自分自身を知る

001. オハイ 第6回公開講話
1978年4月16日

 それで、私たちが言いましたように、私たちが捜し求めているものを調べる中で、苦難のさまざまな形を知覚することの中で、人は、私たちが私たち自身のことをそれほどほとんど知らず、私たちが何であるかを決して尋ねず、自分自身を完全に知ることという大きく複雑な問題を―それが自己を知ることなのですが、決して突っ込んで調べないという点に達するのではないでしょうか? 人は自分自身をいつか知ることができるでしょうか? それとも、それは常に非現実的なのでしょうか? それとも、私たちの意識、私たちの存在の全体の内容を知ることは時間が掛かるのでしょうか?
 それで、私たちが瞑想を共に論議し始める前に―つまり、共にということですが―自分自身を知ることが可能かどうか調べることから始めなければならないと、私は思います。なぜなら、あなたが、自分自身の全体の内容、深み、巾を、あるいは自分自身の取るに足らなさ、狭さ、浅薄さをすっかり知らないなら、非常に、非常に深く、その基礎を敷くことなしには、それはその中に何であれ少しの欺瞞もなく、何ひとつの種類の少しの思い違いもなく、少しの見えを張ることもなく、プライドと傲慢の少しの感覚もない、自分自身の完全な理解なのですが―そのすべてを知ることなしには、人は明らかに非常にもっと遠くへ進むための基礎を敷くことができないからです。
 それで、今朝、してもいいのなら、私たちは、私たちが求めているものが何であるか、どんな苦難の下に私たちが生きているのか、まず、共に調べようとしています。そしてその調査の中で、私たちは私たち自身の性質を、今あるままの私たちを、単に化学的に、生物学的にだけでなく、もっとより心理学的に、私たちが何から構成されているかを見始めるでしょう。なぜなら、心理状態の性質、いわば、皮膚の内部に、内面的にいまあるもの、それが明確に理解されず、非常に、非常に深く調べられないなら、私たちの多くがしているように、私たちは非常に表面的な生を送るでしょう。
 それで、私たちは自分自身を完全に知るとは何なのかを調べようとしています。どうかこのゲームに参加してくださいませんか?―これは本当の探索です―自分自身を完全に知ること。少しのひずみもなく実際にいまあるものを知ること、少しの賦課もなしに、そこにいまあるものを少しも変形することなしに、私たち自身の中の実際のもの、実際のものに気づいていること。あなたはおわかりでしょうか? それで、自己と呼ばれるこの非常に複雑なものを理解すること。そしてそれを理解するためには、明らかに、非常に明確で自由な心がなければなりません。私が何かを非常にまじめに調べているなら、私は偏見を持って、結論を持って、何であれ達成の感覚を持って、それのところにやってくることはできません。私はまずどうやって見るか、そしてどうやって聞くかを学ばなければなりません。
 それで、まず、私は‘いまあるもの’に耳を傾けるわざを学ばなければなりません。私はいまあるままの私を知りません。私は、どんなによく知られていて、専門的で、その他何もかもであるかもしれなくても、何ひとつの哲学も、心理学者の何ひとつの主張も受け入れようとしていません。なぜなら、私がそれを本当に受け入れるなら、彼らが私に教えてきたことにしたがって私自身を調べているからです。それはもうひとつの圧力、退屈、権威の受容となります。人が自分自身を深く調べ始めるなら、それをまったく捨てなければなりません。私は、私たちが話している間、あなたがそれをしていると思います。あなたは別の人の目を通じて見ていない、ある心理学者、心理分析者、ある哲学者に従って調べていないということ。それはあなたが受け売りであってはならないということを意味します。いいですか? そして私たちの多くは受け売りの人々、あるいはまた受け売りの人々です。したがって、自分自身のこのばく大な内容をまじめに深く調べることが少しも決してないのです。私たちは表面的な生を送っています。なぜなら、私たちは私たち自身について専門家を受け入れるからです。そして専門家自身は他の人々の専門家を受け入れてきたのです。それで、各々の専門家は別の専門家を受け入れて、それは続きます。しかし、であるのに、私たちが非常にまじめに私たち自身を調べているなら、人は別の人の権威を、まったく、完全に捨てなければなりません。あなたはそうしていますか?
 そしてまた、人が自分自身を調べているとき、そして調査はまったく秩序があるであろう基礎を敷くことです。それは砂の上に、非現実的な何かに基づいた基礎ではありません。そしてこれを調べるために、心それ自身は自由に観察しなければなりません。すなわち、自分自身に耳を傾けることのわざを学ぶこと、あなたが観察したいものを語るのではなく、自己が言っているものを見ることあるいは耳を傾けること。あなたはおわかりでしょうか? だれにも従わないで、自分自身に耳を傾けることのわざ。いいですか? 私たちが進んでゆくとき、あなたはそれをするつもりでしょうか? そのとき、あなたは何を考えるかをあなたに教えてくれる権威をひとりも持ちません。私たちは何を考えるべきかを子供の頃から教えられました。そして教師と教育者、専門家と政治家などなど、司祭、だれもみな、何を考えるかをあなたに教えます。それは、特にこの国ではそんなに明白です。それは世界中いたるところで起こっていますが、ここでは、それはますます激しくなっています。なぜなら、専門家は増加していますし、私たちは彼らのとりこになるからです。どうか、これは非常に、非常に重大です。私は、人がどんなにそれが重大であるかはっきり理解しているかどうか知りません。それは人が自由を失ってしまうということを意味します。あなたが別の人にあなたの生を引き渡すとき、どんなによく意図されていても、どんなに専門的で、彼がどんなに専門化されているかもしれなくても、誰かに、導師に、司祭に、ある心理学者にあなた自身を引き渡すことは、そのときその自由そのものが否定されるのです。そしてあなたは調べるための自由が必要です。私は、あなたが世界で起こっていることを、ゆっくり私たちが専制政治のとりこになりつつあることを、はっきり理解しているかどうか知りません。どうか、これは非常に重大です―政治的な暴虐、宗教的な暴虐などなど、それは私たちの生活上の実際の圧力です。
 そして、私たち自身を調べるために、人が、精神的な事柄あるいは心理的な事柄についての権威は調べる中で少しも場所を持たないという真実を見るがゆえに、捨ててしまうなら、そのときあなたは自然に、容易に、うまく、それらを落とすのです。後悔してではなく、‘これらの専門家、私に教えてくれてきたこれらの人々を落とすなら、どうやって調べるのでしょうか、私はわかりません’と言いながらではなく。それで、私たちは話し手に従ってではなく、あなたの欲望に従ってではなく、あなたが望んでいると思うものに従ってではなく、実際に‘いまあるもの’を自由に調べようとしています。あなたはおわかりでしょうか? 自分自身の内部で実際に続いているもの―反応、衝動、圧力、欲望の限りなくさまざまなもの、へとへとに疲れさせる心配、傲慢、プライド、主張の感覚、攻撃性、そのすべてですね。そのすべてを調べるためには、人は観察するための自由の感覚を持たなければなりません。あなたはおわかりでしょうか? 私は、あなたがそれをいま持っていると思います。あなたがここに座っている間だけではなく、あなたがこのホールを離れるとき、あの自由の並外れた特質を持つこと。あなたが好むことをすることではなく、それをあなたはずっとしてきたのですが―あなたはただそれを、宗教の外套の下に、道徳性の下に、文化の下に隠すだけなのですが、しかし、自由はあなたが好むことをすることを意味しません。その反対に、自由は権威からの自由、圧力からの自由、あなた自身の要求、衝動、欲求からの自由を意味します。そのため、あなたはあなた自身の内部で続いていることを非常に、非常に明確に見ることができるのです。いいですか? 私たちがここに座っている間、それをしていただけるでしょうか?


 それで、私は私自身を調べています。私は私自身を知りたい。なぜなら、私は、実際にある私のままに私自身を知ることなしには、誰にも従わないで、実際にいまあるままの私を―私の反応、私の苦しみ、私の混乱、私の孤独、私の絶望を実際に知ることなしには、誰かを失ってしまう、苦悩の状態にあるなどなどということが、わかるからです―それをゆがめている観察者なしに、このすべてを知ること。おわかりでしょうか? いいですか? あなたはそれをすることができますか? あなたが、私にではなく、あなた自身に耳を傾けてそこに座っていて、したがって、観察者なしに観察していて―そして学んでいる間、それは記憶していることを意味しません、そうではなく、洞察のわざを学んでいるのですが、現状のあなたのままにあなた自身を観察することができるでしょうか? そのとき、いまあるままのあなたはことごとくの人間の中に実際に続いているものなのです。あなたはりかいしているでしょうか? 私はあなたがこれを見ているのかどうなのかなと思います。あなたがここであろうと、ロシアに、インドに、中国に生活していようと、ことごとくの人間に、従って、実際にいまあるままのあなたが人間の残りの人々なのです。あなたはおわかりでしょうか? 私は、あなたがおわかりなのかどうなのかなと思います。それは理論ではありません。それは結論ではありません。それは願望ではありません、それは強さなどなどではありません、そうではなく、実際にいまあるままのあなたなのです。あなたは全人類の代表なのです。いいですか? 含意が何なのか、その深みと美を見てください。そのとき、あなたはただひとりではありません。あなたはおわかりでしょうか? いま、あなたは孤立しており、孤独の中で強さを求めています。その強さは誰かに頼ることです。そして誰かに頼ることは、ついに、弱くすることに終るのです。なぜなら、その中に、悲しみ、悲惨、混乱、嫉妬、その他何もかもがあるからです。であるのに、事実は―事実は―あなた、いまあるままのあなたが、いまあるままの人間であるということであり、従って、あなたは全人類なのです。あなたはおわかりでしょうか、あなた? そして、たわむれるための少しの個性もありません。それはばく大な発見であり、従って、あなたに並外れた活力を与えるのです。

Ojai 6th Public Talk
16th April 1978
J. Krishnamurti


002. オハイ 第3回公開講話
1949年7月23日

 この前の土曜日と日曜日に、私たちは自己を知ることの重要性を討論していました。なぜなら、私が説明しましたように、どうやって私たちが自己を知ることなしに正しい考えることのための何かの基礎を持つことができるか、私はわかりません。どんなに包括的であっても、どんなに集団的あるいは個人主義的であっても、自分自身を十分に知ることなしには、どうやって、何かの行動がなんとか調和していて本当の行動でありうるでしょうか? 自分自身を知ることなしには、真実であるもの、意味のあるもの、生の中で正しい価値であるものを本当に捜し出すことの少しの可能性もありません。自己を知ることなしには、私たちは心の自己投影した思い違いを越えて進むことができません。自己を知ることは、私たちが説明しましたように、ひとりの個人ともうひとりの人の間の関係の行動のみでなく、社会との関係の行動も意味します。そして、この知ることなしには、少しも完全で調和した社会はありえません。それで、人が可能なかぎり完全にそして十分に自分自身を知るべきであるということは、ほんとうに非常に重要でありそして意義があるのです。そして、この知ることは可能でしょうか? 人は自分自身の全体の過程を、部分的にではなく、統合的に知ることができるでしょうか? なぜなら、私が言いましたように、自分自身を知ることなしには、人は考えることのための基盤を少しも持たないからです。人は思い違いに捕まえられます。政治的、宗教的、社会的な思い違い―それらは限りがなく、果てしがありません。自分自身を知ることは可能でしょうか? そして、どうやって、自分自身を知ることが可能でしょうか?―手段は何でしょうか、やり方は何でしょうか、過程は何でしょうか?
 私は、やり方が何であるかを見出すためには、人は、まず、障害が何であるかを見出さなければならないのではないでしょうか? そして、私たちが生の中で重要であるとみなすもの、私たちが受け入れてきたこれらのものごとを検討することによって―価値観、標準、信条、私たちが持つ無数のものごと―それらを調べることによって、たぶん、私たち自身の考えることのやり方を見出し、それによって、私たち自身を知るでしょう。すなわち、私たちが受け入れるものごとを理解することによって、それらを疑い、それらを調べることによって―その過程そのものによって、私たち自身の考えること、私たちの応答、私たちの反応のやり方を知るでしょう。そしてそれらを通じて、現状の私たちのままに、私たち自身を知るでしょう。確かに、それが、私たちの考えること、私たちの応答の仕方を見出すことのできる唯一のやり方なのです。価値基準、標準、信条を、それを私たちは数世代の間、受け入れてきたのですが、検討することによって、十分に突っ込んで調べることによって。そして、これらの価値基準の後ろに見ることによって、私たちはどんなふうに私たちが応答するのか、それらに対する私たちの反応が何であるか知るでしょう。そしてそれによって、たぶん、私たちは私たちの考えることのやり方をあらわにすることができるでしょう。言い換えると、自分自身を知ることは、確かに、人が何かに関して持つ応答、反応を調査することです。人は孤立を通じて自分自身を知ることができません。それは明白な事実です。あなたは山に、洞窟の中に引っ込むか、あるいは川の土手の上である幻想を追及するかもしれません。しかし、人が自分自身を孤立させるなら、少しも関係はありえません。そして孤立は死なのです。現状のままに、自分自身を知ることができるのは関係の中でのみなのです。それで、私たちが受け入れてきたものごとを検討することによって、表面的ではなく、十分にそれらを調べることによって、たぶん、私たち自身を理解することができるでしょう。

Ojai 3rd Public Talk
23rd July 1949
J. Krishnamurti


003. ブロックウッドパーク 第3回公開講話
1979年9月1日

 私たちは、人間の心と私たちの生き方がそんなに断片化しており、ばらばらにされているということ、そして人間が世界をいまあるものに―無秩序で、残酷で、混乱しており、おびえた世界に作り変えているので、と言っていたのではないでしょうか? そして私たちは、また、自己の気づき、すなわち、自分自身についてすべて知ること、無意識と同様に意識も両方とも、内心と開いた心のことを話していました。そのため、自分自身を完全に知ることの中で、そして自分自身を完全に知ることは可能であり、そのとき、私たちは世界と私たち自身に全体として接近することができるのです。いま生きられているような私たちの生、そのことを、私たちは私たち自身についてほとんど少ししか知らないのですが、そしてたぶん、心理学者、セラピスト、精神分析者はいまあるままの私たちを私たちに教えてくれるのですが、しかし、いまあるままの私たちを見出すためには、彼らに耳を傾けることはできません。なぜなら、彼らは私たちと同様に、さまざまな異なったやり方で、同じように混乱しており、同じように不確かであり、同じように恐れているからです。それで、人は自分自身に完全に頼らなければなりません。そして、当然、話し手を含めて、何をすべきかを私たちに教えてくれる別の人を当てにしてはなりません。
 私たちはそんなに完全に私たち自身を知ることができるでしょうか? 傷、恐怖、心配、あてにならないこと、快楽の非常に複雑な網目、死、愛、そして私たちが死んだ後、継続があるかどうか。そしてまた、私たちは瞑想とは何かに気づき、知り、理解するべきです。そのすべてが私たちの生、教育、仕事、考え方、信条、経験、深く強い意見などなのです。そのすべてが、その苦闘のすべてを伴う、その逃避、悲惨などを伴う私たちの生なのです。私たちは私たち自身を完全に知ることができるでしょうか?―そのすべてを。そのときたぶん、断片化された人間としてではなく、全体として私たちの生のすべてに接近することができるでしょう。
 それで、私たちは、外部からの少しの指導もなしに、それが可能かどうか、今朝、共に論議しようとしています。なぜなら、彼らはみな、わざと私たちを迷わしてきたからです。彼らはみな、世界のこの現在の状態に私たちを導いてきたのです。政治家、経済学者、宗教的な人々、導師、一団のその他何もかも。そして、環境に関わりなしに何が正しい行動であるかを、私たち自身の力で見出すことが、ますます緊急で、必要になるのです―さらなる混乱、後悔、悲しみ、より多くの悲惨などをもたらさないであろうそのような行動。
 それで、人は、各々の人は、そんなに完全に私たち自身を知ることができるでしょうか? それとも、私たちは他の人々の助けで、導かれ、調査し、探求するように準備しなければならないのでしょうか? 他の人々は、どんなに学識があり、どんなに物知りで、経験があるかもしれなくても、心理的には、ただ私たちに似ているだけなのです―彼らはより多くの技術を持ち、彼ら自身を表現するためのより大きな能力などを持つのですが。しかし、私たちは、先日指摘しましたように、彼らの悲しみ、苦難、混乱、不安、耐えがたい恐怖などを持つ、世界の残りの人々と似た、各々の人なのです。人は調べられ、理解され、越えて進まれていない場所がないように、そんなに完全に自分自身を知ることができるでしょうか? それが、私たちが今朝共に論議しようとしていることなのです。
 すなわち、自分自身を、思考、恐怖、隠れたものとあらわなもの、性的なその他の快楽のあらゆる追求を知ること。そして、愛とは何かを私たち自身の力で見出すこと。そして、個人的な悲しみだけでなく、人類の悲しみの十分な意味を理解すること。そしてまた、そしてまた、死である私たちの生の最後のできごとを理解することができるでしょうか? そのすべてが私たちの生なのです。そして私たちが私たち自身の内部で明確でないなら、私たちのするものが何であれ、さらなる混乱をもたらすでしょう。それで、私たちが、私たち自身を知ることができるのなら、見出すことが、私たちにとって義務なのです、そんなに絶対に必要であるように私たちには思われるのです―いいですか? 私たちは始めようとしています。
 すなわち、話し手は調査しようとしていて、そしてあなたは受け入れたり否定したりして、単に耳を傾けているにすぎないのではなく、共になのです。それが可能なら、共に、共に考えてください。なぜなら、どんな二人の人々も明らかに共に考えているように見えないからです。そして、圧力なしに、強制の少しの形もなしに、共にこの事柄を調べてください。それはまず第一に、一定の注意を必要とします。集中ではなく、深い関心の一定の質、見出すことに専心している心、したがって、配慮、観察するための自由を必要とします―いいですか? それが絶対的に明らかに必要です。人がある偏見、固執する経験を持つなら、そのとき、私たちは共に考え、共に見調べ、見い出すことができません、それで、人は、少なくとも、今朝の間、多少自由でなければなりません。そのため、あなたは始めるのです―人は調べ始めます―いいですか? 私たちは、先日しましたように、まず、人が子供の頃から受けてきた心理的な傷を調べようとしています。私たちは先日、それを調べました。

Brockwood Park 3rd Public Talk
1st September 1979
J. Krishnamurti


004. ニューヨーク 第1回公開講話
1950年6月4日

 私は、お互いに理解することの中に困難なことがあるということを心に留めておくことが重要だと思います。私たちの多くは不用意に耳を傾け、そして、私たちが聞きたいことだけを聞くのです。私たちは突き刺すようなものや不安にするものを無視します。そして心地好いもの、満足させてくれるものごとにだけ耳を傾けるのです。確かに、私たちを満足させてくれて、なだめてくれるそれらのものごとにのみ耳を傾けるなら、何も本当の理解はありえません。偏見なしに、防衛を築き上げることなしに何であれ耳を傾けることはまったくのわざなのです。そして私は、私たちが私たちの獲得した知識、私たちの特定の特質、観点を脇にどけ、そして事柄の真実を見出すために耳を傾けようとしていると提案してもよろしいでしょうか? 本当に、基本的に私たちを解放するのは、真実のみなのです―思索ではなく、結論ではなく、真実であるものの知覚だけなのです。真実であるものは事実のものなのです。そして私たちが、私たちの個人的な結論、偏見、経験で、それに接近するとき、事実のものを注意して見ることができません。それで、私がそれを提案してもよろしければ、これらの講話の間に、私たちは言葉上で言われていることだけではなく、その内面の内容も聞こうとしなければなりません。私たちは事柄の真実を私たち自身の力で発見とようとしなければなりません。
 さて、真実は気を紛らわせることの何の形も追求していないときのみ発見されることができます。そして私たちの多くは気を紛らすことを望むのです。生は、その苦闘、問題、戦争、事業の危機、家族の争いを伴い、私たちには、少し、手におえません。それで、私たちは気を紛らしたいのです。そして私たちはたぶん気を紛らわせることを求めて、この集会に来ているのです。しかし、気を紛らわせることは、外面的にであれ内面的にであれ、私たちが私たち自身を理解するのを助けないでしょう。気を紛らわせることは―政治の、宗教の、知識の、娯楽の気を紛らわせることであれ、いわゆる真実を追究することの気を紛らわせることであれ―さしあたりどんなに刺激してくれても、結局、心を鈍くし、それを囲い込み、制限し、限定するのです。気を紛らわせることは外部と内部の両方です。外部のものを私たちはかなりよく知っています。私たちがより年を取るとき、少しでも思慮深いなら、それらを認識し始めます。しかし、私たちは、明らかな気を紛らわせるものを捨てるかもしれませんが、内面的なものを理解することはもっとより難しい。そして私たちがこれらの集会を気を紛らわせるものの新しい形に、新しい刺激に単に作り変えるに過ぎないなら、私は、それらが自分自身を理解することの中で、ほとんど価値を持たないだろうと思います―それが第一に重要なことなのです。
 したがって、人は気を紛らわせることの全体の過程を理解しなければなりません。なぜなら、心が、結果を求めて、刺激あるいはいわゆる鼓舞を通じて、逃避しようとして、気を紛らせているかぎり、それ自身の過程を理解することができないからです。そして、私たちが、私たちの各々の人に持ち上がる無数の問題の何かを考え抜こうとするのなら、私たち自身の考えることの全体の過程を知ることが不可欠ではないでしょうか? 自己を知ることは私たちの無数の問題を解決することの究極的に唯一のやり方なのです。そして自己を知ることは、どうあっても、刺激や気を紛らわせることの結果、成果ではありえません。その反対に、気を紛らわせること、刺激、いわゆる鼓舞は単に中心的な問題から人を運び去るに過ぎません。確かに、自分自身を基本的に、根本的に、深く知ることなしには、深いものと同様に表面的なものも両方とも、意識のあらゆる層を知ることなしには、考えることのための少しの基盤もないのではないでしょうか? 私が心のより上部のものとより深い層の両方の中で私自身を知らないなら、何かの考えることのために私はどんな基盤を持つでしょうか? そして、自分自身を知るためには、気を紛らわせることのひとつの形も助けになりません。それにもかかわらず、私たちの多くは気を紛らわせることに関わっています。私たちの宗教的、政治的、社会的、経済的活動、彼らの特定の特質を持つさまざまな教師たちの私たちの追及、私たちが知識と呼ぶものを求める私たちの強く要求すること―これらはみな逃避なのです、それらは明らかに自分自身を知ることという中心的な問題から逃げ去る気を紛らわせることなのです。自分自身を知ることは不可欠であるとしばしば言われてきていますけれども、私たちは実際にはその事柄にほとんどわずかしか時間あるいは考えを注がないのです。そして自分自身を知ることなしには、私たちが考えるあるいはする何であれ、必然的にさらなる混乱と悲惨につながるに違いありません。
 それで、自分自身の過程を理解することがあらゆる物事の中で、不可欠です。なぜなら、自分自身を知ることなしには、ひとつの人間の問題も解決されることができないからです。自己を知ることなしには、問題のどんな解決も、さらなる悲惨、混乱、苦闘につながって、単なる気を紛らわせることにすぎません―これは、人がそれについて考えるとき、かなり明らかです。そのことの真実を見て、自分自身の全体の内容、全体の構造を知ることがどうやって可能でしょうか? 私は、これが私たちの各々の人が直面しなければならない基本的な質問だと思います。そしてそれを共によく考えることの中で、あなたは、一連の観念をあなたに与えて、私に耳を傾けているに過ぎないのではなく、私が特定のシステムや方法を詳しく説明しているのでもありません。それどころか、あなたと私は自分自身―行為者、観察者、思考者、見張り人である‘自分自身’を知ることがどんなふうに可能であるのかを共に見出そうとしているのです。私が私自身の全体の過程を知らないなら、単なる結論、理論、思索は明らかにほとんど意味がありません。
 さて、私自身を知るためには、私は、私の行動、私の思考、私の感情を知らなければなりません。なぜなら、私は、行動を離れてではなく、行動の中で、私自身を知ることができるだけだからです。私は、関係の中での私の行動を離れて、私自身を知ることができません。私の活動、私の特質が私自身なのです。私は、私の考えることの全体の過程を、無意識と同様に意識も、関係の中でのみ―観念への、人々への、ものごと、財産、お金への私の関係の中でのみ知ることができます。そして関係から離れて私自身を調べることはほとんど意味を持ちません。私が私自身を知ることができるのはこれらのものごとへの私の関係の中でのみなのです。私自身を‘より高いもの’と‘より低いもの’に分割することはばかげています。私は‘より低い自己’を指導しているあるいは制御している‘より高い自己’であると思うことは、心の理論なのです。そして心の構造を理解することなしに、単に便利な理論を創作することは私自身からの逃避の過程にすぎません。
 それで、重要なものは人々への、財産への、観念への私の関係が何であるかを見出すことです。なぜなら、生は関係の過程だからです。理論的に以外には、何も孤立して生きることができません。そして私自身を理解するためには、私は関係の全体の過程を理解しなければなりません。しかし、私が非難、正当化、比較の感覚で関係の鏡をのぞき込むとき、関係の理解は、きわめて難しく、そしてほとんど不可能になります。私が非難し、正当化し、それを何かと比較するなら、どうやって私は関係を理解することができるできるでしょうか? 私は、新鮮な心、比較と受容の伝統的な背景に捕らえられていない心で、新たにそれのところにくるときのみ、それを理解することができるのです。
 私自身を理解することが不可欠です。なぜなら、問題が何であれ、それらは私によって投影されるからです。私が世界なのです。私は世界から独立していません。そして世界の問題は私自身の問題なのです。私の周りの問題を理解するためには、それは私自身の投影なのですが、何もかもことごとくへの関係の中で私自身を理解しなければなりません。しかし、私が比較すること、非難すること、正当化することによって始めるなら、理解はありえません。さて、非難すること、正当化すること、比較することは心の性質です。そして私たちが関係の鏡の中で私たち自身の反応と特質を見るとき、私たちの本能的な応答はそれらを非難することや正当化することなのです。非難と正当化のこの過程の理解が自己を知ることの始まりです―そして自己を知ることなしには、私たちは非常に遠くに行くことができません。私たちはたくさんの理論と思索を創作し、さまざまな団体に参加し、教師や師に従い、儀式を執り行い、小さな徒党の中に集まり、他の人々より上位だと感じることができますが―しかし、このすべてはどこにも導きません。それは単に無思慮な人々の未熟な行動に過ぎません。真実であるものを見出すためには、実在、神があるかないかを発見するためには、人はまず自分自身を理解しなければなりません。なぜなら、実在のことや神のことについて人がどんな概念を持つかもしれなくても、それは単に自分自身の投影であるに過ぎないからです。それは明らかに決して真実のものではありえません。真実であるものを見出すことが可能であるのは―静穏であるように強いられるのではなく、強制されてではなく、訓練されてでもなく―心が完全に静穏であるときのみなのです。そして心はそれ自身の構造の理解の中でのみ静かでありうるのです。真実のもの、心の投影ではないものだけが、あらゆる艱難から、私たちの各々の人に持ち上がるあらゆる問題から心を解放できるのです。
 それで、私たちは、まず、自分自身を理解することの重要さ、必要性を見なければなりません。というのは、自分自身を理解することなしには、ひとつも問題は解決されることができないからです。そして戦争、敵対、羨望、争いは続くでしょう。真実を本当に理解したい人は静かである心を持たなければなりません。そしてその静かさは彼自身の理解を通じてのみ生じることができます。心の静穏は訓練を通じて、制御を通じて、征服を通じては生じません。そうではなく、問題が、それは自分自身の投影なのですが、完全に理解されるときのみ生じるのです。心が静かであるとき、それがそれ自身を投影していないときのみ、実在のものが生じることができるのです。すなわち、実在が生じるためには、心は静かでなければなりません―静かにされるのではなく、制御され、征服され、抑圧されるのではなく、あらゆるその記憶、限定、葛藤を持つ、‘私’の全体の構造のその理解のゆえに、自発的に静かなのです。このすべてが完全に本当に理解されるとき、心は静かです。そのときのみ、実在であるものを知ることができるのです。

New York 1st Public Talk
4th June 1950
J. Krishnamurti


005. ヨーロッパでの講話 1967 第5回公開講話
1967年9月30日

 要求と満足から自由であることは自分自身の調査を必要とします。それは要求の全体の性質を理解することを必要とします。要求は二重性から生まれます。‘私は不幸です。しかし、私は幸福でなければなりません。’私は幸福でなければならないという要求、そのこと自体の中に不幸があります。反対のものはそれ自身の反対のものを常に含みます。それで、人が善良であるために努力し、善良であろうと決定するとき、その善良そのものの中に、その反対のものがあり、それが邪悪なのです。もしも人がこれをただ理解することができるなら、したがって、生のどんな要求であれ、あなたが真実、実在を経験しなければならないというどんな要求であれ、ただ理解することができるだけなら、その要求そのものが‘いまあるもの’のあなたの不満から生まれているということ、したがって、その要求が反対のものをつくりだすということをただ理解することができるなら。
 反対のものの中に、そうであったものがあります。それで、人はこの絶え間のない要求することから自由でなければなりません。常に比較していおり、測っている心、それが思い違いを引き起こします。そして人はこの努力、二重性の努力の性質と構造を知らなければなりません。(心は本当は非二重性なのですが、それを調べる時間がありません)。これは自分自身をそんなに完全に知るので、心はもはや求めていない、尋ねていない、要求していないということを意味します。したがって、それは完全に静かです。そのすべてが瞑想の一部です。果てしない祈り、繰り返し、心に強いて静かにさせることではなく。それは葛藤を引き起こします。そして葛藤は二重性がある時は必然的に存在するに違いありません。観察者と彼がそうでありたいものによって、それが観察されるものですが、つくりだされた二重性があるのです。そして、経験しようとしているのではなく、あらわにしよう、発見しようとしている心があります―従うのではなく、模倣するのではなく、何かになろうとするのではなく。何かになることは二重性のもうひとつの形であり、従って葛藤に属するものなのです。
 自分自身を知ることのこの過程すべてが瞑想の始まりです―心を眠りにつかせることではなく、あるたわいない言葉を通じて幻影や超越的な経験を持つことではなく―社会へのその関係の中で、別の人へのその関係の中で、条件付けられたものと、私たち自身である心の状態をあらわにすること。自分自身を発見することと深く浸透すること―そのすべてが瞑想なのです。人は、時間と尺度の意味ではなく、それを非常に深く調べなければなりません―人は‘深い’という言葉を使わなければなりませんが、それを使うとき、それは‘浅い’であるその反対のものを持ちます。というのは、人が深くありたいとき、そのとき、葛藤があり、従って深みは浅いものなのです。それで、このすべてを調べている心は高度に敏感で、高度に気づいています。そして、明らかに、途方もなく油断がなく、目覚めている心は静かです。ぺちゃくちゃしゃべっている心は‘これが’気を紛らわせることですと言います。なぜなら、私は‘この他のもの’に集中したいからです。しかし、そのような分割もまた気を紛らわせることです。そして高度に聡明なので―というのは英知は完全に敏感で、気づいていることであり、その中にまったく選択はなく、従って少しも葛藤がないからですが―そのとき、その中から、雑音の反対のものではなく、雑音の停止でもない、沈黙が生じるのです。そして、満たされるべき少しの欲望もなく、したがって、より広くより深い経験を求める少しの欲望もないので、少しも要求がなく、少しも思い違いがないのは、そのような静かな心の中にのみなのです。神聖であるものを発見することができるのは、そのような心のみなのです。それが瞑想です。そしてその瞑想の中で、それを発見すること―教えられることやまねしたり従ったりすることではなく。そのすべては未熟なばかげたことです。そのとき、その沈黙の中で、それは本当にまったく経験ではなく、状態なのですが、その沈黙の中で、人は発見します。人は少しも言葉を持たない、測ることのできない何かにふと出会います―その頭脳とともには心、それはそんなに多くの記憶を蓄積してきたのですがそのすべてが並外れて静かになるとき―そして、人が数世紀を通じて捜し求めてきた何かを発見することの可能性があるのは、その状態の中でのみなのです。

質問者:人が発見するために瞑想するなら、それはそれ自身要求ではないでしょうか?

クリシュナムルティ:明らかに。あなたは瞑想しません。なぜなら、真実を見出したい、あるいは幸福、至福を見出したいからです。しかし、自分自身を理解することそして自分自身について学ぶことは絶え間ない過程です。それが瞑想ですと私は言ったのです、何かを発見するためにではなく。‘発見する’という言葉は適切ではない言葉ですね。しかし私はどんな他の言葉を使うべきか知りません。人はさまざまな言葉を使うことができますが、瞑想の本質は自己を知ることです。自分自身を知ること。そしてあなたは、あなた自身について学んできたことが尺度になるなら、あなた自身を知ることができません。私は、あなたがそれを見るかどうかわかりません。私は私自身を注意して見守ります。私は私自身について何かを学んできました。私が貪欲であるということを。私は貪欲、その性質について学んできました。そして、学んできたので、私が学んできたもので未来の貪欲すべてを測ります。したがって、私は未来の貪欲を、それが生じるときに学んでいません。そうではなく、私は私が学んできたもので測っているだけなのです。したがって―その構造を見てください!―私が学んできたことの尺度がその反対のものを、従って葛藤をつくりだしているのです。したがって、あらゆる反対のもの、貪欲と非貪欲は、私が要求したり意志を行使したりするとき、あるいは私自身に強いて貪欲でないようにするとき、貪欲でないためのその要求そのものの中に、貪欲があるのです。どうか、これを見てください! どうか、これを理解してください。
 私は暴力的です。人間は恐ろしく暴力的です。そして私たちは、暴力的であるべきではないと言います。そして暴力的でないように試みることはそれ自身暴力のひとつの形そのものなのです。しかし、人が暴力に、すなわち、暴力の性質、攻撃などに、本当に気づいているなら―そのすべてを調べるつもりはありませんが―それに気づいていること、それを変えることを望むことではなくて、非暴力の状態に到達することを望むことではなくて、暴力を理解することは、それ自身暴力からの自由なのです―その反対のものではなくて。
 それで、自分自身について学ぶことは絶対的に必要です、明らかに。私は学ばなければなりません―しかし、学ぶことは、私が学んできたことで尺度を学んだということではありません。従って、学ぶことは常に活動的な、非活動的な現在なのです―あることを以前に学んできたということではありません、それはそのとき尺度になりますが、それはそのとき、あるべきものの反対のものであり、したがって、葛藤なのです。それで、瞑想は自己催眠の、それに多くの人々は耽るですが、過程ではありませんし、心が静かであるように勧めるひとつの形でもありません。再び、含まれているものを見てください。私が、心が静かであるように勧めるなら、勧めることそのものが静かではない心を静かにしようとしている雑音なのです。私はあなたがこのすべてを見るのかどうか知りません。

質問者:そのとき、どうやって人は心を静かにするのでしょうか?

クリシュナムルティ:あなたはできません。あなたがその質問、‘どうやって私は心を静かにしたらいいのでしょうか?’を出すとき、あなたは既に独特のものから生まれた何かを主張したのです。従って、あなたが、‘私の心は静かでなければならない’と言うとき、あなたは二重性をつくりだしており、そして静かさは雑音であり、あなたがそれを‘静かさ’と呼んでいるだけなのです。どうか、あなた、これを理解することは非常に重要です。事実、‘いまあるもの’のみがあり、他に何もありません。それで、自己を知ることがあるとき、心は自然に、非神経症的に静かになるだけでしょう。(そして同時に活動的で、途方もなく活動的であるでしょう)。私が私自身を知るとき―私がことごとくの瞬間に私自身を理解し始めるとき(それは蓄積的ではありませんが)、そのとき、この注意深い敏感さと英知の中から、静かな心が生じるのですが、それは死んだ心ではありません。

質問者:あなたはなぜ私たちに話すためにここに来たのか話していただけますか?

クリシュナムルティ:知りません! (笑い) その質問に答えるためには、いくつかのものごとが含まれています。人は満足を引き出し、聴衆を通じて自分自身を養うために演説をすることができます。あなたは話に耽る人々の大のお気に入りのたくらみを知っています。あるいはあなたは聴衆を通じて自己を実現したい。あるいはあなたは彼らに何かを伝えたい、彼らに何かを教えたい。さて、あなたがそのすべてを払いのけるなら、そのとき質問はこうでしょう。‘なぜあなたはいったい話すのでしょうか? あなたがこれらのものごとの何かをしないなら’それなら、なぜ? 花になぜ咲いているのですかと尋ねるのと同じでしょう。

質問者:正しい学ぶことは非蓄積的でしょうか?

クリシュナムルティ:技術的には、それは蓄積的であるに違いありません。私はどうやって何かや他のものを動かすかの技術を学ばなければなりません。そして言語を学ぶためには、その言語に言葉の蓄積がなければなりません。しかし、私たちは、技術的なレベルでではなく、心理的なレベルで話しています。心理的なレベルでは、どんな蓄積も必然的にその反対のものをつくりだすに違いありません。たとえば、私は知っています、そして、私は知りません。そして、私は知りませんので、それについて知らなければなりません―それゆえ、私は私が知っているものを私が知らないものと比べます。それは二重性であり、それゆえ、葛藤なのです。私は私が知らないものを私が知っているもので測っているのです。そして人がそれを調べるなら、自分自身について、いったい、知るべき何かがあるでしょうか? あなたは、あなたがあなた自身のたくさんの理解を経てきているのでないかぎり、その質問を出すことはできません。自分自身について学ぶべき何かあるでしょうか? たくさんではなく。

質問者:私は、どんなふうに人間の条件付けが起こったのか知りたいと思います。

クリシュナムルティ:それはかなり単純です。私が言っていたことを終らせましょう。私はそれに戻るつもりです。
 あなた、あなた自身について知るべき何があるでしょうか?―私たちの条件付けのすべて、人種的な相続、家族的な相続、心理的なねじれと傾向と性向、環境の圧力、記憶の束(それは、いまあるままの私、抽象概念ですが)。学ぶべき非常に多くのものはありません。私は、自分自身を観察することの後で、学ぶべき多くのものはないと言うことができるだけです。しかし、あなたが‘あなた自身について学ぶへへ着多くのものはありません’というなら、そのとき、あなたはただいまあるままのあなたに留まるだけなのです。それで、この中にある基本的な質問のひとつは、‘どうやってそんなに条件付けられた人間の心がそれ自身を変え、無条件にするのでしょうか?’ではないでしょうか?
 そして、この条件付けの起源は何でしょうか? それはかなり単純ではないでしょうか? あなたは動物を観察することができます。生き残るために、どんなふうに彼らが攻撃的であるか。その起源があります。あなたは鳥を観察します。どんなふうに彼らが彼らのもの、彼らの財産である領域の線を引くか。領域の権利が性的な権利に取って代わります。そして攻撃の起源があります。そして私たちはまた財産を所有します。私たちにとって、財産は、性的な権利などがそうであるのと同様に、途方もなく重要です。しかし、もっとより価値がある質問はこうです。‘私たちのもののようにそんなに重く条件付けられた心が即座に―次第にではなく即座に―条件付けすべてから自由であることができるでしょうか?’ そして私たちは、それは瞑想を通じてのみ可能であると言います。いんちきの瞑想ではなく、長いあごひげや短いあごひげ、長い髪や髪がない瞑想ではなく、人が蓄積することなしに自分自身について学ぶときに生じる瞑想を通じて。そのとき、その瞑想の中に、あなたが社会の中にいるあるいは社会の外にいることを要求していない、完全に平和な、非攻撃的な生き方があるのです―その瞑想がまったく葛藤のないそれ自身の行動をもたらすのです

質問者:瞑想は全体的な生き方でしょうか?

クリシュナムルティ:明らかに、そうです。しかし、瞑想を理解するためには、人は観察しなければなりません。あなたは、どんなふうにあなたが木を見るのか、あなたと木の間に、観察者と観察されるもの、それは木ですが、の間に空間があるかどうか、観察しなければなりません。どんなふうに、その空間は生じるのでしょうか? 空間は、観察者がその木についての彼自身の記憶を持つので、生じるのです。あるいは、観察者が彼自身を貪欲から分離し、そして、‘私は貪欲ではありません。そして私は貪欲を免れなければなりません’と言うときなのです。そして、観察者と観察されるものの間に空間があり、そのとき葛藤があるのです。しかし、観察者は観察されるものです。なぜなら、彼は、貪欲であり、‘私は貪欲であってはならない’言い、したがって、二重性を引き起こすからです。それで、瞑想は、あなたがどうやってそれをするかを知るなら、最も並外れたものなのです。そして、あなたは誰からもどうしても学ぶことができません。そしてそれがその美しさなのです。それはあなたが学ぶ何か、技術ではありません。したがって、ひとつも権威はないのです。したがって、あなたがあなた自身について学び、あなた自身を注意して見守り、あなたの歩き方、あなたの話し方、どんなふうにあなたが食べるか、あなたが言うこと、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るなら。あなたが何も選択なしにそれに気づいているなら、そのすべては瞑想の一部です。そしてあなたが行くとき、あなたが旅をするとき、その動きが続くとき、そのすべての動きが瞑想です。その時その動きは終わりがありません、初めも終わりもありません。

Talks in Europe 1967 5th Public Talk
30th September 1967
J. Krishnamurti


006. 生の全体性 第U部 第19章
ブロックウッドパーク 第2回公開対話

1977年9月1日
‘どうやって人は自分自身を知ればいいのでしょうか?’

 完全な注意があるときに止み、そして少しも注意がないとき生じる思考の性質は何でしょうか? 人は気づいているとは何なのかを理解しなければなりません。さもなければ、人は注意の十分な意味を完全に理解することができないでしょう。
 気づきの観念があるのでしょうか? それとも人は気づいているのでしょうか? 違いがあります。気づいていることの観念、あるいは気づいていること。「気づいている」というのは、人の身近なものごとに、自然に、人々に、色に、木々に、環境に、社会的な構造に、全体のものに敏感であること、生き生きしていることを意味します。起こっているすべてに外部的に気づいていること、内部で起こっているものに気づいていること。気づいていることは、内部で心理的に起こっていること、そしてまた、環境的に、経済的に、社会的になど、外部で起こっていることに、敏感であること、知ること、観察することです。人が外部的に起こっていることに気づいておらず、そして内部的に気づき始めるなら、そのとき人はむしろ神経症的になります。しかし、人が、可能なかぎり、世界でまさに起こっていることに気づき始めるなら、そのとき、そこから内部へ動き、そのとき、人は釣り合いを持つのです。そのとき、自分自身を欺かないことの可能性があるのです。人は外部で起こっていることに気づいていることによって始めます。それから、人は内部に動きます―潮の干満と同様に、絶え間ない動きがあります―そのため、少しも欺瞞がないのです。人が外部で起こっていることを知り、そこから内部に動くなら、人はそのとき基準を持つのです。
 どうやって人は自分自身を知ればいいのでしょうか? 自分自身は非常に複雑な構造、非常に複雑な動きです。人は自分自身を欺かないように、どうやって自分自身を知ればいいのでしょうか? 人は他の人々への関係の中でのみ自分自身を知ることができます。他の人々への自分の関係の中で、人はそれらから引き下がるかもしれません。なぜなら、人は傷つきたくないからです。そして関係の中で、人は、非常に嫉妬深く、依存しており、愛着を感じており、本当にまったく無感覚であるということを発見するかもしれません。それで、関係は人が自分自身を知る鏡として働きます。それは外部的にも同じことです。外部は自分自身の反映です。なぜなら、社会、政府、あらゆるこれらのものごとは、基本的に自分自身と同じ人間によってつくりだされるからです。


The Wholeness of Life Part II Chapter 19
Brockwood Park 2nd Public Dialogue
1st September 1977
'How is one to know oneself?'
J. Krishnamurti


007. ロンドン 第1回公開講話
1949年10月2日

 問題を持つ私たちの多くにとって、困難なことは、私たちが各々の問題をそれ自身の平面上で解決しようとすることの中にあります。私たちは問題を統合的に、全体として、解決しようとしません。そうではなく、それを特定の観点から解決しようとするのです。あるいは私たちは、生である全体の過程から問題を区別しようあるいは分離しようとします。私たちが経済的な問題を持つなら、私たちは、生の全体の過程を無視して、その平面上だけでそれを解決しようとします。そして各々の問題は、そのように取り組まれるとき、明らかに解決されることができないに違いありません。なぜなら、私たちの生は防水区画の中にはないからです。私たちの生は生理学的にも心理的にも全体の過程です。そして私たちが生理学的な問題を理解することなしに、心理的な問題を解決しようとするとき、間違った強調を与え、したがって、問題をさらに複雑化するのです。私たちがなすべきことは、私にはそう思われるのですが、それを分離した問題として取り扱うのではなく、全体の一部として、各々の問題を取り上げることなのです。
 それで、生の中の私たちの問題とは何でしょうか? なぜなら、私にはそう思われるのですが、私たちが各々の問題にどうやって正しく接近するかを理解することができるなら、私たちはその問題だけではなく存在の全体の意味を理解することができるでしょうから。そして、それが私たちの困難なことではないでしょうか? どうやって問題に統合的に、全体として接近するか。そして、分離したレベルにそれを引き留めておくのではなく、ひとつの特定の観点からそれを注意して見ようとするのではなく、全体の一部としてそれを注視すること。
 どうやって、問題に統合的に接近することが可能なのでしょうか? 私たちが問題によって意味するものは何でしょうか? なぜなら、私たちのみんなが、激しいあるいは表面的な、即座のあるいは延期されることができる、さまざまな問題を持っているからです。私たちは微妙なあるいは明白な、無数の問題によって駆り立てられています。そしてどうやって私たちはほんとうにそれらに正しく接近することができるでしょうか? そして私たちは、問題を持っているということに気づいているでしょうか? そしてどうやって私たちはそれらに接近するのでしょうか? 問題への私たちの態度は何でしょうか?
 問題とはどういう意味でしょうか? 確かに、私たちは葛藤がある状態を意味しています。私たちの中に葛藤があるかぎり、私たちはその葛藤を問題だと、解消されるべき、理解されるべき、解決されるべき、あるいはそれから逃避したい、何かだとみなします。それで、私たちは問題に、それから逃避したい欲望を持って、あるいはそれのための答えを見出すために、それのための解決を見出すために、葛藤に接近するのではないでしょうか?
 さて、問題は解決と異なっているでしょうか? それとも、解決は、問題から離れてあるのではなく、問題それ自身を理解することの中にあるのでしょうか? 明らかに、問題から逃避したい私たちのそれらの人々は無数のやり方を持っていますー飲酒、娯楽、宗教的、心理的な思い違いなど。私たちの問題からの逃避を見出し、それらに私たちの目を閉じることは比較的に易しい。それを私たちはするのです。なぜなら、私たちはそれらにどう取り組むか知らないからです。私たちは、私たちの信念、私たちの偏見に従って、常に出来合いの答えを持ちます。教師、心理学者、だれか他の人が私たちに教えてくれたことに従って。そして、その出来合いの答えで、私たちは問題を解決しよう、接近しようとするのです。確かに、それは問題を解決しません。それは逃避のもうひとつの形であるに過ぎません。
 それで、私には思われるのですが、問題を理解することは、出来合いの答えではなくて、問題への解決を求めようとすることではなく、問題それ自身の直接の考察を必要とするのです。それは、人がそれをそう述べてもよければ、答えを見出そうとする欲望なしにそれに接近することなのです。そのとき、あなたは問題と直接に関係しているのです。そのときあなたが問題なのであり、もはやあなた自身から分離していません。そして私は、あらゆるその複雑なことを持つ存在の問題は私たち自身と異なっていないということ、それが、人がはっきり理解しなければならない最初のことであると思います。私たちが問題なのです。そして、私たちが問題を、私たちから遠く離れた、あるいは私たちから離れた何かとみなすかぎり、私たちの接近法は必然的に失敗するに違いありません。であるのに、私たちが問題を、私たちから分離してではなく、私たち自身として、私たちの一部としてみなすことができるなら、そのときたぶん、それをはっきりと理解することができるでしょう―それは、自己を知ることが少しもないゆえに、問題は存在するということを本質的に意味していないでしょうか? 私が私自身を、私自身の全体の複雑さを理解しないなら、考えることのための少しの基盤も持ちません。「私自身」は、確かに、何かひとつの特定のレベルにはありません。「私自身」はあらゆるレベルに、私がそれを置くかもしれないどんなレベルにもあります。それで、私が私自身の少しの理解も持たないかぎり、私自身を十分に、はっきりと理解しないかぎり―無意識も意識も、隠れたものも表面的なものも―明らかに、私は問題に接近するどんな手段も持ちません。それが経済的、社会的、心理的であれ、あるいはどんな他の問題であれ。
 自己を知ることは問題の理解の始まりです。信念、観念、知識は自己を知ることなしには、本当にまったく意味を持ちません。自己を知ることなしには、それらは思い違いに、私たちがそんなに巧妙に逃げることのできる困った問題と馬鹿げた言動につながります―そして私たちの多くはそうするのです。そういうわけで、私たちはそんなに多くの協会に、そんなに多くの団体に、そんなに多くの排他的な組織と秘密の組織体に参加するのです。排他的であることは愚かさの性質ではないでしょうか? 人が愚かであればあるほど、ますます人は宗教的あるいは社会的に、排他的なのです。そして各々の排他性がそれ自身の問題を引き起こすのです。
 それで、私にはそう思われるのですが、私たちに立ちはだかる多くの問題を理解することにおける私たちの困難は、微妙なものも明白なものも、私たち自身の無知を通じて生じます。問題をつくりだすのは私たちであり、環境の一部である私たちなのです―いっそう大きい何かと同様に、私たち自身を理解することができるなら、それを私たちは発見するでしょう。私たちはいっそう大きい何か、神聖な、精神的な何かであると主張するにすぎないこと。私たちの中に永遠の何か、ある精神的な本質があると主張するにすぎないこと―そのすべては、私にはそう思われるのですが、明らかに思い違いです。なぜなら、それはあなたが知らない何かの言語化に過ぎないからです。あなたは感覚、感情を持つかもしれません。しかし、それは事実に基づくものではありません。事実であるものは発見されなければならず、経験されなければなりません。しかし、何かを深く、根本的に経験するためには、信念が少しもないのでなければなりません。なぜなら、そのときあなたが経験するものは、あなたの信念によって単に条件付けられているにすぎないからです。信念はそれ自身の経験をつくりだします。したがって、そのような経験は真実ではありません。それは単に、挑戦への条件付けられた応答であるにすぎません。
 それで、私たちの各々の人が持つ無数の問題を理解するためには、自己を知ることがあるということが不可欠ではないでしょうか? そしてそれが最も困難なことのひとつではないでしょうか? 自己に気づいていること―それは孤立、引っ込むことを意味しません。明らかに、自分自身を知ることが不可欠です。しかし、自分自身を知ることは関係から引き下がることを意味しません。そして、孤立を通じて、排除を通じて、ある心理学者のところに、あるいはある司祭のところに行くことによって、人は自分自身をはっきりと、完全に、十分に知ることができると思うことは、確かに、間違いでしょう。あるいは、人は本を通じて自分自身を知ることを学ぶことができると思うことは。自己を知ることは、明らかに、それ自身、目的ではなく、過程です。そして自分自身を知るためには、人は行動の中で、それは関係なのですが、自分自身に気づいていなければなりません。あなたは、孤立してではなく、引き下がってではなく、関係の中であなた自身を発見するのです―社会への、あなたの妻、あなたの夫、あなたの兄弟への、人への関係の中で。しかし、どんなふうにあなたが反応するか、あなたの応答が何であるかを発見することは、心の並外れた油断のなさ、知覚の鋭さを必要とします。
 それで、どんな問題も全体的な過程の結果であり、そして排他的な孤立した結果ではありませんので、それを理解するためには、私たちは私たち自身の全体の過程を理解しなければなりません。そして私たち自身を理解するためには―表面的に、上部の心のひとつかふたつの層の中でだけではなく、意識の全体の内容、私たちの存在の全体の内容を通じて―それを十分に、はっきり理解するためには、それは関係の中で知覚されそして経験されなければなりません。私たちはその関係を排他的に、狭く、限定されたものにして、それによって私たちの自己を知ることを妨げることができるか、あるいは、それを、その関係を全体として、自己発見の手段として、注意深く見て、気づいていることができるかいずれかなのです。確かに、関係の中でのみ、今あるままの私たちの過程は展開するのではないでしょうか? 関係は現状の私のままに私自身を見る鏡です。しかし、私たちの多くはいまあるままの私たちを好まないので、関係の鏡の中で知覚するものを、肯定的にか否定的に、鍛錬し始めるのです。すなわち、私は関係の中に、関係の行動の中に、何かを発見します。そして私はそれが好きではありません。それで、私は、私が好きではないもの、私が不愉快であるものとして知覚するものを修正し始めます。私はそれを変えたい―それは、私がそうあるべきもののパターンを既に持っているということを意味します。そうあるべきである私のパターンがあるやいなや、いまあるままの私の少しの理解もありません。そうありたい私、あるいはそうあるべき私、そうあってはならない私の絵を―それにしたがって私が私自身を変えたい標準を―私が持つやいなや、そのとき、確かに、関係の瞬間に、いまあるままの私の少しの理解もないのです。
 私は、これを理解するのが本当に重要であると思います。というのは、私は、これが私たちの多くが惑うところだと思うからです。私たちは関係の中で与えられた瞬間に実際にいまあるままの私たちを知りたくないのです。私たちが単に自己改善に関わっているにすぎないなら、私たち自身の、いまあるものの少しの理解もありません。あなたは単に結果を達成することに関わっているにすぎません。そして、結果を達成することは、ついにはひどい退屈なのです。なぜなら、それはどこにも導かないからです。しかし、あるべき私ではなく、いまあるままの私を知ることは、きわめて骨が折れます。なぜなら、心は、いまあるままの何でであれ避けるのに、そんなに巧妙で、そんなに熱心だからです。それで、それはさまざまな標準、パターン、仮定を開発してきましたが、それがいまあるものを否定するのです。それで、自分自身を理解するためには、それは死んだものではなく、生きているものなのですが、あなたの接近法は積極的に新しくなければなりません。従って、それは標準の肯定的なあるいは否定的な主張を持つことができません。
 それで、自分自身を理解するためには―それは関係の外部でではなく、関係の中でのみなされることができるのですが―、少しも非難がないのでなければなりません。私が何かを非難するなら、それを理解しません。あるいは、私が何かを受け入れるなら、それを理解しません。受容は単に問題との同一化であるにすぎません。そして否定あるいは非難は同一化のもうひとつの形なのです。しかし、私たちが非難や正当化なしに問題を―すなわち、関係の中で、現状の私のままに私自身の問題を、それは行動ですが―注意して見ることができるなら、そのときいまあるものを理解することの、したがっていまあるものの展開の可能性があるのです。
 それで、私たちの問題は私たち自身の全体の過程の結果なので、それは関係の中での行動なのです。ものごとについてであれ、観念、人々についてであれ、私たち自身の理解があるべきであるということは不可欠ではないでしょうか? 私自身を知ることなしには、考えることのための本当の基盤を少しも持ちません。私は考えることができるか、あるいは少なくとも考えることができると考えます。私は意見を持つことができるかもしれません。私は無数の信念を持つかもしれません。私はこの社会に、あの組織や教会に属するかもしれません、ぼう大な知識を持つかもしれません。確かに、そのすべては正しい考えることのための基盤ではありません。それは思い違いに導きます。それはさらなる葛藤、さらなる混乱に導きます。それで、正しく考えるためには、自己を知ることがあることが不可欠ではないでしょうか? それは瞬時瞬時、あなたの現状のままに、あなた自身を知ること、続いている何もかもことごとくに、ことごとくの外部の挑戦への内面の応答に、ことごとくの経験に気づいていることです。しかし、信念の何かの形、昨日の経験への執着の何かの形があるなら、あなたは十分に、完全に、深く、広く、あなた自身を知ることができません。何かを理解するためには、あなたは新鮮な心を必要とします―偏見を持つ心ではなく、経験で動きを妨げられた心ではなく。なぜなら、あなた自身を理解するためには、自己発見がなければならないからです。明らかに、発見は瞬時瞬時にのみありえます。したがって、継続性がなければなりません―どんなに高貴であれ、あるいはどんなにばかげていて愚かでも、特定のパターンに条件付けられた思考があるにすぎないのではなく。
 それで、特定の経験の、それは関係なのですが、全体の意味に気づいていることは非常に容易ではありません。それは並外れて油断がなく、鋭い心を必要とします。しかし、心は昨日の経験に執着することによって、鈍くされます。心は信念によって鈍くされます。私が言いましたように、信念に従った経験は、ただ心を条件付けるだけなのです。そしてそのような経験は、非常に満足で、心地好いけれども、明らかに、関係の中で応答に気づいていることを通じて生じる、並外れた拡張的な自己を知ることを制限するのです。なぜなら、あなたが経験を持ち、その経験に、それは記憶ですが、執着し、そしてその条件付けられた思考で、その記憶で、新しい挑戦に接近するなら、明らかに、その挑戦の理解は少しもありません。そして関係は、確かに、挑戦なのではないでしょうか? 関係は静的なものではありません。そして、私たちは挑戦に、適切に、十分に出会うことができないので、問題を持つのです。私たちは国家主義者、カソリック教徒、プロテスタント、仏教徒であり、あるいは他に何であるか神のみぞ知る、ですが、あるいは私たちはこの社会やあの団体に属していますので、それはみな限定しているのですが、絶えず起こっている挑戦に直面することができないのです。というのは、挑戦に直面するためには、完全な自己を知ることがなければならないからです。そして、私たち自身を発見することの手段として、記憶に、過去の経験に頼ることは、明らかに、私たちの考えること、私たちの知覚を限定します。なぜなら、結局、私たちの多くが求めているものは何でしょうか? 私たちは問題を持っていますけれども、私たちは経済的に心配していますけれども、ばく大な不安、戦争、国家主義のやっかいなもの、無数の分派、宗教の排他性、排他的でありたい私たち自身の欲望がありますけれども―あらゆるこれらのばかげ言動にもかかわらず、私たちが実際に捜し求めているものは何でしょうか? 私たちがそれを知ることができるなら、たぶん、私たちは理解することができるでしょう。なぜなら、私たちは私たちの年齢にしたがって、私たちの生の期間と環境にしたがって、捜し求めているからです。
 私たちは、この混乱のすべてを通じて、永続的な何か、永遠の何か、私たちが実在、神、真実と呼ぶ何かを捜し求めていないでしょうか? あなたの好むもの―名前は問題ではありません、言葉はものではありません、確かに。それで、言葉に捕らえられないようにしましょう。それを職業的な講師に残しましょう。確かに、私たちの多くの中に、永続的な何かを求める追及があるのではないでしょうか?―私たちが固執することのできる何か、私たちに保障、希望、永続的な熱中させるもの、永続的な確実なものを与えてくれる何か。なぜなら、私たち自身の中で、私たちはそんなに不確かだからです。私たちは私たち自身を知りません。私たちは事実について、本が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし、私たちは、私たち自身では知りません、私たちは直接の経験を持たないのです。
 そして、私たちが永続的と呼ぶものは何でしょうか? 私たちが捜し求めているものは何でしょうか? それが永続性を私たちに与えてくれるだろう、あるいは、そう私たちは望むのですが。私たちは永続する幸福、永続する満足、永続する確かなもの捜しを求めていないでしょうか? 私たちは永続的に持ちこたえるであろう何かを望みますが、それは私たちを満足させるでしょう。私たちがあらゆる言葉と語句を私たち自身から剥ぎ取り、実際にそれを見るなら、これが私たちが望むものなのです。私たちは永続する快楽、永続する満足を望みます―それを私たちは真実、神、あなたの望む何かと呼ぶのです。
 それで、私たちは快楽を望みます。たぶん、そのことは非常に露骨にそれを述べているかもしれませんが、しかし、それが実際に私たちが望むものなのです―私たちに快楽を与えてくれるであろう知識、明日までには衰えないであろう快楽、満足を私たちに与えてくれるであろう経験。そして、私たちはさまざまな満足させるものを実験してきました。そしてそれらはみんな次第に消えてしまいました。そして私たちは、いま、実在の中に、神の中に、永続的な満足を見出すことを望むのです。確かに。それが私たちがみんな捜し求めているものなのです―賢い人と愚かな人、理論家と何かを求めて努力している実際的な人。そして永続的な満足があるでしょうか? 持ちこたえるであろう何かがあるでしょうか?
 さて、あなたが永続的な満足を求めているなら、それを神、真実、あなたの望む何かと呼んで―名前は問題ではありませんが―確かに、あなたが捜し求めているものを理解しなければならないのではないでしょうか? あなたが、「私は永続的な幸福を捜し求めています」と言うとき、―神、真実、あなたが好むもの―、あなたはまた捜しているもの、捜索者、捜し求める人もまた理解しなければならないのではないでしょうか? なぜなら、永続的な安全、永続的な幸福といったそのようなものはないかもしれないからです。真実はまったく異なった何かかもしれません。そして私は、それは、あなたが見、思い、まとめることができるものとはまったく異なっていると思います。それで、私たちが永続的である何かを捜し求める前に、捜し求める人を理解することが明らかに必要ではないでしょうか? 捜し求める人は彼が捜し求めるものと異なっているでしょうか? あなたが「私は幸福を捜し求めています」と言うとき、捜し求める人は彼の捜索の対象と異なっているでしょうか? 思考者は思考と異なっているでしょうか? それらは、分離した過程というよりむしろ、結合した現象ではないでしょうか? したがって、あなたが、彼が捜し求めているものが何であるかを見出そうとする前に、捜し求めている人を理解することが不可欠ではないでしょうか?
 そして、そういうわけで、私にはそう思えるのですが、自分自身を理解することがそんなに本質的で、そんなに重要なのです。なぜなら、自分自身の中に、全体の問題と全体の要点があるからです。あなたが目的であると、あなたが絶対のものであると、あなたが神、これやあれであると規定すること、公式化することは、明らかにあなたに逃避を与える言語化です。そしてそれを通して、あなたは本当に逃避するのです。あなたが真実のものあるいは偽りのものである、あるいはないと言うことは、少しも意味がありません。なぜなら、あなたは何ひとつのそのような考えることに対しても、少しの基盤も持たないからです。そしてあなたはあなた自身を知るときのみ正しく考えることができるのです。あなた自身を知るためには、あなたは思考のことごとくの動きに完全に気づいていなければなりません。そのとき、その気づきの中で、あなたは思考者が彼の思考と異なっているかどうか見出すでしょう。彼が異なっているなら、そのとき、私たちは思考をどうやって制御するかという多くの複雑な問題を持つのです。そのとき、訓練のあらゆる愚行が始まります―瞑想、思考者の思考への近似。しかし、彼の思考と異なっている思考者があるでしょうか? 思考者は思考ではないでしょうか? それらは分離していません、そうではなく、一元の過程なのです。したがって、思考者が思考を考えているのではなくて、私たちが思考なのです。そしてこれは、思考者が思考であるということの、このはっきりした理解は、直接の経験でなければなりません。そして、そのような経験があるとき、そのとき私たちは思考を超えて進むことの可能性があるということがわかるのです。
 なぜなら、結局、思考は記憶の応答に過ぎないからです。そして記憶がつくりだし、でっち上げ、投影するものは、真実のものではありません。神は記憶の、教育の、この社会やあの社会に属するものや、これやあの教義を信じることの結果ではありません。それらはみな思考の結果に過ぎませんが、それは記憶の、経験の応答なのです。しかし、実在があるかどうか、神のようなものがあるかどうか見出すためには、明らかに、神があるかどうか、あるいはないのかどうか思索することではなく、まず自分自身を理解することが不可欠です。というのは、思索すべては時間の浪費だからです。
 それで、私たちの各々の人に立ちはだかる問題を理解するためには、どんなに複雑であれ、どんなに微妙であれ、確かに、人は、それらが私たちの外部に、私たちの考えることの外部にある何かではなく―そうではなく、これらの問題は自分自身の過程あるいは結果であるということを理解しなければなりません。世界は、私たちから分離しているのではなく、私たちなのです。世界の問題は、離れて取り扱われるべき何かではなく、私の問題、あなたの問題なのです。そしてこれらの問題を―表面的にではなく、一時的にではなく、基本的に、永続的に―解決するためには、自分自身の理解がなければなりません。そして自分自身を理解するためには、関係の中に無選択の気づきがなければなりません。そのとき、人は現状のままに自分自身を知覚します。そのとき、人はより十分に、深くそれを調べることができるのです。しかし、あなたが非難によって、近似、同一化によって、いまあるままのあなたを包み隠すなら、そのとき、少しも理解がありません。そのとき自己を知ることの過程は限定されます。無意識も意識も両方とも、完全にそして十分に自分自身を理解することの中にのみ。心が静かにされるのではなく、静かであるときにのみ―そのときのみ、実在のものを発見すること、経験すること、知ることの可能性があるのです。
 そういうわけで、瞑想が重要なのです。しかし、私たちの多くが耽る瞑想ではありません。それは単なる観念への強制あるいは近似、あるいは心を静かにさせるために訓練することであるにすぎませんが―それは幼稚です。なぜなら、心は静かにされることができないからです。心を静かにさせるものは何でしょうか? そのような努力は思い違いにつながりますが、それを私たちは別のときに取り扱うつもりです。しかし、心が静かであるとき、強制を通じてではなく、近似のどんな形を通じてでもなく。それが強制されてではなく、強いられてではなく、順応するようされてではなく。心がそれ自身の過程を理解することを通じて本当に静かであるとき―そのときのみ、永遠であるものを発見することの可能性があるのです。そのとき、あなたは真実を捜し求める必要はありません。真実を捜し求めることは真実を否定することです。なぜなら、真実は捜し求められることができないからです。それがあなたのところに来なければなりません。そしてそれは心が静かであるとき―静かにされるのではなく、静かであるときのみ、来ることができるのです。そして自己を知ることを通じてのみ、静かさがあり、静穏があり、静寂があるのです。

London 1st Public Talk
2nd October 1949
J. Krishnamurti


008. ブリュッセル 第1回公開講話
1956年5月16日

 私たちの多くは非常に浅薄な生を生きています。私たちは孤独な人々です。そして私たちの極貧の心をたくさんの知識、情報、事実で豊かにしようとします。しかし、心は、それが知識でいっぱいなら、それが何かの形の独断的な信念に束縛されているなら、深く調べることができません。大切なのは、心が自己を知ることができるかどうかを自分自身に問うことです。すなわち、私は自分自身を知ることができるでしょうか、自分の心の全体の動きを観察すること、調べることができるでしょうか?―病的なことを持ってではなく、絶望を持ってではなく、それが醜いとか美しいとかいう観念を持ってではなく、ただそれをじっと見ることが。自分自身の心を油断なく警戒しているためのこの能力が最も重要であるように私には思えます。なぜなら、人が心をいま不自由にしているこれらのものごとを理解することができるのは自己を知ることを通してのみだからです。
 自分自身を知ることは並外れた過程です。なぜなら、自己は瞬時瞬時、決して同じではないからです。そんなにも多くの矛盾する欲望、そんなにも多くの強い欲望、そんなにも多くの衝動があります。そして、そのすべての全体を理解しなければ、どうやって心は自由でありうるでしょうか? 自由である心だけが本当にそれ自身の限界を越えた、その条件付ける信条と独断的な主張を越えた何かを本当に経験することができるのです。
 私たちが言われていることを本当に聞くことができるなら、そのときのみこれらの講話は時間を掛けるだけの価値あるように私には思われます。私たちの多くは決して他の人の言うことに耳を傾けません。そして私たちが確かに誰かが言っていること聞くときには、いつもそれを解釈しているのです。そのような解釈は聞くことではありません。であるのに、強制された集中によってではなく、言われていることに十分に注意を注ぐことによって、聞き入ることができるなら、そのとき、言葉の深い意味が心に浸透するでしょう。そしてそのように聞くことは、単に私たちの先入観と予断のスクリーンを通じて理解しようと奮闘することよりも、はるかにもっとずっと重要だと私は思います。すなわち、抵抗なしに、知的に理に適った論拠を投影することなしに、反対したり受け入れたりすることなしに言われていることを聞くことができるなら、そのとき、聞くという行為そのものが心を清めることであると私は思います。それは地に蒔かれた種のようです。種が生命力を持っているなら、それはひとりでに育つでしょう。
 しかし、あいにく私たちの多くは自分自身の観念に、自分自身の信条と偏見に非常にかかわっているので、少しも注意がありません。注意は全くの善です。しかし、私たちはどうやって注意するのか知りません。私たちもまた決して何かをほんとうに注意して見ないのです。あなたが何かを注意して見ることをこれまでに本当に実験したことがあるのかどうか私は知りません―それは、命名することなしに、何かにラベルを貼ることなしに、それを解釈することなしに見るという意味です。そのときあなたはずっとたくさん見ます。より大きな強さで、色、美、形の醜さなどを見るのです。そしてその種の注意で聞くことができるなら、そのとき心は何かまったく新しいものが生まれることのできる土壌であるでしょう。そのときあなたは、この講話の終わりに、私があなた方に実際には何もまったく語ってこなかったということを見出すでしょう。なぜなら、これらの講話の中で私たちがしようとしていることは何でしょうか? あなたは私を理解しようとしているのではありません。あなたはあなた自身を理解しようとしているのです。そしてあなた自身を理解するためには、あなた自身の内部を見なければなりません。しかし、権威に支配された心は決してそれ自身の内部を注意して見ません。目的、目標を達成することを望んでいる心はどうしてもそれ自身を理解することができません。
 それで、第一に重要であるものは自分自身を理解することであるように私には思えます。自己を知ることは英知の始まりです。しかし、私たちは私たち自身について、そんなにもほとんど知りません。私たちは私たち自身の意識的な部分だけでなく無意識を、私たちの全存在の全体を知りません。そして、私たち自身を完全に知ることができるでしょうか? 確かに、人が自分自身を、自分の存在の全体を知ることができないなら、そのとき全探索は意味がありません。そのとき、探索は矛盾に、もう一つの欲望に反対する一つの欲望になります。しかし、私たちが自分自身を理解することができるなら、私たちの全存在の働きを根気よく、一生懸命、観察することができるなら、そのとき、心が非常に明確で自由になるということを見出すでしょう。そのような心だけが永遠のものを調べ、見つけ出すことができるのです―そのときたぶん、探索はまったくありません。というのは、そのとき心自身が永遠のものだからです。
 自分自身を知ることは私たちの多くにとって、非常に難しい。なぜなら、私たちは私たちの思考、私たちの行動、私たちの感情を常に測っているからです。私たちはこの測定によって、私たち自身を知るようになるだろうと期待します。しかし、確かに、常に判断しており、評価している心はそれ自身を現状のままに知ることが決してできません。なぜなら、心は標準、模範を持っており、それによって評価するからです。私はこれが主な困難の一つだと思います―私たちが評価なしに、賛成や非難なしに、私たちの感情、私たちの思考を観察することができないということが。私たちの多くにとって、判断、比較、賛成、非難は私たちの生存の本質そのものです。そういうわけで私たちは私たち自身の思考と感情のより大きな深みを、無意識だけでなく意識をも、突っ込んで調べることができないのです。
 たとえば、子供を理解したいのなら、子供を彼の兄弟と比べることは確かに何も価値がありません。子供を理解するためには、比較しないで彼を注意して見なければなりません。私たちは異なった時に、すべての彼のさまざまな気分の中で、彼を観察しなければなりません。しかし、私たちは比較するように、判断するように、非難するように育てられ、教育されます。そして私たちは比較によって、非難によって、判断によって、理解するだろうと考えます。これに反して、比較し、判断し、非難するかぎり、決して一つのものを理解しないでしょう。
 同様に、私たちの存在の全体を理解したいなら、どんなに醜くても美しくても、一時的であろうと永続的であろうと、評価なしに、比較なしに、関係の鏡の中で自分自身を注意して見ることができなければなりません。そのとき、意識の全体が展開し始めることを見出すでしょう。
 結局、私たちは意識的な心が機能しているのに幾分か気づいていますが、私たちの多くは意識のより大きな深みにおいて自分自身についてほとんど何も知りません。私たちは決して私たち自身のその部分を注意して見ません。私たちは決してそれを突っ込んで調べたことさえないのです。あるいはそれを突っ込んで調べるなら、それは、ある種の神経症によって悩まされている時だけです。そのとき、私たちは私たちを助けてくれる誰かのところに走って行かなければならないのです。それは私たち自身を知ることではありません。私たち自身を知ることは関係の中で、話の中で、行動の中で、身振りの中で、一日のあらゆる瞬間に自己を観察することを意味します。それは私たち自身に十分に気づいていることを意味します。そのため、いまあるままの私たちを見出し始めるのです。そして私たちが非常に小さいのを見出すでしょう。私たちは、私たちがそうであるように条件付けられてきたものに過ぎないのです。私たちは信じます。あるいは私たちは信じません。私たちは教えられてきたものを繰り返します。私たちは恐れているので受け入れます。そして宗教が私たちの恐怖から育ちます。そういうわけで、自分自身を知ることが非常に重要です―理論的にではなく、あるいは心理学者の観点からではなく、自分が本質的に何であるかを自分の力で知ることが。そして関係のあらゆる瞬間に、自分が何であるかを発見するために自分の十分な注意を注ぐなら、これが非常に難しいとは私は思いません。


 それで、この狂気の世界に明確さ、正気をもたらすためには、まず第一に、自分が実際にしていることを自分自身で知ることが重要です。混乱しているので、そんなに多くの矛盾した欲望と衝動を持っているので、私たちはこの内面の混乱の中から、他のすべてのものを制御するであろう一つの主な欲望を絶え間なく持ち出そうとしているのですが―それはもう一つの問題を引き起こすにすぎません。これらの事柄について本当に真剣である私たちのこれらの人々にとって、私たち自身を理解すること、そして単に私たちの混乱の中でさまざまな東洋や西洋の教義を追求するにすぎないのではないことが非常に重要であるのはそういうわけなのです。自分の混乱がどんなに深く根づいているかを自分の力で知覚することはたくさんの注意を必要とします。しかし、私たちの多くは私たちが混乱しているということを認めようとさえしたがりません。

Brussels, Belgium 1st Public Talk
16th June 1956
J. Krishnamurti


009. ニューデリー 第1回公開講話
8th February 1959

 結局、あなたの心はそれが学んできたもので、あなたが生き残るのを助ける現代技術で構成されています。そしてまた、無意識の中に、過去の、伝統の、無数の影響、印象、衝動、恐怖の残余があります。このすべてに加えて、意識的な衝動、野心、挫折、自己矛盾の広い裂け目をつくりだす衝突する欲望があります。
 それで、個人の変化が最高に重要なものなのです。なぜなら、いまあるままのあなたが世界だからです。あなたは個人としてあなた自身の中に根本的な変化をもたらさなければなりません。というのは、あなたの考えるもの、あなたの活動の様式と関係、あなたの野心、あなたの挫折、あなたの苦難―このすべてあなたの周りの世界をつくりだすからです。そして心それ自体の質に変化があるのでないかぎり、周辺上で単に下手に修繕することは、革命と呼ばれますが、共産主義者であれ何か他のものであれ、決して根本的な変化をもたらさないでしょう。個人は特定の環境に順応するかもしれません。彼は共産主義者、社会主義者、資本主義者に、それが何であれ、なるかもしれませんが、内面的に、心の中で、彼はなお同じであるでしょう。そういうわけで、私たちは芯において、個人の変化に関わらなければならないのです。しかし、それはたくさんの注意を、たくさんの浸透、洞察を必要とします。それは、心が絶えず深めている調査の中で伝統を越えて進まなければならないということを意味しますが、それは自己を知ることを探求することなのです。そしてこれは大きなエネルギーを必要としますので、私たちは聖典を引用する方を、あるいは導師のところに行く方を、あるいわゆる宗教的な社会に属する方を好むのです。このすべてが心を解放しようとしていると考えて。しかし、それは私たちの悲惨を永続させているだけです。
 私たちは学ぶことの過程に関わらなければならないように私には思われます。そして私たちは、あらゆる昨日のものごとに死ぬときのみ学ぶことができるのです。学ぶのは新しい、新鮮な心だけであって、過去の蓄積を荷った心ではありません。それで、私たちの問題は私たち自身を理解することです。自分自身を理解することなしには、真実であるものと偽りであるものを理解することの、あるいは永遠な、測ることのできない何かがあるかどうかを見出すことの少しの可能性もありません。私たち自身の十分な理解がないかぎり、生は多くの意味のない単なる絶え間ない変化であるに過ぎません。それで、自己を知ることが不可欠です。
 私は、あなたはみんな、あなた自身を知らなければならないというこの叙述に頭をうなづくだろうということを知っています。というのは、それは長い間、いやになるほど繰り返されてきていたからです。しかし、自分自身を本当に調べ、そして心の全体の過程を観察することは、ことごとくの思考とことごとくの感情からのばく大な超然としていることを必要とします。なぜなら、結局、思考と感情は心の反応だからです。そして私自身を知るためには、私は、非難や判断なしに、あらゆるものごとへ関係の中で、私の反応に気づいていなければなりません。私は人々への、財産への、観念への―意識も無意識も―私の応答を見なければなりません。さもなければ、私は私自身を知らないのです。私はこれらの反応をもちろんのことと思ったり、それらを言葉上で、知的に受け入れてはならず、そうではなく、ことごとくの反応に実際に気づいていなければなりません。そしてこれはばく大な注意を必要とするのです。
 私は、あなたがこれまでに、あなたの反応だけではなく、それらの背後の原因に気づいていようとしてきたことがあるかどうか知りません―それは内省ではありません。というのは、それは自己にまったく関わらないからです。それはむしろ、自己をあらわにすること、調査を通じて、自己の全体の構造を直接経験することです。あなた自身を調べるためには、少しの権威もありえません。ひとりの心理学者も、ひとりの導師もあなたに教えることはできません。心の並外れた微妙な点、その矛盾、その衝動、その野心、挫折、苦難を知るためには―そのすべてを知るためには、あなたが見るものの非難や判断の感覚が少しもあってはなりません。単なる観察がなければなりませんが、それは並外れて難しい。
 私は、あなたがいつか何かを実際に観察したことがあるのかどうなのかなと思います―ハエ、絵、日没、葉の美しさ、静かな夜の月光に照らされた水面。たぶん、あなたはこれらのものごとを実際に知覚したことが決してないのです。私たちの多くはしたことがありません。なぜなら、私たちが何かを見るやいなや、即座にそれに名前を与え、シンボルでそれを覆い、私たちが知っているものの見地からそれを翻訳するからです―それらはみな直接の知覚を妨げているあらゆる気を紛らわせることなのです。それに名づけることなしに何かを見ること、それを完全に観察することは、少しも比較がないとき、すなわち、心がその知覚の中でほんとうに静かで沈黙しているときのみ可能なのです。
 自分自身について見出すためには、そのような心が必要です。解釈することなしに、非難することなしに、正当化することなしに見ていることのできる心。それをいつか試みてください。そうすれば、それがどんなに難しく、どんなに骨が折れることであるか、見出すでしょう。私たちの伝統、私たちの教育、私たちの道徳的、宗教的訓練のすべては、非難するように、正当化するように、覆い隠すように、見抜かないように、私たちを条件付けてきたのです。あなたの心が評価の何ひとつの過程によっても気を紛らわされることなしに、観察することができるときのみ、看破、深い洞察がありうるのです。そしてあなたがあなたの考えることの源を知らないかぎり、考えることのための基礎をまったく持たないのです。そのとき、あなたは、一定の観念、前もって決められた思考を繰り返していて、単に機械であるにかすぎません。
 それで、あなた自身に深く浸透することは、内省ではありません。それは自己中心的な活動に強さを与えず、あなたがあなた自身の心の全体の過程を知覚することができるであろう扉を開き始めるのです。そしてあなたが、理解の過程の中で発見してきた何もかもことごとくに死んで、それを非常に深く調べるなら、思わず知らず、少しの強制や規律もなしに、心が静かさの状態、油断のなさの状態に到達するということを見出すでしょう。そして根本的な革命が生じるのはそのときのみなのです。
 あらゆるこれらの講話の中で、あなたと私は心のやり方を発見しようとしています。私たちは、それがどんなふうに条件付けられ、ヒンズー教徒やイスラム教徒として、パールシー教徒やキリスト教徒、共産主義者や社会主義者として形づくられるのか、見出そうとしています。そしてそれがどんなふうに一定の信念や一定の観念や熱望にしがみつくのか見ようとしています。私たちはそのすべてについて学ぼうとしています。そのため、私たちの心が直接の知覚を通じて解放されるように。そのとき、私たちは社会とのまったく異なる関係を持つでしょう。私たちは孤立して存在することはできません。そしていまあるままの私たちを発見することができるのは関係の中でのみなのです。
 私たちはそんなに多くの問題を持っていますので、私たちの生はそれらでいっぱいです。私たちは生を問題としてのみ知っています。そして、私たちは決して生を全体として見ません―ひとつも障害物を持たない、経験に束縛されていない心のこの並外れた広大さ。私たちは果てしなく、永遠である心の特質を知らないのです。そういうわけで、どうやって耳を傾けるかを学ぶことは私たちの各々の人にとって、非常に重要なのです。
 さて、耳を傾けることはするのが非常に難しいことです。私たちの多くは決して耳を傾けません。私たちは聞きますが、耳を傾けないのです。確かに、耳を傾けることは少しも解釈がないことを意味します。私が何かを言うなら、あなたは耳を傾けるかもしれません。しかし、あなたは、あなたの背景にしたがって、あなたが聞くものを解釈するやいなや、耳を傾けることを止めるのです。であるのに、少しも解釈がなく、少しも評価がなく、あなたの全体の存在で実際の耳を傾けることがあるなら、そのとき、あなたは耳を傾けることのその行動そのものの中に、真実であるものと偽りであるものをあなた自身で見る鏡があることを見出すでしょう―そしてそれが耳を傾けることの美なのです。
 ちょうどあなたが何も―花、星、水面の影を―あなたの全存在で、決して見ないのと同様に、あなたはたぶん、あなたの全存在で何にも決して耳を傾けないのです。あなたの全存在で耳を傾けることは、あなたの意識的な心で、あなたの無意識の心で、あなたの身体で―すなわち、十分に目覚めたあなたの感覚すべてで、耳を傾けることです。あなたが真実であるものを、そして偽りであるものについての真実を、はっきり見わけることができるのは、このような仕方で耳を傾けるときのみなのです。それが、心すべてが必要とするものではないでしょうか?―私たち自身の中と私たち自身について真実であるものを見る能力。
 真実であるものを知覚するためには、ものごとにまったく身を捧げることがなければなりません。音楽に耳を傾けることの中で、あなたがまったくの注意を払うことができるなら、音楽はまったく異なった意味を持つのです。あなたが問題にあなたの全体の存在を注ぐことができるなら、問題はないのです。問題は私たち自身の内部に矛盾があるときのみ存在します。この内面の矛盾は自己を知ることを通じてのみ解消されることができます。そして自己はひとりの人とのあるいは多数の人との関係の中でのみあらわにされるのです。
 このすべては、確かに、途方もない油断のなさを必要とします。そして、私たちの周りの何もかもことごとく私たちを眠りにつかせる傾向があるのです。私たちを眠りにつかせる薬のひとつは明らかに知識です。知っている心は決して学ぶことができません。もうひとつの薬は伝統です―数世紀の伝統だけでなく、昨日の伝統、「私は知っています、私は経験したことがあります」と言う伝統。知識、伝統、人が集める経験、善なるものも悪いものも、嬉しいものも悲しいものも―これらのすべてが心を眠りにつかせることに役立つのです。そして、油断のない心、それ自身とあらゆるその活動を絶えず疑っており、尋ねており、調べている心だけなのです―真実であるものを発見することができるのは、そのような心だけなのです。真実は信念を必要としません。真実は経験の結果ではありません。真実はあなたが直接に知覚する何かです。しかし、これは心が千とひとつの問題の重荷を負っておらず、無邪気であるときときのみ可能です。そのすべてに死ぬことが知恵の始まりなのです。
 あなたと私がこれらの講話の中でしようとしていることは私たち自身を調べ、私たちの意識の多くの層をあらわにすることです。あなたがそれをしないで、一連の言葉に耳を傾けるにすぎないなら、これらの講話はほとんど意味がないだろうということがわかるでしょう。そしてあなたがここに来ることはむなしいでしょう。しかし、あなたがあなた自身の心の観察を通じて、言われていることについてきて、直接に経験するなら、そのとき、共に、私たちは非常に遠くに行くことができるのです。あなた自身の内部に非常に深く浸透することの中で、心が完全に動きがなくなり、自発的に静かで自由になることがわかるでしょう。静かさのその状態は何の訓練の結果でもありません。それは何のヨーガの実習を通じてももたらされることができません。それは自分自身の理解の結果です。そのような心は生の全体性の理解に不可欠です。そのような心だけが真実であるもの、神があるかどうかを見出すことができるのです。
 私たちの多くはある形の悲しみ、混乱、労苦に捕らえられています。そして私たちは私たち自身の―無意識のみならず意識である‘私たち自身’の理解を通じてのみ、それを解決することができるのです。あなたがあなた自身を理解すればするほど、ますますあなたは心が微妙であり美しいことを見出すでしょう。そしてあなた自身を理解することなしには、少しも実在はありません。あなたは聖典を引用し、そして神の信仰を断言するかもしれませんが、しかし、それはすべて多くの意味のない単なる言葉なのです。本質的なものは自己を知ることです。自分自身を知ることはアートマン、上位の自我、そのやっかいなことすべてについて話すことではありません。それは単に心の創作したものであるに過ぎません。自分自身を知ることは上位の自我を創作する、安全を求める、安定して、悩まされず、安心することを絶えず望んでいる心を知ることです。直接の観察を通じてそのすべてを知ることが心の自発的な静穏をもたらします。そして、静穏な心、静かで、動きのない心―まったく生き生きとしていることの途方もない活動を知るのは、そのような心のみなのです。

New Delhi 1st Public Talk
8th February 1959
J. Krishnamurti

Know Oneself (001〜009)
J. Krishnamurti
(編集、翻訳 新しい芽)

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