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庭の離れにある温室。
そこが僕のピアノレッスン室だ。
両親が音楽系の仕事をしているから、僕の家はあちこちに防音設備の整った部屋がある。だけどグランドピアノを置くには狭いから、と両親が僕のために作ってくれたのがこの離れだ。広さは30畳くらいあると聞いたことがある。確かにピアノの他にソファや棚があるけれど、まだまだ充分にゆとりがある広さだ。部屋の一面はガラス張りになっていて、ビニールハウスのように陽をよく採りこむから、僕は練習以外にも、昼寝をしたり本を読んだりするのにもよくこの離れを使っている。いわばお気に入りの場所だ。
僕は今日、そこで人を待っていた。
日下昭生(くさか あきお)という、まだ会ったことのない僕の従兄弟を。
日下昭生は、今日本の若手の中で一番有力株といわれるピアニストだ。
日コンを始め、世界中のいろいろなコンクールで入賞し、弱冠21歳で世界中に名を知らている人だ。
その人が僕の従兄弟だというのはずっと知っていたのだけど、彼がご両親と海外で暮らしていたせいで、彼本人と会ったことはなかった。でも、彼は僕の憧れの人なのだ。
彼本人とは会ったことはないけれど、僕は彼の演奏を聞いたことがある。
あれは6年前。彼がまだ高校生で、僕がまだ5歳だった頃。両親に連れられて、従兄弟のお兄さんが出るというコンサートに行ったことがあった。それは、日コンの入賞者によるコンサートで、彼はその年のピアノ部門で2位に入賞していたのだった。
その頃の僕といえば、音楽家一族に生まれたものの、どの楽器にもあまり執着しない、ただの音楽好きだった。両親は僕に何か楽器を持たせたがっていたけれど、僕は「これ」というものに出会えないでいた。曲を聞くのは好きだけど、別に自分で演奏しなくてもいい。そう思っていた。
そんな僕の考えを覆したのが、彼の演奏だった。
今でも鮮明に覚えている。
ステージの上にどんとおかれたピアノ。ライトで煌煌と照らされたそれに毅然と歩み寄った彼。そして彼の指が鍵盤に置かれた瞬間、舞台は彼一色に染まっていた。
流れるようで力強く、それでいて繊細な雰囲気を持つ音。会場にいるものをすべてひきこみ、音楽の世界に引きずり込んで行く力。
(すごいすごいすごいっ)
僕はあのときの気持ちを忘れられない。
たったピアノ一台で、観客を魅了できる力。そして、演奏が終わった瞬間の、一瞬だけの彼の笑顔。
「ピアノが弾きたい」
演奏会からの帰り道、僕は興奮して両親に言った。両親は満足そうに笑っていた。今思うと、あれは彼の演奏を聞かせて僕をピアノの道に行かせようとする両親の魂胆だったのでは、なんて思う。だけど、僕はそんな両親に感謝したい。そして、僕にピアノの素晴らしさを教えてくれた彼にも。
両親はそれからすぐに自宅の離れに温室を作り、そこにグランドピアノを置いて、僕の練習室を作ってくれた。それがこの部屋だ。
僕はいつか彼のピアノに追いつきたいと、一生懸命練習した。
日々の中で彼の情報を聞くたびにどきどきしながら。
その彼が、今日、家に来るのだ。
ピアノに指を置いて、ぽーんと音を鳴らす。ど真ん中のキー、A。そのままサティのジュ・トゥ・ヴを弾く。やさしい三拍子に身を任せて、目を閉じる。
彼は家に来るだけではない。これからは、うちで暮らすことになるのだ。
発端は、悲しい事件。
彼のご両親が事故で亡くなったから。
それまで僕は知らなかったのだけど、彼は音大生で、都内のマンションにひとり暮らしをしながら、学生生活を送っていたのだそうだ。とはいえ、留学をしていたのでほとんど学校にはいってなかったみたいだけど。
半年前、彼のご両親が亡くなったとき、僕の両親が僕の家での同居を彼に進めたのだそうだ。めったに帰らないマンションに家賃を払うのはもったいないだろ?なんていう、庶民的な勧誘で。そのときは断られたらしいのだけど、今回、彼が留学期間を終えて日本に帰国することになり、もう一度僕の両親が彼に話を持っていったら、今度はOKが出たのだそうだ。彼がどう思い、どう考えたのかは知らないけれど、彼は今日から僕の家で暮らすことになった。期限は、彼が大学を卒業するまで。
そして僕は両親に頼み込んで、ひとつの約束を取り付けてもらった。
彼に僕のピアノのレッスンをしてもらうこと。
彼はそれもOKをしてくれて、今日、家に着いたらレッスンをしてくれるということになっている。
(うれしい)
ずっとずっと憧れだった人から、レッスンをみてもらえるだなんて。
僕の理想は、彼の音。優しくて、強くて、聞いている人をしあわせにしてしまう、彼のピアノ。
(どんな人なんだろう)
日下昭生という人は。
ジュ・トゥ・ヴの最後の和音が響く。
その瞬間。
コンコン、と温室のドアをたたく音がした。
目を開けると、開けっ放しにしてあったドアに、長身の男の人が寄りかかり、こちらをみていた。
今までどうして気づかなかったのだろうというくらいの存在感。すらりと高い背にのっかている顔は和風で整っている。切れ長な黒い瞳は、6年前のコンサートで見たときと変わらないけれど、全体の印象はかなり大人びた雰囲気で……
(「彼」だ…………!!)
どきんっと心臓がはねた。
あんなにあこがれていた「彼」が、僕の目の前にいる………
僕はあわてて椅子から立ち上がった。彼はそんな僕のところに歩み寄り、静かな口調でこう言った。
「…ずいぶんと情熱的な曲での出迎えだな」
「――――――え?」
「…いや…」
僕は、僕より20pは高い位置にある彼の目を見上げて、首をかしげた。
「知らないならいい」
彼は目にかかった前髪を払いながら言った。まっすぐで艶のある、綺麗な黒い髪だった。
「遅くなったな。悪かった」
「いえっ………」
彼の低い声が僕に話しかけているというだけで、僕の心臓は破裂しそうに脈打っていた。それを必死に押さえながら、僕は彼を見上げていった。
「始めまして……!七瀬真雪(ななせ まゆき)です!」
その瞬間、彼が何故か驚いたような顔をしたのは気のせいだったろうか。
それから彼は綺麗な顔をゆがめて、冷たい声で言った。
「よろしく。日下…昭生だ」
to be
continued …
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