戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

ワーグナー・グリフィス・スピルバーグ

Richard Wagner, David W. Griffith and Steven Spielberg

下文は「情報キッチュ論」(1994年度卒業論文)の第四章「ワーグナー・グリフィス・スピルバーグ」の転載である。

ワーグナー・グリフィス・スピルバーグ

実上演時間一五時間、歌手の休憩日を含めて完全上演に一週間を要する楽劇「ニーベルングの指環」のために、リヒャルト・ワーグナーは専用の祝祭劇場を構想・実現した。現代に生まれていたら映画監督になっていただろうといわれる彼は、台本・作曲・指揮を一人でこなし、演技指導や舞台装置にもきめ細かい演出を行っている。
晩年のワーグナーがこの「指環」を完成させた翌年に生まれたデビッド・ウォーク・グリフィスは、八時間のサイレント映画「イントレランス」を、自らの製作・監督・脚本・編集の下に完成させた。グリフィスはこの作品のために高さ六十メートル以上に及ぶバビロンの城壁をセットで組み、四千人のエキストラをコントロールした。
そしてグリフィスの死の前年に生まれたスティーブン・スピルバーグは、自分の原作・脚本による「未知との遭遇」を、ドルビーシステム六チャンネルオーディオ・七〇ミリフィルムに、最新のハイテク特撮を使って自分の絵コンテ通りに映像化した。天空を覆うような宇宙船の出現シーンでは、石油精製工場とサンフランシスコの夜景を逆さにしたような光景、というスピルバーグ自身のイメージから直接巨大な電飾模型が起こされ、一コマの撮影に一六分を要する職人芸的な合成を要求した。
ワーグナー、グリフィス、スピルバーグは、それぞれの時代の代表的な夢想的マルチメディア作家だということができよう。A・モルは、あらゆる手段を用いるワーグナーの芸術に潜むキッチュ性に関して言及しているが(1)、これはグリフィスやスピルバーグの作品についても同様にあてはまる。三人はある種の作家像を共有しており、約七〇年ずつ離れた三人の比較は、こうした作家に関するパースペクティブをもたらすものである。ここでは、この三人の総合芸術/映画作家の比較から、スピルバーグについての考察を導きたい。

家庭環境
この三人が育った家庭環境はかなり類似している。兄弟構成は、ワーグナーは五人の姉と一人の妹、グリフィスは三人の姉、スピルバーグは三人の妹という、家庭内で孤立をしやすいものとなっている。ワーグナーとグリフィスには兄もいたが、既に独立して家を出ていた。
ワーグナーは半歳の時に父を亡くし、敬愛していた継父も八歳の時に亡くしたことから、引越しを繰り返したり、親戚や牧師の下に預けられたり戻されたりといった不安定な環境で育った。グリフィスも尊敬していた父を七歳の時に亡くし、大きな借金が残されたこともあって、一家は親戚の間を居候してまわることになる。スピルバーグの父は初期のコンピュータの仕事に関わっていたが、当時コンピュータ産業はまだ安定しておらず、一家は父の勤務先が変わるたびに引越した。夫婦仲は冷えきっており、一六歳の時に離婚している。
スピルバーグは両親の仲違いに深く傷ついており、「離婚」という言葉を英語でもっとも醜悪なものと感じたといっている。三人の作品には、こうした家庭環境の影をみることができる。ワーグナーの「指環」ではヴォータンとフリッカが激しい夫婦喧嘩を繰り広げ、小人族に育てられたジークフリートは、真の両親は誰かと悩む。グリフィスの「イントレランス」には揺りかごを揺らす孤独な母親が作品全体のキーとして何度も登場する。スピルバーグの「E.T.」の舞台は母子家庭であり、「未知との遭遇」でもガイラー家は母子家庭である。
そして三人を創作世界へと傾倒させた大きい原動力に、彼らの孤独が挙げられる。兄弟内の孤立と相次ぐ引越しは、彼らを自分だけの世界への没頭と、それを介しての自己主張へと向かわせた。頻繁に他人のもとに預けられたワーグナーは母親から愛撫された経験をほとんどもたず、姉たちからも可愛がられたことがあまりなかった。彼は十歳の時に自分で騎士物語を作り上げ、それを人形芝居にして近くの小屋で近所の人々を招いて上演しているが、そのとき彼は人形をすべて自分一人で動かし、台詞も一人で演じ分けたという。グリフィスの母や姉たちは家計を支えるために忙しかった。彼も学校を中退せざるを得なくなったが、ボランティアで教会で芝居を上演し、その際本物のすり切れた木こりの衣装を調達するといった徹底したリアリズムを追求している。
こうした性格はスピルバーグにおいて一層顕著であり、彼は自分の部屋でおもちゃで遊んでいるのが一番好きで、休みの日は一二時間ぐらい自分の部屋に閉じこもりっきりであった。また父親の8ミリカメラを使っておもちゃの機関車の衝突シーンを何度も撮っており、十二、三の頃には、異なった方向から走ってくる機関車を交互に撮り、驚いて反応するかのような人形の顔のショット、横転した列車のショットを編集して衝突を演出するといったモンタージュ技法まで動員するほど本格化していた。映画だけに熱中していた彼は学校では孤独で、アウトサイダーのような気分であったと述懐している。ハイスクール時代には短編を十五本完成させ、十六歳の時には二時間半に及ぶSF長編を一年間かけて制作した。他人にも自分の作品を見せたいと強く欲した彼は、入場券を売り歩いてこの長編を地元の映画館で興行にかけている。

差別思想と完結世界
ワーグナーとスピルバーグは興味深いコンプレックスを共有していた。それは自己のユダヤ人のの血に対する意識である。ワーグナーは自分が、ユダヤ人の血を引いているといわれた継父ルードヴィヒ・ガイヤーの実子ではないかという疑問を生涯もっていた。実際彼はガイヤーとよく似ており、彼の母はガイヤーと彼の誕生前より親しくしていた。研究者の間では今日でもワーグナーの実父が誰であったかについて論争が続いている。ワーグナーは強い反ユダヤ思想をもっており、彼は現代にいたるもその「音楽におけるユダヤ主義」という反ユダヤの論文によって激しい非難にさらされている。それは一種の信念のようなものであって血統の問題に対する単なるカムフラージュや煙幕戦術ではなかったが、それ故にこそ彼の自己のユダヤの血に対する疑念は彼に強い自意識を植え付けたとされている。
スピルバーグはユダヤ系移民の三世であり、差別思想が否定される戦後アメリカに育ったとはいえ、やはりその血筋を心のどこかで恥じ、過剰に意識し、当惑していたと告白している。ユダヤ教の家庭に育つ者は十三歳になると成人としての宗教上の責任と義務をもつことを認めるための儀式バルミツバーをほどこされるが、彼も正統派のシナゴーグでそれを行わされた。また、幼時に彼はユダヤ移民の腕に刻まれた収容所番号の入れ墨で数字を覚えながら、自分自身がその血を引く人間であると認識したという。さまざまな計算や思惑があったにせよ、彼のこうした自意識は、彼にホロコーストを題材にした三時間十五分に及ぶモノクロ映画「シンドラーのリスト」を、二五〇〇万ドルを投じて作らせるほど強かったのだといえる。スピルバーグはまた、「レイダース」と「インディージョーンズ・最後の聖戦」においてナチス部隊を敵役にしている。さらに彼が製作総指揮をつとめたアニメーション映画「アメリカ物語」においては、アメリカに移住してくる主役のネズミに、ファイベル・マウスクヴィッツというユダヤ系の名前をつけている。ファイベルは移民一世のスピルバーグの祖父の名前であり、こうしたことにもスピルバーグの自己の血筋に対する自意識がうかがえる。
グリフィスはユダヤ系ではないが、ワーグナーやスピルバーグとは別の意味で自分の血筋を意識した。彼は幼少の頃、父から毎日のように彼が貴族の血を引いており、曾祖父がイングランドのブレイントン卿であったと繰り返した。世が世ならばどのような生活であったか強調する父の言葉は彼の耳に焼きつき、団長が由緒正しきグリフィス家の一員だと信じてジョン・グリフィス巡業劇団に入団したり、ローレンス・ブレイントンなる芸名を使ったりした。実際彼は若い頃は貴族としての意識を強くもっており、プライドも高かった。この意識は彼に人種差別的な思想をもたらし、クー・クラックス・クランを主役にした「国民の創世」という映画を彼に撮らせている。それは南北戦争によって敵味方に引き裂かれた白人たちが、悪役の黒人たちにそれまでの地位を脅かされ、最後には、正義の味方役として登場するKKKが黒人を殺害して白人を救出するという筋であった。この映画の結果、グリフィスの作品はワーグナーのそれと同様に人種問題に敏感な場所では拒絶反応にあっている。
ワーグナーの作品が拒絶反応を引き起こす主たる原因は、それがナチスの音楽として利用されたことによるところが大きいが、前述したように彼自身の差別思想も糾弾されている。彼の場合もこれは作品に表れており、「指環」は神々と狡賢い小人族との対立を一つの軸としている。スピルバーグは被差別民族の出身者であることもあって前述した「シンドラーのリスト」や「カラー・パープル」のような反人種差別をテーマとする映画を撮っているが、「インディージョーンズ」シリーズにおいては敵役として怪しげな偶像を崇拝する未開民族や、つり目の狡賢い東洋人、剣を振り回してくるアラブ人などが登場する。
さらに本質的といえるのが、スピルバーグ映画に見受けられる勧善懲悪を超えた神がかり的な選民思想である。「レイダース」のクライマックスにおいては聖櫃を暴こうとする人々全員を、亡霊が主役の二人を残して焼きつくし、「E.T.」では宇宙局の大人たちを残して子どもたちだけが自転車ごと空を舞う。こうした思想がもっとも明確に表れた「未知との遭遇」では、天から降りてきた異星人達は軍人や科学者団には目もくれず、メッセージに呼び寄せられて来た夢想的な男だけを歓迎し、マザー・シップの光の中へと招き入れる。信ずる者だけが救われるという、他力本願で宗教的ともいえる排他性がそこにはある。
これはウォルト・ディズニーのテーマを受け継ぐものである。男がマザー・シップに入り、飛び発っていくエンディングには「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」の一節が流れる。
あなたが星に願いをかけるとき
あなたが誰であろうとも
あなたの心が望むことは
何でもあなたのところにやってくる
あなたの心が夢の中にあるならば
どんな願いも大きすぎることはない
あなたが夢見る人のように
星に願いをかけるとき
この歌はディズニーランド、さらにはディズニーそのものを音楽的に象徴するテーマソングであり、「ディズニー」が一種の民間信仰として偶像化される大きな力となったものである。「あなたが誰であろうとも」というディズニーの平等思想は、同時に「あなたの心が夢の中にあるならば」という強固な衛生観念と表裏一体をなしている。この衛生観念こそが彼に、それまでの遊園地において支配的だった退廃的な快楽性を排除させ、塵一つ無く、その夢の世界と相容れないものを厳しくシャットアウトしたテーマパークを築かせたのだといえる。
ディズニーはアニメーション映画や遊園地において、ワーグナーやグリフィスと同様に自分のコントロールの行き渡った壮大な世界を作り上げている。彼が最晩年に着手したフロリダのディズニーワールドは、ディズニーランドの約二〇〇倍の面積を有し、異例の特権に基づいて敷地内では電力・ガス・上下水道・消防・建築基準・道路建設など、本来であれば公共の事業であるものが独自に運営されている。ディズニーは常に自己のイメージを細心の注意を払っていたため、人種差別的な思想はいっさい表明していないが、「ダンボ」で抗議の的となるような黒人労働者の描き方をしたり、インディアン討伐で名を馳せたデイヴィー・クロケットをテレビ番組で英雄として蘇らせたり、ディズニーランドのアトラクションの中で白人の探検家と黒人の人食い人種という構図を描いたりするなど、今日的な眼から見れば差別的な感覚をもっていた。しかしより重要なのは従業員に口ひげや派手な化粧を禁じるといった、自由を尊ぶアメリカではまれにみるような彼の管理の厳しさであり、ワーグナーやグリフィスに差別思想をもたらしているのも特定民族への憎悪というよりは、彼らの鎖国・管理主義的衛生観念なのである。
実際ワーグナーは、彼の芸術に共鳴して彼の下にやってきたユダヤ人達を愛情を持って受け入れ、才能ある者には彼のオペラの指揮を依頼することもあった。またグリフィスも、前述の「国民の創世」に向けられた抗議運動に対し、自分が従順で信心深い黒人達をわが子同然に愛しており、敵対意識など全く持っていないと反論している。ワーグナーもグリフィスも、ユダヤ人や黒人が自己の世界に従順に適合してくれる「子供」であれば歓迎している。許されないのはその世界からの逸脱であって、これは白人であっても同様であった。グリフィスはまわりの映画会社が競ってスターを作り上げていく中で、匿名のまま俳優達を使い、スタンド・プレイも決して許さなかった。
スピルバーグ作品でも、ルーカスの雇われ監督的な色合いの強い「インディージョーンズ」シリーズ以外はスター的な俳優は使われていない。むしろ、しばしば指摘されているように人間が主役の作品があまりなく、「激突」はトラック、「未知との遭遇」はUFO、「ジョーズ」は鮫、「E.T.」は異星人、「ポルターガイスト」・「トワイライト・ゾーン」は怪奇現象、「グレムリン」は怪奇生物、「ジュラシック・パーク」は恐竜が、それぞれの映画の主演俳優の役より重要な位置を占めている。作品のポスターを並べてみるとこのことが顕著に表されている。「未知との遭遇」は地平線に輝く光、「E.T.」はミケランジェロの「アダムの誕生」のように触れる指と指、「ポルターガイスト」は輝くテレビ画面と少女の後ろ姿、「ジュラシック・パーク」は恐竜の骨組をあしらったマークとロゴ、というように、人間の顔そのものがでてこないものが多い。スピルバーグの映画は、人物や物語というよりもある種の状況や神話的世界観を描こうとしており、体験的にテーマパークと重なる部分が多い。
この特徴はグリフィスの「イントレランス」とワーグナーの「指環」にも強く見いだされる。「イントレランス」はストライキが起こる現代アメリカ編、ユグノー教徒虐殺をあつかった中世フランス編、崩壊する古代バビロン編、キリストの受難を描くユダヤ編の四つの舞台を同時進行で交錯させ、「指環」は連結はしているが時間・空間的に断絶した四つのオペラの中で、一つの指環の争奪を主軸に、舞台をめまぐるしく変えながらさまざまな愛憎劇を並置している。「イントレランス」では四つの舞台が同時に悲劇へと収束し、「指環」では指環が円環のように巡ってからもとあったラインの河底に戻って完結する。ワーグナー、グリフィス、スピルバーグは、オペラや映画という統合性の強い媒体を利用して、自己のテーマが支配する鎖国的世界を創造しようとしたのだといえる。
三人にはさらに、テーマ的にも純粋性という共通のモチーフがある。「イントレランス」には前述したように揺りかごを揺らす聖母のイメージが作品全体のキーとして四つ時代の映像の間に何度も挿入され、人間の憎悪や不寛容を露出させた歴史的惨劇の描写と鋭い対比をみせる。グリフィスはこの聖母役のリリアン・ギッシュのガラス細工のような繊細な美しさを気に入り、彼女を使って何作かノスタルジックな純愛物を撮っている。ワーグナーの「指環」は愛と権力の葛藤をテーマとしており、絶対権力と同時に破滅をもたらす呪われた指環を、最後はブリュンヒルデの自己犠牲的な愛が清める。そして「未知との遭遇」や「E.T.」においては、権力機関の大人達が破れ、純粋な子供の心をもった者が異星人に選ばれる。こうした純粋性の賛美は、三人のテーマ世界の鎖国性と表裏一体を成すものであろう。

共感覚の原理
こうした純粋指向とは裏腹に、あるいは作品世界の純粋性を増強させるために、ワーグナーとスピルバーグの創作手法は極めて複合的なものとなった。ワーグナーは音楽の旋律そのものに言葉のような意味を与え、歌手に唱われる詞がセリフを伝えると同時に、オーケストラの旋律が心中思惟や、目に見えないものを暗示するようなバイ・コーディングを行っている。こうした、意味を担った旋律 - ライトモチーフは、「指環」全体で一〇〇種類程あり、詞と共に繰り返し奏でられることによって観客に実際に意味を暗示するようになる。ヴァルハラ宮のライトモチーフは権力と栄光の象徴として極めて頻繁に鳴り響いた後、終局に至って崩れて小さくなり、廃虚と化す城塞を想起させる。個々の人物のライトモチーフは、疲労やまどろみといった登場人物の一時的な状態を強調したりするが、いつも屈従している小人族のライトモチーフが、屈従行為そのもののライトモチーフとなるといった展開も成される。ラインの黄金のライトモチーフは、黄金が加工されると指環のライトモチーフとなり、契約のライトモチーフ・呪いのライトモチーフ、権力のライトモチーフへと派生してゆき、高度に形而上学的な内容の伝達を担うようになる。
また、話の展開そのものをライトモチーフに語らせることもある。例えば、神ヴォータンが娘を魔の火の輪に包み、この火を乗り越えられる真の英雄だけが娘を妻とすることができるであろうと宣言するとき、前にジークリンデが妊娠したときに響いたものと同じ旋律が奏でられ、後に彼女が生むジークフリートこそがその英雄であることが、音楽のみによって暗示される。ワーグナーはそれまでの音楽芸術の真髄ともいえる高度な抽象性と純粋性を捨て、濃厚なロマンチシズムと共に極めて具象的な意味性を複合して用いたといえる。
スピルバーグはほとんどの映画でジョン・ウィリアムズのロマン派的音楽を使っているが、ウィリアムズはワーグナーの影響を強く受けており、単に人物の感情や情感の表現にとどまらず、ライトモチーフを使って意味の伝達を試みている例が多々ある。これが顕著なのがルーカスの「スターウォーズ」シリーズの音楽で、多くの登場人物や、「フォース」といった超能力にまでライトモチーフを作って用いている。例えば、主役の青年ルークが絶体絶命のピンチに陥り、虚空に向かって助けを求めると、遠く離れた恋人のレイヤ姫がそれを察するという場面があり、そのときにこのフォースのライトモチーフが奏でられ、レイヤ姫がフォースの超能力を受け継ぐ者であることが暗示される。また、後にルークが自分の生き別れの双子の妹が誰であるか悟るとき、レイヤ姫のライトモチーフが流れ、前述の「指環」におけるジークフリートの例と同様に音楽が明確な意味伝達を行う。
こうしたウィリアムズによるワーグナー的ライトモチーフ法はスピルバーグ映画でも用いられており、「E.T.」においては、死んだかと思われたE.T.が画面の背後で復活したのを、E.T.のライトモチーフが伝えるといった場面がある(この場面は、しおれた花が急に生気をを取り戻すという、E.T.の映像的なライトモチーフも伴っている)。また、「未知との遭遇」においては、異星人の交信そのものである五音の旋律が、マザーシップが登場するクライマックスにおいて光の明滅と連動した地球人と異星人の言語の壁を超えたコミュニケーションの伝達手段、及び映画としての表現手段となり、音、音楽、言葉、映像、さらに大音響による体感振動が混合した複合表現を成している。
モルはキッチュの重要な原理の一つとして「共感覚の原理」を挙げている。
「共感覚の原理は、同時に、できるだけ多くの感覚領域に一斉砲火を浴びせかけようとする。われわれの時代の見果てぬ夢である全体芸術という理想は、それ故、絶えずキッチュに堕する危険にさらされているのだ。それは、例えば、田舎芝居の四部作歌劇に明らかに見てとれることである。もっとも、眼と耳という、遠くからでも働きかけることのできる感覚(シラー)を総動員するという点については、歌劇、とりわけ笑歌劇の成功を認めないわけにはいかないであろう。キッチュの原理としての共感覚においては、さまざまな感覚領域が神経中枢において統合されるということが大切なのだ。」(2)
ここでモルのいう四部作歌劇とは、おそらく「指環」のことである。彼は前述したようにワーグナーを批判し、「彼は音楽に文学を接ぎ木し、文学には芝居を、芝居にはバレーを接ぎ木する」(3)としている。実際、ワーグナーの作品は高い芸術性と共にキッチュとしてのアピールを強くもっており、ノイシュヴァンシュタイン城を建てたルードヴィヒ二世や、前衛の大敵ヒットラーに熱烈に愛され、ナチスのテーマ音楽ともなった。複数の媒体の隅々にまであらゆる手段を動員してコントロールを行き渡らせ、表現によって埋め尽くそうとする過剰感覚的純粋化は、多くの場合キッチュ性の増強と背中合わせだといえる。スピルバーグの映画における音楽のワーグナー性と、ハイテク特撮映像は、こうした表現の接ぎ木指向の延長上にある。

グリフィスの前衛とワーグナーのキッチュ
グリフィスの「イントレランス」にも、今日の特撮に通ずるバビロンの巨大なセットの建造と未曾有のエキストラ動員に、映像を埋め尽くそうとする強い意志が見られる。バビロンの都を見おろしながら、銃声で合図を出し、特別手当を餌に多くのエキストラたちを壁から飛び降りさせた監督時の彼は、あたかも暴君か独裁者のようであったという。セットの材料費には三〇万ドル(現一五億円)を投じ、妃役の衣装には本物の宝石をちりばめた七〇〇〇ドル(現四二〇〇万円)のドレスを使っている。カメラに写るものに関して、彼はあらゆる贅をこらしたといえる。
しかしグリフィスは、ワーグナーやスピルバーグと異なり、多感覚・多媒体の複合は指向しなかった。彼はサイレント映画に徹し、トーキーには批判的で、死の二ヶ月前行われたインタビューに際してこう語っている。
「今の映画は声に頼りすぎている。我々はせっかくつかんだ美を、大げさな音と引き換えに手放してしまった。生意気な言い方をすれば、我々は美を失ったのだ。」
これはモルが指摘した共感覚指向と、それがもたらすキッチュ性に対する批判だといえる。グリフィスは当時は舞台俳優らがさげすむ見せ物にすぎなかった映画という媒体を、まず芸術として開拓する必要があった。それゆえに彼は、映像を他の媒体に依存せずに表現として成立させようとし、クローズアップ・移動撮影・フェードイン・フェードアウト・クロスカッティング・モンタージュといった、映像固有の言語の開発・使用に集中した。独裁者のようにコントロールを行き渡らせ、表現を豊かにしようとした側面は同じであるが、あくまで映像表現に絞っての深化であり、既にかなり開拓された媒体にアレンジを加えたり、他の媒体・感覚を複合したりといった過剰性へ向かったワーグナーやスピルバーグとはここで分けられる。
「イントレランス」を撮った頃のグリフィスは、前述の俳優を匿名で使うという態度にも現れているように、強くハイアートを志向していた。これは彼の貧しい少年時代と、父から植え付けられた貴族意識が影響しているといわれる。彼は映画芸術の父と称されるとように、映画表現の基礎を築き上げ、エイゼンシュタインらによる映画における前衛の誕生をもたらした。
ワーグナーも、志向は新しい芸術であった。彼は「未来の芸術作品」などの数多い論文の中でその芸術観を明らかにしている。その中で注目されるのは、彼が万人に理解される芸術を理想としてかかげていたということである。彼はそれまでの芸術は一握りの芸術家たちの特別な所有物であるとし、その芸術家たちが文化を広めようと努めながらそれができないのは、彼等の芸術が文化のあらゆる分野と関わっていないからだと糾弾した。そして芸術が大衆を広く救済するためには、その孤立から離脱し、万人に理解できるものにならなくてはならないとしている。この万人救済の理念に基づき、彼は言葉、音楽、しぐさを統合しているドラマを芸術のもっとも高尚な形式とし、視覚と聴覚の両感覚から作品の概念が理解される「未来のドラマ」の確立を研究した。すなわち理論上彼は、大衆にも深く理解されるためにマルチメディアを指向したのである。
C・グリーンバーグは、芸術家のこうした態度と真っ向から対立する。
「(キッチュ作家は)観客のために芸術を消化しやすく作り、観客の努力を省き、真正の芸術では廻り道をしてようやく味わえる芸術の喜びへの近道を提供するのだ。キッチュは人工的な芸術である。」
「われわれの一部の者の中には、自らの文化のために、この末期的症状をすすんで受け付けまいとする者がいるということは、現社会の腐敗した中にあっては、好ましい兆候である。」
「前衛的な詩人や画家はすべての大衆から離れて、あらゆる相関性や矛盾が解消されるか、問題にならないような絶対性の表現にまで、芸術をせばめそして高め、そうすることによって、自己の高い芸術水準を維持しようとする。」(4)
グリーンバーグにとって、大衆とはあくまで「真正の文化の価値はわからないが、ある種の文化が与え得る気晴らしに飢えた人たち」でしかあり得ず、大衆の理解をめざす芸術はすなわちキッチュであった。これはワーグナー芸術が前述したように濃厚なキッチュ性を宿したことが証明していよう。ワーグナーは万人のために新しい芸術を作ろうとしたが、大衆は元来「発展過程にある芸術には多かれ少なかれ、無関心でいる」ものであり、彼の「新しい芸術」は諸芸術の統合というよりも巧みな混ぜものという側面が強くなった。彼のこうした複合の試みが全くの通俗に堕さず、キッチュ性を強くもちながらなおかつ芸術性の高さを保持したのは、彼が音楽・文学両方にわたる巨人的な才能に恵まれ、かつルードヴィヒ二世の財力が彼を大衆の嗜好から独立してその才能を発揮できるようにしたことによるものであろう。
「前衛が属しているのは、支配階級である。いかなる文化も、社会的基盤なしに、一定の収入源なくして発展することはあり得ない。そして前衛の場合、一見、縁がないように見えるけれど、しかし常に金銭という臍の緒で結びついているこの社会の支配階級のエリートによって、それが与えられているのである。この逆説は真実である。」
この一九三九年のグリーンバーグの指摘は、次のように続けられる。
「今ではこのエリートが急速に萎縮しつつある。前衛がわれわれの現在もっている唯一の生きた文化を形成しているために、近い将来における一般文化の存続は脅威にさらされている。」(5)

スピルバーグのアンチ・アヴァンギャルディズム
その「近い将来」に登場したのがスピルバーグであった。彼はテレビが普及を完成させつつあった時代の、中産階級の家庭で育った。前述したように引っ越しは多く、両親は不仲であったが、グリフィスやワーグナーのような艱難辛苦もなく、「テレビが第二の両親であった」と当時を振り返っている。彼はいわば、平均的な大衆の平均的な家庭から登場した、平均的大衆のための芸術家であるといえる。彼のパトロンは平均的大衆そのものであり、彼の敵は大衆と文化的に対立するエリートに他ならない。この彼の芸術家としての社会との関係は、彼の作品に露骨に表されている。「未知との遭遇」においても「E.T.」においても、敵は大衆をシャットアウトしたり見下したりするエリートであり、輝く異星人に選ばれるのは郊外出身の平均的大衆の代表者である。たとえ特撮に巨額を投じていても、ワーグナーやグリフィスのように神話的世界や太古の都に飛ぶことなく、多くの作品では舞台も登場人物も郊外の中産階級家庭を離れない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はタイムトラベルを扱っているが、スリップする過去の先も未来の先も郊外の住宅街であり、怪獣物の「ジュラシック・パーク」も舞台は太古や大都市ではなく、ファミリー・テーマパークである。
スピルバーグは映画の物語だけでなく、その手法においてもエリート文化と敵対する。彼は二十歳でヴェネチアとアトランタ映画祭で入賞し、同年にハリウッド始まって以来の異例の若さでユニバーサルと監督として契約を結んだ後、二五歳でフランスの映画祭でグランプリをとっている。そのグランプリ作品「激突」は、派手な特撮をいっさい用いず、セリフもほとんど出さずにアングルと構成だけで表現し、最後には虚無感すら映像的に表出させている。この早熟型の天才はしかし、そのまま前衛へと突き進まず、その高い技巧を見せつけた後に一気に後衛へ逆噴射し、「ジョーズ」を経て「未知との遭遇」のディズニー再生産へと至る。
ある映画評論家がスピルバーグ映画の場面場面にディズニーへのオマージュを指摘しているが、スピルバーグ映画は全編全作品がある種のオマージュ映画だといえる。自身、ディズニーの影響を強く受けた手塚治虫は、インタビューで次のように述べている。
「スピルバーグっていうのは映画の語り部なんですね。ディズニー、ヒッチコック、黒澤とかの語り部であると思うんです。オリジナリティーは全くないです。悪い意味ではありませんが。」
彼は「アメリカ物語」のようにディズニー作品よりディズニーらしいアニメを作るほか、製作総指揮の名の下に数々のスピルバーグ・ブランドのファミリー映画を出すことによって、映画の内容だけでなく、存在そのものをW・ディズニーのコピーにしようとしている。彼は、グリフィスのように映画の芸術性を高めようとしたり、ワーグナーのように新しい芸術を目指したりしない。むしろ彼は「オリジナリティなんかありません」と平然と言い放つ。「観客を映画館に入れるためなら、私は売春婦にだってなってみせる。」といい、興行収入の一位と二位を独占してみせる。彼の作品はその内容においても姿勢においても、単に前衛でないというだけの消極的な後衛ではなく、極めて攻撃的な、反前衛の後衛なのである。

(1):A・モル、「キッチュの心理学」(万沢正美訳)、法政大学出版局、一九八六(原:一九七一)
(2):Ibid.
(3):Ibid.
(4)C・グリーンバーグ、「前衛と通俗物」(一九三九)、「近代芸術と文化」(瀬木慎一訳)、紀伊国屋書店、一九六五(原:一九六一)
(5):Ibid.

参考資料
ディズニー関係
・能登路雅子、「ディズニーランドという聖地」、岩波書店、一九九〇
ワーグナー関係
・渡辺護、「リヒャルト・ワーグナー」、音楽之友社、一九八二
・J・ベルトン、「ワーグナーと《指環》四部作」(横山一雄訳)、白水社、一九八七
グリフィス関係
・向後友恵、「グリフィス〜ハリウッドに巨大な城塞を築いた映像魔術師」、メディアファクトリー、一九九二
・「世界シネマの旅3」、朝日新聞社、一九九四
スピルバーグ関係
・筈見有弘、「スピルバーグ」、講談社、一九八七
・猪狩哲郎、「スピルバーグ・魔宮の伝説」、竹書房、一九八六

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last update:3/7/1997