5
いよいよ先生が帰ってくる日になった。
その日は、学校の授業もいつもは大好きなピアノの演習も全然頭に入らなかった。
ただ、早く放課後になれっていうことだけ考えていた。
終業のベルが鳴り、掃除が終わると、僕はカバンを抱えて駆け出していた。
帰り道の電車のスピードさえもどかしくって、駅に到着し、ドアが開いた瞬間から僕は家に向かって走った。
「ただいま!」
週に二回、僕の家のお手伝いをしてくれている佐紀さんは、夕方には帰るのでもういない。お父さんやお母さんもいないから、誰も返事はしてくれないけれどあいさつだけはする。
そのままリビングをのぞき、先生の部屋をノックして、どこからも反応がないので不安になってしまった。
(午前中に帰ってきてるはずなのに……)
どこにいったんだろう?まさか急な仕事が入ってまた行ってしまったとか?
返事のない先生の部屋をそっと開けてみる。中には先生はいなかったけど、大きなスーツケースがドン、と置いてあった。
(いるんだ……帰ってきてる!)
それじゃあどこに?
「そうだ!」
僕はその場にカバンを投げ捨てて庭に出た。そして、いつも先生からレッスンをしてもらってる温室へ走った。
「先生?」
だけど、温室の中にも人影はなく、しーんとしていた。
(違った………どこにいるんだろう、先生……)
がっかりしながらふとソファの方を見ると。
「!」
先生がいた。
ソファに横になったまま、先生は眠っていた。長い足をソファの肘掛に乗せて、ゆったりと眠っている。
(先生だ―――――――!!)
2ヶ月ぶりに会った先生は、少し痩せたような気がした。
そっとそばに寄っていくと、すーすーという静かな寝息が聞こえた。
(帰ってきた…………)
うれしくってうれしくって涙が出そうになる。
ソファの側にそっとしゃがんで、眠る先生の胸に頭を乗せた。ひさしぶりの先生の匂い。
「……ん……?まゆ…………?」
「先生?」
「…………………」
先生は目を閉じたまま手を伸ばして僕を探り当てると、よいしょっと僕の体を自分の体の上に乗せた。そしてそのまま僕を抱いて、また眠ってしまった。
(う、わーっ………)
心臓が口から出そうで、思わず口を両手でおさえた。しばらく鼓動を落ち着けてから、そっと先生の様子をうかがう。規則正しい寝息が聞こえる。
僕は必死に自分を落ち着かせて、先生の胸に頭を乗せた。とくんとくんとゆるやかな脈が聞こえてくる。
(寝ぼけたのかな……寝ぼけてるのかな……)
そうだよね。そうでもなきゃ、僕のこと抱きしめたり、「まゆ」って呼んだりしない。
先生は普段、めったに僕に触れないし、僕のことは「真雪」としか呼ばないんだから。でも。
(うれしい………)
いまだけは、こうして先生を独占していられる。先生に触れていられる。
僕を抱きしめる先生の腕。胸の広さ。匂い。寝息。
すべてがぐるぐると混ざり合って、僕の心臓を圧迫する。でもこの苦しさは、決して嫌じゃないんだ。むしろ、心地よい痛み………
(先生…………)
目を閉じると、先生の鼓動がすぐ耳元に響く。それに安心して、僕は眠りの中に落ちて行った。
結局僕と先生はそのまま何時間も寝てしまっていたらしい。
僕が目を覚ましたとき、先生はまだ寝ていて、時計を見たら夜の10時を回っていた。
夏の終わりとはいえ、部屋がかなり冷えていたので、何か先生にかけられるものを…と探している最中に、先生は目を覚ました。
「真雪……?」
目を覚ました先生は、僕を「まゆ」とは呼んでくれなかった。ちょっとがっかりする。「まゆ」と「まゆき」。たった1文字増えているだけで、なんでこんなに悲しくなっちゃうんだろう。
「何時だ?」
「10時過ぎです」
「……よく俺がここにいるってわかったな。いつからいた?」
(先生、僕も一緒に寝てたこと、気づいてないんだ)
ほっとしたようながっかりしたような気分で僕は首をかしげた。
「結構前からです。寒くなってきたから、なにかないかなぁって探していたところだったんですけど」
「そうだな。真雪がここは昼寝に最適だって言ってたからここで寝てたんだが、さすがに夜は冷えるな。今度、予備の布団でも運んでおくかな」
体を起こして伸びをしている先生の前に僕は座った。そんな僕を先生の真っ黒な瞳が見つめる。
「……おかえりなさい」
先生に会ったら、テディだけ置いて僕に会って行ってくれなかったこととか、連絡をほとんどくれなかったこととかの文句を言おうと思っていたのだけど、そういうのは全部どこかへ吹っ飛んでいってしまった。
先生はそんな僕を静かに見つめて言った。
「…ただいま」
ぼろっと僕の目から涙がこぼれた。先生はびっくりして、困ったような顔をして、それから小さな声でこう言った
「……悪かったな」
その言葉に僕のほうが驚いてしまった。先生がなにに対して謝っているのかわからなかったから。でも、なんだかすごくうれしくって仕方がなかった。思わず先生に抱きついてしまったけれど、先生は僕の腕を振り払わずにいてくれた。だから、僕は余計に涙が出てきて、なかなか泣き止むことができなかった。
それからは、先生はよく家にいてくれるようになった。
大学のほうは、講義があまりないのだそうだ。今の時期はコンクールもコンサートもないから、自由なんだ、って。
だから僕は学校が終わるとまっすぐ家に帰るようになった。先生はたいてい温室でピアノを弾いていて、僕が帰ってくるとレッスンに切り替えてくれる。今まではほとんど弾いてもらえなかったピアノも、たまに聞かせてもらえるようになった。相変わらず表情は堅いし、僕のことを「まゆ」とは呼んでくれないけれど。
それでも、先生の奏でるピアノが、僕にとても優しくしてくれるから、すごくすごくしあわせだった。
to be
continued …
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