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先生がまた海外へ行ってしまうらしいというのを、僕は学校のうわさで聞いた。同じ家に暮らしている僕が知らないのに、なんで見ず知らずの人たちがそんなことをいうのか不思議だ。
(本当なのかな・・・・・・?)
先生は相変わらずあまりしゃべらないから、もし本当にそうだとしても僕が教えてもらえていない可能性はすごく高い。先生と一緒に暮らすようになって半年がたつというのに、先生はプライベートな話をしてくれない。ピアノのレッスン中に雑談をしたり、リクエストした曲を弾いてくれたりはするのだけど、いつもどこか素っ気なさを感じていた。そんなときはさみしくって、心臓がきゅうっとなる。
「僕、先生に嫌われてるのかもしれません・・・・・・」
ピアノ練習用の温室で、先生に会いに来た笹目さんにお茶を出しながらぽつりというと、笹目さんはくすくすと笑った。
「馬鹿だなぁ、まゆ。考えすぎだよ」
「でも、先生って、僕に何も話してくれないから・・・」
「あいつは誰にでもそうだよ。まゆにはまだマシなほうだ」
「でも・・・笹目さんには、もっといろんな話するんでしょう?」
「なんだ?ヤキモチか?」
笹目さんと並んでソファに座る。笹目さんはいたずらっぽく笑って、僕の頭をなでた。
「俺はな・・・・・・前からの知り合いだからだよ。付き合い長いし、いろいろあったからな。でも、まゆみたいに大切にはされてないぞ。いっつもこき使われるだけこき使われて、礼すらいってもらえないんだからな」
「でも・・・・・・」
笹目さんといるときの先生は、すごく自然で、いいなぁって思う。僕の前とは違った顔をするから、そしてそれがすごく親しい人同士に見えるから。きっと先生は笹目さんのことが大切なんだってわかる。そして、笹目さんもそれをわかってるから「大切にされてない」っていえるんだ。
「・・・・・・笹目さんは、ずるい」
僕の知らない先生をいっぱい知っていて。
「嫌われたかな?まゆに」
「――――――ううん」
こて、と笹目さんの膝に頭を乗せてちょっと甘える。笹目さんの膝枕は堅くって厚くって弾力があった。
「うらやましいだけです」
「素直だなー。まゆのそういうところ、好きだなぁ、俺は」
「僕も笹目さん大好き」
「そうかー」
ぐしゃぐしゃっと大きな手で髪をかき混ぜられて、くすぐったかった。お返しに笹目さんのしっぽみたいに束ねてる髪を引っ張る。そのまま笹目さんとじゃれていたら、温室の入り口に先生が立っているのが見えた。
「っ・・・・・・先生・・・・・・!」
「・・・・・・・・」
先生はまゆをひそめて、怖い顔をして入り口のドアにもたれていた。
「よぉ日下。突っ立ってないでこっちこいよ」
暴れてぼさぼさになった髪をしばり直して、笹目さんが先生を手招きした。
僕も乱れた髪と服をあわてて直して、ソファに背をのばして座り直した。
「レッスンの時間かと思ったんだが?」
「はい・・・っ・・・ごめんなさい・・・・・・!」
「何いってんだよ、遅刻したのはおまえだろ」
キッと先生の冷たい視線が笹目さんを射る。でも笹目さんはひょうひょうとして頭の後ろで腕を組んだ。
「俺も打ち合わせの時間だったからちゃーんと時間通りに来たんだけどなぁ。おまえがいないから、まゆに相手してもらってたんだよ」
「――――――――――――――――――――」
笹目さんをにらみつける先生の冷ややかな視線が怖い。
(笹目さんがうらやましいっていうの、前言撤回かも・・・・・・)
もし僕が先生にこんな目で見られたら、体中凍り付いて身動きとれなくなってしまう。
「で、悪いけど、レッスンの前に打ち合わせのほうをしたいんだ。急ぐもんでな。まゆ、いいかな?」
「あ、はい・・・!」
「じゃあ家に戻るか」
「別に俺はここでいいけど。というか、面倒だからここがいい。そしたら終わった後すぐにまゆのレッスンもできるしな」
「――――――――――――――」
先生はしばらくむっとしていたみたいだけど、そのまま無言で向かいのソファに身を沈めた。なんだか先生の周りの空気がトゲトゲしていて痛かった。僕は居心地が悪くって、「お茶、いれますね」と席を立った。といっても、ティーセットのある部屋の隅へ移動しただけなのだけど。
「・・・あの話、そろそろ返事してほしいってさ。社長(ボス)が」
居心地が悪いとはいえ、二人がどんな話をしているのかは気になる。僕はお茶を入れながら二人の声に聞き耳を立てた。
「どうせ俺の返答なんてどうでもいいんだろうが。俺が嫌だといっても、あの人は結局は押し通す気なんだろ」
(あの話ってなんだろ・・・・・・)
思わず手が止まってしまった。
考えてみたら、先生が仕事の話をしているのを聞くのは初めてだった。いつも先生は笹目さんと別の部屋で話していたから。
「確かに今回は時期的にきついかもしれないけど、行くだけの価値はあるぜ。なんてったってあのマエストロレルシュのご指名だからな」
マエストロ、レルシュ・・・・・・聞いたことがある。ドイツの大御所指揮者さんの名前だ。
(その人からオファーが来てるんだ、先生・・・・・・)
紅茶のカップをトレイに乗せて、ソファの間のテーブルにおく。そのままどこかへいこうかと思ったのだけど、笹目さんが自分の隣を小さくたたいて「座れ」と合図をしたので、おずおずとそこに座った。先生はそんな僕をちらりと見て、すぐに笹目さんに視線を戻した。
「マエストロのスケジュール的にコンサートの日にちはずらせないし、いい加減、曲目やなんだも決めなきゃならんって、社長がせかされたらしい。オケとの調整もあるしな。何が何でも今日、返事させろって言われてんだよ」
「――――――――わかったよ、受ける。そうあの人に伝えておいてくれ。プログラムや構成は一任する」
「OK。じゃあ早速連絡する」
そういって笹目さんは携帯電話を片手に温室の外へ出ていった。
急に先生と二人で残された僕は、どうしていいのかわからなくってどきどきした。先生は見るからに不機嫌そうだったから話しかけるなんてできないし、かといって身体が固まってしまってソファから立ち上がることもできないし、膝の上に置いた手をぎゅっとにぎってただうつむいていた。
そのまましばらくしてから、はぁ、と先生のため息が聞こえた。
「・・・真雪」
「は・・・はい!」
思わずぴんっと背筋を伸ばしてしまった。
先生は相変わらず眉間にしわを寄せて足を組んだ。
「悪いが、しばらくレッスンができなくなった」
「え・・・・・・・・・?」
「聞いての通り、海外に行かなければならなくなった」
「さっきの・・・コンサートのお話・・・・・・」
「そうだ。レルシュのツアーに参加することになったから、長くなるかもしれない」
(え・・・ツアー?・・・・・・・・・長くなるって・・・・・・先生に、会えなくなっちゃうの・・・・・・・・・?)
「どのくらい・・・なんですか?」
「年内には戻れると思うが、もしかしたら、年明けまでかかるかもしれない」
「えっ・・・・・・そんなに長くですか・・・?」
年明けまで・・・・・・僕の誕生日のクリスマスを越えて、そんなに長くだなんて・・・・・・
「連絡終わったよ」
外で電話をしていた笹目さんが戻ってくる。
「早速あちらさんと合流してほしいってさ。土曜日からあっちに行くことになった」
「土曜日・・・・・・?」
それって、明後日だ。明後日から、先生はまた長い間いなくなってしまうんだ・・・・・・
(さみしい)
じわっと涙が浮かんでくる。それに気づいて、笹目さんが頭をなでてくれた。
「そんな顔するなよ、まゆ。ツアーが終わったらすぐに帰ってくるから」
「でも・・・年明けまでかかるんでしょう・・・?」
「あー・・・まぁ、たぶんな」
「――――――――――・・・・・・」
夏休みの間、先生がいなくって、毎日すごくさみしかった。先生が帰ってくる日を数えて、毎日待っていた。今までは楽しかった夏休みが、全然楽しくなくって、ただ先生が早く戻ってきますようにって祈ってた。そんな想い、もうしたくなかったのに。わがままだってわかってるけど、先生に家にいてほしい。
「・・・悪いけどな、まゆ。これから日下つれて打ち合わせ行かなきゃいけなくなったんだ。せっかくのレッスンの時間だけど・・・・・・」
「はい・・・お仕事なんですもん・・・仕方ないです」
「ごめんな」
そういって笹目さんと先生は席を立ち、温室から出ていった。取り残された僕はソファに座ったままひざを抱えた。
(あのうわさ、本当だったんだ)
学校で見知らぬ人が話していた「日下昭生が海外へ行く」という話。
さみしいのを我慢しなければならないとわかっているけれど、先生がいなくなると思うと胸がキリキリ痛くなって、涙がこぼれて止まらなかった。
to be
continued …
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