prelude3      

 あれから何日もたったけれど、先生はあのときみたいに優しく笑ってくれることはなかった。

 でも、僕に接するときの雰囲気が、なんだか柔らかくなったような気がする。

 たくさんしゃべってくれることはないけれど、髪をなでてくれることも、抱きしめてくれることもないけれど。

 それでも、僕は、先生が本当は優しい人なんだって思う。

 あの時見せてくれた優しさは、絶対にうそじゃないから。

 なによりも、先生の奏でるピアノが、とても優しかったから。

「真雪ー」

 温室でひとりでピアノを弾いていると、笹目さんがやってきた。

「いらっしゃい!笹目さん」

「今日もかわいいなぁ、まゆ」

 笹目さんはにこにこ笑いながら、僕の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 僕はすっかりこの人が大好きになっていた。人懐こくて、優しくって、うちにくるたびに僕と遊んでくれるから。先生のマネージャーさんだから、うちにはちょこちょこ来てくれる。そのうちに、僕を「まゆ」と呼んでくれるようになった。僕はこの呼び名がとても好きだ。だから、先生にもそう呼んで欲しいのだけど、先生だけは、いつも僕を「真雪」としか呼んでくれなかった。

「今日はどうしたんですか?先生は?」

「うーん、日下をさがしに来たんだけどなぁ……大学にも家のなかにもいないから、まゆのところにいるかと思ってきたんだけど、違ったな」

「先生、朝に出かけて行ってから、まだ帰ってきてないみたいですよ」

「どこいったんだか。まったく」

 どっかりとソファに座って、笹目さんは笑った。

「打ち合わせですか?」

「そう。もうすぐ夏休みだから、世界行脚に出てもらおうかと思ってな。その打ち合わせ」

「世界行脚………?」

 それってつまり、コンサートツアーってこと?

 せっかく夏休みで学校がなくなるっていうのに、先生に会えなくなっちゃうの……?

「……そんなにかなしそうな顔するなよ」

 くすくすと笹目さんが苦笑した。

「日下の前でそんな顔しないでくれよ。あいつ、コンサートはやめるって言い出しかねないからな」

「?」

 どうしてですか?と首を傾げると、笹目さんは少し意地悪そうに目を細めた。

「日下はまゆがかわいくって仕方がないんだよ。まゆのためなら、コンサートだってすっぽかすさ」

 そして、笹目さんの視線はピアノの前に座っている僕よりも遠いところへ飛んで…

「―――なぁ?日下?」

「…………笹目…………っ」

 温室の入り口には、いつの間にか先生が立っていた。先生は切れ長な目で笹目さんをにらみつけていた。

「あんたはいっつも余計なことばっかりべらべらしゃべってっ……!」

「余計なことなんかじゃないよなぁ。それにみんな事実だろ」

「笹目!打ち合わせは!」

 はいはい、と笹目さんは立ち上がり、僕の頭をなでて先生と出ていった。

 笹目さんの前では、先生は雰囲気が変わる。

 それまで先生がまとっていた大人びた冷たい空気が、笹目さんといるだけですごく柔らかくなる。笹目さんは先生よりも8歳上だそうだから、笹目さんにとって先生は子供みたいなものなのかもしれないけど。それでも、先生にあんなに感情を出させるなんて、すごいと思う。

 僕が笹目さんといてリラックスできるのと一緒で、先生も笹目さんといると自分を出せるのかもしれない。

(いいなぁ)

 僕もそんな人になりたい。

 いつかは先生に認めてもらえるような人間になりたい。先生と肩を並べられるくらいのピアニスト

になりたい。

 それが僕の目下の夢。

to be continued …

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 モドル