
最近およそ四ヶ月分を掲載します。
7月13日 「自由になって」
| <ガラテヤの信徒への手紙4章8〜11節> この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 |
日本語の「自由」は、もともと「わがまま」「好き勝手」という悪い意味の語でした。明治以降、西欧の「自由」の概念が入ってきたのですが、この「自由」は「束縛からの解放」、たとえば捕虜・奴隷身分からの解放を意味します。人類の、とくに西欧近代の歴史は、人間を束縛から解放し、人間らしく生きることを可能にする「自由」を目指してきたといえます。
束縛とは、封建制や独裁、専制、差別、抑圧といった、いわば自分の外から来るものだけではありません。自分をしばり、その行動を押さえつけ、本来のいきいきとした生き方を妨げる、自分の内なる束縛があります。自分を傷つけたくない、よく評価されたい、認められたい、プライドを守り、批判や軽蔑を避けたいという思いが、自分自身を束縛し、苦しめることがあります。「キリストは、わたしたちを自由の身にしてくださった(1節)」とは、すべての束縛からの解放を意味しますが、とくに、私たち自身の内なる束縛からの解放を意味することを覚えましょう。
ここで「奴隷のくびき」と言われているのは、直接には律法のことです。ガラテヤの教会の人々が、律法を重んじるように傾いていったのを、パウロは痛烈に批判します。律法を重んじる心の根底には「正しいと認められたい」「自分の価値を確かめたい」「救いに値するという保証が欲しい」という思いが潜んでいるのですが、キリストは、無条件の愛によって救いをもたらし、そういう思いからわたしたちを解放してくださったはずなのです。
キリストは、愛によってわたしたちを自分自身の内なる束縛から解放してくださいました。キリストの愛によって自由になって、わたしたちもまた愛にむかうように促されます。自由になって「愛によって互いに仕える(13節)」という、人間本来の、いきいきとした生き方にむかうよう、呼びかけられているのです。
7月6日 「迷信からの解放」
| <ガラテヤの信徒への手紙4章8〜11節> ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。 |
ある人のことをくわしく知りたくなるのには、ふたつの場合があります。人を愛するとき、その人についてどんなささいなことでも知ることが喜びとなります。また、人を信じられなくなったときは、どんなことでも調べて確かめたくなります。
神との関係も同じです。「知解を求める信仰」という言い回しがあります。神を愛し、信じるとき、神について学び知ることは喜びです。しかし、神を信じられないとき、神の計画や意志を、なんとかして探り調べたくなります。「占い」とは、そういう行為ではないでしょうか。
「占い」は、人の運命が、なにか理性を超えた力に支配されていることを前提としています。しかもそういう力を信頼して自分をゆだねるのではなく、何とかしてそれを探り調べようという試みです。キリスト以外の力に自分が支配されていることを前提とし、しかもそれを信頼しない、二重の不信仰と言えるのでしょう。
「神を知る」とは、決してそのようなやり方で知ることではありません。「神を知っている、いや、むしろ知られている(9節)」とあります。神を知るということは、まず何よりも、神が自分のことを知り、わかっていてくださる、ということを知り信じることでなければなりません。「自分自身にもわからない自分のことを、神はご存じなのだから、この方に自分をゆだねる」という信頼こそ「神を知る」ということなのです。
このような信頼は、いっさいの「まじない」、つまり、人間を超えた力に働きかけて、自分の思い、自分の力、自分の都合で運命を動かそうという企てをもしりぞけます。わたしたちの周囲には、ジンクス、縁起、元号など、そういう「まじない」めいたものがあふれています。ともすると信仰生活のなかにも、信仰をよそおった「まじない」に類する行為が忍び込んできます。パウロは、「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています(10節)」と批判し、信仰をよそおったまじないを退けています。神への信仰、信頼は、いっさいの迷信から私たちを解放するものなのです。
6月22日 野外礼拝 「神さまの大きさ」
| <ヨブ記38章1〜5節> 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。 |
東京でひとり暮らしをしていた頃、気分が寂しく沈んでいたとき、本屋でたまたまある写真集を手に取りました。札幌に住むクリスチャンの写真家、松浦忠孝さんの、小さな写真集でした。北海道の大きく美しい風景や、草花のたたずまいを写した写真の数々に、限りなく大きく、また美しくこまやかな神さまのみこころを示されて、慰められる思いでした。それから、気分が落ち込んだときには、いつもその写真集を開いては、縮こまった心が広々と解き放たれる思いがしたものです。
ヨブ記もまたそのような神さまの大きさを伝えています。厳しい苦難にあう中で、神のみこころを知りたいと訴えるヨブに現れた神さまは、しかしヨブの問いに直接答えてはくれません。ただ、大きく絶妙なこの世界、神さまが造った自然のありさまを次々に示します。そして、このような世界を考え造ることがヨブにできるのか、それほどに大きな神の考えを、知り尽くすことができると思うのか、と問い返します。最後にヨブは神さまにすっかり降参します。しかし、それは、安らぎをあたえる降参でした。神さまは大きい、大きすぎる、だからわからなくていいのだ、とわかったのです。
最近では、松浦さんの写真集を開くことはほとんどありません。というのは、もう自分が北海道に住んでいるからです。すこし郊外にでれば、あの写真の風景のなかに実際に身を置くことができます。今、北海道の大地は美しい季節を迎えています。今日は、野外礼拝としてこの百合が原公園にきて、多くの花や大きな木、そしてひろびろとした大地を思いながら礼拝をささげます。四季折々のこの地のゆたかな自然に神さまの大きさを思い、その神さまが、小さな小さな私たちに心を向け、細やかに配慮していてくださる愛と恵みを信じましょう。
6月15日 「律法の意味」
| <ガラテヤの信徒への手紙3章21〜25節> それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 |
「養育係(24節)」とは「パイダゴーゴス」の訳です。これは、当時の家庭で、こどものしつけにあたる奴隷や僕のことです。こどもを厳しく見張り、あやまちをとがめて叱り、罰を与えるのがつとめで、内面的な教育にあたる教師とは別のものでした。ときにはそういう教師のもとに通うこどもを、さぼったりしないように連れて行くのもパイダゴーゴスの役目でした。
パウロは、律法をこのパイダゴーゴスにたとえます。律法は、いつもわたしたちを見張っていて束縛し、間違いをとがめ、罰を与え、厳しく訓練に追い立てるいやなやつ、パイダゴーゴスだというのです。
ユダヤ人は、律法こそは生きる指針であり、神の救いに、命に導く神のことばと信じて大切にしてきました。しかしパウロは、「けっきょく律法は、人を生かすことができず、すべてのものに『おまえは間違いを犯した』と指摘し、罪に定めるだけだったではないか」と言い切るのです。
「こうしなければならない」「こうすべきだ」というきまりや掟は、たとえ人を守るためのものであっても、いつのまにか人を監視し、束縛するものとなり、他者を、そして自分自身を罪に定めて、責めたり苦しめたりするのです。
しかしパウロは、このような律法の積極的な意味をも指摘します。律法によってすべての人は罪に定められ、それによって人は自分の行いではなくただ恵みによって救ってくださる神に向かわざるを得なくなります。律法は、パイダゴーゴスのように、人をほんとうの信仰へと連れていくのです。
昔、札幌農学校のクラーク博士は、規則によらず、生徒を信頼する姿勢を示し、それに感激した生徒たちは、敬愛する博士のために進んで規則を守ったといいます。愛してくださる神を信頼し、心から愛するとき、その神のみこころを示す律法は、新しい意味を持ちます。律法は、愛する神のみこころを表し、それに従うことが喜びをもたらすものとなるのです。
6月8日 「共に祝福される」
| <ガラテヤの信徒への手紙3章7〜9節> だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 |
アブラハムは「大いなる国民となる(創世記12:2)」との神の祝福の約束を信じ、その信仰を神に認められました。ユダヤ人は、そのアブラハムの子孫であることを誇りとし、そのしるしである割礼を重んじてきました。
キリスト教会が始まってまもない頃、ユダヤ人キリスト者のなかには、なおこの割礼を祝福の約束のしるしとして重んじる人々が少なくありませんでした。「キリストの福音こそは、アブラハムに与えられた約束の実現にほかならない。だから、この祝福はアブラハムの子孫にこそ与えられたものであり、アブラハムを先祖としない異邦人も、まず割礼を受けなければキリストの祝福にあずかることはできない」と主張したのです。
しかし、パウロはこれにきっぱり反対します。「アブラハムは、その信仰のゆえに認められたのだ。だから、割礼ではなく、その信仰を受け継ぐものこそアブラハムの子孫だ。信仰を共にするものが、アブラハムと共に祝福されるのだ」というのです。だいじなのは、割礼のような目に見えるしるし、行為、ふるまいではなく、見えない信仰であり、その信仰を共にするものが共に祝福されるのです。
旭川の三浦綾子記念文学館が開設10周年を迎えます。三浦綾子さんの信仰にもとづいた文学での働きはとても大きく、今なお多くの人々に影響を与えています。しかし、あえていうなら、そのように大きく評価される働きをなしとげた者も、何もできずにいる者も、信仰に生きるものとしては共に祝福をいただくのです。
新しい神の民、教会は、信仰によるアブラハムの子孫であり、信仰によって共に祝福されるのです。信仰の働きを比べて人をさげすむのはもちろん、人をうらやみ、自分自身をおとしめるのもまた誤りです。ただ信仰によって共に祝福されることを喜びましょう。
6月1日 創立記念日礼拝 「キリストを着る」
| <ガラテヤの信徒への手紙3章26〜29節> あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 |
牧師のガウンを着ていたら、こどもたちが面白がって、裾をめくって何人も中に入ってきたことがありました。そのとき、「キリストを着る(27節)」とは、こういうことではないかと気付きました。ひとりひとりめいめいが着るのではなく、洗礼を受けることによって教会という共同体に加わり、皆がすっぽりとひとりのキリストに覆われ包まれるイメージです。
そうだとすると、28節で言われていることがすんなりつながります。「ユダヤ人とギリシア人(異邦人)」「奴隷と自由人」「男と女」といった区別は、当時の社会では決定的に異なり、場合によっては対立する組み合わせでした。しかし、そういう違った者たちが、キリストの教会では、隔てられたり分けられたりせず、皆すっぽりと覆い包まれるというのでしょう。
この28節は、当時の教会で洗礼に際して語られたことばの引用だと考える学者もいます。だとすると、これは、教会が実際にそうなっていたというより、教会はそういうありかたを目指す、ということでしょう。教会の中にも、なお隔てや区別、差別が残る現実の中、それでもなお、違うものが一緒にキリストに包まれるべきことを信じ、そういう教会を形作ろうと、パウロは呼びかけているのです。
今日はわたしたちの教会の創立記念日礼拝です。北部教会の歩みを振り返るとき、違うものが一緒にキリストを着るように、不思議に導かれてきていることを思います。北部教会の礼拝の特徴は、手話通訳と、こどもたちの存在です。「障がい者と健常者」「こどもとおとな」という隔てや区別がなくなるよう、示され、導かれてきました。もとより、それはまだ完全ではなく、隔てを克服するよう、くりかえしくりかえし指摘され、戒められています。それでも、教会は、そうやって違うものが一緒にキリストを着るものであることを信じ、また目指して、これからも歩んでいきたいと思うのです。
5月25日 「あなたは、だめではない」
| <ガラテヤの信徒への手紙2章15〜16節> わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 |
「だめ」ということばは、日常ごくふつうに使われています。しかし、今、このことばが、わたしたちの生活に深く影響し、脅かしていることを感じています。
とくに若い人々は「だめ」とレッテルを貼られることを恐れています。学校の成績、クラブ活動、友人との関係、そして人生の進路など、どんなことがきっかけにせよ、一度「だめ」と評価されてしまったら、、「あいつはだめなやつ」「お前なんかだめだ」と人格が否定され、もう二度とそこから抜け出せないと傷つき悩むのです。おとなたちも同じです。「だめ」とされないために心をすりへらし、際限なく努力を続け、それでもけっきょく安心に至ることはできないでいるのです。
ルカ18:9以下のたとえ話に出てくるファリサイ派の人の祈りも、やはり「だめ」と評価されることを恐れて、一生懸命に「自分は決してだめな人間ではない」と主張しているように聞こえます。だめとされることはしていない、よいことをしている、と努力を重ねているのですが、それは本当の安心にいたることはできません。かえって他の人を「だめなやつ」とさげすみ、隔てていくことになるのです。
努力、つまり「律法の実行によっては、誰一人として義とされない(16節)」のです。「義とされる(16節)」とは、難しいことばですが、ごく簡単に言ってしまえば、「あなたはそれでよい」「あなたは、だめではない」と、神さまが言ってくれるということです。他の誰に何と言われたとしても、神さまが「あなたは、だめではない」と言ってくれたら、なんと安心なことでしょう。
わたしたちは、「キリストへの信仰によって義とされる」のです。キリストによって、神さまが「あなたは、だめではない」と認めてくれていると信じるのです。あなたは決してだめなやつではない、なぜならキリストがあなたのために死んでくださったのです。それほどに神はあなたを大切な存在と認めているのです。
キリストによって「あなたは、だめではない」と告げる神のメッセージ、福音を聞き、受け入れましょう。
5月18日 「言うべきとき」
| <ガラテヤの信徒への手紙2章11〜14節> さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 |
ケファ」ことペトロが、パウロのいるアンティオキア教会を訪れました。アンティオキア教会は、ユダヤ人も異邦人もいっしょに集う、自由で開放的な雰囲気の教会でした。ペトロもその交わりに歓迎されたことでしょう。
ところが、しばらく後、エルサレムから保守的なユダヤ人キリスト者たちがやってきました。彼らは、旧約聖書の律法を重んじ、ユダヤ人と異邦人との交際を喜びませんでした。彼らの目を恐れて、ペトロも異邦人との交わりに消極的になり、それはアンティオキア教会のユダヤ人キリスト者たちにも影響を与えはじめます。教会の交わりがユダヤ人と異邦人とに隔てられていったのです。
これに対し、パウロは黙っていることができませんでした。キリストによる救いは律法によってもたらされるのではない、キリストの教会に律法による隔てがもちこまれてはならないと信じるパウロは、「皆の前で」ペトロを批判したのです。使徒たちの筆頭として敬愛されるペトロや、あるいはパウロの先輩・恩人で同僚でもあるバルナバをも向こうに回して、分をわきまえない、無礼ともいえる発言です。パウロは、もちろん、おおぜいの前でペトロをとっちめようとしたのではありません。ことは「キリストの教会はどうあるべきか」という問題であり、教会全体の、「皆の」問題です。教会は、どのように形作られるべきか、信ずるところに基づいて、言うべきときにはっきりと言う、という姿勢を示したのでした。
教会のありかたについては、個人的な相談ですますのではなく、皆の前で意見を交わし、話し合うのがふさわしいと思うのです。だいじな人と意見が違っても、批判されるようなことがあっても、主の教会のために、言うべきときがあります。率直に、謙虚に、話し合う教会でありたいと思うのです。
さらに、教会が、この世に対し、福音信仰に基づいて、はっきりと言うべきときもあります。信仰に基づいて、言うべきときに、言うべきことを表明する勇気を与えられるよう、祈り求めましょう。
5月11日 ペンテコステ礼拝 「窓を開けて風をいれよう」
| <ガラテヤの信徒への手紙3章1〜6節> ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 |
弟子たちの群れに聖霊が与えられ、一同が「ほかの国々の言葉で話しだした(使徒言行録2:4)」というペンテコステのできごとは、旧約聖書に記されたバベルの塔の物語にくらべられます。「世界はもともとひとつの民、ひとつのことばだったが、人々が天に届く塔を造ろうと企てたとき、神は、人々のことばを互いに通じなくさせてしまった」というバベルの塔の物語は、自ら天の高みにまで登ろうとする人間の傲慢が、人と人との間に断絶と分断をもたらすことを示しています。しかし、ペンテコステの日、神の力、聖霊が注がれて、ことばが通じずに隔てられていた諸国の民に、通じることばで福音が宣べ伝えられ、分断されていた多くの民が、新しいひとつの民、神の民に招かれることになったのです。
注意すべきなのは、たくさんに分かれた異なることばが解消されてひとつにされたのではないということです。ことばの違いはそのままに、不思議にも、それぞれが自分のことばではないことばを語って、互いに通じるようにされたのです。それぞれの違い、多様性はそのままで、それなのに違う相手に通じることばを語るようになって、ひとつの民に結ばれたのです。
違う者たちを、違ったままで不思議にもひとつに結ぶ聖霊を、どうしたら私たちも受けることができるでしょうか。
ガラテヤ3:2には、霊を受けたのは、「福音を聞いて信じたから」だと強調されています。「聞く」とは、自分の中になかったもの、外からのものをを受け入れることを意味します。聖霊を受けるのは、自分が何かをすることではなく、異なるものに心を開き、何かを外から受け入れることです。自分の中を捜し求めるのではなく、自分の中にはなかったもの、自分では思いもよらなかったこと、理解できなかったこと、異質なものを、心を開いて受け入れることです。
聖霊は、風になぞらえられます。自分の中に閉じこもるのではなく、心の窓を開けて、外からの風、聖霊の風を受け入れましょう。
5月4日 「分担」
| <ガラテヤの信徒への手紙2章8〜10節> 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。 |
先日の北海教区総会では、いま教団で問題となっている、いわゆる「教師退任勧告」をめぐって、厳しいやりとりがありました。
主イエス・キリストの福音をどう理解し、それに基づく教会のさまざまな具体的な営みがどうあるべきかをめぐって、教会が真剣に考えるとき、しばしば激しく厳しい議論が生じます。教会の歴史は、はじめからそういう議論と共にありました。
もっぱら異邦人伝道に携わっていたパウロの働きについて、ユダヤ人の教会から、さまざまな厳しい批判や疑問があったようです。そこでパウロはあえてユダヤの中心のエルサレム教会を訪ね、指導者たちと話し合いました。その結果、彼らは、パウロの働きを教会の大切な働きと認めます。パウロは異邦人へ、ペトロはユダヤ人へ、関心も方向性も働きも違うけれど、それぞれ主の教会の働きを分担しているものと認めあい、手を差し出しあったのでした。
ひとつひとつの教会は、さまざまに違う関心や志を持ち、違う賜物や力を与えられ、違う方向性での働きにつとめています。しかし、それらは主の福音の宣教の多様な働きをそうやって分担していると言えるのではないでしょうか。
ここで注目したいのは、「貧しい人たちのことを忘れないように(10節)」ということです。これは、エルサレム教会の貧しい信徒たちへの財政的支援のことです。パウロは、異邦人の教会によびかけ、エルサレムの教会の人々のための献金を募りました。志も働きも違うけれどもひとつである証として、遠く離れた教会のために祈り、具体的に支えることにつとめたのです。
主イエス・キリストは、この世に対し、さまざまな形でかかわっています。その働きに、さまざまな教会が分担してあずかっています。そして、そういう異なるありかたの教会が、互いに覚え、支えあうのです。わたしたちの教会の分担は何でしょうか。わたしたちは、他の教会から祈られ、支えられています。わたしたちもまた、他の異なる教会を覚え、祈り、支えるのです。
4月27日 「すべては神から」
| <ガラテヤの信徒への手紙1章11〜17節> 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 |
すぐれた聖書学者の浅野順一牧師は、「お恥ずかしいことに、私はいまだに十字架と復活の本当の意味がわからない」と言っていたそうです。わたしたちは、神を、キリストを、その福音を、「本当に」わかることができるのでしょうか。
使徒パウロは、自分が主イエス・キリストの福音を「わかった」のは、「人による」ものではなかったと言います。先達や教師に熱心に学び、自分の力の限り努力しても、それで神を「わかった」のではありませんでした。ただ「イエス・キリストの啓示によって」はじめてわかったのでした。
「啓示」とは、「覆いをとりのぞく」という意味です。神が、覆われ、隠され、見えなかった御自身を見せてくださるとき、はじめてわたしたちは神を、キリストを、その福音を知ること、「わかる」ことができるのです。
パウロは、自分が「母の胎内にあるときから」、神はパウロに御自身を示そうと選んでいた、と記します。これはたいへんな不条理を含んでいます。神が御自身を示すまで、パウロはキリスト者を迫害し苦しめていました。これもまた、すべて神の計画だったのでしょうか。それは、彼に苦しめられていたキリスト者たちにとってとうてい納得しがたい、理解しがたいことではないでしょうか。
「神がわからない」「神さまのなさりようがわからない」という思いを抱くことがあります。旧約聖書のヨブ記でも、主人公ヨブは、神にむかって「あなたのなさりようがわからない」と叫びます。しかし最後に、神が御自身を、とうてい人間には理解しがたい存在として示したとき、ヨブは神を「わかった」のでした。
神は、わたしたちを超えた、とうてい理解しがたい方です。その方を「わかる」とは、ただ神ご自身がわたしたちにわからせてくださることによるほかありません。信仰は、人の力によるのではなく、すべては神からなのです。
それはつまり、今わたしたちが召されてここに集っている、そのこともすでに神からのことであるということです。そのことを感謝し受けとめましょう。そして、主がなお本当に「わかる」ようにしてくださることを願い、待ち望みましょう。
4月20日 「岩の上に建てる」
| <詩編27編4〜6節> ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ、群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ、主に向かって賛美の歌をうたう。 |
今日の教会総会で新年度の計画を話し合います。今年度はなんといっても会堂建築が大きな課題です。詩編27編には、礼拝を献げるために神殿に集うことが、「主はわたしを・・・岩の上に立たせ」と歌われています。聖書の世界では「岩」は、しばしば「確かなよりどころ」「守るもの」のたとえとして用いられます。礼拝に集い、岩の上に立たされるような確かな安心と、困難の中でも守られる神への信頼を喜び歌うために、新しい会堂をどのように建てるべきでしょうか。
今年度の教会の年間主題を「岩の上に建てる」と提案することとしました。会堂建築に臨むわたしたちを導く主題です。
主イエスも「確かなもの」「守るもの」という意味で「岩」のたとえを用いました。マタイ7:24〜25では、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」を、岩の上に家を建てた人にたとえます。主イエスの言葉とは、直接には5〜7章の「山上の説教」のことです。そこに示された神への信頼と隣人愛を、聞くだけでなく生活の中で実践すること、つまりみことばに従って生きる歩みは、岩の上に建てられた家のように、しっかりとゆるがず、困難にも守られると告げられているのです。みことばに従い、神を信頼し、隣人愛を実践する歩みのために会堂を建てるとき、それは「岩の上に建てる」ことになるでしょう。
もう一ヶ所、マタイ16:15〜18では、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白した弟子のシモンを「あなたはペトロ(岩)」と呼び、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言しています。教会が建てられる「岩」は、信仰の告白のこととされていますが、またそのように告白する弟子たちの群れでもあるでしょう。しかし、シモン・ペトロをはじめ、弟子たちは、とうてい信頼するに足りない弱いものでした。しかし、主はそれをあえて「岩」と呼び、そこにご自身の教会を建てるのです。教会を「岩の上に建てる」のは、主ご自身のみわざです。弱くもろい私たちを、それでも用いて教会を建てる主のみわざに信頼しましょう。
4月13日 「動機」
| <ガラテヤの信徒への手紙 1章10節> こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 |
使徒パウロといえば、信念の人という印象があります。福音宣教に生涯を献げる決意をし、数々の艱難に耐え、強い意志と確信をもって伝道牧会に努め、妥協のない堅い信念をもって信仰を貫いた人物です。ところが、そのパウロが、同時代の人からは「人に迎合している」と非難されていたのです。
パウロは、救いは律法によるのではなく、ただ神の恵みによって、キリストによって救われると信じ、もはや律法に従い、割礼を受けたりする必要はない、と福音を宣べ伝えました。ところが、それが「安易な救いを語って人に迎合している、人に取り入ろうとしている」と批判されたのです。
パウロは、その批判にあった時、自分自身を真剣に振り返ります。そして、今一度、自分の言動の動機はなんであったか、厳しくかえりみたのです。
自分の決断や言動の動機を、真剣に振り返るべきときがあります。個人の歩みだけでなく、教会の歩みにあたっても、はたしてその動機はなんであったか、かえりみなければなりません。今、私たちの教会は、会堂建築という大きな事業にとりくもうとしています。なぜわたしたちが、会堂建築をしようとしているのか、その動機を、くりかえし、真剣に振り返らなければなりません。自分たちが居心地よくするためでしょうか、人に喜ばれるためでしょうか。あるいは、キリストに従うためでしょうか。
ひとつの行動の動機はひとつとは限りません。しかし、大事な行動であるほど、その決断の中心に、キリストという動機がなければ、「キリストの僕ではありません」。
キリストが動機であるとは、キリストの招きの前に立ち返ることです。よいわざなど何一つできない罪の私を、それでもキリストは救い出し、命を与え、招き、用いてくださる、その信仰こそが、私たちの根本の動機です。キリストという動機を繰り返し確かめながら、キリストの僕として歩みましょう。
4月6日 「善意の中の罪」
| <ガラテヤの信徒への手紙 1章1〜5節> 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 |
これからガラテヤの信徒への手紙を学びます。「人はどうやって救われるか」という問題について、ガラテヤの諸教会は「人は、自分の努力、働き、行い、わざでもって罪をまぬかれ、救いを得られる」という理解に傾きかけていました。それをパウロはこの手紙で厳しく批判したのです。
その主張は冒頭の挨拶にもすでに示されています。4節に「キリストは・・・悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とあります。わたしたちは、罪を抱え、悪の世に捕らわれている存在なのであり、ただキリストのあがないのみわざが、そこからわたしたちを救うというのです。わたしたちは、内も外も、罪と悪に染まり、捕らわれているのであって、自分の力でそこから逃れることはできないのです。
かつて、教会の青年会で、毎年、伊豆大島の施設にボランティアに行っていました。しかし、障害を負う人たちを街からおいやっておいて、そこにボランティアとして赴くことが、よいことといえるのかどうか、いつも疑問をつきつけられました。神戸の被災地で活動している神田神父が「善意は罪だ」と言い切ったことばが鋭くつきささります。わたしたちは、「この悪の世」を形作っている一員です。わたしたちの最大の善意でさえ、罪と悪をまぬかれないのです。それほどに罪深い存在であることを自覚しなければなりません。精一杯の善意ですら、すでに罪に染まっているようなわたしたちのために、しかしキリストは御自身を献げて罪をあがない、救いをもたらしたのです。
パウロは、この手紙を書き送るにあたり、「一緒にいる兄弟一同から(2節)」と記します。このことばは、キリストのみわざを思い起こさせ、福音を告げあい、教え諭しあう交わりを示しています。そのように、罪の自覚と、そこから救い出してくださるキリストの福音を、くりかえし語り、さとし、励ましあうような教会の交わりを形作りましょう。
3月30日 「あなたがたと共にいる」
| <マタイによる福音書 28章16〜20節> さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 |
マタイ福音書は、復活した主イエス・キリストが弟子たちに「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じた場面で終わっています。このことばは「大宣教命令」などと言われていますが、これはただ単純に「受洗者を増やせ」「クリスチャンを増やせ」ということではありません。
「すべての民」とは「すべての民族」ということです。これまで、メシアによる神の救いはユダヤ人のものとされていました。しかし、よみがえったメシア、キリストは、「すべての民族をわたしの弟子に」と招いたのです。それはただ人数を増やすということではなく、これまでの信仰理解、救いや神の業に対する理解を根本的にくつがえしすような驚くべきことばであり、これまでの弟子たちに対し自分たちのありかたを問い直させる命令でした。「あの人たちも、あなたと同じ、わたしの弟子になるのだ」「あなたは、あの人たちといっしょになれるか」との問いです。
さて、続いて「弟子とする」ことの具体的内容が述べられています。洗礼を授け、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」というのです。「あなたがたに命じておいたこと」とは、すなわちこの福音書の内容そのものです。マタイ福音書は、弟子たちが弟子たちとなるため、主イエスのみことばを学び、そしてそれを守るため、つまりみことばに従って生きるものとなるよう教えるために記されたのでした。この福音書を共に学び、みことばをいっしょうけんめいに受け止め、それを生活の中で実践していくよう、教え、励ましあい、助け合う群れが、弟子たちであり、教会なのです。
最後に「いつもあなたがたと共にいる」との約束が示されます。「あなたがた」とは、そのように、みことばに生きるものとなるために学び、励まし、助け合う群れ、教会のことです。そういう弟子たちの交わりの中に、いつも、いつまでも、主イエス・キリストご自身が共にいてくださるのです。
3月23日イースター礼拝 「復活を告げられる」
| <マタイによる福音書 28章1〜7節> さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 |
きょうはイースター、主の復活が告げられた日です。この知らせを、わたしたちはいま、どのように聞くでしょうか。
主イエス・キリストの復活そのものを見た人は誰もいません。聖書には、キリストの復活は、はじめから、告げられたこと、伝えられたこととして記されています。マタイ福音書では、二人の女に天使が復活を告げます。天使は、彼女たちもまた他の人々に復活を告げるように促し、「確かに伝えました」と念を押します。
復活を告げられたとき、彼女たちは恐れながらも大いに喜んで、弟子たちに告げるために走り出しました。では、今、同じようにこの知らせをきいたわたしたちはどうでしょうか。
復活を告げられても、それを受け入れないものもあります。墓の見張りをしていた番兵たちも、天使の知らせを聞き、祭司長たちに報告しました。復活の報告を聞いても、祭司長たちや番兵たちは受け入れませんでした。
告げられたことばを、自分自身にかかわることとして、その後の生涯を変えるほどに受けとめることもあれば、同じ言葉を聞いても、そうは受け止めないこともあります。女たちは、告げられたことを、それがどういうことか、よくは理解できなくても、自分自身に関わることとして受け止め、走り出したのでした。
走り出した女たちは、その行く道の途中で、生きておられる主イエス・キリストご自身に出会います。復活を告げられて、それを受け入れて走り出したその後で、そのように急ぐ道の途中で、はじめて主イエスご自身に出会うのです。主は、道の途中で、「おはよう」とさりげなく、日常のふるまいを通してご自身を示されました。私たちも、復活を告げられて、それを受け入れて走り出すとき、日常のなかでさりげなく待っていてくださる主に出会うでしょう。
3月9日 「これはわたしの体」
| <マタイによる福音書 26章26〜30節> 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 |
人々にとって、主イエスの生涯の記憶は食事の場面と結びついていました。主と共にわかちあった食事の最後のもの、クライマックスが「最後の晩餐」」でした。今日に至るまで、その記憶が「聖餐」として伝えられています。
聖書では、主イエスが人々と食事をともにした多くの場面で「パンを裂き」と記されています。かつて、ある聖餐式で、パンが回され各自でそれをちぎって食べたとき、「これはわたしの体である」との主のみことばをはっと悟りました。私の手が主の体を引き裂いたのだ、十字架で主が裂かれたのはわたしのためなのだと、体感したのです。
さて、聖書は、教会のことをも「キリストの体」とよんでいます。だとすると、裂かれたパンは、十字架で裂かれ、血を流して死んでいった主イエスだけでなく、引き裂かれて痛んでいる教会をもあらわしていると言えないでしょうか。
聖餐は、主が人々を招き、ひとつとしてくださるしるしです。しかし、実際には聖餐は教会の分裂のしるしとなってきました。教会が対立し、分裂していったとき、共に聖餐にあずかることができなくなります。また聖餐の理解の違いが教会の分裂の理由となります。裂かれたパンは、わたしたちの教会が、そういう破れや痛みを負っていることのしるしです。
しかし主は、この引き裂かれたパンを「わたしの体」とし、「とって食べなさい」と促します。わたしたちは、引き裂かれて傷ついている教会に連なり、それでもそれによって命を養われ、主につながるよう促されています。
裂かれたパンは、主イエスを引き裂く張本人のイスカリオテのユダにも与えられていました。しかし彼は、主によって命を与えられることを拒んで自ら死を選んでしまいます。わたしたちは、自分の手で主の体を引き裂く罪を自覚しながら、なおそのようにしてわたしたちを養ってくださる主の命を受け取り、引き裂かれたそれぞれが、それでも主にひとつに結ばれて生きるよう促されるのです。
3月2日 「後の者が先に」
| <マタイによる福音書 20章8〜16節> 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 |
「ぶどう園の労働者のたとえ」の前後に同じ意味の句(19:30、20:16)が記され、これがこのたとえのメッセージとなっています。では、「後にいる者が先に」とはどういうことでしょうか。
農園の主人が臨時の労働者を雇うのは当時ごくふつうの光景でした。貧しい人々はその日の職を求めて町の広場に集まり、それを雇い主は1日1デナリオンの相場で雇い入れるのです。
このたとえでは、雇い主は、後からきてわずかの時間しか働いていない人にも一日分の賃金を与え、朝から長時間働いた人からの不平に対し、「あなたには約束どおり支払った。他の人にどう支払おうが私の自由だ。文句を言われるすじあいはない」とつっぱねるのです。わたしたちには理不尽に見える雇い主のふるまいですが、これは何を意味するのでしょう。
早くから雇われた人々は、おおぜいの人々の中でも真っ先に選ばれるような、評価の高い人々です。遅くまで雇われずに残されたのは、力のない、周囲からの評価の低い人々でしょう。また、この雇い主は、先に雇った人にははっきりと賃金を約束していますが、後の人には報酬を具体的に約束していません。先にいる人々は、力があって評価も高く、報いが約束された人々です。後にいるのは、評価されずに最後まで落ちこぼれ、何もすることができず、やっと働いたところで何を得られる保証も確信もない人々です。何のために働くのか、何のために生きるのか、自信も期待もないのです。
しかし、「天の国」つまり神のもとでは、このような「後にいる者」がまず覚えられ、そして保証されていなかった恵みを、ただ「わたしはそうしてやりたいのだ」という神の理不尽なまでのはからいによって与えられるのです。
その神は、不平をいう「先にいる者」にも「友よ(仲間よ)」と呼びかけ(13節)、その愛の心を共にするようにと促しています。この愛を共に分かち合いましょう。
2月24日一日修養会 「この岩の上に」
| <マタイによる福音書 16章13〜20節> イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 |
「教会」とは、本来は建物のことではなく、信仰者の群れ、共同体のことですが、そういう共同体が建物にたとえられることがあります(エフェソ2:20以下)。この場合の建物は、石造りの建築です。ひとつひとつ異なる形の石が、役割と位置を与えられ、順に積み上げられてひとつの建物が形作られるのです。
さて、こうした石の建物はたいへん重いので、それを支えるには、しっかりした土台が必要です。柔らかい地盤ではなく、堅くゆるがない岩の上に建てなければなりません。教会は、ではどのような土台の上に築かれるのでしょうか。
主イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子」と信仰を告白したシモンを「あなたはペトロ(岩)」と呼び、この岩の上に教会を建てると言いました。主は、シモン・ペトロのことを、教会の土台、岩とされたのです。
このペトロの告白は、弟子たちを代表してのものであると考えていいと思います。信仰を告白する弟子たちが、共に教会を支えるつとめを負うのではないでしょうか。「あなたの上に教会を建てる」との主のことばは、ペトロや弟子たちとおなじく、信仰を告白する今のわたしたちにも向けられているのだと思うのです。けれども、はたしてわたしたちは堅くゆるがない岩のように、しっかりした信仰をもって教会を支えることができるでしょうか。
「岩」とよばれたシモン・ペトロでしたが、その直後には、主を理解せずに叱られたことが記されています。主の苦難にあたっては恐れて逃げてしまい、従うことができませんでした。やがて教会が形作られていったときも、仲間のパウロに厳しく批判されるような失態を犯します。岩というにはあまりに弱く、もろいペトロでした。しかし、主は、そのような者を岩とよんで用いたのです。
主は、弱くもろい私たちをも用い、その上に教会を形作ることができるのです。今日の一日修養会で、私たちの弱さもろさをかえりみつつ、なお主がこの私たちを用いてご自身の教会を建ててくださる確信を深めたいと思います。