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先生がうちにきてから2週間、僕は彼が笑っているのを見たことがない。
あ、先生というのは、日下先生のことだ。
僕のピアノの先生だからそう呼んでいる。先生は最初そう呼んだとき、何か言いたそうにまゆをひそめたけれど、結局何も言わなかったから、僕はそう呼びつづけている。
先生は僕の想像していたような人ではなかった。
もちろん僕が勝手に憧れを抱いていただけだから、本当の彼は今目の前にいる彼なのだろうけれど。
先生はレッスン中も家にいるときも、必要最低限のことしかしゃべらなかった。表情も堅くって冷たくって、何を考えているのか全然わからない。
(ピアノのレッスン、迷惑だったのかな……)
無理矢理頼み込んだレッスンだから、そう思われていても仕方ないけれど……
(それとも、ご両親が亡くなったせいかな)
まだ事故から半年たつかたたないかだから、先生の心の傷は癒えてないだろう。
お父さんとお母さんが死んでしまうだなんて、僕には想像もつかないけれど、もしもそうなったらどうするだろうって一生懸命考えた。僕は二人とも大好きだから絶対にそんなことになって欲しくないけれど、でも、もしもそうなったらって。
(…わかんない)
でも、ものすごく悲しいって事だけはわかる。
僕の両親は二人ともコンサートやリサイタルのために世界中を飛びまわっている。なかなか家に帰って来れなくってさみしい。だけど、いつかは必ず会えるって思ってるから、離れていられる。でも、死んでしまったら二度と会えないんだから。
(先生は今、独りぼっちなんだ)
先生の態度は、僕や僕の両親に自分に立ち入って欲しくないって思ってるみたいだ。
両親はそんな彼の態度に気づいている。だけど、できるだけ自分の息子のように接したいんだよといっていた。
どうして?と聞くと、お父さんは僕の頭をなでながら言った。
「まゆは昭生くんが嫌いか?」
「まゆ」というのは、親しい人が僕を呼ぶ呼び方。
「嫌いじゃない!すごく好き!」
思いっきり首を振ると、お父さんもお母さんも微笑んだ。
「お父さんたちも同じだよ。昭生くんのことが好きなんだ。だからこそ、彼にこの家にきてもらいたかったんだ」
「昭生くんはね、まゆのレッスンをするなら、ということでうちにきてくれたのよ」
「?先生は、うちに住むついでに僕のレッスンをしてくれてるんじゃないの?」
「……最初、昭生くんは一人でマンションに住むって言ってたのよ。でも、まゆのレッスンをして欲しいってお願いをしたら、『それなら』って受けてくれたのよ」
「?」
なんで?僕のレッスンならいいって、なんで?
首をかしげている僕に、お父さんとお母さんは笑っているだけだった。そして、お父さんがぽつりとつぶやいた。
「わたしたちは、ただ、昭生くんがまた笑えるようになればと思っただけだよ」
と。
「先生、どうして先生は笑わないんですか?」
レッスンの最後に質問は?と聞いた先生に、僕はこんな質問をした。
先生はびっくりしたように目を丸くして、それから口元をゆがめて笑った。
「…笑ってるじゃないか」
「―――でもっ…そうじゃなくって………」
冷たい笑顔は何度か見たことがある。でも、そのときの先生の目は笑ってない。そんなの、本当の笑顔じゃない。
「くだらないこと言うなら、今日はもう終わりだ」
「先生っ……」
椅子から立ち上がって、先生は僕に背を向けて、レッスン室から出ていった。
(失敗しちゃった…………)
先生を怒らせてしまった?
(どうして笑ってくれないんだろう)
僕の記憶の中の先生は、ちゃんと笑っているのに。
あの日コンの日。演奏を終えて先生がもらした笑顔。優しそうなあの表情。さすが、あの演奏をする人だと思っていたのに。
ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
先生は僕が嫌いなのかな。
僕のレッスンをするのが、やっぱり嫌なのかな。
お父さんたちに頼まれたから、仕方なくやってるのかな。
もしかしたら、この家に住むのも嫌なのかもしれない。
僕と顔を合わせるのも嫌なのかも。
考えれば考えるほど悲しくなってきて、涙が止まらなくなった。温かい涙がぽたぽたとピアノに落ちる。
僕は先生にあこがれてピアノを弾いていたのに。
先生に嫌われているのなら、僕はもうピアノなんて弾きたくない。
そのとき、ガラス窓からさしていた陽を、大きな影がさえぎった。
その影は大きなため息をひとつつくと、僕の両脇に腕を差し込んで抱き上げた。
「――――――っ!?」
気づいたとき、僕は先生の腕に抱かれていた。正確に言うと、小さな子どものようにかかえられていたのだけど。
とりあえず、なにがなんだかわからなくって、僕は先生の首にしがみついた。ふわり、と先生の匂いが鼻をくすぐる。なぜだかその匂いはすごく安心できた。
「……悪かった」
耳元で、先生の声。
「真雪に八つあたりしても仕方がなかった。今日、大学でちょっといらいらすることがあって……悪かったな」
先生の声も顔も相変わらず冷たいままだったけど、今までと違って、そのなかにすごく優しい空気が混ざっていた。
なによりも、先生のぬくもりがうれしくって、僕はいっそう泣けてきてしまった。
「先生っ……僕のこと、嫌いだったんじゃ…ないんですか…っ?」
嗚咽まじりに言うと、僕を抱きしめる先生の腕に少し力が入って、それからそっと僕の髪に先生の手が触れた。
「馬鹿だな……そんなこと思ってたのか?」
先生の手が、僕の髪をそっとなでる。
「…いや、俺が不安にさせてたのかな」
すとん、と僕を床に下ろして先生はもう一度僕を抱きしめた。
「そんなことないから、泣きやめ」
「――――――――――…っ」
先生の声は、もうすっかり優しくなっていた。泣き止まなきゃ、と思ったけれど、うれしくって次々に涙が出て、止まらなかった。
「真雪、ピアノ弾いてやるよ」
「!」
ばっと顔を上げると、先生の困ったような笑顔とぶつかった。それは今までの口元をゆがめた笑いではなくって、本当に自然な、笑顔。まるであの日コンのときみたいな。
(…あぁ、これが僕のあこがれの人だ……………)
泣いていたのとは別の熱が頬を熱くさせた。
とくん、とくん、と心臓が脈を打ち始める。
「おいで」
先生に導かれてピアノの前に座る。いつもは僕が先生の右側に座ってレッスンを受けているのだけれど、いまは逆で、僕が先生の左側に座った。
「リクエストは?」
「―――――――」
あんまり急に先生が優しくなったせいで、心臓がドキドキしていて、頭の中が大混乱している。リクエストって言われて、ものすごくうれしいのに、口が動かなかった。
先生はしばらくそんな僕の様子を見てから、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。ポジションを探ってから弾きはじめた曲は、聞いたことがないけれど、ゆるやかな優しい雰囲気の曲だった。クラッシックではなく、ジャズでもなく……
曲にのって動く指を僕はじっと見つめていた。細くて長い指。そして、それを動かしている人の顔を。
考えてみたら、先生を間近でこんな風にじっくり見るのは始めてだ。
レッスンをしてもらうようになってもう2週間がたつけれど、いつも僕が弾いて、先生に直してもらって、それで終わりで。先生はすぐに自分の部屋に帰ってしまっていたから。いつもの生活でも、食事のときくらいしか顔を合わせないし、最近は学校から遅く帰ってくるから一緒にご飯を食べることもあまりなかったし………
(綺麗…………)
指も、顔も、先生が奏でる音楽も。
みんな、みんな、なんて綺麗なんだろう。
はじめて横で聞いた先生の演奏は、6年前と変わらなかった。表情や仕草が変わっていても、演奏だけは、あの時と一緒だった。とても優しい音。
「泣き止んだな」
「!」
気づいたら、先生は曲を弾き終えていた。
僕は先生に見とれていて、それに気づかなかった。
「あ…はいっ……すみません……」
すっと先生の指がのびてきて、僕の頬の涙をふいた。
そのとき、僕は、しなやかに見えた先生の指に固いたこがあることを知った。ピアノを弾きつづけた人の指だった。
「今の曲……なんていうんですか?」
「We're all alone」
「ウィーアーオールアローン?」
小学で習った英語の知識を総動員して訳してみる。といっても、小学6年生の語学力ではよくわからないのだけど。
「…みんな独りぼっち……?」
おそるおそる先生を見上げると、くすっと先生の口元がほころんだ。
(笑った!!)
先生が、笑った!
今までの冷たい表情が一瞬にどこかに飛んでしまうその笑顔。つられて僕まで微笑んでしまった。
「そんなさびしい曲じゃない。訳し方を変えれば……We're all alone。この世に二人だけ…二人の世界ってことだよ」
「二人の世界……」
「おまえがここで最初に会ったとき、ずいぶん熱烈な曲で出迎えてくれたから、お返し、だよ」
「熱烈な曲……?」
「邦訳をしらないのなら、調べてみな」
くしゃっと僕の髪を撫でていた先生は、ふいにきっときつい目をした。僕はびっくりしてしまったけれど、その視線は僕ではなく、僕を超えてさらに後ろの方に投げられていた。
「先生!?」
「打ち合わせ。迎えがきた」
先生の視線の先を追うと、温室の入り口に男の人が立っていた。先生と背は同じくらいか少し高いかなのだけど、すごくがっしりとした体つきをしている。不精ひげがあるから年齢不詳っぽい感じなのだけど、たぶん先生よりは年上なのだろう。髪を肩ぐらいまで伸ばしていて、それを後ろで無造作にくくっていた。
「笹目(ささめ)」
先生の呼びかけに答えるようにその人はこちらを見てにやにやと笑った。
「おまえがそんなふうに弾くなんて珍しいなぁ」
くっくっと笑いながらその人は先生のところまで歩いてきた。近くで見ると、その人はかなり大きな人だった。肩幅が広くって、がっしりしてて、格闘家みたいな体つきだった。
「うるさい」
先生はその人をぎっとにらみつけた。でも、怒っているっていうよりも、悔しがってるっていう風に見えた。今まですごく大人に見えていた先生が、その人の前では少し子どもっぽく見えたのはなぜだろう?
その人は僕のほうに来ると、少しかがんで僕と視線を合わせてにっこり笑った。
「はじめまして。日下のマネージメントをしてる笹目と言います。日下からうわさは聞いてるよ。かわいいかわいい従兄弟だってね」
「…?」
「笹目っ!余計なこと言うなっ」
僕はびっくりしてしまった。
先生が赤くなっている。
(すごい、この人……)
先生をこんなに動揺させられるだなんて、尊敬してしまう。
「はじめまして……」
おそるおそるさしだした僕の手をつかんで、笹目さんは握手をした。大きくってごつごつしていて、あったかい手だった。
僕はなんだか笹目さんにものすごく好感を持ってしまった。
「時間なんだろ、笹目!」
先生が僕から笹目さんをひきはがすように引っ張った。笹目さんは苦笑して僕にウィンクをし、先生と一緒に温室から出ていった。
二人の姿が見えなくなると、僕は力が抜けてしまって、その場にへたり込んだ。身体に先生のぬくもりとか、匂いとかが残っているような気がして、自分で自分を抱きしめた。
(あんなに優しい先生……びっくりした…………)
頬がまた火照ってきて、鼓動が早くなる。なんだろう、このドキドキは……いっぱい泣いたせい?それとも………
ぷるぷると首を振って立ち上がり、ピアノの前に座る。
さっき先生が弾いてくれた曲を思い出しながら弾いてみる。
We're all alone
この世に二人だけ。
さっきの僕と先生みたいに。
(そう言えば)
ジュ・トゥ・ヴの意味ってなんだろう?
本棚の中から楽譜を引っ張り出し、タイトルを見る。書いてある文字は英語ではないようだった。
「なんだろう…フランス語、かな………」
さらに本棚を漁り、フランス語の辞典を引っ張り出す。曲の解釈のために、と、お父さんが昔使っていたのをくれたのだ。
ジュ……欲しい。トゥは………「は」とか「が」、かな。ヴは………
「あなたが……ほしい………?」
熱烈な曲、と先生が言っていいたのを思い出す。そう意味だったんだ、あれは。
「欲しい」
その言葉をつぶやいたとき、また胸の鼓動が強くなった。
「欲しい」
とくとくとく、と心臓が脈打つ。
僕はそのとき、自分の中にある気持ちに気づいた。
僕は、先生のことが、欲しいのかもしれない―――――――
to be
continued …
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