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 25日の朝は快晴で幕を開けた。

 冬にはちょっと似合わないくらいの青空で、その分ものすごく寒かった。

 僕は朝からそわそわと時間がたつのを待ち、ろくにのどを通らなかったお昼ご飯を終えると、バックステージパスをコートのポケットに入れてコンサート会場へ向かった。

 ホールについたのは、笹目さんが指定した2時よりも20分くらい前だった。会場の前には今日のコンサートのポスターが貼ってあった。それによると、会場が2時で、開演は2時40分となっていた。ホールの前には、待ち合わせをしているらしいお客さんの姿がちらほらとしていた。

 僕は笹目さんを捜してきょろきょろしたけれど、ホール付近にそれらしい人は見つからなかった。笹目さんは格闘技の選手みたいにがっしりした身体をしているから、遠目でも見つけやすいはずなのだ。

(早すぎたからかな……)

 どうしたらいいかな。

 寒さでかじかんだ手をコートのポケットに入れると、かつん、と固いカードに手が触れた。

(バックステージパスを送ってくれたってことは……自分で入ってこいってこと…なのかも)

 そっとパスを取り出してみる。

 お父さんやお母さんのコンサートのときにも、楽屋に入るためにこういうカードをもらったのを覚えている。「これはこのコンサートの関係者ですっていうしるしなのよ」これをつけていたら、裏にいても追い出されないからね、と笑いながら、お母さんが僕の胸にそのカードをつけてくれたのを覚えている。

 僕はホールの裏のほうに回った。

 裏はほとんど人気がなく、大きなトラックや車が何台も止まっているだけだった。

 そのあたりをうろうろしてようやく裏口を見つけ、おそるおそる中をのぞいた。中では、パスをつけたスタッフの人たちがあちこちと忙しそうに動き回っていた。燕尾服を着た楽団の人たちもいた。そこへ、ちょうど笹目さんが通りかかった。

「よぉ、まゆ!」

 笹目さんは僕を見つけると、無精ひげののびた顔をくしゃっと笑顔にして片手を上げた。

「悪いな、今迎えにいこうと思ってたところだったんだ」

「僕が早くついちゃったんです」

 笹目さんに会えてほっとしながら笑うと、笹目さんは僕の頭をなでた。

 笹目さんは先生のマネージャーさんで、先生とは長いお付き合いらしい。僕が先生と出会った頃には、もう、笹目さんは先生のマネージメントをしてた。笹目さんは先生と同じくらいの背だけど、先生よりもがっちりした体つきをしてる。さばさばしてて、親切で、ときどき僕をからかって悪ふざけをするけれど、大好きな人だ。

「パスはどうした?」

 笹目さんに言われてバックステージパスを出す。笹目さんはそれにひもをつけて僕の首にかけた。

「なんだか僕もスタッフになったみたい」

「近いうちにまゆは演奏者になってこのパスを下げることになるよ。そのときは俺に仕切らせろよ」

 笹目さんはそういって、また僕の頭をなでた。

 演奏会……できたらいいな。僕のピアノが先生に追いついたら、先生と一緒にステージに立ってみたい。

 僕は笹目さんに連れられて、先生の控え室まで行った。

 「日下 昭生  様」と書かれたドア。この中に先生がいるんだと思うだけで、鼓動が早くなった。

「おーい、日下。ちょっといいか?」

 呼びかけに「どうぞ」と短い答えが返る。久しぶりに聞いた、先生の声。

 笹目さんがドアを開ける。

 白い部屋。大きな鏡がはまった壁。明るい照明に照らされているグランドピアノ。

 その中に、先生はいた。

 先生はもう燕尾服に着替え、髪も整え、準備万端という出で立ちだった。部屋のど真ん中においてあるピアノの前に座り、指をならしていたところだったようだ。

「かわいい従弟が応援にきたぞ。じゃ、本番まであと30分ってことで。10分前には舞台袖な」

 そう言って笹目さんは出ていった。

 部屋の中には、僕と、先生。

 僕は先生と会うのがものすごく久しぶりだったので、緊張してしまって、動けなかった。心臓はばくばくいっているし、顔は熱いし、反対に手の指はどんどん冷たくなっていって。

 しばらくの沈黙。

 先生は静かにこちらを見ていた。その視線がわかるからこそ、余計に恥ずかしくって、僕は顔を上げられなかった。

「――――――――――――」

 かたん、とピアノのいすが動く音。静かに近寄ってくる足音。うつむいている僕の視界に、少しずつ先生の靴が近づいてくる。白くて大きなタイルみたいな床を、真っ黒な革の靴がすべるように進んでくる。その靴は、僕の目の前で止まると、きちんと「気をつけ」の形を取った。

「誕生日おめでとう」

「え…?」

 反射的に顔を上げると、先生の笑みを浮かべた瞳と視線が合った。

「…覚えててもらえたんですか……………?」

「クリスマスが誕生日だなんて、忘れられないよ」

 あぁ、嫌いだった誕生日が、少しだけ好きになれそう。

「連絡が間に合ってよかったよ。本当は一度家に帰れる予定だったから、その時直に渡そうと思っていて送らないでいたんだ。だけど、急に予定が入って、笹目に送ってもらったんだ」

「このパス、誕生日プレゼントだったんですか?」

「どちらかっていうと、クリスマスプレゼントだな」

 言いながら、先生は静かに微笑んだ。

「誕生日プレゼントは、悪いがまだないんだ。探す時間がなくってな。本番が終わるまでに何が欲しいか考えておけ」

「…いらないです、プレゼントだなんて」

 僕は、先生に優しくしてもらえてるってことだけで、もう充分しあわせです。

 そこで、コンコン、とドアがノックされ、笹目さんの声が響いた。

「おーい。移動だぞ」

「わかった真雪は客席にいくか?」

「僕も袖にいていいですか?」

 客席よりも近くで先生を見たいから。

 音響悪いぞ、といいながらも先生はOKしてくれた。

 外で待っていた笹目さんと一緒にステージ袖へと移動する。ざわざわというお客さんたちの声がすごく近くに感じるようになった。オーケストラの人たちは、すでにステージ上に着席して、開演を待っている。ピン、と張り詰めた空気に、僕が出演するわけではないのに、緊張してきてしまった。

 ふと隣に立っている先生を見上げる。先生は、まっすぐに舞台の上にあるピアノを見つめていた。先程までとは違う、集中した顔つき。ここから先は、先生と、ピアノだけの世界だ。

 ピアノはパートナーと思え。いつもいつくしめ。愛情を持ってこちらが接すれば、ピアノも気持ちを返してくれる。

 昔、レッスン中に先生がそう言っていたのを覚えている。

 先生にとって、ピアノは人と同じ。

 舞台の上でピアノは先生に愛してもらえる。優しく、時に激しく、でもとても大切に。

 僕もピアノを弾く人間だから、その気持ちは分かるのだけれど、思わずやきもちを焼いてしまいそうだ。いつも無口で無愛想な先生は、ピアノにだけは、無条件に優しいから。

 開演を知らせるブザーがなり、客電が落ちた。真っ暗になったホールの中で、ステージだけがわずかに明るい。

「じゃあ、また後でな」

 視線はピアノに向けたまま、先生は僕の頭をなで、小さくそう言った。

 そして、まっすぐに、堂々と、ステージのほうへ歩き出していった。

 ステージの照明がつく。大きな大きな拍手の音。

 大観衆の前で、先生とピアノのランデブーが始まった。

 

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