戦後日本文化と建築意匠の相関の研究:森川嘉一郎

オタク空間論

Studies of Otakus and their Rooms

下文は「サティアン論」第四章「ユートピアの系譜」第五節「個室のユートピア−オタク空間論」の転載である。


オタク空間論

大塚英志はオウムを「オタクの連合赤軍」と呼んだ。実際に信者達は圧倒的にいわゆるオタク世代に属する者が多く、オウム信徒の性格をしてオタクとする発言もさまざまになされた。もともとこの性格・世代類型としての「オタク」という言葉は、自閉的なマニアの一部が互いを「お宅」と呼ぶ現象を受けて、一九八三年に「漫画ブリッコ」(セルフ出版)という漫画誌のコラムで、中森明夫が差別的な意味合いを込めて用いたことに始まるとされている。
「栄養のゆき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普通はクラスの片隅でさあ、目立たなくて暗い目をしてて、友達の一人もいない。(中略)マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年、アイドルタレントのサイン会に朝早くから行って場所を確保してる奴、有名進学塾に通って勉強取ったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん…。それでこういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでいるわけだけど、どうもしっくりこない。(中略)それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以来そう呼び伝えることにしたのだ。」(a)
また、一九八五年にリクルートの依頼により行われた若者に的を絞った性格類型調査においても、「アンバランスなスペシャリスト」としてオタクは明瞭にグルーピングされている。
「『アンバランスなスペシャリスト』、構成比15パーセント
彼らの特徴は、『何かの極端なマニア』ということである。音楽、アニメ、写真、コンピュータ、マンガ(中略)その方向では高感度人間なのだが、その狭い分野に熱中するあまりに他の分野では『ネクラ的ラガード』的になってしまっている。
非常に興味がかたよっており、そのフィルターからしか世界が見られない。(中略)おおむね身の回りは不精で不潔なので敬遠されやすい。しかし当人はそんなことは意に介さないのが特徴だ。(中略)交際範囲はその分野の友人に限られる。彼らは一つの分野だけで敏感であり、他の分野ではどのクラスターよりも鈍感となる。(中略)おおむね深みにはまり、居心地のよい『一部的カリスマの道』をめざすことになる。少数の同類グループの中では他に興味が向かない連中ばかりだから、そのぶん熱が高まる。」(b)
「オタク」は当時一部業界でのみ広まっていた言葉であったが、一九八九年に幼女連誘拐殺人事件の容疑者として宮崎勤が報道に登場した際、評論家等によって頻繁に使用され、これにより一般に定着したとされる。この報道において特に注目されたのは、宮崎の個室であった。四台のビデオデッキと六〇〇〇本近いビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、容疑者の異常性を示すものとして当時紹介され、オタクという言葉そのものがその部屋の模様を喚起する、すなわちオタクという性格・世代類型が、特殊な空間のイメージを内包する結果をもたらした。オタクが元来「お宅」、すなわち部屋の隠喩であることは象徴的といえる。
そしてオウム真理教のサティアン内外の美意識を欠いたような乱雑さは、この宮崎勤の部屋の乱雑さと通底している。実際に最近顕著な傾向として、多くのジャンルにおいてマニアの部屋が段々汚くなりつつあるということが、都築響一や伊藤ガビンによる写真集の発表などとともに指摘されている。特にビデオやパソコン関係のそれは明瞭で、一般の目から見ると乱雑極まりない状態のものがほとんどである。ハイテク機材が趣味に関わるほど、部屋はクリーンルームから遠ざかる傾向がある。
一昔前のマニアやコレクターの部屋は、趣味の品や収集物であふれてはいても、それらは大事に扱われ、決して汚い状態で放置されていなかった。むしろ、彼らは趣味のレベルに関わらず、部屋に色濃くその美学を投影していたといえる。たとえいかにもキッチュであったとしても、キッチュ性は何らかの美意識の存在のもとにしか発生しない。しかし最近のパソコン雑誌などに掲載されている読者の部屋には美意識がほとんど働いていないように見える。それらはキッチュですらないゴミ溜めに近い様相を呈している。キーボードやむき出しの基盤類は、精密機械であるにも関わらず不安定な状態で積み上げられ、回り中にケーブルがのたくっている。前述の宮崎勤の部屋に見受けられた乱雑さは、テレビやパソコンの前で多くの時間を費やす人の部屋に珍しくなくない傾向となりつつある。
幼女連誘拐殺人事件の裁判においては「現実と非現実の混同」が犯行の要因として挙げられているが、これは同時に、部屋の汚さの要因でもあるとも考えられる。疑似現実に没入する度合いが増えると、相対的に現実の部屋の空間に対する感覚価値が下落する。誘拐殺人に及ぶのはあくまで特殊例であったとしても、部屋の汚さに現れるこうした現実感覚の逆転は急激な広がりを見せている。モニタの中がメインになり、その外がサブになった状態が、パーソナルな電子メディアの普及と共に現出しつつあり、画面のきれいな映像と現実の乱雑さのコントラストはさらに強くなる傾向にある。
この、現実と疑似現実の感覚的逆転という捉え方は現段階では印象論にとどまるが、ビデオ・テレビ・電話・テレビゲーム・パソコンの五つについて、一日における日本人一人当たりの平均接触時間の推移を調査した結果、その増加はこの逆転を統計的に予感させるものであった。この五つの値を合計し、二四時間から平均睡眠時間を引いた値で割ると、人が電子的に造られた疑似現実(生身の現実ではない空間、サイバースペース)に接している時間の一日におけるパーセンテージが出る。時系列でこれを見ると、今世紀中葉までゼロ%付近にあったこの値が、一九六〇年代より上昇し始め、ビデオや家庭用ゲーム機の登場と共に変化率を増し、一九九五年の時点で二四・九%に至っている。この増加は同時に、疑似現実に接していない、すなわち純粋な生身の現実に生きている時間の割合の減少を意味している。

疑似現実接触時間の推移
疑似現実接触時間の推移

単に疑似現実接触時間のパーセンテージを一〇〇から引いて、それを「現実に生きている時間」とするのは単純化し過ぎているということを否めない。食事をしながらテレビを見たり、多くの友達と囲んでテレビゲームをしている場合も多いからである。しかし、疑似現実接触の質がパーソナル化していることもまた実体として有り、ビデオやテレビの個室への普及率の増加にはめざましいものがある。加えてウォークマンや携帯電話といった新装置は、電車の車内などの公衆の直中で使用されている姿に現れるように、使用者と現実の場所を断絶させる効果を持っている。最近実用段階に入った究極のテレビの形態は、画面のサイズの問題を消滅させるサングラス形であり、疑似現実接触時間というものの内実は疑似現実「没入」時間に変質しつつあるということがいえよう。
グラフの変化率を延長すると、近い将来、疑似現実没入時間が現実のそれとクロスし、割合の逆転が生ずることになる。この状況に至ったとき、現実空間に対する感覚価値はその効力を弱められると解釈するのが自然であり、前述したビデオやパソコン・オタクの部屋のありさまは、特殊例と言うよりも、平均よりやや未来よりの状態を示している事例であるという捉え方が浮上してくる。
オタク達の部屋が汚くなりつつあると述べたが、片木篤の調査によれば、一部正反対の性格を持ったものも傾向として増加しており、それは、生活感を徹底的に排除した、無菌室のごとき状態のものである。日本の建築雑誌はほとんどの場合、特に住宅に関して、建築が使用される前に取材し、家具も入りきっていない状態の写真で記事を構成しているが、ちょうどそのような状態に部屋が保たれているのである。いわば現実の部屋そのものが、メディアの中の写真やコンピュータ・グラフィクスに接近しているような姿であり、雑誌に掲載されている読者の自室はゴミ溜めとサランラップの二極に分化した状態にある。
この二極分化は、現実の失墜にともなうメディアとメディア外に対する意識の乖離がもたらすものであるといえる。それは前述したように、オタク達の部屋におけるモニタの内と外のコントラストにも見て取れるが、同様な乖離現象は、現代の都市風景においてもさまざまな場所で出現しつつある。右図は高級ブランドのブティックや飲食店が軒を連ねる銀座七丁目の裏側の光景であり、店のメディアたる表の軽やかなファサードと鋭い対照を成している。一つのビルの表はイルミネーションなどで情報化され、その裏は乱雑に付けられたエアコンの室外機数十個とパイプ類が覆われることなく放っとかれている。パソコンやハイファイステレオも、表のモニタやフロントパネルは文字どおりメディア化されていてクリーンであるのに対し、裏面はインタフェースやケーブル類がスパゲティ状態になっている。都市や建物は、こうしたパソコンのありさまをブローアップしたものになりつつあるといえる。
銀座室外機ジャングル
銀座室外機ジャングル

このような状況のち延長線上にオウム真理教のサティアンは位置しているといえ、前述のオタクの個室がそのまま巨大な施設として環境化されたようなものとなっている。教団のもう一つの重要な特徴は、施設群とは対照的に、メディアにのるものに関してはキッチュながらも徹底してデザインを施しているという点であり、ここにも前述のメディアとメディア外に対する意識の乖離が指摘できる。

(a):中森明夫、「街には『おたく』がいっぱい」、『漫画ブリッコ』一九八三年六月号、セルフ出版、quoted in:宮台真司、「制服少女たちの選択」、講談社、一九九四
(b):宮台真司、前掲

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last update:25/2/1997