第五章 行為と観念
私は行為の問題を討論したいと思います。これは最初はむしろ難しく困難かもしれませんが、私たちはそれをよく考えることによって、問題を明確に見ることができるだろうと私は思います。なぜなら私たちの全体の存在、私たちの全体の生は、行為の過程だからです。
たいてい私たちは崩壊、挫折に導いている行為の連続の中で、表面上は無関係でばらばらの行為の連続の中で生きています。それは私たちの各々にかかわる問題です。なぜなら私たちは行為によって生きているからです。そして行為なしにはどんな生もありません。何も経験はありませんし、どんな思考もありません。思考は行為です。そして外部である意識の一つの特定のレベルで行為を単に追求すること、行為それ自身の全体の過程を理解することなしに単に外部の行為に巻き込まれることは、必然的に挫折、悲惨に導くでしょう。
私たちの生は意識の異なるレベルでの行為の連続あるいは行為の過程です。意識は経験すること、名づけること、記録することです。すなわち、意識は挑戦と反応であり、それが経験することです。それから名づけることあるいは命名すること。それから記録すること、それが記憶です。この過程が行為ではないでしょうか? 意識は行為なのです。そして挑戦、反応なしに、経験すること、命名することあるいは名づけることなしには、記憶である記録なしには、どんな行為もありません。
さて、行為は行為者をつくりだします。すなわち、行為者は行為が結果、結末を念頭に置くとき生じます。行為の中に何の結果もないなら、少しも行為者はありません。しかし念頭に置く結末や結果があるなら、そのとき行為は行為者をもたらします。したがって行為者、行為と、結末あるいは結果は一元の過程、単一の過程であり、それは行為が結末を念頭に置くとき生じるのです。結果へ向かう行為は意志です。さもなければ少しも意志はないのではないでしょうか? 目的を達成したい欲望が意志をもたらしますが、それが行為者なのです―私は達成したい、本を書きたい、金持ちになりたい、絵を描きたい。
私たちはこれらの三つの状態をよく知っています。行為者、行為、目的。それが私たちの日常生活なのです。私はただ{あるがままのもの}を説明しているだけです。しかし私たちは、それに関して何のまやかしや先入観もなく、何の偏見もないように、明確にそれを調べる時のみ、どんなふうにあるがままのものを変容させるかを理解し始めるでしょう。さて、経験を構成するこれらの三つの状態―行為者、行為、結果―は、たしかに何かになるという過程です。さもなければ少しも何かになることはないのではないでしょうか? どんな行為者もないなら、そして結末に向かうどんな行為もないなら、少しも何かになることはありません。しかし私たちが知っているように、生、私たちの日常生活は何かなるという過程です。私は貧しい、そして私は結末を念頭に置いて行動しますが、それは金持ちになることです。私は醜い、そして美しくなりたい。したがって私の生は大した人物になるという過程なのです。何かでありたい意志は異なった意識のレベルでの、異なった状態の中での何かでありたい意志であり、その中に挑戦、反応、命名、記録があるのです。さて、この何かになることは争いであり、この何かになることは苦痛ではないでしょうか? それは絶えず続く苦闘です。私はこれであり、そして私はそれになりたい。
したがって、そのとき、問題があります。この何かになることのない行為はないでしょうか? この苦痛のない、この絶えず続く戦いのない行為はないでしょうか? どんな目的もないなら、どんな行為者もありません。なぜなら結末を念頭に置く行為が行為者をつくりだすからです。しかし結末を念頭に置かず、したがってどんな行為者もない―すなわち結果を求める欲望のない行為がありうるでしょうか? そのような行為は何かになることではなく、したがって争いではありません。経験者と経験なしに、行為の行為の状態、経験している状態があるのです。これはむしろ哲学的に聞こえるかもしれませんが、それはほんとうにきわめて単純です。
経験している瞬間には、経験から離れた経験者として自分自身に気づいているのではありません。あなたは経験しているという状態の中にあります。非常に簡単な例を取り上げましょう。あなたは怒っています。怒りの瞬間の中には、経験者も経験もありません。ただ経験することだけがあります。しかしあなたがそれから出てくるやいなや、経験することののちほんの一瞬、経験者と経験、結末を念頭に置く行為者と行為があるのです―それは怒りを免れるあるいは抑圧することです。私たちは繰り返しこの状態の中に、経験することの状態の中にあります。しかし私たちはつねにそれから出てきて、それに語を与え、命名してそれを記録し、そしてそれによって何かになることに継続性を与えているのです。
私たちが言葉の基本的な意味で行為の意味を理解することができるなら、そのときその基本的な理解は私たちの表面的な活動にもまた影響するでしょう。しかしまず第一に、私たちは行為の基本的な性質を理解しなければなりません。さて、行為は観念によってもたらされるでしょうか? あなたは最初に観念を持ち、後で行動するでしょうか? それとも行為がまさに最初に生じ、それから、行為が葛藤を引き起こすので、そのまわりに観念を築くのでしょうか? 行為が行為者をつくりだすのでしょうか、それとも行為者が最初に生じるのでしょうか?
どちらが最初に生じるのかを発見することが非常に重要です。観念が最初に生じるなら、そのとき行為は単に観念に順応することに過ぎず、したがってそれはもはや行為ではなく、観念に従う模倣、強制に過ぎません。このことをはっきり理解することが非常に重要です。なぜなら、私たちの社会はたいてい知的なあるいは言葉のレベルの上に構成されているので、私たち皆にとって観念が先に来て、行為が後に続くからです。行為はそのとき観念のしもべであり、単なる観念の構成は明らかに行為に対して有害です。観念はさらなる観念を引き起こします。そして単に観念の繁殖があるに過ぎないとき、敵対があり、そして社会は知的な観念化の過程で頭でっかちになるのです。私たちの社会の構造は非常に知的です。私たちは自分たちの存在のあらゆる他の要因を犠牲にして、知性を養成しており、したがって私たちは観念で息をつけなくされているのです。
観念はいったい行為を生じることができるでしょうか、それとも観念は単に思考を型に入れ、したがって行為を限定するに過ぎないのでしょうか? 行為が観念によって強制されるとき、行為は決して人を解放することができません。私たちがこの点を理解することが、並外れて重要です。観念が行為を形作るなら、そのとき行為は決して私たちの悲惨の解消をもたらすことができません。なぜならそれが行為に移されることができるより前に、私たちはまずどうやって観念が生まれ出るのかを見出さなければならないからです。社会主義者、資本主義者、共産主義者のであれ、いろいろの宗教のであれ、観念化の、観念の構築の調査は、特に私たちの社会がもう一つの破滅、もう一つの切除を招いていて、崖の縁にあるので、極めて重要な事柄です。私たちの多くの問題に対する人間的な解決を見出す意欲において本当に真剣である人々はこの観念化の問題をまず理解しなければなりません。
観念とはどういう意味でしょうか? どんなふうに観念は生じるのでしょうか? そして観念と行為を一緒することができるでしょうか? 私が観念を持っていて、それを実行したいとしましょう。私はその観念を実行する方法を求め、思索し、どうやって観念が実行されるべきかを争って、時間とエネルギーを浪費します。それで、どんなふうに観念が生じるのかを見出すことがほんとうに非常に重要です。そしてそのことの真実を見出した後で、私たちは行為の問題を討論できるのです。観念について討論することなしに、どんなふうに行動するものかを単に見出すことは意味がありません。
さて、あなたはどんなふうに観念―非常に単純な観念を得るのでしょうか? それは哲学的、宗教的、経済的である必要はありません。明らかにそれは思考の過程ではないでしょうか? 観念は思考過程の結果です。思考過程なしには、観念はありえません。それで、その産物、観念を理解できる前に、思考過程それ自身を理解しなければなりません。思考とはどういう意味でしょうか? あなたはいつ考えるでしょうか? あきらかに思考は、神経学的なあるいは心理的な反応の結果ではないでしょうか? それは感覚に対する感覚機能の直接のの反応であるか、あるいはそれは心理的な、蓄積された記憶の反応なのです。感覚に対して神経の直接の反応があります。そして蓄積された記憶、人種、集団、導師、家族、伝統等々の影響の心理的反応があります―そのすべてをあなたは思考と呼ぶのです。それで、思考過程は記憶の反応ではないでしょうか? もしもあなたが何も記憶を持たないなら、何も思考を持たないでしょう。そしてある経験に対する記憶の反応が思考過程を活動に持ち込むのです。たとえば、私が自分自身をインド人と呼んで、国家主義の蓄積された記憶を持っているとしましょう。過去の反応、行為、含蓄、伝統、習慣という記憶のその貯蔵が回教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に反応し、そして挑戦に対する記憶の反応が必然的に思考過程をもたらすのです。自分自身の中で働いている思考過程を注視してごらんなさい、そうすればこのことの真実を直接に調べることができます。あなたはだれかによって侮辱されたことがあり、そしてそれがあなたの記憶の中に残っています。それが背景の一部を形作っています。あなたが人に会うとき、それが挑戦ですが、反応はその侮辱の記憶なのです。それで、記憶の反応が、それは思考過程ですが、観念をつくりだすのです。したがって観念はつねに条件づけられています―そしてこれは理解するのが重要です。すなわち、観念は思考過程の結果であり、思考過程は記憶の反応であり、記憶はつねに条件づけられているのです。記憶はつねに過去の中にあり、そしてその記憶が挑戦によって現在の中に生を与えられるのです。記憶はそれ自身、生命を持っていません。それは挑戦によって立ち向かわせられるとき現在の中に生き返るのです。そして記憶すべてが、潜伏中であれ活動中であれ、条件づけられているのではないでしょうか?
したがって、まったく違った接近法がなければなりません。あなたは自分が観念にしたがって行動しているかどうか、そして観念化なしの行為がありうるかどうかを、内面的に自分で見出さなければなりません。観念に基づいていない行為、それが何であるかを見出しましょう。
いつ、あなたは観念化なしに、行動するでしょうか? いつ、経験の結果ではない行動があるでしょうか? 経験に基づいた行動は、私たちが言いましたように、限定されており、したがって障害なのです。思考過程が、それは経験に基づいていますが、行為を統制していないとき、観念の結果ではない活動は自発的です。それは、心が行為を統制していないとき、経験から独立な行為があるということを意味します。それが理解の存在する唯一の状態なのです。経験に基づいている心が行為を導いていないとき。経験に基づいている思考が行為を形作っていないとき。何も思考過程がないとき、行為は何でしょうか? 思考過程なしに行為がありうるでしょうか? すなわち、私は橋、家を築きたい。私は技術を知っています。そして技術がどうやってそれを築くかを教えてくれます。私たちはそれを行為と呼びます。詩を書く、絵を描く、政府の責任の、社会的、環境的な反応の行為があります。すべてが行動を形作り、観念や以前の経験に基づいています。しかし何も観念化がないとき、行為があるでしょうか?
確かに、観念が止むとき、そのような行為があるのです。そして愛があるときのみ観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は自分が愛している人のことを考えることではありません。というのは、そのときそれは単に思考に過ぎなすからです。愛のことを{考える}ことはできません。自分が愛していたり、一身を捧げている人―自分の導師、自分のイメージ、自分の妻、自分の夫のことを考えることはできます。しかし思考、シンボルは愛である実際のものではありません。したがって、愛は経験ではないのです。
愛があるとき行為があるのではないでしょうか? そしてその行為が解放していないでしょうか? それは精神的な行為の結果ではありません。そして観念と行為の間にあるようには、愛と行為の間に間隙はありません。観念はその影を現在の上に投げかけており、常に古い。そして私たちは絶えず行為と観念の間に橋をかけようとしています。愛があるとき―それは精神的な行為ではなく、観念化ではなく、記憶ではなく、経験、実習された訓練の結果でもありませんが―そのときその愛そのものが行為なのです。それが解放する唯一のものなのです。精神的な行為がある限り、経験である観念による行為の形成があるかぎり、何も解放はありえません。そしてその過程が続く限り、行為すべてが限定されているのです。この真理が見られているとき、愛の質が、それは精神的な行為ではありませんし、そのことを考えることもできませんが、生まれ出るのです。
人は、この全体の過程に、どんなふうに観念が生じるのか、どんなふうに行為が観念から生じるのか、どんなふうに観念が感情によって行為を統制し、したがって行為を限定するのかに気づいていなければなりません。それらが左派からのであるのか極右派からのであるのかいずれにせよ、{誰の}観念であるのかは問題ではありません。観念に執着する限り、私たちは経験することがまったくありえない状態の中にいるのです。そのとき私たちは単に時間の領域内で生きているに過ぎません―過去の中で、それはさらなる感情を与えてくれますが、あるいは未来の中で、それは感情のもう一つの形に過ぎませんが。経験することがありうるのは、心が観念から自由であるときのみなのです。
観念は真実ではありません。そして真実は直接に、瞬時瞬時、経験されなければならな何かです。それはあなたが{望む}経験ではありません―そのときそれは単に感情であるに過ぎません。観念の束を―それは「私」であり、それは心であり、それは部分的なあるいは完全な継続性を持っていますが、超えて進むことができるときのみ―それを超えて進むことができるときのみ、思考が完全に沈黙しているときのみ、経験している状態があるのです。そのとき真実とは何なのかを知るでしょう。
The First and Last Freedom
Chapter X Action and Idea
J. Krishnamurti
(翻訳 新しい芽)