…寝ぼけた目に朝の光。

 目覚まし代わりのエチュード。

 優しい曲が僕の耳をくすぐり、全身を包み込んでいく。

 朝の光の中、ピアノの前に座っているのは、大好きな、大好きな人。

「……先生…」

 呼びかけると、そのひとは鍵盤の上を走らせていた指を止めて、こちらを見た。切れ長な瞳が僕を見つめる、ただそれだけで、僕の心臓はぎゅうっと跳ねる。そばにあるのがうれしいのに、切なくて、ときどき涙が出そうになる、先生の気配。

 先生はソファベッドで毛布に包まっている僕の前にしゃがみこむと、目を細めて微笑った。

「おはよう」

 心地よいトーン。

 先生の声も、僕の耳に届くと音楽になる。

「おはようございます」

 いつまでも、この瞬間が続けばいいのに。

 先生のそばで目覚める朝が、永遠に続けばいいのに。

 先生は僕の頭をくしゃくしゃっとなでると、腕時計に視線を落とした。

「……時間ですか?」

「あぁ――――――――――」

「今日から……モスクワ…ですね」

 今度はいつ帰ってくるんですか?

 いつ、僕を抱きしめてくれるんですか?

(行かないで)

 いえない言葉を飲み込んで、せいいっぱい微笑む。

「気をつけていってきてくださいね」

「真雪もな」

 さらりと先生が言うから、僕は不安になる。

 本当は、先生は僕のことなんて好きじゃないのかな?って。

 ―――――――――でも。

「――――――――………」

 出発の時間を過ぎても僕から離れない先生の指が、僕に少しだけ勇気をくれる。

 襟足の髪をくるくると指で弄びながら、先生は僕に微笑みかけた。

(先生も、僕と一緒にいたいって、思ってくれてますか?)

 口に出せない問いを、そっと胸の中でつぶやいて、僕は先生から身体を離す。

「……遅刻しますよ。空港で笹目さんが待ちくたびれちゃうんじゃないですか」

「―――――――――――そうだな」

 先生の指が僕から離れる。

 さみしい。

 胸の中をぐるりとえぐられたみたいに、痛い。

 それでも、それでも。

 笑顔を消さないように必死に両手を握り締めて、僕は温室のドアまで先生を見送った。先生はスーツケースを片手に、僕に手を振り、庭から出て行った。

(―――――――――………っ…)

「先っ…生………!!」

 行かないで。

 叫ぶ代わりに僕は自分の両肩を思い切り抱きしめた。

 先生は僕のところに帰ってきてくれると約束したのだから。

 信じなきゃ。

 信じて待たなきゃ。

 誰かを好きになるということが、こんなにつらいことだなんて知らなかった。

 離れていると悲しくて、そばにいるときは苦しい――――――――――

 

 だけど。

 この胸の痛みがあなたを愛している証となるなら、耐えてみせる。

 この痛みで死ねるのなら、それでもいい。

 それだけあなたへの想いが深いのだから。

 

 close to you...

 

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