弾いてきた曲だからすぐにわかった。

 先生は短いその曲を弾き終えると、僕の右手をピアノの上に乗せた。

「?」

「今の曲、弾けるだろう?」

「はい。でも……」

「片手でいいから」

 先生は口元を微笑みの形にして、左手を鍵盤に置いた。

 僕が右手で、先生が左手…………

(ひとつの曲を、二人で弾くってことだ……!)

 こういうやりかたは、ずっと昔にやったことがある。まだきちんと曲が弾けなかった小さな頃、ピアノの先生が伴奏を弾き、僕がメロディを弾くという練習をした。あの頃はもっと簡単な曲だったけれど、自分の奏でたメロディが、伴奏にのって立派な曲に変わるのに感激したのを覚えている。

「行くぞ」

 先生のピアノに合わせて、僕もあわてて指を動かす。久しぶりのピアノ。久しぶりのインヴェンション。指が動くか不安になったけれど、弾き始めるとすぐにバッハの楽譜が頭の中に浮かんだ。

 イン・テンポできっちりと刻む先生の左手に負けないようにメロディを弾く。二人の息が合うと、右手と左手のメロディーがきっちりと組み合う。もともとがパズルのような曲なだけに、すごく気持ちがいい。右手だけしか弾いていないのに
、僕はすごく満足した。

「すごい!面白いです!」

「次は何がいい?」

「ええと……」

 考えようと首を傾げた瞬間、椅子から落ちそうになった。それをタイミングよく先生の腕が支えてくれた。

「ギプスのせいで重心が偏ってるんだよ」

 苦笑しながら先生は右腕で僕の腰を抱いた。自然と、肩を寄せ合い、ぴったりとくっつく形になる。

(わ………)

「な…何にしよう……かな……」

 顔が真っ赤になるのがわかる。裏腹に真っ白になった頭の奥で、たとえ何回セックスしたって、先生と寄り添うといつもドキドキするんだろうなぁなんて思った。

「決まらないなら、『黒鍵』にするぞ」

 ぱらぱらっと先生がさわりを弾いたのは、ショパンの「黒鍵」のエチュード。右手がとてつもなく大変で、左手がかなり楽をできる曲だ。

「先生、ずるいです!」

 意地悪そうに笑っている先生をにらみ、頭の中のデータベースを探る。

「ええと…じゃあ、ブラームスの愛の歌で!」

 さっき先生が弾いていたのがブラームスだったから、一番最初に浮かんだ曲もブラームスだった。

「何曲目のでもいいですか?」

 先生がうなずいたので、僕は暗譜しているメロディを弾き始める。すぐに先生のピアノが続いた。一人で弾く曲を二人で弾いているので、どうしても指がぶつかりそうになる。そして、一人で弾くときは腕を交差させる部分で、僕の頭と先生の左腕がぶつかった。

「!」

 びっくりして手を止めて、それからすぐに笑ってしまった。見上げると、先生も笑っている。今日は先生がたくさん笑ってくれているのがすごく幸せだ。少し顔を上向けると、先生の唇が僕の唇に降りてきた。「キスしたい」と口に出していなくても、ちゃんと伝わってる。それが不思議で、うれしい。

(ずっとこうしてたいな…………)

 いつまでも先生と一緒にいて、一緒に眠って、ピアノを弾いて。大好きな先生と大好きなピアノに囲まれて暮らせたら、どんなに幸せだろうか。

 その瞬間、背後から声が飛んできた。

「まゆ、昭生くん、ただいま」

「お母さん…!」

 振り向くと、温室のドアの前にお母さんが立っていた。

 ぱっと反射的に先生から離れる。

(キスしてるところ…見られた……?)

 背筋が凍りついたけれど、お母さんは笑っていたから、どうやら見つからないで済んだみたいだった。

「お帰りなさい!夜まで戻らないんじゃなかったの?」

「予定が早まったのよ。お土産買ってきたから、リビングでお茶でもしましょう。昭生くんもいらっしゃいね」

 そういうと、お母さんは母屋へと戻っていった。

「ひとまずピアノは休憩だな」

「そうですね…」

 うなずいたけれど、僕は心の中で、正反対のことをつぶやいた。

(もっと先生とピアノ弾きたかったな…)

 それが顔に出ていたのか、先生が僕の頭をぽんぽんと撫でた。

「また部屋ででもピアノ弾いてやるよ」

「はい!」

(どうしたんだろう、先生がすごく甘い)

 笹目さんが前に言っていた「特別な存在」っていう言葉に自惚れてもいいのかなっていう気持ちになってしまう。先生がこんなに甘いのは、僕にだけだって。

「とりあえずはお茶に行こう」

 歩き出した先生の手に指をからめてつなぐ。

 お母さんたちが帰ってきたから、いつもべたべたはしていられないけれど、こんな風にこっそりとくっつくのもいいなぁなんて、僕は暢気に思った。
 
 
 
 
 
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