22.愛について
質問: 愛とはどういう意味でしょうか?
クリシュナムルティ: 私たちは愛ではないものを理解することによって見いだそうとしています。なぜなら、愛は未知のものですから、既知のものを捨てることによって、それに至らなければならないからです。未知のものは既知のものでいっぱいである心によって見いだされることはできません。私たちがしようとしていることは、既知のものの価値を見いだすこと、既知のものを注意深く見ることです。そしてそれが純粋に、非難なしに、注意深く見られているとき、心は既知のものから自由になります。そのとき愛とは何かを知るでしょう。それゆえ、肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
私たちの大部分にとって愛とは何でしょうか? 私たちが誰かに愛していると言うとき、それはどういう意味でしょうか? その人を所有しているという意味なのです。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うと、何が起こりますか? 私は空しさ、喪失感を感じます。したがって、私は所有を合法化するのです。私は彼や彼女に執着します。その人に執着すること、所有することから、嫉妬があり、恐怖があり、所有から生じる数え切れない葛藤のすべてがあります。確かにそのような所有は愛ではないのではないでしょうか?
あきらかに愛は感情ではありません。感傷的、感情的であることは愛ではありません。なぜなら、感傷的な言動、強い感情は単なる感覚に過ぎないからです。イエスやクリシュナについて、彼のグルやだれか他の人について、涙を流す宗教的な人は単に感傷的、感情的であるに過ぎません。彼は感情にふけっているのです。それは思考の過程であり、思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。だから、感傷的であり、感情的である人はどうしても愛を知ることができないのです。再び、私たちは感情的、感傷的ではないでしょうか? 感傷的な言動、感情に訴えることは、単なる自己拡張の一つの形に過ぎません。感情でいっぱいであることは愛ではありません。なぜなら、感情的な人は、彼の感情が応えられないとき、彼の感情がはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。感情的な人は扇動されて、憎しみ、戦争、虐殺を起こすのです。感情的であり、彼の宗教のために涙でいっぱいの人は、たしかに愛がないのです。
許すことは愛でしょうか? 許すことにはどういう意味が含まれているでしょうか? あなたは私を侮辱します。そして私はそれを憤慨し、それを覚えています。それから、強制的によってか後悔によって、私は「あなたを許す」と言います。最初に記憶にとどめて、それから、捨てます。それはどういう意味でしょうか? 私はなお中心的な人物なのです。私はなお重要なのです。誰かを許しているのは私です。許すことという態度がある限り、重要なのは、私を侮辱してしまったとされている人ではなく、私なのです。それゆえ、私が憤慨を蓄積し、それからその憤慨を否定するとき、それをあなたは許すことと呼ぶのですが、それは愛ではありません。愛している人はあきらかに憎しみを持ちません。そして彼はこれらのものごとすべてに対してむとんじゃくです。同情、許すこと、所有欲の関係、嫉妬、恐怖―これらのものごとすべては愛ではありません。それらはみな心に属するものではないでしょうか? 心が仲裁者であるかぎり、愛はありません。というのは、心はただ所有欲を通じて仲裁しているに過ぎず、その仲裁は単に異なった形の所有欲であるに過ぎません。心はただ愛を堕落させることができるに過ぎません。それは愛を生むことができません。それは美を与えることができません。愛について詩を書くことができますが、それは愛ではありません。
あきらかに、本当の尊敬がないとき、他の人を、召使いであれ、友だちであれ、尊敬していないとき、愛はありません。あなたは、あなたの召使いに対して、いわゆるあなたより「下の」人々に対して、丁寧ではなく、親切ではなく、寛大ではないことに気づいたことがないでしょうか? あなたは上の人々を、あなたのボスを、百万長者を、大きな家と肩書きを持つ人を、よりよい地位、よりよい仕事をあなたに与えることのできる人を尊敬します。あなたは彼から何かを得ることができるのです。しかし、あなたより下の人々をけ飛ばします。あなたは彼らに対して特別の言葉遣いを持っているのです。したがって、尊敬がないところには、愛はありません。慈悲がなく、あわれみ、許すことがないところには、愛はないのです。そして私たちの大部分はこの状態の中にあるので、愛を持っていないのです。私たちは大切にしておらず、慈悲深くなく、寛大でないのです。私たちは所有欲が強く、どちらの方向へも向けられることのできる感傷、感情でいっぱいです。殺すこと、虐殺すること、あるばかげた、無知から起こる意図の上で統合すること。それで、どうやって愛がありうるでしょうか?
これらのものごとすべてが止んでしまい、終わってしまったときのみ、あなたが所有しないときのみ、単に対象に対する熱愛で感情的であるに過ぎないのではないとき、愛を知ることができるのです。そのような熱愛は違った形で何かを求めており、嘆願なのです。祈っている人は愛を知りません。あなたは所有欲が強いので、熱愛を通じて、祈りを通じて目的、結果を求めているので、それがあなたを感傷的に、感情的にしており、当然、愛がありません。あきらかに、尊敬がないとき愛はありません。あなたは尊敬していると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は上位のものに対してであり、それは単なる何かを望むことから生じる尊敬、恐怖という尊敬であるに過ぎません。もしも本当に尊敬を感じるなら、いわゆる最高のものに対してと同様に最低のものに対しても敬意を払うことでしょう。あなたはそれを持っていないので、愛がないのです。私たちのうちなんと少数しか、心が大きくなく、寛大でなく、慈悲深くないことでしょう! あなたはそれがあなたの利益になるとき、寛大です。お返しとして何かを見ることができるとき、慈悲深いのです。これらのものが消えるとき、これらのものがあなたの心を占めないとき、心のものごとがあなたのハートを満たさないとき、そのとき愛があるのです。そして愛のみが現在の世界中の狂気、気違い沙汰を変えることができるのです――左派のものも右派のものも、システムではなく、理論でもありません。あなたが所有しないとき、嫉妬深くなく、どん欲でないとき、敬意を表するとき、慈悲とあわれみを持つとき、あなたの妻、子供、隣人、不幸な召使いに対する思いやりがあるときのみ、あなたはほんとうに愛しているのです。
愛はそれについて熟考することができません。愛は養成されることができません。愛は練習されることができません。愛の練習、兄弟愛の練習はなお心の領域内にあるのです。したがって、それは愛ではありません。このすべてが止んでしまったとき、そのとき愛が生まれます。そのとき愛することが何であるのか知るでしょう。そのとき愛は量的ではなく、質的です。あなたは「私は全世界を愛している」とは言いません。しかし、どうやってひとりを愛するのかを知るとき、どうやって全体のものを愛するのかを知るでしょう。なぜなら、私たちはどうやってひとりを愛するのかを知らないので、私たちの慈善行為は偽りなのです。愛するとき、ひとりも多数もありません。愛があるだけです。私たちの問題すべてが解決されるのは愛があるときだけです。そのとき私たちはその無上の喜びとその幸福を知るでしょう。
The First and Last Freedom
Questions and Answers
22. On Love
J. Krishnamurti
(翻訳 新しい芽)