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舞台は2000年4月のセビージャ。まもなく聖週間が始まろうとし、町中が沸き立っていた。そんなある日、小説家志望でクロスワードパズルの制作で生計を立てているシモン(エドゥアルド・ノリエガ)のもとに、1本の電話がかかってきた。その内容は、次の日曜日の新聞に掲載されるクロスワードに、「敵対者(ADVERSARIO)」という言葉を入れろ、という脅迫めいたものだった。
小説は書けないが、クロスワードで生活はできる。同居人の英語教師カエル(ジョルディ・モリャ)とはうまくいっているし、恋人のアリ(パス・ベガ)もいる。チェスの相手をしてくれるアンドレス神父は良い相談相手だ。不自由のない平穏な生活だけれど、シモンは物足りなさを感じていた。
クロスワードが掲載された日曜日、教会のキリスト像に仕掛けられたサリンによって1人の神父が亡くなる。その現場にシモンは居合わせ、あの謎の電話との関連を直感する。そして、事件について知ろうと訪れた新聞社で、美人記者マリア(ナタリア・ベルベケ)と出会う。事件の真相をつきとめようと、マリアに連れられて訪れたカメラマンのところで、彼は事件の現場で写された写真を見て、愕然とした。写真に写されたキリストの像には、カエルの部屋のパソコンで見たのと同じマークが描かれていたのだった。シモンはカエルを疑うようになり、悩んだ挙句、アンドレス神父に相談しようと訪れた教会で、アンドレス神父が殺害されているのを発見する。
カエルはこの事件にかかわっているのか?シモンはカエルを問い詰めるが、カエルはそれを否定した。しかし、翌日、マリアからカエルのパソコンを見るようにと、パスワードを告げられる。そのパスワードで、パソコンは立ち上がった。そこにはセビージャの地図と、これまで事件のあった教会にマークがあった。そして、爆弾のマークがサン・パブロ教会に。そのとき、部屋のテレビはサン・パブロ教会前からの中継で、聖週間のお祭りの様子を映し出していた。しかし、お祭りムードは一転、爆発によって、壮絶な映像へと変わってしまったのだった。シモンはいつのまにか、このゲームのプレイヤーとなっていたことを知る。現実の世界で繰り広げられる殺戮のロール・プレイング・ゲームの中に引き込まれたシモンは、「選ばれし者」として、勝手に、街を救う役割を負わされていた。
『テシス』や『オープン・ユア・アイズ』でアメナバル監督の片腕として、共同脚本や助監督として作品制作に関わってきたマテオ・ヒルの初の長編監督作品。アメナバル作品にも出演している若手人気俳優エドゥアルド・ノリエガを主役に据え、音楽にはアメナバルと、期待せずにはいられない豪華メンバーが揃い踏みしている。セビージャの観光名所は随所に登場するし、荘厳なセマナ・サンタのお祭りをターゲットにして大都市セビージャに壊滅的なダメージを与える殺人ゲームを展開する、というスケールの大きさも期待させられる。しかーし、そのスケールの大きさは作品に十分に表現されているとは言い難い。全体的に、本当にこれでいいのか?という感じ。普段、映画の感想を書くときは、できる限り悪いことは書かないように、と心がけているわたしだけれど、この作品には、正直な話、閉口した。全てが中途半端な感じがしてならない。いい感じに、謎解きが始まるのか、と思いきや、簡単に、仕掛け人が明かされる。このゲームを仕掛けた動機というのも、「退屈だから」と説得力に欠ける。現代の若者たちの無気力感とか、短絡的な行動とか、バーチャルな世界への依存とか、そういうものが退屈しのぎの殺戮ゲームに若者たちを駆り立てている、ということなのだろうけど、あまりに唐突すぎて、ただの頭のおかしい人にしか思えない。仕掛け人が明かされたときのシモンの態度もよく理解できない。とにかく感情が欠落していて、淡々としているので、不自然。アメナバル作品は観ている者を混乱させつつも、最後には納得のいく結果をもたらしてくれるけれど、この作品は、混乱させるだけ混乱させて、終わってからも、やっぱり混乱したままですっきりしない。いったいマテオ・ヒルは何がしたかったのだろう?リアリティの欠如は、「全てがバーチャルなのだからリアリティは必要ないのだよ」ということなのかな?
パンフレットのマテオ・ヒルのコメント:「若者は今の世の中に不満を抱いている。政治や社会、文化にも希望が持てないからだ。自分を取り巻く全てに失望している。その失望を映画の中で描きたいと考えて、殺人ゲームに興じる若者を登場させた。」
マテオ・ヒル監督、本当に、それ描けてますか?
第13回東京国際映画祭(2000):コンペティション部門出品(タイトル「ノーバディ・ノウズ・エニバディ」)
公式サイト(日本):http://www.puzzle-movie.com/
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